青森県
浅虫温泉(あさむしおんせん)/青森市浅虫字山下 |
●江戸時代、弘前藩18湯の一つ 古来、麻蒸と書いたこともあるとか。しかし火災の多かったことから村人たちから嫌われて、浅虫になったといういわれがあるとか。定かではありません。平安時代、円光大師が東国巡教の折、シカが温泉に入っているのを見て発見したと言われています。江戸時代は弘前藩領で、弘前藩18湯の一つ。藩主の御休所が設けられていました。明治に入っても、ひなびた湯治場という感じで、宿は18軒ほどでしたが、明治24年(1891)に鉄道が開通してから、一気に発展しました。いまでは全国有数の温泉地となっています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはコンビニに停めました |
弘前(ひろさき)/弘前市馬喰町 | |
▲石場家住宅/国の重要文化財 | ▲美しい植栽が特徴の武家屋敷群 |
●塀など簡素な造りが美しい ここに来たのがこれで2回目です。一度目は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されていることさえ知らずに、真冬に訪ねてきたものです。寒くて、写真すらまともに撮らずに帰えりました。 しかし、今日は夏の暑い日です。少し歩きました。手入れの行き届いた生け垣、黒の板塀が同じ高さ(上の写真)でそろえてあります。ここは弘前城の北側にある武家屋敷通りです。普通武家屋敷というと、土塀が思い出されるのですが、弘前では生け垣と板塀の組み合わせです。簡素な造りが北国の武士らしさを表しているように思いました。 ●美観を守っています ふと思い出したが毛利藩長府(山口県下関市)の町並みです。長府でも住民は、外側の土塀をきちんと維持して、美観を守っていることです。津軽藩この町の美観も同じように見えました。 公開屋敷があります。代々藩の医者であった旧伊東家や武士であった旧梅田家など、実に質素でいて簡素、茅葺き屋根が美しいのです。 ●石場家住宅も忘れずに 重要伝統的建造物群保存地区の外側で、弘前城北側の堀の前に、石場家住宅(商家)があります。国の重要文化財に指定されています。雪国特有の「こみせ」というアーケード風の軒が造られています。これは同じ青森県黒石市の「こみせ通り」に行けば、規模がもっと大きくなっているのがわかります。 ●日本最北端の武家屋敷? ところで弘前は、「日本最北端の武家屋敷」のあるところといわれていましたが,やはり北海道の松前町(松前藩)にも,増毛町(秋田藩)にも残っていませんでした。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは近くのねぷた村の駐車場に停めました |
黒石(くろいし)/黒石市中町 |
●見応えのあるこみせ 青森県や秋田県では、家屋から歩道に突き出たひさしを「こみせ」といいます。雨でも雪でも傘をささずに歩けます。夏は日よけの役割も果たすのです。しかし道路拡張などで、どんどん消えて行きます。ここ中町こみせ通りは、珍しく連続して「こみせ」が残っています。 重要文化財の高橋家などもあって、実に見応えのある建築物です。 新潟県では雁木といい、上越市高田にかなり残っていました。参考にしてください。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
浦町(うらまち)/黒石市浦町 |
●「こみせ通り」裏の旧遊郭通り 江戸時代は弘前藩の分家・黒石藩でした。この地は商業の町で町人地でもありました。明治に入るまで、「裏町」とも書いたようです。重要伝統的建造物群保存地区のこみせ通りから一歩裏手に入ると、かつては遊郭でもありました。妓楼は数軒、娼妓は20人弱と地方都市にしては多いかと思います。いま歩きますと当時の建物は中村屋旅館のみで、他の建物はかろうじて面影を見ることができる程度。中村屋旅館はいまも宿泊できます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは黒石市市役所の駐車場に停めました |
七戸(しちのへ)/七戸町七戸 | |
▲国の登録文化財の旧七戸郵便局 | ▲創業250年余の(株)盛田庄兵衛 |
●意外に多い古民家 江戸時代は盛岡藩の代官所,宿駅なども置かれ,中期になると次第に商業が発展しました。もちろん当時の面影はありませんが,町を歩いていると,スレート葺きの大きな切り妻屋根の町家が目に付きます。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは七戸町役場の駐車場に停めました |
二枚橋(にまいばし)/むつ市大畑町二枚橋 |
●素朴な板張りの民家 二枚橋の名を有名にしたのは,昭和41年,弥生時代の遺跡から縄文晩期の遺物が多数出土し「二枚橋式」と言われました。さて,大畑道(国道279号)沿いに板張りの民家が数多く見られます。素朴な印象を受けます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
大湊(おおみなと)/むつ市大湊上町 |
●海軍の町として発展 明治初年,下北半島に旧会津藩の斗南(となみ)藩が封ぜられたとき,奥羽の長崎として産業の発展をはかろうとして,大いなる根拠地として命名されたそうです。入封といっても実際は原野の開拓で,その後も村は貧しく,村民のほとんどは,北海道の漁場への出稼ぎでした。 明治35年,水雷団が設置され,その後海軍の町として発展していくのであります。国道338号線を走っていますと,自衛隊の占める大きさを実感。 古民家は国道沿いと,大湊港沿いの細い路に見られます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはむつ市中央公民館駐車場に停めました |
川内(かわうち)/むつ市川内町 |
●海沿いの街道に古民家 江戸時代末期は90%が山林で,川内川の河港からはヒバ材を中心とする木材の積み出し港として栄えました。そのため,越前・三国から移転してくる商人もいたそうです。また藩の湊役所も設置されました。 同時に海産物として,サケやタラなどの豊漁が続くことが多いようでした。いまはホタテの養殖が盛んです。 国道338号線沿いを歩きました。白壁に土蔵や平入りの出格子のある町家などが,そこかしこに見られます。また裏道にも古民家が残っています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはバスターミナル内の駐車場に停めました |
九艘泊(くそうどまり)/むつ市九艘泊 |
●広い庇の上が魚の干し場 県道の行き止まりの集落です。1階の広い庇の上が魚を干す場所になっています。港に面した道路沿いにあって,漁具などを入れる倉庫と作業場になっています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは港の空き地に停めました |
福浦(ふくうら)/佐井村長後福浦 |
●舟小屋がズラリと並ぶ 水上勉原作の推理小説『飢餓海峡』の舞台になったところです。昭和22年,函館で殺人事件を起こした犯人は小舟を盗んで下北半島に上陸する所が仏ヶ浦なのです。ここから森林鐵道とバスで大湊へ逃走します。 さて,江戸時代は福浦村といい南部盛岡藩の領地で田名部に代官所を置いて支配していました。また交通の不便な所で,零細な漁村でもありました。長後村と牛滝村とに挟まれて,繁栄から取り残されていきます。 小さな港に沿って舟小屋が並んでいます。作業場と倉庫です。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
尾上(おのえ)/平川市猿賀 | |
▲国の名勝である盛美園 | ▲植栽越しに土蔵がのぞく |
●「農村景観百選」 江戸時代は弘前藩の所領で,村内を南北,東西の街道が交差する十字路となっていました。藩政時代から植木,造園が盛んで,今に伝えられています。八幡崎地区は「農村景観百選」でもあります。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは盛美園の駐車場に停めました |
木造増田(きづくりますだ)/つがる市木造増田 |
●カラフルな看板建築群 こんな田舎町に(失礼),突然カラフルな町並が現れて驚きました。土蔵をリニューアルした商店や看板建築が並んでいるのです。木造駅前から通りにも,看板建築群があります。昔はちょっとしたハイカラな町だったのでしょうか。 もともと江戸時代は開拓精神あふれた人たちが田畑の開墾に取り組んだ町だからです。日本一大きい「屏風山スイカ」を生んだのもこの町です。黒石市で見られる「こみせ」も雪国の風情が見られますが,木造はあかぬけしています。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマはJR木造駅横の駐車場に停めました |
木造蓮川(きづくりはすかわ)/つがる市木造蓮川 |
●冬は集落全体が板囲い やはり吹雪のころに来るべきだったと後悔しました。民家の周りにある木の柵は板囲いのためのものです。冬は猛烈な地吹雪を受けるため、1685年以来の伝統の囲いです。 輪島市大沢地区の間垣とねらいはよく似ていますが、間垣は竹を寄せ集めていますが、ココ蓮川では、もっと堅固な板を使っています。地吹雪の強さがよくわかります。写真を撮るなら、真冬に限ります。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました |
脇元(わきもと)/五所川原市脇元 |
●海岸沿いに防風雪柵 江戸時代は弘前藩領。そして日本海に面した小さな集落です。防風雪柵が海岸沿いに,かなり頑丈に造られています。かつて交通の不便なところで,バスの開通が昭和12年ごろで,人口は約1100人だそうです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
金木(かなぎ)/五所川原市金木町朝日山 |
●太宰治と吉幾三の出身地 太宰治の生家である斜陽館に宿泊したうえに,館内でモデル撮影会をしました。いまは記念館となり,宿泊はできません。明治40年(1907年)に落成し,隅々までヒバ材をふんだんに使った豪邸です。 金木町は歌手の吉幾三さんの出身地で,大きな土産物店を経営されています。また津軽三味線発祥の地でもあります。 津軽地方のなかで,比較的新しい建物が多いですが,雪国特有の家並みが続きます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 津軽鉄道金木駅から徒歩10分 |
今別(いまべつ)/今別町今別 |
●陸運,水運の要地でした 江戸時代は弘前藩領で,町奉行が置かれていました。というのは良質の木材が産出し,積み出し港として早くから藩の管理下にあったからです。また今別昆布も重要な産物でした。その後,木材奉行が置かれるなど,藩の財政を支える重要な所でした。さらに松前街道(蝦夷)の宿駅として発展しました。つまり海路と陸路の要地でもあります。 国道280号線は松前街道と重なり,ところどころ大店らきしき商家が見られます。また浄土宗本覚寺の宿坊のような古民家も見ものです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ クルマは空き地に停めました |
龍飛(たっぴ)/外ヶ浜町三厩龍浜 |
●路地のような国道沿い いままで4〜5回訪問しました。極寒の日は,雪交じりの強風で灯台に近づくこともできません。 ここ数年,龍飛の集落も小ぎれいになりました。えっ,これが漁師町? というくらい驚きます。しかし,一歩,裏手に回ると路地の両側には,板張りの漁師町特有の家屋も見られます。とくに国道339号の階段国道の手前の国道沿い(写真)の両側です。なお龍飛には,昭和7年に建設された竜飛崎灯台や石川さゆりの『津軽海峡冬景色』歌碑もあります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
深浦(ふかうら)/深浦町岡町 |
●北前船の寄港地 このような辺境の地に経済や文化の発展が見られるのは,やはり北前船の寄港地だったからです。一段高くなった高台に古民家が並んでいます。円覚寺は明らかに上方風です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは深浦町役場に停めました |
大向(おおむかい)/南部町大向 | |
▲村井家住宅/国の登録文化財 | ▲清水屋旅館/明治年間の創業で改築 |
●大正モダニズムの近代建築 江戸時代は盛岡藩領で、三戸通に属します。地名の由来は、“向”はアイヌ語のムクアップを意味し、あそぶ草の意で食用草からきたといいますが、定かではありません。また縄文時代の遺跡も多数発掘されています。中世に時代から南部氏の所領であったようです。ところで、明治になって、なぜか元年に弘前藩、続いて黒羽藩、九戸藩、八戸藩……、斗南藩、斗南県、弘前県と転々変わり、そして明治4年にやっと青森県に所属しました。いま歩いて見ますと、三戸駅からの通りに両側にわずかに古民家が残されています。特に村井家住宅は大正モダニズム時代の和洋折衷の優れた住宅。内部見学はできませんが、正面の妻側の壁は、3連アーチ窓で、ちょっぴり目立つ近代建築です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは青い森鉄道三戸駅前駐車場に停めました |
福田(ふくだ)/南部町福田 | |
▲田中家住宅・豪農(国の登録文化財)/望楼を持つ主屋は明治23年築 | |
●望楼付きの主屋を持つ田中家住宅 八戸市に隣接する町で、近年は八戸市のベッドタウンとして発展しています。そのため古民家も徐々に消失しつつあるのが現状です。中世は福田氏の本拠地で居館がありました。江戸時代ははじめ盛岡藩領で、寛文5年(1665)に八戸藩領になり名久井通に属しました。古民家が消えつつあるとはいうものの、ところどころ点在しており、蔵や漆喰の古民家が見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは田中家住宅駐車場に停めました |
三戸(さんのへ)/三戸町八日町 | |
▲佐滝本店/青森県下で最古の鉄筋造・国の登録文化財、大正14年築 | ▲佐滝別邸/八角形のドーム屋根の洋館と平屋の和館が隣接・大正14年築 |
●予想外の近代建築にうれしくなりました 江戸時代、八日町は三戸城下八町の一町で東西に貫く盛岡道の両側沿った集落でした。居酒屋、旅篭屋、雑貨屋など商工業の店舗が軒を連ね、八の付く日に市が立ち、とても賑やかな町でもありました。しかしながら明治になって三戸城が廃城となり、城下全体が三戸村と総称するようにもなりました。さて整備された役場の駐車場にクルマを停めて歩きますと、意外に近代建築が目に付きます。特にオレンジ色のタイル壁、ドーム型の玄関を有する旧富田修歯科医院(旧第九十銀行三戸支店・大正13年築・写真)がひときわ目立ちます。予想しなかっただけにワクワクしてきました。また棟割り長屋や商家が目に付きましたが、ほとんどが改築、改装されていました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは三戸町役場の駐車場に停めました |
西越(さいごし)/新郷村西越 |
●かやぶきサミット開催 青森市のボランティア団体が立ち上がり、茅葺き屋根を保存する運動を積極的行っています。葺き替え費用の一部を負担したり、葺き替え作業も手伝ったりと、積極的です。また2006年2月に西越公民館で「東北三県かやぶきサミット」が開催され、各地の保存団体約50人が参加して意見交換会が開催されました。とはいえ、西越地区も急速に減りつつあります。実際に住んでいる人の意見も聞きながら、保存するのがいちばんだと思います。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |