愛知県
四間道(しけみち)/名古屋市西区那古野 | |
▲木造二階建ての格子のある町家も並びます | ▲石造りの倉庫も、木造の蔵も現代に活用されています。 |
●蔵と格子戸の街並み その昔、清洲からこの地へ町ごと引っ越してきました。いわゆる「清洲越し」によって商人たちの町並みが形成されたのです。その後、江戸時代の大火で町並みが整備。そのとき道幅が4間としたために、四間道と呼ばれました。 名古屋市の中心部にある町です。蔵は瓦屋根で基礎は石垣、その上が板塀となっています。蔵の向かいが格子戸のある町家が並んでいます。 蔵の一部は喫茶店や土産物店になっていますが、町家は普通に住まいとして使われています。大都会のど真ん中に残された癒しの町並みです。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 地下鉄国際センター駅から徒歩7分 |
中小田井(なかおたい)/名古屋市西区中小田井 |
●名古屋市の町並み保存地区 江戸時代のはじめ,寛文7年(1667)名古屋城下から岩倉に至る岩倉街道が通じ,枇杷島(びわじま)の青物市への輸送路として賑わいました。青物市の帰りには味噌,油などの生活品を購入。そのため街道沿いには平入中2階建てで連子格子の商家が建ち並んでいました。しかし現在の建物のほとんどが明治24年濃尾地震以降の物。 またたびたびの洪水に悩まされたため,高い石積の基礎の上に土蔵を築いたり,水屋を設けたりしていました。「小田井人足」の言葉の裏に、したたかでひたむきに生きているという意味が込められています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄犬山線中小田井駅から徒歩5分 |
杉栄町(すぎさかえちょう)/名古屋市北区杉栄町 |
●旧特飲街の城東園の面影がかろうじて残る 名古屋市内にはいくつかの遊郭がありました。そのうちの一つがココ城東園です。実際に歩いて見ました。一方通行になっている狭い道路です。クルマ1台がやっと通れるくらいです。 約1km弱の距離ですが、ところどころに旧妓楼、料亭と思われる建物が見られます。唐破風や2階の手すり、屋根の形など、改築されているものの面影は感じられます。戦災で生き残ったことが幸いし、かつての建物が残ったのです。戦後は特飲街、カフェ街へと変貌していきます。なお隣接する東長田町の十州楼(国登録文化財)はすでに取り壊されました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄名城線志賀本通駅から徒歩15分 |
山門町(さんもんちょう)/名古屋市千種区山門町 |
●ちょっとおしゃれな門前町 日本とタイの友好の寺ということで、日泰寺を宗派を乗り越えて建立。覚王山駅から山門まで続く門前町です。戦後になってほとんど改築されましたが、広い道幅の両側に飲食、雑貨などのモルタル塗り2階建てが続きます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄東山線覚王山駅から徒歩8分 |
大須(おおす)/名古屋市中区大須 |
●旧遊郭や特飲街の面影 大須は家康が造った町と言ってもいいでしょう。栄や錦と違った楽しい町です。それにしても東京・浅草と同じ匂いがします。大須観音を中心にした町並みを形成。アーケードのある商店街の雑踏を避けて裏手を歩くと、一部に旧遊郭や特飲街の面影も残っています |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄鶴舞線大須観音駅から徒歩10分 |
東桜(ひがしさくら)/名古屋市東区東桜 | |
▲東充寺/へちま薬師として有名 | ▲含笑寺/織田信秀の生母を弔う |
▲西蓮寺/明治に学校、役所に使用 | ▲おぐらあんトースト(400円・コメダ珈琲店 |
●名古屋市内最大の寺町 徳川家康によって名古屋城の東方面の防御として建設。結局48の寺院が集まり、たいへんな賑わいを見せたとか。とくに2丁目に集中しています。いま歩いてみますと、ビルに囲まれた光景は都会の寺町という感じです。また一部、門前町の面影も見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄桜通り高岳駅から徒歩10分 |
橦木町(しゅもくちょう)/名古屋市東区橦木町 | |
▲旧川上貞奴邸・国の登録文化財 | ▲撞木館/陶磁器商・井元為三郎邸 |
●市の町並み保存地区 撞木とは鐘や半鐘を打ち鳴らすときの仏具。町筋が行き止まりのT字型をしていて似ていることから名付けられたそうです。他の町筋と違って、意外にも板壁の町家が残されており、昭和の香りのする町並みです。名古屋市の町並み保存地区に指定。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄桜通線高岳駅から徒歩10分 |
主税町(ちからまち)/名古屋市東区主税町 | |
▲カトリック主税町教会/国登録文化財 | ▲旧春田鉄次郎邸/伝統的建造物 |
▲旧豊田佐助邸/伝統的建造物 | ▲旧西川秋次郎邸/豊田の大番頭 |
●3町で町並み保存地区 江戸時代はすべて中級の武家屋敷が並んでいました。初代尾張藩主・徳川義直に仕えて勘定奉行を勤めた野呂瀬主税が、この地に最初に屋敷を構えたことから、いつのまにか命名されたそうです。もともと主税というのは、『大言海』によれば、田力(たぢから)、田租(でんそ)などの意味があり、民の力で耕作地を耕し奉る物、すなわち税を納めることで、税は力があるという意味。 主税筋を歩いていますと、明治、大正、昭和にまたがる建造物が続き、なにやら“建物博物館”を眺めているようです。現在、白壁・主税・撞木を「町並み保存地区」に指定しています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄桜通線高岳駅から徒歩12分 |
白壁(しらかべ)/名古屋市東区白壁 |
●オシャレな街並み 名古屋市内で昔からある高級住宅地です。最近では、高級マンションが建ち並んでいます。それでも、主税町、白壁では、大きな住宅を見ることができます。元もと名古屋城下の武家屋敷があったところで,いまは佐藤家の武家屋敷門が残されているのみ。でもレンガ塀や白壁などが続くお屋敷町です。洋風建築や和洋折衷の民家など、ちょっとオシャレな町です。 うれしいのは景観に配慮して,高層住宅も道路側は白壁に統一していること。なかには入口が長屋門風もあります。名古屋市は、この辺りを文化の道として景観を保護しています。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄高岳駅から徒歩15分 |
名駅(めいえき)/名古屋市中村区名駅 |
●名古屋駅近くの古民家群 近くを流れる堀川は、名古屋城築城の折に福島正則が伊勢湾と城を結ぶ運河として開削しました。米や材木、海産物を商う商人や問屋が連なったのです。いま歩いてみますと、板壁の2階家が続く町が、名古屋駅からこんなに近いところにあるのです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR東海道線名古屋駅から徒歩15分 |
岩塚(いわつか)/名古屋市中村区岩塚町 | |
▲改築、改装された町家、さらに棟割り長屋も多く見られます | |
●佐屋街道の宿場町として発展 江戸時代はもちろん尾張藩領。岩塚村の村高は2000石を越えており、かなりの穫れ高を示しています。そのせいか大代官所の支配地となっています。寛永11年(1634)に佐屋街道が開通、2年後の寛永13年(1936)には万場宿に隣接して岩塚宿が設けられました。これは庄内川をあいだに挟んで、川止めに備えての設立です。 岩塚駅を出て佐屋街道をしばらく歩きますと、少しずつ古民家が見えてきます。連なっているわけではありませんが、趣のある町家などですが、大部分は改築、改装されています。また2階建ての棟割り長屋も見られ、このあたりは街道筋であったことがうかがえます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄東山線岩塚駅から徒歩10分 |
中村(なかむら)/名古屋市中村区日吉町 | |
▲今も残る往時の建築物群/主な建物は名古屋市の都市景観重要建築物に指定されています | |
●旧中村遊郭の面影 名古屋市で最大の遊郭だった町です。大須観音近くなど都心にあった遊郭は手狭になったことから大正時代に現在地に移転、その後発展を遂げていきます。当初5つの町から成り立っていたため五町街、五丁町とも呼ばれたそうです。また岐阜市の金津園と並び東海地方の二大遊郭と呼ばれたとか。今は金津園が元気です。 旧中村遊郭を歩いて見ますとかつての面影は、巨大なスーパーマーケット周辺に見ることができます。戦前は100軒以上の妓楼、2000人に及ぶ娼妓が働いていたとは思えないほど静かな町に変わりました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄東山線中村日赤駅から徒歩5分 |
万場(まんば)/名古屋市中川区万場 |
●ところどころに格子窓や虫籠窓、板塀のある町家 江戸時代は尾張藩。万場村の村高は1000石を越えていました。寛永11年(1634)に伝馬所に指定された宿場町。伝馬(てんま)とは、旅行者のために人足や馬を用意したりして、ひと駅(宿場)ごとに用立てる制度で、月の半分を万場宿、残り半分が岩塚宿が担当していました。庄内川を渡れば岩塚宿。渡るところが“万場の渡し”と呼んでいました。渡し舟は3艘、6人の船頭が常駐。この賑わった佐屋街道と各宿場も、東海道が整備されるにつれ衰退していったとされます。 万場大橋を渡って旧万場宿に入ります。とたんに交通量の少ない、静かな町並みに変貌します。格子や虫籠窓のある町家が所々で見かけますが、長く連なることはありません。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄東山線岩塚駅から徒歩20分 |
尾頭橋(おとうばし)/名古屋市中川区尾頭橋 |
●旧遊郭の面影が見られる やはり地元では遊郭として知られています。大正末期に芸妓屋18軒、料理屋10軒から構成されていました。最盛期には150軒、芸妓が400人がいたそうです。第二次世界大戦中に遊郭に変更、昭和32年まで営業しました。いま歩いて見ますと、個人住宅やアパートに変わったりしていますが、往時の面影が見られます。 ところで地名の由来は、奈良・元興寺の分院として、道場法師が尾張・元興寺を創建。その道場法師が誕生したとき、ヘビが首筋に巻き付き、ヘビの首と頭が後ろに並んで立ったというのが由来だそうです。おもしろいですね。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR東海道本線尾頭橋駅から徒歩5分 |
春田(はるた)/名古屋市中川区春田 |
●郊外の農地が住宅地に変貌 鎌倉時代からすでに開墾が始まっており、織田家の家臣・津田勝三郎の知行地でした。江戸時代はもちろん尾張藩領。村の取れ高は約850石というから、田畑ともかなりの収穫量と思われます。農家のほかに商家5軒、紺屋1軒あったようです。また村内を蟹江街道が通るために、人や物資の往来も多く、街道沿いには茶店もあったとか。 ところで地名の由来は、「治田」(はるた)が転訛したそうで、墾田の意味が含まれているのではないかと推定。いまは、かつての農地が住宅地に変わってしまった典型的な町といえるでしょう。 |
感動度★ もう一度行きたい度 交通 JR関西線春田駅から徒歩15分 |
戸田(とだ)/名古屋市中川区戸田 |
●商家や寺院が散在 地名の由来は、古くは「富田」が戸田に略した説。湿田のことを「土田」(どだ)といい、これが戸田に転換。また関西地方では桑や漆を植えるために民家に田を与えることを「戸田」といったなど諸説あります。 いずれにせよ江戸時代から戸田川に沿った水郷地帯でした。村の石高は2000石を超えるというからかなりの恵まれた土地といえます。そのためか3丁目辺りには江戸時代から続く寺院が集まりミニ寺町の様相を示しています。裕福な檀家が多かったのか。いま戸田川に沿った道に町家が点在。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 近鉄名古屋線戸田駅から徒歩20分 |
港陽(こうよう)/名古屋市港区港陽 |
●遊里・港陽園の残滓 名古屋にはいくつかの遊郭がありましたが、飲食店、旅館の看板を掲げながら従業員に売春をさせる“青線区域”も存在しました。この港陽は“赤線区域”で、完全な遊郭でありました。もともと埋め立て地ですが、戦時中は陸軍の高射砲陣地で、集中的に空襲にあいました。戦後になって本格的な遊里・港陽園と呼ばれるようになりました。 いま歩いて見ますと、妓楼と思われる建物が幾つか残っています。しかし周囲は高層住宅や1戸建て、アパートなどの住宅が並びます。小公園もあったりでのどかな住宅団地を見せてくれます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄名港線築地口駅から徒歩10分 |
伝馬(てんま)/名古屋市熱田区伝馬 |
●旧東海道沿いの集落 中世の東海道(鎌倉街道)は熱田より北の古渡あたりを通っていました。まばらに町家があった程度ですが、それでも町並みは形成されわずかながら宿もありました。ところが秀吉が、そんな町並みの南に、幅1間2尺(2.5m)の新道を造り今道と呼びました。慶長年間から伝馬役を務め、二つの町を合わせて伝馬町と呼ぶようになったそうです。いわば歴史のある町名なのです。いま歩いて見ますと、旧東海道が通るものの往時の面影はなく寂れた感じです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 市営地下鉄名城線伝馬町駅から徒歩5分 |
宮(みや)/名古屋市熱田区内田町 |
●東海道宮宿の七里の渡し跡付近に古民家が残る 宮という地名があるわけではありません。かつて東海道宮宿の七里の渡しのあったところで、ここから桑名へ舟で渡りました。もっとも舟嫌いな人には佐屋街道など陸地で桑名へ行く人も多かったとか。いまは宮の渡し公園が見られます。このあたりは、尾張藩の東浜御殿のあったところで、もともと景色のいいところ。その東浜御殿を明治5年、内田某が払い下げを受けて町造りに着手したそうです。内田町の地名の由来だそうですが、諸説あるようです。いま古民家は宮の渡し公園近くに見られます。また裏手にも点在しており、なかにはレンガ造りの小さな倉庫のような建物も見られました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 市営地下鉄名城線伝馬町駅から徒歩10分 |
有松(ありまつ)/名古屋市緑区有松 | |
▲どこを歩いても家並みが美しい | ▲名産の有松絞りを扱う老舗も多い |
●名古屋市の保存地区 大都会の真ん中にここまできれいに残っているとは全くの予想外でした。地元で保存運動が起きたのは、1980年代の半ばだそうです。約800mの両側には、江戸時代の建物が、きちんと保存整備されている理由がわかりそうです。これらは名古屋市の町並み保存地区に指定されています。財政豊かな名古屋市だからこそ、ここまで保存できるのでしょう、と納得。 ●歴史的建築物が多い 交通量の激しい国道1号線の一歩中に入ったところに、静かな町並みが広がっています。旧東海道で、絞り染めの問屋が並んでいます。まさしく豪商の名にふさわしい蔵造りです。いまでも、ところどころに染め物を販売している店があります。 商家は平入りの2階建てで、街道側は格子戸がはまっています。そして道がゆったりと蛇行しているのが特長です。 ●電車利用の方が便利 長さ約1kmに及ぶ町並みですが、駐車場を探すのに苦労しました。結局、1号線に沿ったコンビニに停め、そこから歩きました。やはり名鉄利用が最も便利です。なお重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。駐車場不足に悩むかも。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは国道1号線沿いのコンビニに停めました |
鳴海(なるみ)/名古屋市緑区鳴海町 |
●古民家がわずかに残る 尾張藩鳴海代官所の支配地。北側に鎌倉街道は通っていたとされ,当時の宿場を「古鳴海」と呼んでいたそうです。しかし東海道が開通すると,次第に宿場の機能は,現在の地に移ってきたそうです。 天保14年(1843)には,本陣1,脇本陣2,旅籠64で人口3643人にも及ぶ一大集落を形成していました。さらに鳴海宿を補佐する助郷村は25か村にも及んだとか。現在は平部地区に,わずかに古民家が残されています。庇の長いセガイ造りが主流です。地名の由来は日本武尊が歩いていると「海の鳴る音が聞こえる」だとか。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは手越川沿いの空き地に停めました |
大高(おおだか)/名古屋市緑区大高町 |
●造り酒屋を中心に残る 戦国時代,三河に進出し,さらに上洛を企てようとしたのが今川義元。その義元が尾張侵攻の足がかりにするため,朝比奈泰能に大高城に在城を命じたとあります。また織田信長に大高一帯が占拠されたとき,今川方であった家康は,兵糧米を搬入したとか。歴史的な逸話の残る地域でもあります。 江戸時代は尾張藩で,酒造りも盛んでした。今でも造り酒屋が残り,蔵が立っています。一方,大高川近辺にも,若干古民家が残っていますが,消えゆく感じに思えました。 元来、火高だったそうですが、永徳2年の火災で大高に改名。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東海道線大高駅から徒歩15分 |
西尾(にしお)/西尾市本町 |
●三河の小京都 もともと松平家6万石の城下町です。その旧城下町の肴町、本町、天王町あたりに古い建物が残っています。三河の小京都と呼ばれ、地元では城跡を含めて2時間の散策コースを設定しています。 建物のほとんどが平入り2階建て黒瓦葺きの典型的な商家です。格子窓も街並みに落ち着きを与えていますが、普通の商店街でもありますので、クルマの往来も激しいです。また一歩裏道に入りますと,白壁の続く寺院があったりと,なかなかの風情が感じられます。 地名の由来は製塩の「煮塩」が転訛したという説があり。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 名鉄西尾線西尾駅から徒歩10分 |
佐久島(さくしま)/西尾市一色町佐久島 | |
▲築100年の大葉邸(道路の左側) | ▲佐久バーガー(350円/海) |
●黒板壁の民家と路地の島 三河湾内では最大の島。島内には縄文土器の破片が発見されたり,弥生時代の貝塚があるほど,現在46基の古墳が確認されるなど、意外に歴史があります。 さて,集落は「西」と「東」の二つに分かれています。直線にして1km程度しか離れていません。中間に学校があり,ゆっくり歩いても30分もかかりません。 古民家は西港周辺に集まっています。潮風から建物を守るためにコールタールで塗られた板壁など住民が積極的に景観作りに取り組んでいるとか。家並みと漁村特有の路地が日本を代表する風景になっています。そのせいか観光客が増加。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 市営渡船場西港からすぐ |
碧南(へきなん)/碧南市浜寺町 |
●白壁や黒塀が美しい ひとくちで,みりんと寺の町といいてもいいでしょう。九重みりんは宝永3年(1706)に創業。蔵は登録文化財に指定。また堀川を中心に約10ヶ寺で寺町を形成。黒塀や白壁が美しいく,趣のある街並みです。地名は旧碧海郡の南部に位置するから。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 名鉄三河線碧南駅から徒歩15分 |
刈谷(かりや)/刈谷市銀座 |
●商家の名残が見えます 城下町としての歴史は古く,水野忠政が天文2年(1533)刈谷城を築城したのが始まり。町並みが形成されてきたのは,江戸時代に入ってからで,銀座地区は刈谷街道沿いに発展した町でもありました。特に参勤交代に利用することが多かったので,整備は一気に進みました。 天保の飢饉では,農村から都市への移住が盛んになりましたが,それが逆に刈谷を発展させたようです。そのため太田家をはじめ豪商が相次いで誕生したのもこの頃です。いまも幾つかの商家が残されています。 地名は亀村といわれていたこの地に狩谷出雲守が移り住んだからとか、諸説あります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄三河線刈谷市駅から徒歩10分 |
岡崎(おかざき)/岡崎市伝馬通 |
●面影を探す難しさに直面 旧東海道が岡崎城下に入ると曲がり角の連続となります。これが「二十七曲がり」です。伝馬通りに重厚な商家があります。また大正時代建築の洋館がありますが,コレだけです。ちょっと寂しくなります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩10分 |
八丁蔵通り(はっちょうぐらどおり)/岡崎市八帖町 |
●NHK朝ドラ『純情きらり』の舞台 NHK連続テレビ小説『純情きらり』(主演・宮崎あおい)の舞台になった場所です。また東海道「岡崎27曲がり」の近くで、要衝でもありました。 独特の味噌蔵は、このあたりに集中しており、「カクキュー八丁味噌」と「まるや八丁味噌」の2軒が、昔ながらの伝統を受け継いで販売しています。左の写真はカクキューの蔵です。蔵の窓は直接の太陽光を遮るための庇が3段に分かれています。基礎の石垣と黒塀が印象的。のんびりと歩きたいところです。かつて、ミソ仕込み用の大蔵は資料館になっており、国の登録文化財でもあります。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄名古屋本線岡崎公園前駅から徒歩5分 |
三河三谷(みかわみや)/蒲郡市三谷町 |
●回船問屋,料亭などが多い 江戸時代からの港町です。どちらかといえば貨物港としての役割が多く,伊勢方面へ船便が多かったようです。漁業は明治以降,急速に発展したもので,回船問屋,旅籠,料亭などが軒を並べました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線三河三谷駅から徒歩10分 |
足助(あすけ)/豊田市足助町 |
●伊那街道沿いに発達した町です 三河湾で取れた塩を、信州へ運んだ「塩の道」がこの足助を通っていたのです。信州街道といい、その街道沿いに発達しました。天保年間には、塩屋14軒、蚕種売り14軒、味噌屋6軒、油屋6軒、豆腐屋6軒などが見られた。また旅籠は10軒、元治2年には13軒を数えました。伊那地方で消費する塩の大部分が、この地を通ります。足助の主な問屋には塩座があり、そこで値を決め、塩袋の重量を統一するために包装を整えました。これは信州への馬による運搬には必要な事でした。そのためか伊那の人たちは「足助塩」と呼ぶことが多かったとか。塩問屋の焼き印を押された塩袋がう高く積まれた光景は、足助の象徴でもありました。 ところで訪ねた日が、日曜日のせいか、道路も駐車場もめちゃくくちゃ混んでいました。近くに紅葉で有名な香嵐渓があるため、そちらへの観光客を含めて、足助の町並みはたいへんな混みようでした。 ●マリリン小路を歩きました のんびりと歩きながら見て回りました。ほとんどの商家が2階建てです。しかも町全体でも木造が多いのです。また上の写真のように下半分が黒の腰板を貼り、上を白塗りの漆喰の壁になっています。ここはマリリン小路です。横に2人並んだらいっぱいという狭い小径です。 下の写真のように木造2階建てで、明治期に造られた町家が、かなりたくさん残っています。そのほとんどがいまも、商店、旅館、企業とさまざまに使われています。そこに人が住んでいることが、とてもうれしい。 ●バスも渋滞に巻き込まれます 足助は交通の便がとても悪い。バスの便もあるのですが、特に近くに香嵐渓という紅葉の名所があるので、シーズンの交通渋滞はイライラします。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ ★ 交通 クルマは観光客用の駐車場に停めました |
二川(ふたがわ)/豊橋市二川町 |
●復元された本陣と旅籠 旧東海道の宿場町です。もともと二川と大岩の2村で1宿分の業務を分担。その後二川村を移転して二川宿とした。いまは本陣が改修復元され、資料館になっています。で、その向かいの民家が格子のある建物です。このあたりが二川宿の雰囲気を出しているところです。 ところで、この本陣には隣接するようにして、旅籠「清明屋」も復元されています。大名の泊まった本陣と庶民が泊まった旅籠が同時に見られます。 他の江戸末期や明治時代の格子戸のある商家などの古民家は、ポツンと離れたところありました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは資料館の無料駐車場に停めました |
東田仲の町(あずまだなかのまち)/豊橋市東田仲の町 | |
▲いまは一般住宅や旅館などに転用されています | |
●「東田遊郭」の遺構を見ることができます 明治時代、衰退しつつある町の発展のために当時の市長が陸軍を誘致したそうです。その結果、吾妻町に明治43年、旧吉田城下の一つ札木町(ふだぎちょう)、旧東海道沿いにあった上伝馬町(かみでんまちょう)の貸し座敷業者が移転、さらに遊郭料理屋組合もでき、大規模な東田遊郭ができました。その後陸軍が移転。そして小規模ながら隣の町・東田に「東田園遊郭」として残り、戦後も生き残りました。しかし昭和33年の売防法により、一気に衰退。いまは旅館、一般住宅に転用されて、建物が残されています。小雨の中を歩いて見ました。2階窓の手すり、玄関の破風、塀や窓のデザインなど、かつての貸し座敷の面影が見られます。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 豊橋鉄道東田本線競輪場前から徒歩8分 |
有楽町(ゆうらくちょう)/豊橋市有楽町 | |
▲玄関口の破風がかつての妓楼を思わせます | |
●小池遊郭(有楽荘)の面影を訪ねて歩きました 一部営業している店があるのではないかといいますが、数年前でほぼ壊滅状態。というより、このあたりは完全な住宅地。一般住宅と混在しているので、一般住宅への転用、また小料理、旅館としての営業かも知れません。それらはともかく、町を歩いてみると、旧妓楼とおぼしき立派な建築が残されています。しかし櫛の歯が欠けたような感じで見られます。やはり売防法の公布以降、一気に冷え込んだのしょう。 戦前から帝国陸軍第15師団が小池駅の反対側に陣どっており、まさに御用達でもありました。一時期、娼妓150人前後もいたというからかなり大きな遊郭を形成していました。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 豊橋鉄道渥美線小池駅から徒歩10分 |
豊川(とよかわ)/豊川市門前町 |
●わずかに残る古民家 豊川稲荷の門前町です。江戸時代には商売繁盛の神として知られ,その名が全国に知られました。今はほとんどが土産物店や飲食店で成り立っています。歩いていいますとわずかに残った古民家にホッとします。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄豊川線豊川稲荷駅から徒歩5分 |
国府(こう)/豊川市国府町 |
●格子戸の町家が続く 律令時代の三河国府の所在地とされた所が地名の由来か。江戸時代は幕府直轄,岡崎藩など変遷を繰り返していました。東海道に沿った集落で,隣の御油宿の助郷村の役割を果たしていました。毎月4と9の日に六斎市を開かれるなど,それなりの賑わいを見せています。米,野菜,縄,大豆,薪などが並んだそうです。 現在の東海道(国道1号線)から一本海側に入った通りが旧東海道で,出桁造りで平入りの各宿場で見られる典型的な町家が所々に見られます。ただ1号線のバイパス代わりになっているのか,交通量の多い。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄名古屋本線国府駅から徒歩5分 |
御油(ごゆ)/豊川市御油町 |
●松並木も有名ですが… 旧東海道の宿場町です。どちからといえば、国の天然記念物「御油の松並木」のほうが有名です。その松並木を過ぎて、御油宿に入りました。比較的古い建物が残っています。こんな時は、胸がわくわくします。 木造2階建て、1階は格子のはまった町が続きます。平屋建てもあります。またノコギリの歯のように、ギザギザに並んだ町並みもあります。 この御油宿の町並みは、途中L字型に折れ曲がっています。その折れ曲がった付近に古い建物が残っています。地名は御所に献納する油造りがいたことに由来します。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは銀行の駐車場に停めました |
赤坂(あかさか)/豊川市音羽町赤坂 |
●赤坂,御油,二川を一緒に 今回は、この赤坂宿から始まり、御油宿、二川宿と東に向かって移動しました。この3宿は隣接しており、クルマでの移動時間もわずかで、効率のいい撮影になるからです。 ●木造2階建ての町家 途中いくつかの瓦葺き木造2階建ての町家がところどころ見かけます。しかし、昔ながらの風情を保っているのが、この旅籠「大橋屋」(写真)です。木造2階建てで、窓にちょっとユニークな格子がはまっています。松尾芭蕉は「夏の月御油より出でて赤坂や」と詠みました。十返舎一九『東海道中膝栗毛』では、キツネに化かされる話がココ。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
新城(しんしろ)/新城市西新町 |
●「山の湊」と呼ばれました 関ヶ原の戦い以後,新城藩は幾多の変遷を経て,城主が代わりました。しかし,幕府領下では,交易の中心地となり,信州街道(信州側からは三州街道と呼ぶ)沿いには商家が軒を並べ,豊川を上下する川船や三州馬,信州中馬からもたらす物資の接点でもありました。そこから「山の湊・新城」と呼ばれたほどです。同時に,能楽,芝居,茶道,俳諧などが盛んになり,芭蕉も来訪したほどです。 県道439号線沿いには往時の面影を残す出桁造りの古民家が所々見られます。地名は、長篠の戦い戦功をあげた奥平伸昌が築城した新城城が由来。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR飯田線東新町駅から徒歩15分 |
三河大野(みかわおおの)/新城市大野 |
●鳳来寺の参拝客で賑わう 宇連川沿いの宿場町です。下流へ行くと豊川になり,戦国時代,武田氏と徳川氏の激しい戦いとなった長篠の合戦地があります。逆に上流に向かうと,鳳来寺があり門前はたいへんな賑わいでした。江戸時代の大野宿は参拝する善男善女で賑わった秋葉街道とともに栄えた町でもあります。 街並みは意外なほどきれいに残っており,ひさしの突き出た出桁造りが特徴で,数多く見られます。また大正13年築の近代建築、旧大野銀行も残る。 かつて一帯は麻の生えている野原。そのため麻生野(おうの)と呼ばれ大野に転訛したとか。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR飯田線三河大野駅から徒歩15分 |
清洲(きよす)/清須市清洲 |
●NHK大河ドラマ『江』の町 清洲宿の本陣や商家,旅籠など,明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊と火災で,町が壊滅しました。そのなかで本陣の門や一部の建物がかろうじて残り,往時の面影を伝えています。大河ドラマ『江』(主演・上野樹里)の舞台でもあります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄名古屋本線新清洲駅から徒歩10分 |
西枇杷島(にしびわじま)/清須市西枇杷島町南松原 |
●ところどろに屋根神様 江戸初期より市場町として発展した町です。町を歩いていますと,屋根に社が見えます。「屋根神様」です。疫病除け,火難除け,武運長久などの願いが込められており,美濃路など古い街道筋で面影を偲べます。なお琵琶湖に似ているなどの説。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄名古屋本線二ツ杁駅から徒歩10分 |
須ヶ口(すかぐち)/清須市須ヶ口 |
●美濃街道沿いに賑わう 清洲城の城下町ですが,外堀のさらに外側のかなりはずれにある町。しかし美濃街道がど真ん中を通っているせいか,かなり賑わっていました。武士や商人が多く住み,さらにその周辺には農家が囲むように住んでいました。街道筋にはお茶屋が並び,その裏手には遊女屋が建ち並んでいたのです。この賑わいは明治時代まで続いたといわれています。 丸ノ内駅方面へ美濃街道を歩いていますと,徐々に古民家が密集してきます。今川義元の首をさらした今川塚もすぐそこ。 奇妙な地名の由来は、砂州の地形からきているという説。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄名古屋本線須ヶ口駅から徒歩5分 |
岩倉(いわくら)/岩倉市下本町 |
●かつて商家が多く見られた 戦国時代,斎藤道三,信長,秀吉などが登場する戦乱の地でもありました。江戸時代は交通の要衝とあいまって,多くの市場が立ちたいへんな発展ぶり。それに伴い商家が林立。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄犬山線岩倉駅から徒歩10分 |
小牧(こまき)/小牧市小牧 |
●往時の面影は薄い 元和9年(1623)に尾張藩が名古屋と中山道を結ぶ上街道を新設するさい,宿駅として現在地に移転。宝暦年間には,下町,中町,本町,横町,上之町に区割りされていました。庄屋・岸田家住宅が残っています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄小牧線小牧駅から徒歩10分 |
古知野(こちの)/江南市古知野町北屋敷 |
●商家などが往時を語る 中心的寺院でもある曼荼羅寺の古文書には「乞野」,また古池野,古地野など,地名の由来には諸説あるようです。さて信長の時代に完成したといわれる岩倉街道は,江南市の東方を南北に通り,そこから分岐した「往来街道」が宮田村へと向かいますが,途中古知野を通る。 享保3年(1718)には六歳市も開かれるなど,少しずつ発展していきました。朝鮮通信使の往来,将軍の上洛寺には,名古屋に人馬の提供,生田橋の工事には人足を出したとか。 商家群も見ものですが、もう一つ昭和の香りのする商店街も注目されています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 名鉄犬山線江南駅から徒歩10分 |
布袋(ほてい)/江南市布袋町中 |
●意外と多く残る古民家 布袋といえば「布袋の大仏」で知られています。これは個人の寄贈で戦後に建立されたものです。ただ、本尊の木造阿弥陀如来座像は県の文化財に指定。ところで古い町並みが残されていることは,地元民以外はあまり知られておりません。 布袋にはいくつかの町がありますが,布袋中のほか,布袋西,布袋東には造り酒屋があり美しい白壁が続きます。 布袋の地名は旧小折村の布袋野からきたのではないかといわれています。町を歩いていますと商家風の古民家が多く見られますが,かつて絹織物が全盛だったころの名残でしょうか。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄犬山線布袋駅から徒歩10分 |
北市場(きたいちば)/稲沢市北市場本町 |
●織田家ゆかりの地 江戸時代は尾張藩領で,清洲代官所の支配下でした。清洲城の北側に市があったことから名付けられたとか。美濃街道は清洲からこの北市場を通って稲葉宿へと向かいます。北市場は,清洲宿の助郷を役割。 いまは往時の面影はありませんが,2階建ての庇の突き出た長屋が残る程度。しかし亀翁寺には重文の虚空菩薩座像が「こくぞうさん」の名で親しまれています。また総見院には織田信長,信雄の位牌や,本能寺の変後の信長の焼き兜も保存されています。地名は清洲城のあったころ、市場があったことが起因とされています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線清洲駅から徒歩15分 |
稲葉(いなば)/稲沢市稲葉 |
●美濃路の宿場町 美濃路は中山道の垂井宿(岐阜県)から東海道の宮宿(名古屋市)を結ぶ全長57.5kmの重要な街道です。鈴鹿越えや海路と比較して,やや遠回りになりますが,安全性が高く,天候にも左右されず,予定通りの通行が可能だったことから,女性にも重宝,多くの旅人が利用した。 稲葉宿は本陣・脇本陣が各1軒,問屋場3カ所,旅籠は8軒ありました。いまは格子や虫籠窓のある商家,蔵などが多く残っており,半円を描くような通り沿いに見られます。地名は、稲を干す原っぱからきている。つまり稲を干す稲架のできる前の時代のことをいいます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄名古屋本線国府宮駅から徒歩15分 |
勝幡(しょばた)/愛西市勝幡町塩畑 | |
▲芸者置屋も3軒あったという記録も残っています | ▲井戸田邸(旧左織郵便局)/大正11年開局。昭和8年改装 |
●2階建ての町家が続く 勝幡を一躍有名にしたのは、勝幡城が織田信長生誕の地ではないかという説が浮上したからです。いま歩きますと格子戸あるの町家が長く続きます。1階の庇が深く、2階の屋根が低い平入りの建物です。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 名鉄津島線勝幡駅から徒歩15分 |
犬山(いぬやま)/犬山市本町 |
●町家中心に建ち並ぶ 国宝でもある犬山城下の本町に広がる古い町並みです。町家や商家を中心に、建ち並んでいますが、格子戸のある平入りの町家が中心です。その多くは土産物店になっています。また少し離れたところに寺町通りもあります。 江戸時代,犬山は元もと成瀬家の城下町です。成瀬家は尾張藩の家老でもあったのです。犬山城下は,町方と村方に分かれており,多くの街道が整備され,さらに木曽川の舟運も利用して,たいへんな賑わい。 地名の由来は、大縣神社の戌亥の方角にあるとか、小野山の転訛説などがあります。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄犬山線犬山駅から徒歩15分 |
起(おこし)/一宮市起 |
●歴史的古民家が多く残る 関ヶ原の戦いで,徳川方の福島正則軍がココ木曽川を超えて岐阜城に攻め込んだといういわくつきの場所です。 中山道の垂井宿と東海道宮宿を結ぶ美濃路の七宿の一つです。そして七宿のなかで最も規模が大きく,旅籠だけでも22軒,本陣,脇本陣も大きいのです。これは起宿から大垣宿のあいだに木曽川,長良川,揖斐川の3つの渡しがあり,川止めになると滞留客が一気に増えるからです。 丹羽家や旧林家住宅など古民家が多くの残されています。さらに土蔵、中2階、平屋、格子戸のある町家が見られます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは銀座通り商店街駐車場に停めました |
黒田(くろだ)/一宮市木曽川町黒田 |
●街道筋に古民家 もともと木曽川の氾濫等で肥沃な土地になったというので黒田,という地名が誕生したそうです。そのせいか江戸時代の旧黒田村の村高は、2000石を超えており、かなり豊かだった推定。なお古くは鎌倉街道沿いにあたり,北宿,南宿もあり,かなり賑わいました。江戸時代は,尾張藩領で2里ほど離れた起(おこし)宿の助郷の役割を果たしていました。しかし享保2年(1717)に近くの一宮に三八市ができて,一気に衰えました。 いまは幾つかの寺院や古民家が残る程度ですが,特に街道の分岐点(写真)に,看板建築が加わって面影を感じます |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄名古屋本線新木曽川駅から徒歩10分 |
萩原(はぎわら)/一宮市萩原町萩原 |
●長〜い街道沿いに点々 萩原宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠17軒で家屋数,人口ともに美濃路7宿中,最も規模の小さい宿場町でした。当時,本陣,脇本陣は上町にあり,宿場の中心地でした。本陣は森権左衛門が世襲,脇本陣は森半兵衛が世襲しました。こぢんまりとした美しい街並みでしたが,明治24年(1891)の濃尾地震で,大きな被害を被りました。 とはいえ,萩原下町から上町の長〜い街道沿いには,点々と商家などの古民家が残されており,往時の雰囲気を残しています。語源は日光川上流の左岸に位置する町ですが、萩の自生地だったそうです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄尾西線萩原駅から徒歩10分 |
甚目寺(じもくじ)/あま市甚目寺 |
●虫籠窓のある商家 津島上街道沿いの集落で、甚目寺の門前町として発展しました。南北朝時代は甚目寺荘、江戸時代は尾張藩領で歴史のある集落です。街道を甚目寺に向かって歩きますと、正面に東門(重文)が見えてきます。両側には、虫籠窓のある商家が軒を並べています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄津島線甚目寺駅から徒歩5分 |
木田(きだ)/あま市木田 |
●津島上街道沿いの集落 江戸時代は尾張藩領で清洲代官所の支配。木田村の村高は1600石余というから、地味がいいのでしょうか。また津島上街道が集落の中央部を東西に通り、六斎市も開かれるなど、茶店などもあって、かなり賑わいました。戸数は120、人数は451、馬2。 古民家は、駅を出て左方向にしばらく歩きますと、格子や虫籠窓、板塀のある旧家がひとかたまりになって残っています。街道筋の両側にあたります。地名の由来は、田んぼのなかに、一夜にして藤が生えて樹のようになったので、藤木田といい後に木田となったとか、諸説有り。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄津島線木田駅から徒歩7分 |
青塚(あおつか)/津島市青塚町 |
●黒瓦葺きの町家が続く 天正年間(1573-92)織田家家臣・佐々平八郎の所領でした。江戸時代は尾張藩領で清洲代官所支配で、村高430石余。戸数39、人数177で、この辺りの地形からいって、小さな集落といえます。北端に津島街道が位置するせいか、交通の便はいい。かつて畑作に恵まれており、特にダイコンがよく穫れ、切り干しダイコンが名産で近郊近在の人たちに人気がありました。 いま旧津島街道沿いに古民家が点在していますが。旧家は見かけず、瓦葺きのごく平凡な町家が軒を並べています。 町名の由来は、戦国時代の青塚郷の郷名からとっています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄津島線青塚駅から徒歩5分 |
津島(つしま)/津島市本町 |
●うだつのある本町筋 駅前からのシャッター通りを抜けると,左右に古民家の連なる街並みが横切るように広がってきます。上(かみ)街道は,織田・豊臣時代から名古屋北西部から津島に至る道で,街道の両側には往時を彷彿させる町家が並んでいます。特に本町筋は,防火壁の役割を果たす「うだつ」が見ごたえがあります。 上街道と下街道が交わり,さらに巡見街道からの津島神社・天王様参りで賑わうところが橋詰町入口です。ここは津島参りのおかげで,門前町として大きく発展したところ。地名の由来は津島神社からですが、語源は木曽川の湊(津)にあります。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 名鉄尾西線津島駅から徒歩15分 |
神守(かもり)/津島市神守町 | |
▲壁などが一部改装されています | ▲見事な蔵も見られます |
●商家や蔵が往時を彷彿させます 江戸時代は尾張藩領。佐屋街道沿いの宿場町ですが、佐屋宿と万場宿のあいだがあきすぎているので、正保4年(1647)に開設され、佐屋街道では最も新しい。尾張藩の代官所も置かれていました。もともと徳川家康が大坂夏の陣でここを通行したことから本格的な整備がはじまったとされます。東海道の脇往還として発展しましたが、東海道が充実するにつれ、衰退していったとそうです。いま歩いて見ますと、商家や蔵など、往時を彷彿させる古民家が連なっています。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄津島駅からバスで東神守下車、徒歩10分 |
蟹江(かにえ)/蟹江町蟹江本町城 |
●蔵造りの古民家が詰まる 蟹江城は室町時代に築かれ,戦国時代は伊勢湾を臨む戦略拠点で重要されたところでした。江戸時代は蟹江川に伊勢湾を行き来する百石舟が浮かびたいへんな賑わいだったとか。同時に干拓もすすみ町の半分は,埋め立てられ農地になったそうです。それでも水郷の名にふさわしい町でした。いまは海抜ゼロm地帯ですが…。またこの地まで海岸があったころ、カニがいっぱいいたそうです。 蟹江川沿いには造り酒屋の蔵が軒を連ね,堤からさらに中に入ると重厚な古民家が詰まっています。また神社仏閣も多く,町の歴史を感じさせます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR関西本線蟹江駅から徒歩15分 |
緒川(おがわ)/東浦町緒川 |
●わずかに残る古民家 江戸時代中期,尾張藩は財政難に苦しむことから,豪農や豪商による新田開発が盛んになりました。新田の多くは海岸の干拓でした。なかでも大規模で計画的に行われたのが,緒川村新田でした。緒川の有力者たちは,さらに山間地区に入り,耕地を拡大していきました。 また新田開発と米の生産技術向上にともない,余剰米を酒造りに生かしました。水飢饉や台風の襲来など災害が重なりますが,それでも恵まれた地域だったとか。村高は1600石弱、7軒の造酒屋の酒量合計が1800石。旧道沿いの黒板壁の家屋が往時を思わせます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 JR武豊線緒川駅から徒歩8分 |
半田(はんだ)/半田市中村町 |
●酢の香りがする酢の里 醤油や酒、味噌の匂いのする町は何度か訪ねたことがありましたが、酢の匂いのする町ははじめてです。ご存じミツカンの本社があるところです。半田運河周辺には黒板塀の蔵が並び、美しい景観が見られます。夕方も訪ねました。運河沿いの明かりや、板塀へのライトアップなど、これはこれで見事なもの。 江戸時代の初期,利用価値のなかった酒粕で酢を作り,江戸に送ったところ,寿司屋から大評判。そこで一気に需要が伸びたそうです。 市名の由来は、中世の坂田郷や坂田荘を「はんだ」と呼んだことがはじまりだそうです。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 名鉄知多半田駅から徒歩10分 |
上半田(かみはんだ)/半田市榎下町 | |
▲明治31年築・旧カブトビール工場/国の登録文化財 | |
●謎の多い紺屋海道 江戸時代,上半田(坂田郷)の主要道路であった紺屋海道は,半田港が開かれるまでの間,千石船の出入りする大野港と下半田を結ぶ交通の要衝でした。ただ実際の海道はルートは,地元でも諸説あるとか。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは名古屋ハウジングセンター半田会場に停めました |
亀崎(かめざき)/半田市亀崎町 |
●残る造り酒屋と板塀 江戸時代から「酒どころ半田・亀崎」といわれるぐらい盛んでした。寛政元年(1834)にはすでに江戸へ酒を送りつけていたそうです。しかし灘の清酒に比べ,品質,味が落ちていたのも事実。しかし「中国酒」という名と,手配の船頭に販路をまかせるという「船頭支配荷」でめきめき売り上げを伸ばしたとか。 いま亀崎にくると,年配者の団体が目立ちます。知多四国88カ所霊場巡りの人たちです。いくらか残った古民家の間を,列を作って抜けていきます。 地名の由来は、諸説ありますが「神」が「亀」に転訛したという説が多いようです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR武豊線亀崎駅から徒歩15分 |
常滑(とこなめ)/常滑市栄町 | |
▲黒板壁の民家や作業場は雰囲気があります | ▲セラミック・パイプや衛生陶器も製造しています |
●赤れんが造りの煙突 2度目の訪問です。考えてみれば、常滑はそれほど古い建物があるわけではありません。ほとんどが戦後の建築です。しかし焼き物の町として1000年以上の歴史を誇っています。そのほとんどが土管、壺など産業用に使われていたためか、全国的に名前が広がらなかった原因の一つでしょう。 町を歩きますと黒塀の陶器工場、赤れんが造りの煙突、焼き物を埋め込んだ路地などひとつひとつが情緒があります。 地名の由来は、粘土層が地表に近く、床(とこ)、すなわち地面が常に水を含み滑らかであることだそうです。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは陶磁器会館の駐車場に停めました |
大野(おおの)/常滑市大野町 |
●裏道に古民家が多い 戦国時代から交通の要衝で,伊勢桑名と三河・知多を結ぶ港でもありました。しかし伊勢湾に多数の海賊が出没していましたが,知多全域を支配していた佐治氏の警護の役人を乗せれば襲われることはなかったとか。 江戸時代は尾張藩領となり,横須賀代官所の支配地となりました。酒造業や鍛冶,味噌,木綿の仲買業が多く,また廻船業を中心に発展しました。酒造業17軒もあり、人口は3000人を超えるなど、商人を中心とした町を形成していました。町並みは,街道沿いにもポツポツ見られますが,むしろ横道や裏道に歴史的な古民家が多い。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは三菱東京UFJ銀行大野支店に停めました |
古場(こば)/常滑市古場町 |
●酒造業を中心にした街並み 江戸時代は尾張藩領で横須賀代官所支配下にありました。「小場」と書いた時期もあったようです。農業といっても個数の割りには一戸あたりの耕地面積も狭く,他から収入を得なくてはいけませんでした。漁業,鍛冶,酒屋,回船などいろいろありますが,最も成功したのが,酒造業でした。江戸時代末期には澤田酒造ら幾つかの業者が育ちました。明治に入って,一時不況に見舞われましたが,販路の開拓などで伊勢にも納めるなど,9人の事業者たちは生産を続けて力をつけました。 今でも澤田酒造の黒板壁の続く家並みが見られます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄常滑線常滑駅から河和行きバスで古場下車すぐ |
奥田(おくだ)/美浜町奥田 |
●独特の黒板塀が続く 漁業よりも農業が発展した町です。大正時代までは養蚕が盛んでした。いまはその面影はありませんが,知多地方独特の黒板塀の家並みが続きます。特に南奥田地区に集中。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 名鉄知多新線知多奥田駅から徒歩15分 |
野間(のま)/美浜町野間 | |
▲潮風に強くするためにコールタールを塗ります | ▲黒一色の町並みは珍しく魅惑にとんでいます |
●黒板塀・壁の古民家群 野間は柿並,一色,若松,細目の4つの集落から成り立っています。古民家群は,若松海水浴場近くにあります。いつも多くの参拝客で賑わう野間大坊は隣の一色地区にあたります。 江戸時代は「野間の塩船」と呼ばれ海運業が発達し,伊勢湾を横断する伊勢航路もありました。旧一色村の持ち船はなんと90艘近くあったとか。ところで野間の塩は奈良の大和朝廷にも献上されていました。 それにしても驚きました。黒板塀・板壁の民家がぎっしりと残されているのです。迷路のごとく路地が入り組んでおり,魅力的な街並みです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 名鉄知多新線野間駅から徒歩15分 |
岡田(おかだ)/知多市岡田 | |
▲石積みと黒板壁、白漆喰と板塀も風情があります | ▲かつては機織りの音が聞こえてきました |
▲復活した岡田簡易郵便局 | ▲知多木綿の里・木綿蔵「ちた」 |
●機織りの街並みです ゆるやかな坂道の両側に土蔵や板塀の町家が続きます。江戸時代から昭和初期まで木綿の産地として栄えました。明治時代の洋館風・岡田郵便局も残されており、その隣に木綿蔵が建っています。ここでは、地元の保存会の人たちが機織りを復活させています。かつては,木綿を織るたくさんの女子工員たちが歩いており,道路の両側から機織りの音が聞こえていたそうです。また街並み保存にも力を入れており、案内板も充実しています。なおバスは1時間に1本程度あります。 台地上にある町で、地名の由来は地形からきていると推定。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 名鉄常滑線朝倉駅からバス岡田下車すぐ |
師崎(もろざき)/南知多町師崎 |
●漁師町特有の迷路 江戸時代は尾張藩の重要な領地でした。三河湾と伊勢湾のあいだに立地するため,通船の取り締まり,流人船のチェック,尾張藩への御用肴なども納めたとか。さらに水運はもちろん師崎街道などの陸運とともに交通の要衝。また漁村でもありましたが,回船問屋,商家,料理屋,遊郭などもあり,町はたいへんな賑わい。旧遊郭を思わせる建物もチラホラ残っています。また路地の両側に漁村特有の木造2階建て板張り建築も多く残り,漁師町らしい雰囲気。 地名の由来は、古名を幡頭崎(はずざき)といい、船の停泊にいい山影の港という意味。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは師崎漁港に停めました |
豊浜(とよはま)/南知多町豊浜 |
●木造2階建ての板張り かつてはマグロを求めてインド洋や南太平洋に出かけた遠洋漁業の基地でもありました。しかし今では典型的な沿岸漁業へと変わっていきました。それでも愛知県下での漁獲高は,常に上位に入っているほど,漁業が中心となっています。江戸時代は江戸と大坂を行き来する船の寄港地と栄えました。 豊浜には役場があるなど,町の中心地でもあります。旧市街の街並みは路地が迷路のように入り組んでいます。2階建ての木造建築で,ほとんどが板張りです。一部には蔵造りも残っており,回船問屋の名残かと思えます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは豊浜漁港に停めました |
中須(なかす)/南知多町豊浜中之浦 |
●門前町と漁村が重なる 明治に入って,旧中須村と須佐村が合併して豊浜村になりました。いまではバス停に「中須」、中須公会堂などに中須という名が残っているのみです。また知多西国33カ所の第4番札所,影向寺(ようごうじ)のあるところで,江戸時代から安産祈願で多くの参拝客で賑わっていました。 しかし裏山が迫り,わずかな土地に大勢の人たちが住んでいることから,どうしても漁村特有の迷路を形成します。黒板壁を張り巡らし古民家がギッシリと詰まり,影向寺参道すらも,迷路のごとくです。独特の潮風のにおいが新鮮です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは豊浜漁港に停めました |
内海(うつみ)/南知多町内海 |
●ホテル群の裏手に町家 江戸時代はイワシ漁と海運業が盛んでした。また伊勢,三河,尾張の農産物を江戸や大坂,遠くは瀬戸内沿岸まで運んでいました。いま,海岸沿いのホテル群の裏に木造2階建ての建築が残されています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはスギ薬局駐車場に停めました |
豊丘(とよおか)/南知多町豊丘 |
●蟹川沿いに古民家群 知多半島を縦断する南知多有料道路の終点が豊丘ICです。豊丘は特に特徴的な町ではなく,平凡な田舎町といえます。たぶんイチゴ狩りにくる観光客が多少あるかと思います。そんな誰も振り向かない町だからこそ,古い建物が残っていたとすれば幸いでした。 蟹川沿いに古民家がズラッと連なっています。白壁の蔵造りもありますが,大部分は2階建て板張りの木造建築です。それが小さな石橋に似合うのです。 明治に入って幾つかの村が合併して豊丘村になりました。その後も離合集散を繰り返し、現在の南知多町になりました。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端の空き地に停めました |
篠島(しのじま)/南知多町篠島 |
●道の両側にギッシリ 3度目の訪問です。離島や漁村の街並みは、道路が迷路のようで独特です。道路も幅1m足らず。店もこんな狭いところに集中しています。かつて「通い婚」の風習のあった集落でもありました。結婚しても新居が手に入らないという時代のころの話です。しかし、港も新しいところに移転し、埋め立て面積も拡大し、他の離島とは違って、かなり発展しています。 建物は板塀を中心にしたものです。やはり潮風に強いということからでしょう。しかし古民家は少なくなっています。 島の歴史は古く、尾張藩の肴御用を務め、伊勢神宮には改築用の用材を奉納。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 篠島港から徒歩10分 |