群馬県
清野(きよの)/前橋市清野町 | |
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▲街道から裏道に入りますと旧養蚕住宅など古民家群が見られます | |
●三国街道沿いに土蔵が並ぶ 交通量の多い三国街道沿いの集落ですが,土蔵が至るところに見られます。横丁に入ると古民家があり,かつて養蚕農家だった造りもあります。ところで地名の由来は清里村の「清」と清里村、野良犬村の「野」を合わせて命名されたとか。野良犬村とは珍名ですが、オオカミがたくさんいたからだそうです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはパチンコ・ダイアナに停めました |
新町(しんまち)/高崎市新町 | |
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▲群馬銀行新町支店 | ▲中山道沿いに連なる古民家群 |
●川端家は登録文化財 新町は中山道の宿場町で,江戸から数えて11番目です。加賀前田藩が開発したと言われており,中山道のなかでも最も遅く開かれました。 明治天皇行在所がありますが,これは明治11年からのご巡幸の際に宿泊されたところ。また新町駅近くには洋館の群馬銀行新町支店があります。 幾つかの古民家を見ながら温井川を渡ると,藤岡市に入ります。しばらく歩くと,江戸時代からの建物が残る豪農・川端家が見えます。白壁や板張りの壁が美しく,登録文化財です。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR高崎線新町駅から徒歩15分 |
倉賀野(くらがの)/高崎市倉賀野上町 |
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●脇本陣が残っている 旧中山道沿いの宿場町です。また、日光例幣使街道の分岐点でもあります。それだけにかつてはたいへんなにぎわいだったでしょう。いまは脇本陣(写真)や多少の蔵造りの商家がポツンと残っている程度です。 江戸時代の倉賀野は高崎藩領でした。また宿場町としてだけではなく、利根川の河川港として栄えた町でもあります。江戸と信州を水路、陸路で結び、さまざまな物資や文化などが倉賀野を通っていきました。最近では,高崎市近郊の住宅地として栄えているようです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR高崎線倉賀野下車徒歩8分 |
田町(たまち)/高崎市田町 |
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●繁栄した高崎宿の一つ 駅から歩いて10分のところにある一種の倉庫街です。 漆喰で固められた白壁が続きますが。なかは漬物屋の作業場になっています。中山道で最大の賑わいをみせた高崎宿ですが,かつて「お江戸見たけりゃ高崎田町,紺の暖簾がひらひらと」詠われたところで,繁栄したと伝えられています。つまり商家が集まっていたところといえます。 実は中山道はココより東寄りの通町・椿町筋を通っていました。慶長7年(1602)に現在の所に改められたとか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR高崎線高崎駅から徒歩10分 |
西明屋(にしあきや)/高崎市箕郷町西明屋 |
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●商家を思わせる古民家 戦国時代末期,武田信玄と戦って敗れた長野氏の居城・箕輪城跡があります。城は高崎に移され廃城となりましたが,このとき寺や人家,町名までも移したのです。高崎市の田町は元もと西明屋の字名でした。 この地は政治・経済の中心で,旧伊香保街道は,温泉地に向かう人々でたいへん賑わったところでもあります。特に西明屋は商人など町民が多く住んでおり,商業の中心地でした。ちなみに東明屋は武士が多く住んでいました。町は寂れ,造り酒屋の廃屋が寂しげでした。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはみさと町づくりセンターに停めました |
上里見(かみさとみ)/高崎市上里見町 |
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●ところどころに残る古民家 江戸時代,上里見藩は譜代の小藩でした。その後藩主の変遷により明和4年(1767)に上野国の小幡2万石に移封,上里見藩は廃城となりました。陣屋跡が残されています。しかし信濃道(草津街道)など交通の便は良く,宿場町(神山宿)として発展しました。また中山道板鼻宿への助郷を勤めていました。北信3藩の飯山,須坂,松代の各藩は,中山道よりも約10里も短いとあって,参勤交代時など重要路でもありました。 いまは街道沿いにわずかな古民家が残されています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは西山農園に停めました |
原町(はらまち)/東吾妻町原町 |
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●真壁造りの三角屋根 嘉永元年(1848)から15年間,中山道軽井沢宿の助郷を請負により勤めています。例えば和宮降嫁の時は,人足300人,馬24匹を拠出。原町には幾つかの街道が通っています。そのうちの一つは真田道で,原町の川平戸を経由した軍用道で,上田と沼田を結んでいます。また三国脇往還は日影道−長須橋−原町−山田川橋から中之条へ通じていました。舟運では,鳥居越えの荷物を我妻川の河川港に集めまたそうです。 妻入りの真壁造りがポツンポツンと見える程度です。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは東吾妻町役場に停めました |
郷原(ごうばら)/東吾妻町郷原 |
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●信濃道沿いの養蚕農家 いまでも往時を偲ばせる建物が残っています。なかにはかなり大きな養蚕建築が残っています。ほとんどが明治時代初期までの近代養蚕の大型建築です。屋根にさらに越屋根を造り,空気を抜くようします。 江戸時代,郷原は中山道軽井沢宿の代助郷を請け負っていました。和宮降嫁では人馬を供出。また清水家支配時には,子どもの間引き防止策や養老手当の実施など,まれにみる善政を行なったとか。さて旧信濃道は交通量も少なく,のんびりと古民家を見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
大戸(おおど)/東吾妻町大戸 |
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●交通の要衝として発展 大戸城1万石の城下町であり,中山道の脇往還・信濃道の宿場町でもあります。しかし交通の要衝で,飯山,須坂,松代各藩の城米,信州,西吾妻の物資,さらに善光寺参りや草津温泉入湯客の往来で,一年中賑わっていました。また大戸関所は本宿から移され,中山道の裏固めとして重要視。 いまバス停「大戸宿」近辺に古民家が少しばかりのこされていますが,往時の宿場の面影はあまり感じることはありません。ところで,歴史家の一部は藩存立自体を疑問視しているとか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
本宿(もとじゅく)/東吾妻町本宿 |
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●旧養蚕住宅が点在 中山道の脇往還・信濃道(草津街道)沿いの集落です。中山道軽井沢宿の代助郷を勤めていました。将軍の上洛,日光社参では,裏を固めるということで,村人たちは番小屋を設けて警戒したそうです。普請の時は不役の負担があり,近隣の集落と同じく,中山道軽井沢宿の代助郷を勤めたそうです。 地元の人から薬師さんと親しまれている吉岡薬師(現吉岡神社)には町の文化財が多数あります。街道沿いには,旧養蚕住宅がいくつか見られます。いずれもセガイ造りです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
上野田(かみのだ)/吉岡町上野田 |
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●旧本陣・森田家の力 もともと下野田と合わせて野田村でしたが,元和2年(1616)に分村しました。慶長年間に伊香保街道の宿場として発展し,東西に延びた細長い宿場でした。いまもその名残で,やや高低差のある街並みを形成。 道の両側には,大屋根の上にさらに通気口を兼ねた小屋根があり,豪勢な農家を見ることができます。街並みのほぼ中央に本陣・問屋を兼ねた森田家がありました。いまもその面影が残り,周辺には「森田家私有地」の看板が至るところに林立しています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはコンビニに停めました |
鬼石(おにし)/藤岡市鬼石 |
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●蔵造りや旧養蚕住宅など 十国街道や三波川道が交差するところで,江戸時代から交通の要衝でした。寛文2年(1662)には,穀類,塩,小間物,綿,麻,薪炭,塩など特産物の市が立っていました。さらに江州商人の出店が多くなると,旅籠,居酒屋,茶漬け屋なども栄え,宿場町,市場町としても栄えたのです。 いまは県道177号線,仲町交差点を中心に,裏道を含めて多くの古民家が見られます。蔵造りや出桁造りなどの商家,さらに裏道にはところどころに旧養蚕住宅も建ち並んでいます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
富岡(とみおか)/富岡市富岡 | |
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▲望楼のある古民家は珍しい | ▲観光客が殺到する富岡製糸場 |
●製糸場以外の町並みにも注目 富岡は富岡製紙場で知られています。いま県や市をあげて「世界文化遺産」登録を目指しました。しかし製紙場以外にも古い町並みが若干残っています。面白いのは、2階建ての建物に展望塔がついた江原時計店です。千葉県成田市で見た旅館の望楼(展望塔)をちょっと小ぶりにした感じです。望楼のあり町家は比較的珍しいといえます。 裏道に入ると、歴史的な建物が意外に多く,木造3階建ての建物があったりもします。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 上信電鉄上州富岡駅から徒歩10分 |
七日市(なのかいち)/富岡市七日市 |
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●小藩の城下町でした 江戸時代,前田利家5男利考が1万石を与えられて陣屋を構えました。これは大坂冬・夏の陣の功績によるものです。いま陣屋の一部は県立富岡高校の一部として保存されています。七日市藩は小藩ですが,加賀藩前田家の援助を受けながら藩政を行ない大きな波乱もなく明治維新を迎えています。ところで七日市村は七日市藩陣屋付き村ということで,中山道松井田宿の助郷も免除されています。 いまはわずかに蔵造りや木造2階建て板壁の古民家が残っている程度です。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
安中(あんなか)/安中市安中 | |
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▲旧安中藩郡奉行役宅 | ▲蔵造りの商家が残る |
●珍しい茅葺きの武家長屋 中山道の宿場町です。元和元年(1615)に井伊直勝が3万石を与えられて安中城を改築して入封,以来,譜代大名が入っています。市場町,宿場町としても栄えました。街道沿いには蔵造りの商家がところどころ残されており,改築,改装して使われています。一方養蚕の盛んな集落でもありました。 さて茅葺きの武家長屋は意外にも全国各地に残されています。ココは平成に入って4軒長屋として復元されましたが,もともと江戸時代末期の建築と推定されています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは安中藩郡奉行役宅駐車場に停めました |
松井田(まついだ)/安中市松井田町松井田 |
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●中山道の宿場町 集落自体は安中藩の支配下にありますが,宿場自体は幕府の道中奉行の配下になります。問屋場2軒,本陣2軒とありますが,両家が問屋場と本陣,名主を兼務していました。また脇本陣2軒,旅籠は25軒あったとか。松井田宿は,公家や諸大名の休息や宿泊は比較的少なかったようです。代わりに信州諸大名の米や各種の物資の中継地としての重要な役割を果たしていました。 街道沿いを歩きますと,セガイ造りなどの古民家が単発で散在しております。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは松井田商店街無料駐車場に停めました |
坂本(さかもと)/安中市松井田町坂本 |
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●道路の拡幅で消える面影 東山道沿いの集落を移転させたり,他領の移住者も募って地割りを完成,寛永2年(1625)には,宿場の骨格ができあがりました。文政年間(1818〜)には31の大名が,臨時の通行を合わせると40以上になりました。このほか,公家や大名息女,例幣使なども通行,かなり賑わったとか。本陣は佐藤家と金井家の二つ,脇本陣は4軒もありました。というのも,碓氷関所と碓氷峠に挟まれており,どうしても宿泊せざるを得なかったから。 いま道路を拡幅したせいか,往時の面影は少しだけです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは坂本公民館に停めました |
白井(しろい)/渋川市白井 |
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●武者行列の真っ最中 はじめは白井潘領,後に幕府領。着いた当日は白井宿祭りで,武者行列の真っ最中でした。どこを撮っても見物人ばかり。三国街道の脇往還で,中央に水路(白井堰)があり,その両側を長屋門や土蔵造りが並びます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 駐車場 クルマは無料駐車場に停めました |
北牧(きたもく)/渋川市北牧 |
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●ちょっと寂れていました 現在はほんのわずかな建物が残されているだけです。この北牧宿は,三国街道の一つの宿場町で,高崎宿から4つめです。越後の諸大名が参勤交代で利用したとあります。さらに,草津の湯,前橋の市場へ行くのにも通ったそうです。つまり真田道,草津道,三国街道が交差する要地でした。 先触帖には諸大名のほかに佐渡奉行,道中奉行,家中,寺院関係などが通ったと記録されています。それほど重要な宿場でした。旅籠は10軒と,沿道の他の宿場町より多いようです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは裏の空き地に停めました |
桐生(きりゅう)/桐生市本町 | |
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▲豪華な蔵が多く残されています | ▲住宅を兼用した店蔵も多い |
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▲ノコギリ型屋根の工場群 | ▲昼ランチ豆腐コース1750円・若宮 |
●豪華で堅牢な土蔵 本町1丁目から2丁目,横山町にかけて歴史的建造物がたくさん残っています。ひとつは蔵です。かつて絹織物で栄えた名残りです。「西の西陣,東の桐生」といわれるぐらいでした。蔵も,並の蔵ではなく,贅の限りを尽くした豪華な造りです。 本町を歩いていて感じるのは,通りに面した建物の地割りがノコギリの歯のようになっていることです。ここでは,建物が桐生天満宮に向かって斜めに建っています。また道幅は,約120年前と同じだとか。重要伝統的建造物群保存地区です。 ●ノコギリ型屋根工場も多い 現在は市内に約200棟ほど残っています。後藤織物工場(写真下左)は文化庁の登録文化財で映画『SAYURI』の主人公の帯を作りました。工場は稼働中です。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 東武桐生線新桐生駅から徒歩20分 |
水沼(みずぬま)/桐生市黒保根町水沼 | |
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▲改築された古民家も多い | ▲水沼駅温泉センター |
●水沼製糸所跡で往時を見る 江戸時代は養蚕も盛んでしたが,足尾からの銅街道が整備されるにつれ,人馬の往来も多くなり,宿場として繁栄。明治に入ると水沼製糸所が洋式機械製糸を導入し発展。古民家は国道から外れた所に見られます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 わたらせ渓谷鉄道水沼駅から徒歩8分 |
大間々(おおまま)/みどり市大間々町大間々 | |
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▲岡直三郎店(醤油製造200余年) | ▲旧大間々銀行(大正10年築) |
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▲上神梅駅(国の登録文化財) | ▲大間々駅(国の登録文化財) |
●駅舎が登録文化財 江戸時代は足尾銅山のから利根川河川港に至る銅街道の中継地(宿場町)として賑わいました。いまは国道122号線沿いに,蔵造りの商家がそこかしこに残されています。醤油や酒造りも盛んでした。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 わたらせ渓谷鉄道大間々駅から徒歩5分 |
花輪(はなわ)/みどり市東町花輪 | |
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▲実業家・今泉喜一郎の生家 | ▲高草木家の御用銅問屋 |
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▲国の登録文化財・旧花輪小学校/明治6年開校、童謡『兎と亀』の作詞家・石原和三郎、日本鋼管創立者・今泉嘉一郎も卒業生/平成13年閉校 | |
●銅(あかがね)街道の宿場町に文化財多数あり 慶長15年(1610)に足尾に銅の鉱脈が発見されると,幕府は直轄鉱山としました。足尾−沢入−花輪−大間々と街道を利用して銅を運搬。さらに舟で利根川を下って江戸に届けたのです。花輪宿にある高草木家の銅蔵は,一時銅を保管しておいた蔵です。 銅街道は日光裏街道ともいわれ,東照宮参拝や男体山登山にも利用されました。銅山で働く人なども含めて街道や宿場は大いに賑わいました。独特の養蚕農家や庇の突き出た町家などが見られます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 わたらせ渓谷鉄道花輪駅から徒歩10分 |
神戸(ごうど)/みどり市東町神戸 | |
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▲神戸駅も国の登録文化財です | ▲ホームには列車レストランがある |
●街道は丘陵を横断 地名の由来は諸説ありますが,古い神社に付属していた封戸(神戸かんど)が「こうべ」になり「ごうど」に変化したのが有力だとか。それはともかく神戸も銅街道沿いの集落で,沢入村から花輪村までの3里余に助郷として出役。さらに将軍の日光参拝時には,日光街道幸手宿まで助郷として出役したとか。 銅街道は,駅を出て丘陵を上ったところにあります。いま古民家が少し残る程度です。花々が咲き乱れたり,途中の肉屋さんが路上で鹿の解体を見れるなど,変化にとんだ所でした。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 わたらせ渓谷鉄道神戸駅から徒歩15分 |
沢入(そうり)/みどり市東町沢入 | |
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▲国の登録文化財・沢入駅(待合室) | ▲陶器と良寛書の館 |
●沢入駅はNHK朝ドラ『半分、青い』のロケ地 銅街道(銅山街道)沿いの宿場町です。足尾から2里半の位置にあり,銅送りのための銅問屋が置かれ,御銅蔵も設置。それなりに賑わいをみせていたのですが,農閑期には,男たちは炭焼,駄賃,屋根板の生産,女たちは炭俵編み,薪取り,糸引きなどに従事するなどして稼がざるを得ないようでした。 花崗岩が採れるためか,都電の敷石にも採用されていたとか。歩いていますと,石蔵や旧養蚕住宅がいくつか見られます。古民家のあるおかげで,宿場らしいと思えました。なおその後、沢入駅はNHK朝ドラ『半分、青い。』のロケ地で、夏虫駅として登場。いまは多くの人が訪れています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 わたらせ渓谷鉄道沢入駅から徒歩3分 |
玉村(たまむら)/玉村町下新田 |
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●例幣使街道の最初の宿場 朝廷は久しく中断していた伊勢神宮へ例幣使派遣を,同時に日光東照宮への派遣も決めました。そこで幕府は,例幣使専用の通行路として中山道倉賀野宿から分かれてからの街道を整備したのです。旅籠62軒(うち飯盛り女)とかなり大きく,茶屋9軒,小料理屋11軒もありました。しかし慶応4年の大火でほとんどの建物が焼けました。明治に入ると歓楽街,特に遊里としての性格が強くなり,公娼廃止運動が芽生えたこともありました。いま,所々に古民家が残されています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR高崎線新町駅からバス20分玉村町役場下車5分 |
五料(ごりょう)/玉村町五料 |
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●小さな宿場町 例幣使街道では玉村宿に次ぐ宿場町です。天保年間で,旅籠18軒と小規模でした。例幣使は玉村宿に1泊し,翌五料宿を通過するという行程でした。宿場は小さいですが,最も重要な役割は人改めでした。五料には例幣使街道唯一の関所があり,前橋藩が管理をしていました。 五料関所の任務は二つ,一つは例幣使の通行,舟運の取り締まり。特に上り船(江戸方面)の調べは厳重でした。なお天明3年(1783)の浅間山噴火は大きな被害が出ましたが関所全部が泥で埋まりました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 玉村町役場からコミュニティバスで芝根郵便局前下車すぐ |
三光(さんこう)/伊勢崎市三光町 |
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●脇本陣が残っています 酒井氏2万石の城下町(陣屋)でもあり市場町でもあります。とくにクズ繭を使った普段着用の太織りが広く知られました。このあたりは柴宿と境宿の間にあり,脇本陣も設けられていました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR両毛線伊勢崎駅から徒歩15分 |
柴(しば)/伊勢崎市柴町 |
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●本陣跡が残る程度 例幣使街道は倉賀野宿から楡木宿までの13宿のうち三番目の宿場です。いまは往年の面影はありませんが,関根家が本陣経営にあたっていました。関根家には,当時の文書類,調度品など資料が残っています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 市民病院北からコミュニティバスで柴宿本陣前下車すぐ |
境(さかい)/伊勢崎市境東 |
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●古民家が少々残る 江戸時代初期は仮宿,さらに元宿と呼ばれたそうです。その後境に変更。寛永20年(1643)に日光例幣使街道が通じてから一気に発展しました。そして六斎市場が創設されてからは商業都市として非常に繁盛しました。特に生糸,絹織物,絹太織物など繊維産業が町の経済を引っ張り,さらに例幣使街道と共に,江戸文化だけではなく京都の文化の影響を受け,学問文芸が盛んになったのです。 いまはところどころ街道筋に土蔵,町家などの古民家も残されていますが,ちょっと寂しい。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線堺町駅から徒歩10分 |
境島村(さかいしまむら)/伊勢崎市境島村 |
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●大きな屋敷林が目印 江戸時代から続く利根川の船渡しがあり,その近くに集落があります。ちょっと探すのに苦労しました。大きな屋敷林,背の高さぐらいの垣根,石積の上の養蚕住宅など周辺の町並みとは全く違う光景を見せています。その光景をみるだけでもいいものです。 もう一つの楽しみに,村が利根川で分断されており,渡船が県道の役割を果たしております。荒天時以外は毎日運行されています。無料で乗船(朝8時半〜夕5時15分)できます。渡船は乗りたいものです。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 渡船場の無料駐車場に停めました |
本町(ほんちょう)/太田市本町 | |
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▲旧金山図書館(1922年築) | ▲大谷石を利用した石蔵 |
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▲三角屋根の近代木造建築がいたるところで見ることができます | |
●裏道に近代建築が残る 街道沿いは宿場町としての面影はありませんが,一歩裏道に入ると近代建築や古民家が多く残っています。尖った三角屋根の民家,小学校の古い木造校舎,一般住宅の町家など寺社ともども飽きることはありません。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 東武伊勢崎線太田駅から徒歩10分 |
丸山(まるやま)/太田市丸山町 |
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●宿場町ができて400年 初めての訪ねました。2006年は、開宿(慶長11年/1606年)400年にあたり、あちこちに「丸山400年」ののぼりがはためいていました。交通の便が悪いので訪れる人もいません。しかし、住民だけで、この歴史的建造物をしっかりと守り伝えています。 土蔵があったり、町家があったりと宿場町だったせいか、いろんな建物が混在しています。いちばん古い建物は、医院になっていいます。200mほどの距離に古民家がぎっしりと詰まっていました。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 東武伊勢崎線太田駅からバス丸山町下車3分 |
木崎(きざき)/太田市新田木崎町 |
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●わずかに残る町家 江戸時代,明和元年(1764)に幕府から宿駅として公認されました。しかし,実際は以前から例幣使の下向の際,木崎を通過しており休憩場所でもありました。そのため本陣は1軒で,脇本陣はその都度決めていたようです。最も栄えたのは文化〜嘉永(1804〜1854)年間で,旅籠はだいたい30軒前後で,飯盛り女も1軒につき2人と決められていましたが,実際は130人近くはいたようです。 いまは道路の拡幅で,往時の面影はなく,わずかに「木崎宿」の木柱が立っているのみ。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線木崎駅から徒歩15分 |
館林(たてばやし)/館林市大手町 |
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●往時の雰囲気・武家屋敷 江戸時代,城の周囲に「侍町」があり,その西に職人,商人の町が広がっています。そして侍町の一角に鷹匠町があり,中級,下級武士が住んでいました。今も屋敷割りや屋敷構,土塀や門などが当時の雰囲気を伝えています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線館林駅から徒歩10分 |
永井(ながい)/みなかみ町新治永井 |
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●県の景観保存地区 三国街道の宿場町です。戦国時代,上杉謙信が三国峠を越えて兵を率いて関東にやってきました。現在の三国峠は慶長年間に整備されたと言われています。特に越後米の関東への流出口として栄えました。本陣はすでにありませんが,今でも往時の面影を見ることができます。町家や旧養蚕農家など見るべきものは多いようです。 急峻な山の中腹に切り開かれた宿場町だけに,歩いているとちょっと疲れます。永井宿は群馬県の景観条例で景観形保存区に指定されています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは永井宿郷土館の無料駐車場に停めました |
須川(すかわ)/みなかみ町新治須川 |
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●大型の養蚕住宅 それにしても観光客の多いことに驚きました。「たくみの里」として村おこしで,地域の活性化に取り組んだ結果です。 三国街道の宿場町で,永井宿より4つ目に位置します。建物は群馬県の各地で見られる2階建ての養蚕住宅で,ここの建物は規模が大きく,短冊形に並んでおり,道路も広くとってあり,かなり整備が行き届いています。観光客の多さから,村おこしに成功した例といえるでしょう。 須川も県の景観条例で景観保存地区に指定されています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは大きな無料駐車場に停めました |
箕輪(みのわ)/みなかみ町布施箕輪 | |
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▲美しい養蚕住宅が見られます | ▲土壁の養蚕住宅が残っています |
●美しい農村景観賞を受賞 この集落へ向かう道を探すのにたいへん苦労しました。なかなかわかりずらい道でした。クルマを箕輪橋のたもとで止めて歩きました。木造3階建ての建物が続きます。いずれも養蚕住宅で、明治時代に建てられました。いまは、子ども部屋など、個室に改造されているとか。 なお1999年に創設された「美しい新治村(旧)の農村景観賞」において、建築・まちなみ部門を受賞しています。青い空と白壁,土塀,黒瓦屋根の組み合わせが実に美しいです。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました |
下仁田(しもにた)/下仁田町下仁田 | |
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▲大正時代に創業した丸平 | ▲雪国独特の庇の深い町家 |
●蔵造りの商家が残る 中山道脇往還の下仁田街道沿いの宿場町です。信州との境の内山峠手前には西牧関所が置かれていました。ところで養蚕業も盛んでしたが,コンニャクやネギも名産。老舗も多く,蔵造りの商家が目に付きます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは下仁田公民館に停めました |
中小坂(なかおさか)/下仁田町中小坂 |
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●裏街道沿いの集落 江戸時代は七日市藩,小幡藩等と変遷。天保2年(1831)に隣の上小坂から砥山が発見され,両村で一括請け負うことになりました。しかし採掘の中止,再開を繰り返しながら明治維新を迎えます。その砥石や米の搬送に中山道脇往還を利用しました。中山道裏街道といわれ,険しい碓氷峠,厳重な碓氷関所を避けるためです。 また水戸天狗党と高崎藩との主戦場がココ。いわゆる下仁田戦争と呼ばれています。いまは往時の面影はなく,所どころに古民家が見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは第4公会堂の駐車場に停めました |
本宿(もとじゅく)/下仁田町本宿 |
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●蔵造りなどの古民家が多数 中山道脇往還の宿場町です。水田はなく畑作のみで,麦,イモ,粟,カリマメなどを栽培していました。また薪,絹,麻布を下仁田まで出て売却したそうです。米は信州佐久米を市で購入するのですが,米商人の買い占め投機で価格は不安定でした。 さて,信州と上州を結ぶ重要な街道で,本宿は物資の中継地,交易の中心地でもありました。そのため問屋も多く,歩いていますと,いまでも蔵造りの建物が残されています。またセガイ造りの町家も多く,宿場町としての風情が感じられます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは活性化センターに停めました |
小沢(おざわ)/南牧村小沢 |
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●旧養蚕農家らしい風情 南牧川流域の約100世帯程度の集落です。江戸時代は,畑作が中心で,麦,粟,稗,ダイコン,麻などで,さらに養蚕,絹織り,紙すきなどは下仁田の市場で売買されていました。和紙も下仁田で売り出されましたが,御用紙として直接江戸まで馬で運んだそうです。文政8年(1825)に下仁田で大規模な農民一揆がありましたが,その首謀者が小沢の百姓だったとか。 国道から南牧川を渡ると旧街道沿いに,旧養蚕農家らしい風情が見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
羽沢(はざわ)/南牧村羽沢 |
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●出桁造りの旧養蚕住宅 バス停は「羽根沢」となっていました。かつて「はねざわ」ともいったそうです。空き屋の目立つ過疎地です。旧街道沿いを歩いていますと,旧養蚕農家が目に付きます。この建物は,出桁造りといい1階部分よりも2階部分が張り出した造りで,蚕室の作業所を拡大したものです。瓦葺き切り妻屋根で,空気抜きとなる越屋根が付いています。 江戸時代は中山道松井田宿の助郷でありました。また各種,普請や輸送のための人足供出も課せられ困窮したことも多かったようです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
勧能(かんのう)/南牧村羽沢勧能 |
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●旧養蚕住宅が残る 熊倉へ向かう途中で,ひとかたまりの集落を見つけたので下車。南牧川に架かる津島橋を渡り,民家の間を歩くと,やはり空き家が多いように思えました。出桁造りの養蚕住宅で,もちろんいまは生産していません。このあたりは畑作が中心で,急斜面にわずかな畑が見られます。 江戸時代は幕府領で羽沢村の枝村でした。その後の離合集散で村は消え,今はバス停にその名を残しています。また姫街道沿いの集落で,警戒の厳しい中山道を避けて,女性たちはこの裏道を通りました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
熊倉(くまくら)/南牧村熊倉 |
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●最果ての集落です まさに最果ての集落です。県道108号線沿い最後の集落で,ここからクルマで約30分で,落差30mの像ケ滝に着きますが,そこから先は徒歩で県境越えとなります。かつて武田信玄が1万騎を率いたとか,さらに4万6000人の兵を率いて上野(群馬県)へ攻め込んだとか,信玄にとって重要路でありました。 江戸時代,耕地面積が全体の11.3%と極めて悪条件でした。いま歩いて見ますと,耕地がどこにあるのかと目を疑います。そしてかつての出桁造りの養蚕住宅がたくさん残っています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
砥沢(とざわ)/南牧村砥沢 |
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●まるで映画のロケ地 ほこりにまみれたロケ地という感じでした。黒沢明監督の映画に出てきそう。訪れる人もなく,超過疎の集落。中山道の脇往還で,南牧川沿いにあり,両側は急峻な山々という環境です。かつては砥石の生産でにぎわったとか。お店は1軒もない。 |
感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
星尾(ほしお)/南牧村星尾 |
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●急斜面に立つ旧養蚕住宅 この星尾集落も,この先の星尾峠へはクルマでは行けず,徒歩で県境を越えることになります。まさに最果ての集落といえば言い過ぎか。超過疎地でもあります。また高齢化率が日本一だそうです。 江戸時代は幕府,旗本領。また畑作で,大豆,小麦,粟,稗,芋などあらゆる作物を栽培しています。ほかに現金収入として,薪,砥山普請,絹織物,紙すきなどがありました。 街道を行くと急斜面にへばりつくように,古民家が建っています。ほとんどが旧養蚕住宅で,ひっそりとしています。 近年、68年ぶりに温泉(星尾温泉)として復活し、少しずつ観光客もやってきるそうです。なにより都会からの移住者が増えつつあるとか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
楢原(ならはら)/上野村楢原 | |
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▲重要文化財の旧黒澤家住宅/18世紀中頃の建築・付近一帯を管理 | |
●旧黒澤家住宅を中心に 江戸時代は幕府領で,黒澤家が名主でした。鷹の保護地区が27カ所あり鷹狩り用の「巣鷹」を将軍家に献上し,同時に御巣鷹山の管理にあたりました。いまは旧黒澤家の周囲は,旧養蚕住宅が残されています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは旧黒澤家住宅専用駐車場に停めました |
乙父(おっち)/上野村乙父 |
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●出桁造りの養蚕住宅 江戸時代は幕府領です。領内には9カ所の御巣鷹と御用林の管理する看守が住んでいました。御用林の檜は川運を利用し江戸に運送。また養蚕業も発達,出桁造りの養蚕住宅も多い。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
万場(まんば)/神流町万場 |
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●十国街道沿いの宿場町 江戸時代中期から十国街道の宿場町として一段と発展しました。享保16年(1731)から1と6の日に六歳市が立ち,近郊近在からますます人が集まりだしたのです。十国街道は信州と上州を結ぶ脇往還のためか,武士の往来は少なく,善光寺参り,米商人,湯治客などが中心でした。このあたりは米がほとんどとれないので,信州佐久地方から,毎月10石ほどの米を十石峠を越えて運んだとか。 いま木造3階建ての建物が幾つか残っています。2階家の出桁造りも多く見られます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
小幡(おばた)/甘楽町小幡 | |
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▲城下町の面影が見られます | ▲用水路沿いに古民家が続きます |
●用水路と街路樹 織田家七代、松平氏四代続いた城下町として発展した町です。武家屋敷群には、石垣や庭園などが残されています。 また町家群は、小さな用水路の両側に商家、町家が続きます。街路樹が生い茂り、とても静かで往時を思い出させるようです。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは大駐車場に停めました |
鎌原(かんばら)/妻恋村鎌原 |
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●旧養蚕住宅が残る 北国街道脇往還の宿場町です。江戸時代,沼田藩領から幕府領に移行。浅間山の麓に位置し,ときおり浅間山噴火で被害が大きくなり,人命や農作物が失われます。 さて宿場町らしい場所を探すのに苦労しました。行ったりきたりでと探し,鎌原観音堂の近くで見つけることができました。ただ連続して建ち並んでいるわけではありません。かつて茅葺き屋根だっただろうという民家,また養蚕農家などが建物として残っています。もちろんいまはカイコは育てていません。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 駐車場 郷土資料館の無料駐車場に停めました |
大笹(おおささ)/嬬恋村大笹 |
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●渓谷沿いの宿場町 国道144号線の両側に広がる宿場町です。かつて北国街道の脇往還であったところで,鎌原宿からすぐのところにあります。元来,信州の上田氏が沼田と結ぶ軍事道路として開削。幕府からも公認されました。また大戸通りと大笹通りの分岐点であります。そのため追分宿として,とても賑わったそうです。 大笹宿は吾妻川渓谷沿いに形成され,いまでは街道の両側に民家が並んでいます。養蚕農家や養蚕の問屋など,ところどころに見ることができます。ただ交通量が多いので注意。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 駐車場 クルマは大笹郵便局に停めました |
赤岩(あかいわ)/中之条町赤岩 | |
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▲湯本住宅/「長英の間」があります | ▲山菜そば(400円・赤岩っ家) |
●養蚕住宅と石垣と蔵 重要伝統的建造物群保存地区です。約60世帯,170人が居住する小さな集落です。傾斜地に古い石垣や敷地内には主屋や蔵,農機具を保管する小屋などが建っています。日本の典型的な農山村風景をとどめているのです。 一本道を歩いていると、ところどころに木造2階建ての旧養蚕住宅が見られます。ゆるやかな坂道を上り、下りながら歩くと、養蚕に関する資料館がありますが、そのまま入いれます。さらに歩くと、土蔵がいたるところにあることと石垣が多いです。 ●木造3階建て湯本住宅 蘭学者高野長英をかくまったと言われる湯本家住宅の「長英の間」があります。この湯本住宅は3階建てで置屋根形式の切妻屋根を持ち,妻入り土蔵造りという実に珍しい建物。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR長野原草津口駅からバス南大橋下車徒歩7分 |
羽根尾(はねお)/長野原町羽根尾 |
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●草津,善光寺への宿場町 鎌倉時代は羽尾でしたが,当地を支配した羽根尾氏の名をそのまま地名にしたとか。江戸時代は沼田藩領でしたが,天和元年(1681)から幕府領。 草津温泉,川原湯温泉への湯治客や善光寺(長野市)への参拝客が増えるにつれ,沼田藩真田氏は上田宿(長野県)−沼田宿の道路整備に力を入れ,宿駅,関所を設けるなどをしたのです。 草津へ向かう草津街道,善光寺へ向かう信州街道が通り,多くの人で賑わいました。出げた造りが往時の面影を見せます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはJR吾妻線羽根尾駅前広場に停めました |
草津(くさつ)/草津町草津 | |
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▲裏手にまわると昔ながらの情緒のある温泉街が続きます | |
●木造3階建てが数軒残る 日本を代表する屈指の温泉です。町内の源泉数は大小100カ所に及び,温泉の湧出量は毎分3万2千gにも達するとか。 江戸時代から多くの文人が訪れており,草津に関する作品を多く残しています。家康も草津から湯を江戸まで運ばせたとか。 中心地でもある湯畑の周囲は高層のホテル街ですが,裏手には昔ながらの木造3階建ての旅館が数軒残っています。独特の唐破風の玄関が客を迎えてくれます。さらに裏手には土産物店や飲食店街には格子のある建物が続きます。 |
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嘉感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは観光客用有料駐車場に停めました |