抜けるような青空だった。そんな空を信じられないほどの速さで真一文字に切り裂くものがあった。姿かたちは鷲に似ている。しかし大きさは優に大鷲の4〜5倍はあろうか。その勇姿はまさに王者と呼ぶに相応しかった。名をライガと言った。たった2頭だけ残っている古の末裔の内の1頭である。

 

 ライガは今日も大空ではばたいていた。普通の鳥では到底行けない高さまで一気に昇ったかと思うと、今度は地上すれすれまで一気に急降下したりする。ライガはまだ若く、飛ぶことそのものが楽しくて仕方が無いのだ。

 

 そしてもう一頭の名はオウガ。ライガの兄である。ライガよりもずっと歳上で、どちらかといえばやんちゃで向こう見ずなライガに対し、思慮深く賢者の風格を備えていた。体の大きさもライガより2周りほども大きく、兄の前に出るとあのライガさえも小さく見えるほどだった。

 

そしてライガをこれまで育ててきたのもこの兄だった。ライガが物心ついたときには既に父母はなく、家族はこの兄だけだった。外では恐いもの無しのライガではあったが、この兄にだけは頭が上がらなかった。

 

 その日も大空を飛びまわりへとへとになってライガは帰ってきた。彼らの巣は険しい岩山の山頂近くにある自然の洞窟であった。その洞窟は広く、巨大な2羽が羽を広げたとしてもまだ余裕があるほどだった。

 

ライガが羽づくろいをしていると兄が言った。「ライガ、空を飛ぶのがなかなかうまくなってきたようだな。」「ええ、兄さん。毎日楽しくて仕方がないんだ。」「そうか、それは良いことだ。」優しく微笑みながらうなずいた。ライガはこの年の離れた弟のことが可愛くて仕方がないのだ。

 

そしてすぐにまじめな顔に戻り言った。「そろそろおまえに言っておかねばならないことがあるのだ。」「何です?」いつにも増して神妙な顔をする兄に気づき、こちらも精一杯神妙な顔をして答えた。

 

「おまえは東の方にあるとても大きく、頂上からは煙の出ている山を見たことがあるか?」「いいえ、ありません」「そうか、それならば良いが、その山には近づいてはならないよ。」「なぜです?」「あそこは妙なガスが出ているのだ。もしもそのガスを吸い込んだら、おまえの若い羽ではあっという間に力が尽きてしまうだろう。」

 

「兄さん、僕はもう子供ではありません!」「いや、おまえはまだ子供なのだ。」「…」「教えておこう、父さんや母さんが死んだのもあの山だ。」「えっ!」

 

 

 ライガは語り始めた。「まだお前が卵から孵って間もなくのことだ、ここら辺一帯は洪水で一面水浸しになってしまった。獲物は減り、他の鳥たちは獲物を求めて別の地へ移って行った。

 

しかし、我々はお前がまだ幼く移動できないためこの地へ残ったのだ。やがて洪水も治まり、獲物も徐々に増えてきた。とは言え、家族全員分の食料を得るのはとても厳しかった。ただ、あの山には洪水も届かなかったためとてもたくさんの獲物が残っていたのだ。しかし、そのころからあの山へ行ったものが帰ってこなかったりと不吉な噂は絶えなかった。

 

それでもみんなのために獲物を得るため、父さんはあの山へ行くことを決心した。当然母さんも俺も反対した。でもこのままではどうしようもないことも判っていた。父さんは笑顔で「大丈夫だ、心配するな。行って来る。」と出かけて行った。だがそれきり帰らなかった。

 

それからは俺と母さんで獲物を獲ってきた。しかし、狩の得意な父さんと違い、2頭で狩っても3頭が十分に食べるほどの獲物は獲れなかった。ある時、俺は全く獲物が獲れない日が続いた。それでも母さんは必ず少ないながら獲物を巣に運んできた。そして俺やお前がその獲物を分け合って食べるのをいつも優しい笑顔で見守ってくれていた。

 

その後も俺が捕まえたのは、小さな獲物ばかりで大物はまるでダメだった。そんな時、遠くを飛ぶ母さんを見つけたのだ。いったい母さんはどこで獲物を獲っているんだろう。俺はそっと後をつけてみることにした。

 

随分と飛んだ後行き着いた場所は、なんとあの山だった。母さんは近くに獲物が居ないため、あの山まで狩りに来ていたのだ。気づかれないように遠くから見ていると、母さんは1羽の鳩に狙いを定めて高空から急降下していった。しかし、普段からろくに食べていないためかなかなか捕まえられず、鳩は必死に逃げ続けていた。

 

母さんは力を振り絞り鳩の後を追っていった。鳩は右に左に逃げ続ける。母さんは元気なときのようにスピードが出せず、なかなか捕まえる事が出来ない。逃げる方も追う方も必死だった。だから山の方へ近づきすぎている事に気づくのが遅れてしまった。俺は母さんを止めるために、全速力で向かいながら大声で叫んだ。

 

目の前を飛んでいた鳩が急に力を失い、まるで木から果物が落ちるように落下していくのをみて、母さんははっとしたような顔になり、そして俺の声に気づいた。しかし遅かった。母さんは既に大量のガスを吸ってしまっていたのだ。

 

こちらに向かいかけたが、母さんの翼はみるみる力を失い、寂しげな顔でもう一度だけこちらを見た後、まっすぐに落ちて行った・・・。」「・・・」「わかったな、ライガ。決してあの山にだけは近づいてはいけないよ。」「・・・判りました。兄さん。」

 

 それ以来ライガは口にすることはなくとも、あの山のことを片時も忘れられなくなってしまった。そして今まで以上に空を飛ぶようになった。前にもやっていた、空高くから地上すれすれまで急降下することを何度も何度も繰り返した。また、朝巣から飛び立ち、夕暮れにまた戻ってくるまで、どこかに留って羽を休めることも無く飛び続けたりした。

 

そしてもう一つ。出来るだけ長く息を止めて飛ぶ練習をした。やがてライガの羽は見る見る逞しくなっていった。充分羽も強くなったと思った時、ライガは明日あの山へ行こうと決心した。

 

今まで羽を鍛えていたのはそのためだったのだ。自分と兄から父や母を奪ったあの山は恐かった。しかしそれ以上に憎かった。あの山へ行って帰ってくることで、あの山に勝てるような気がしたのだ。

 

 その夜のことだった。いつもは優しい兄が厳しい顔をして言った。「ライガ、おまえあの山へ行く気ではないだろうな?」「何で急にそんな事を言うんですか?」「ふと、そんな気がしたのだ。」「行く訳無いじゃありませんか。あんな恐ろしいところへなんか。」「そうか。それならば良いのだが・・・。」そう言うといつもの優しい兄の顔に戻った。ライガは心の中で兄に詫びた。「ごめんなさい、兄さん。でも必ず帰ってきます。」

 

翌朝、まだ夜が明けないうちにライガは巣を飛び立った。初めは決めていた目印にしたがって飛んだが、陽が昇ってくると太陽に向かって飛んだ。太陽がだいぶ高くなった頃、あの山が見えてきた。見るのは初めてだが、山の頂からはまるで山火事のように煙が出ているので間違いない。

 

その山の木が見分けられるくらいまでになるには、そこから更に小1時間ほどかかった。「とうとう来たぞ!」「変わった匂いはしないだろうか?」ガスには十分注意していた。そんな恐ろしいガスがあるとは思えないほど空気は澄み渡って見えた。実はそれがこの山の罠だったのだ。

 

 こんないい天気にもかかわらずライガのほかに鳥は飛んでいない。念のため出来るだけ呼吸の回数を減らして飛んだ。気がつけばライガは山のすぐそばまで来てしまっていた。しかし、相変わらず何も感じない。兄の言っていた話とは随分違うので拍子抜けした感じがした。

 

山すそを吹き上げる風が強くなってきたこともあり、そろそろ戻ろうと、進路を元来た方へ変えようとしたときのことである。体が重い・・・。突然体が倍くらいの重さになったように感じた。「変だなあ、まだ全然疲れてなんかいないのに。」不思議に思ったが嫌な気がしたので早々に帰ることにした。

 

しかし、体は益々重くなっていき、もはや羽を動かすのもやっとになってしまった。しかも吹き上げ風は強さを増し、まるで押し戻そうとするかのようだ。これがこの山の恐ろしい罠の正体なのだ。無色無臭のガスに加え、さらに吹き上げ風は壁のようになり逃げ場を失ってしまうのだ。

 

ライガはなるべく息をしない様にしてはいたものの、知らず知らずのうちにかなりの量のガスを吸い込んでしまっていた。今ではもう真っ直ぐに飛ぶことも難しい。穏やかに見えていたこの山の本当の姿は、恐ろしい死の山だった。

 

「兄さんが言ってたのはこのことだったのか。」そう考えたときはもう遅かった。必死にはばたこうとする気持ちとは反対に、翼は徐々に動きを鈍らせていった。「もうこれ以上飛べない・・・飛べないよ・・・!」

 

気がつくとライガは叫んでいた。「助けてえ!兄さん、助けてえ!」しかし声は届くはずも無い・・・優しい兄の居るあの巣はここから半日以上も飛んだ先にあるのだから。「兄さあん!」その叫び声も虚しく、雷電の体どんどん落下していった。

 

 多分空耳だったのだろう。落下していく時の風の音に混じって兄が自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。「 兄さんの言うことを守るんだった。ぼくはやっぱりまだまだ子供だったんだ。ごめんなさい兄さん。」ライガは力尽きようとしていた。もうこれ以上はばたくことが出来そうに無かった。

飛べども、風に吹き戻され、火口が段々と近づいてくる。「あそこには父さんや母さんがいるのかな?」疲れ果てた頭でぼんやりとそんな事を思った。そして目を閉じて落ちるに身を任せようとした・・・。 その時であった。

 

「ライガ!!」

 

聞こえた。兄の声がはっきりと聞こえた。ガスで痛む目で声のする方を見ると、何と兄がすぐ目の前に居た。「兄さん!何でここに?」オウガは目が覚めてみてライガが居ないのに気づくと、もしやと思い急いでこの山に向かってきたのだった。

 

「話は後だ。今ははばたくことだけ考えろ!」「判ったよ、兄さん!」オウガはライガの後ろに回り込むと自分の肩にライガの足をつかませ担ぐようにした。「ライガ、こんなところで諦めるんじゃないぞ!力の限りはばたくんだ!」ライガは兄の声を聞き、兄の顔を見たことで力が湧いてきたような気がした。

 

そして力いっぱいはばたいた。しかし、オウガもここに来るまでの間に大量のガスを吸い込んでいた。しかも風が2頭を押し戻そうとするかのように吹き付けてくる。”うぬ!少しガスを吸い込みすぎたか。このままじゃ二人ともやられてしまう。”

 

オウガは短く考え、そして言った「ライガ、はばたくのを止めろ!」ライガが言われたとおりにすると、オウガは力強い脚でライガの体を掴んだ。まるで獲物を運ぶようにライガを抱え、ぐいぐいと進んでいく。

 

「離して兄さん、そんなことしたら兄さんが力尽きちゃうよ」「お前がいては足手まといだ、そこでじっとして居ろ!」一喝されてライガはシュンとなって掴まれたままじっとしていた。

 

オウガが急につぶやいた「お前も随分重くなったなぁ。この間言ったことは撤回だ、お前はもう子供じゃない、もう一人前だな。」思わず兄の方を見上げると、優しく微笑む横顔が見えた。ライガはその言葉を聞いて、自分の力が認められたようですごく嬉しかった。

 

 「もうすぐ風の壁を越えられる。俺が合図をしたら思い切り羽ばたけ!あとは決して振り向かず、前だけを見て飛ぶのだ!いいな!」「判った、兄さん!今度は言うことを聞くよ!」しばらくすると、風の押す力がほんの少しだけ弱まった。

 

「いまだ!ライガはばたけ!振り向かずにはばたいて行けぇ!」言うと同時に力強い脚がライガを大空へ放り投げた。それと同時に無我夢中ではばたくライガ。飛び始めてしばらくすると、何とか風の壁を抜けた。

 

 「兄さん、助かった!ここまで来ればもう大丈夫だよね!」しかし、振り向いたライガのそばに兄オウガの姿はなかった。「兄さんどこなの?」上にも、横にも、下にも。いくら探してもどこにも居ない。

 

「まさか?!」今逃げてきた山の方を見ると、風に押し戻された兄が、今まさに火口へと吸い込まれて行くところであった。ライガは自分の目を疑った。今見たことは幻だったのではないか?しかしそれは紛れも無い事実だった。

 

オウガはこのままでは2頭とも助からないことを悟った。自分だけならもちろん脱出することは簡単だ。しかしライガを置いていくわけには絶対に行かない。2からどうしても1を引かなくてはならないなら・・・答えは決まっている。もちろんライガだ!

 

オウガはライガが自分の力で脱出できるところまで運び出し、無事はばたいて行くのを見届けるとそこで力尽きてしまった。火口へと吹き戻されていく間、力強くはばたいていくライガが見えた。なぜか幼いころの弟の姿を思い出し、そっと微笑んだ。オウガは自分の決断に何の後悔もなかった。

 

「兄さん、何で?嘘だよね?あんな強い兄さんが死んでしまうなんて・・・。」そしてライガは声の続く限り、何度も何度も兄のことを呼び続けた。しかし、返事が返ってくることは二度となかった。

 

 あの広々とした洞窟に今はライガだけが居た。どうやって帰ってきたのか良く覚えては居なかった。

 

あの日から10回目の夜が訪れた。

あの日から何も食べてはいなかった。

あの日から一度も眠ってはいなかった。

あの日から考えるのは優しい兄のこと、そして愚かな自分のことだった。

 

「なぜ、兄の言うことを聞かなかったのか?」

「なぜ、自分が強いと思ってしまったのか?」「なぜ?なぜ?」その繰り返しだった。何も食べず、眠りもしないため、体が徐々に弱って行くのが判った。このまま死んでしまっても良いとさえ思った。自分のせいで兄を失ったことに対し、自分自身を許すことはいつになっても出来そうに無かった。

 

 そして、11回目の朝が来たとき、自分の命というより、兄が助けた命を失ってはならないと思った。「生きなくちゃ・・・。」そうつぶやいた。

 

 ライガは自分の名を捨てた。もう兄以外のものに自分の名を呼ばれたくなかったからだ。そして、兄のくれたこの命を生かすため、再び大空へはばたいて行った。