広島県

草津(くさつ)/広島市西区草津本町
草津 迷路のような町並み
 「草津まちなみ探訪マップ」の看板がありますが,それでもわかりづらい町でした。全体的に普通の住宅,という感じを受けました。ポツンポツンと残っています。2階屋で板塀囲いですが,舟板を使用。
▲ホルモンバーグ1680円・3個/通販
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 広島電鉄草津駅から徒歩10分
 可部(かべ)/広島市安佐北区可部
  街道沿いに往時の面影
 雲石往還、庄原往還、石見路んどが交差する陸路の要衝。さらに幾つかの河川を利用して太田川から一気に瀬戸内海に。つまり中国山地から運ばれた産物の積出港で、なおかつ多くの市が立つなど発展。いま街道沿いに蔵造りなど町家がギッシリ並び、往時の面影が残ります。 
 
▲可笑屋/街づくりデザイン賞受賞
 感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました
神辺(かんなべ)/福山市神辺町川北
神辺 3つの街道が交差する
 神辺は山陽道,石州銀山道,笠岡道が交差する,交通の要でもありました。そのため参勤交代で,西国の大名たちが利用することが多くなりました。資料では30カ国にのぼります。
 本陣は2カ所ありましたが,現在は1カ所(西本陣)のみ往時のまま残っています。当時の建物は,本陣と商家が数軒のみ。
 もともと備後10万石の領主が福山城を築いたことから,政治,文化,経済は神辺から福山に移ってしまったので,一宿場町となったのです。
 ところで町名の由来は「神を祀った近く」、すなわち「神の辺(あたり)」だそうです。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは本陣の駐車場に停めました
 松永(まつなが)/福山市松永町
  わずかに残る蔵造り
 江戸時代は福山藩。藩の奨励策で塩田開発が盛んに行われました。製塩のために多くの入植者があり、そのため米の買い占めが許された地域でもあります。大量の米飯が必要だからです。いまはわずかに蔵造りや板壁の町家が見られる程度です。 
 
▲羽原川沿いの町並み 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは妙藏寺の駐車場に停めました
今津(いまづ)/福山市今津町長波 
  旧庄屋の面影を見る
 中世は神辺と尾道を結ぶ街道の中継点でした。江戸期は宿場町へと発展。しかし村上家住宅のあるところは、旧宿場町から離れた完全な農村地帯。米のほか大麦、大豆、馬の飼料、縄などを生産。大型家屋が残る農家が多く、旧庄屋の面影。 
 
▲村上家住宅/国の登録文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
横倉(よこくら)/福山市沼隈町中山南横倉
横倉 茅葺き屋根はゼロでした
 沼隈半島のど真ん中にあって,山道のなかをクルマでクネクネと走りました。目的は茅葺き屋根のある農家です。一説には30棟近くあるといわれていましたが,走っても走っても見あたりません。横倉地区,中横倉地区にもありませんでした。
 中横倉地区には,江戸時代に建てられた土蔵や遺構が残されています。横倉は昔から平家谷と呼ばれており、数多くの平家伝説を残しています。それらは郷土芸能、神社などを通して、住民たちは後世に伝えようとしています。土塀や、土蔵などが通りに面してわずかに残されていました。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
横尾(よこお)/福山市横尾町 
  重厚な蔵造りの商家群
 旧山陽道の一部が通り、今も昔も交通の要衝。江戸時代は福山藩領で、街道筋には名産・福山飴の名で知られた飴屋など各種の商店が軒を連ねました。今はクルマが通過するだけの集落ですが、蔵造りの商家群。 
 
▲街道も朝夕のラッシュ時は混む 
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは岩明神社参拝者専用駐車場に停めました 
鞆(とも)/福山市鞆町
鞆 江戸時代の建物が残る
 こんな小さな町に約80軒以上の江戸時代の建物が残っているのは奇跡的です。かつては潮待ち港として栄えました。また港に面した豪商や回船問屋の土蔵,商家が江戸時代の面影をそのまま伝えています。
 ところが永年、埋め立て地問題で、バイパスを造り、橋を架ける案が出ています。開発か否かで揺れています。しかしこの貴重で美しい景観を守らなくてはいけないのは事実です。反対に住民に便利な生活をガマンしろ,というのも酷です。ところで地名の由来は、神功皇后が新羅侵攻の帰り、手に巻いた鞆を沼名前神社に納めたことからだそうです。
鞆 鞆
▲太田家住宅/国の重要文化財。造り酒屋の屋敷  ▲岡本家長屋門/福山市指定文化財。福山城長屋門 
感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 JR福山駅からバス30
 府中(ふちゅう)/府中市府中町
  蔵造りの商家が点在
 地名の由来は、国府が置かれていたこととか。「国庁」の名を残し、中世の遺物や寺院が残されています。江戸時代は西国街道沿いの集落。いま歩きますと、蔵造りの商家などがあちらこちらに点在しており、歴史を感じさせる町並みとなっています。 
 
▲恋しき主屋(国の登録文化財) 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは府中第一ホテル駐車場に停めました
 出口(でぐち)/府中市出口町
  石州街道沿いの商家群
 街道が中国山地からやっと平地に出たところ、ということから出口と名付けられとか。出口川に沿って、織物、煙草、染料などの製造所が集まり、さらに牛市がたち商家、問屋が集中。今は往時の面影を残します。 
 
▲金光邸/石州街道の代表住宅 
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★★★ 交通 クルマは石州駐車場に停めました
 目崎(めさき)/府中市目崎町
  蔵造りの町家が連なる
 江戸時代は福山藩領で旧目崎村。そして芦田川沿いの集落です。でも剣先橋(けんさきばし)のある所といったほうがわかりやすい。かつて剣先付近に河川港があり、特産物の交易の中心地で、そのルートは大坂まで伸びていました。しかし鉄道が開通すると、水運は一気に衰退。現在はクルマや電化製品に使うダイカストの世界トップメーカであるリョービ(株)の本社・工場のあるところ。
 歩いて見ますと、川沿いや街道の裏手などの旧道に、蔵造りの町家、土蔵が軒を並べています。虫籠窓や出格子があり、漆喰が映えています。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
上下(じょうげ)/府中市上下町上下
上下-2 映画のロケ地のよう
 これほどきれいに改装,整備されているとは思いませんでした。蔵造りやなまこ壁が目に付きます。実際にも江戸時代の町家も現存します。まるで映画のロケ地のようです。
 おもしろいのは,文化財クラスの建物をうまく活用していることです。県の文化財に指定されている旧財閥角倉家の土蔵がキリスト教会に使われています。旧警察署は岡田屋に,大正時代の芝居小屋が翁座に,旧岡田邸は歴史文化資料館などになっています。
石見銀山街道の宿場町
 世界遺産に登録されている石見銀山からの銀の集積中継基地として発展しました。代官所も置かれ,幕府直轄の地でもありました。そのせいか,この地方の政治経済の中心地でもあります。特に夢街道と名付けられた商店街は,当時さまざま店が軒を連ねていました。吉備高原に広がる町で、石見銀山街道の宿場町の一つでもあります。
 また山陰と山陽をつなぐ重要な要地で、江戸中期には天領となり、陣屋町として栄えました。
建造物の博物館
 建物は江戸,明治,大正,昭和と各時代のものが残っております。歴史的建造物の博物館のようです。
 ところで上下という奇妙な地名は、矢野荘の「城下」(じょうか)が転訛したというが定かではありません。
上下-1
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 東城(とうじょう)/庄原市東城町
 東城-1 京風の町家が印象的
 関ヶ原の戦い以降に作られた城下町です。かつては政治、戦略上の要地。いまは城はありませんが,町並みが残りました。成註沿いに発展しました。平入りの町家で,京風の格子窓が印象的です。山奥の町並みが京の影響を受けていました。
 
▲1階はタクシー会社でした
 感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 小奴可(おぬか)/庄原市東城町小奴可
  白い壁と赤瓦が印象的
 江戸時代は広島藩領で、砂鉄が採れました。そのため鉄穴流し(かんなながし)と呼ばれる、いわば砂鉄と流水の比重差で砂鉄を採るのです。ところが大量の土砂が下流域にながれ、田畑の壊滅につながる所もでたのです。しかし藩は財政をまかなうために続けました。小奴可は鉄穴流しの中心地で、土地が大きく変形し、数十カ所の跡地があるそうです。
 それはともかく、成羽川沿いの旧東城街道を歩いていますと切妻型の妻入りで赤瓦に白漆喰の家並みが続きます。「要害桜」シーズン後のためか、町は静かでのんびりと歩けました。  
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは仮設駐車場に停めました 
 三日市(みっかいち)/庄原市三日市町
  商家の家並みがギッシリ
 村の中央を備中新見路が通り、交通至便。そのため市が立ち、周辺の産物が売られていましたが、隣の庄原村の市と商圏を争い紛争が絶えなかったとか。家並みは長く、市場町として発展。いまも往時の面影が見られます。 
 
▲木造3階建ての古民家も残る 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました
森脇(もりわき)/庄原市比和町森脇 
  赤瓦の古民家が散在
 森脇村も砂鉄が採れ、鉄穴は43カ所もあったそうです。鉄山業は『芸藩通志』によれば農閑の稼ぎとしたとか。しかし鉱山業が盛んになるにつれ、富豪が誕生。名越家はその代表例。いま赤瓦板張の古民家はあちこちに散在。
 
▲荒木家住宅/国の重要文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 新市(しんいち)/庄原市高野町新市
  往時の面影が見られる町家
 新たに成立した市なので新市と呼ばれたなど、地名の由来は諸説あります。初見は戦国時代の書状とか。ところで山陰と山陽を結ぶ出雲路のなかでも、備後国最北端の宿場町です。また後鳥羽上皇が隠岐島への島流し途中、当地の功徳寺に滞在したという伝説もあります。いずれにせよ歴史のある集落といえます。
 他の集落同様、江戸時代は鉄鉱業が盛んで、人口の割に牛馬の普及が目立ちました。いま歩いて見ますと明治、大正、昭和期の町家が並びます。いずれも改築、改装されていますが、往時の面影が見て取れます。 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました
 中門田(なかもんでん)/庄原市高野町中門田
  茅葺き屋根の重要文化財
 『芸藩通志』によれば江戸時代は人口218人で24戸。村高は200石余と小村でした。しかし牛馬の飼育数が多いのは、砂鉄を採取し運搬するためでしょう。いまは静かな農村で、茅葺きの古民家がまだまだ見られます。 
 
▲堀江家住宅/国の重要文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 比和(ひわ)/庄原市比和町比和
  出雲街道の宿場町
 比和川沿いを通る出雲街道の宿場町。砂鉄、木炭などの輸送のために牛馬の飼育が盛ん。そのため江戸期から牛馬市が立ちました。街道沿いにアルミサッシなどに改築されていますが、長く古民家が続きます。また比和川沿いにも蔵造りが見られます。 
 
▲比和川沿いにも古民家 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは市営駐車場に停めました
西城(さいじょう)/庄原市西城町西城 
  平入り切妻型の町家
 古くは西条といいましたが、江戸時代から西城となりました。また鉄の産地であるところから「くろがねどころ西城」といわれました。西城川流域には砂鉄の採掘場・鉄穴流し(かんなながし)が30口もあったようです。そのため鉄産業に従事する人も多く、食料、雑貨等の搬入も盛んで、西城村は急速に発展。
 しかしながら鉄道が開通し備後西城駅が今の大佐(おおさ)にできると、役場も移転します。旧市街地となった西城は衰退していきます。逆に往時の建物が残ったのです。切妻型平入りの町家がギッシリと並びます。 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました 
上市(かみいち)/庄原市総領町稲草
  密集した古民家群
 寛永10年(1633)、幕府が派遣した巡見使を迎えるために、藩は稲草村に茶屋を設け、さらにこれを契機に道路などのインフラ整備に力を入れたのです。結果、その後宿場町に発展しました。歩いて見ますと、商家や土蔵、妓楼などの面影が見られます。 
 
▲出雲街道の交通の要所となる 
感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは総領郵便局の駐車場に停めました 
下市(しもいち)/庄原市総領町稲草
  出雲街道の両側に古民家
 寛永年間の末に市が立ち、正徳年間には市の長さが3町50間と長く、上市、下市の二つの小町に分かれたと推定。江戸末期の戸数は95軒と上市の29軒よりも圧倒的に多かったようです。『芸藩通志』では、農業が基本ですが、利益の多い煙草の生産に力を入れる者が多かったと明記。また年中行事の多い、龍興寺も下市にあり、多くの人が集まる要素もあったようです。
 いま街道沿いを歩いて見ますと、虫籠窓や土蔵など切妻型の古民家がギッシリと軒を並べています。また白壁が日に映えて静かなたたずまいが見られます。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 宇津戸(うづと)/世羅町宇津戸
  石州街道沿いの集落
 江戸時代、鉄器を生産しており、鍋、釜、鍬、すき先などを近隣へ販売。しかしメインは寺院の梵鐘で、今高野山の梵鐘は有名。町はほんとうに静かです。
 観音寺から宇津戸川に架かる陰陽橋までに商家などの古民家が集中しています。  
 
▲旧宇津戸郵便局/近代建築です 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは観音寺の駐車場に停めました
甲山(こうざん)/世羅町甲山 
  圧倒的な数の商家群
 石見銀山(石州)街道沿いの宿場町で、今高野山の門前町でもあります。今高野山は空海の開基と伝えられており、12の寺院がありました。しかも多数の文化財を抱えており、多くの信者・観光客で賑わいます。
 古民家は街道沿いに集中しており、『芸藩通志』によれば生業の8割が商業、浮業を占め、残りが農業、湯葉の生産。浮業とは、遊興業とでもいいましょうか、一種の遊び場で“遊郭”や芝居小屋も含めます。歩いていますと、蔵造りの重厚な商家が多く、茶屋、旧妓楼も見かけます。虫籠窓や格子の美しい町並み
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは今高野山観光客専用駐車場に停めました
三次(みよし)/三次市三次町
  格子のある町家が連続
 早朝の6時半ごろです。人がいないと気持ちいいものです。旧街道には石畳が敷かれています。商家の境には、卯建(袖壁)が造られており、火災の延焼を防ぐためでした。また幾つもの小径が造られております。出格子や虫籠窓の似合う町並みです。 
 
▲歴史民俗資料館/国登録文化財 
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは三次市歴史民俗資料館の駐車場に停めました
 布野(ふの)/三次市布野町上布野
  運上銀が通過する宿場町
 江戸時代の布野宿は、尾道と山陰を結ぶ石見街道の広島藩最北端の宿駅。毎秋になると、大森銀山から尾道港へ運ばれる運上銀・銅を約400人、馬300匹の大輸送団が通過しました。いま街道沿いには、板壁や白漆喰の美しい古民家が軒を連ねています。 
 
▲歌人・中村憲吉の生家
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは中村憲吉記念文学館の駐車場に停めました
 吉舎(きさ)/三次市吉舎町吉舎
  吉舎本通り沿いに集中
 石見銀山から産出した銀はココを通り尾道から上方へ移送。当初は三次宿と甲山宿の中間の休憩所でしたが、次第に宿駅へと発展。古民家は街道(吉舎本通り)沿いに集中。商家や旧旅籠などギッシリと詰まっており、往時の面影が残ります。 
 
▲田中写真館/国の登録文化財 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは吉舎七日町商店街駐車場に停めました 
 敷地(しきじ)/三次市吉舎町敷地
  美しい真壁(しんかべ)
 江戸時代から農業一途の集落です。馬洗川から取水、村内55カ所の溜池を利用。それでも水不足時には、雨乞い祈祷が行われたとか。古民家は点在しており、奥家住宅の付近には切妻で幾何学的な美しい意匠の真壁型の農家が多く見られます。 
 
▲奥家住宅/国の重要文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 三良坂(みらさか)/三次市三良坂町三良坂
  格子のある町家や土蔵
 石見路の交通の発達に伴い、中心地は馬洗川北岸の街道筋に移りました。文政3年(1806)には町家が147軒、醸造家4軒と発展。そのため三次宿と吉舎宿の間宿として栄えました。静かな街道を歩きますと、蔵造りの商家や格子のある町家などが点在。 
 
▲蔵造りの町家も多い 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは柳町第一お買物駐車場に停めました
 本地(ほんじ)/北広島町本地
  赤瓦が美しい旧宿場町
 石見浜田路(石州街道)の宿場町です。『芸藩通志』によると戸数313、人口は1640で村高が1563石余というから、かなり大きい村。しかも医師もいたというから、藩にとっても重要性の高い集落。いまは赤瓦の屋根が美しく、2階家の古民家が続きます。
 
▲武田家住宅/築100年以上とか 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました
 蔵迫(くらざこ)/北広島町蔵迫
  石州街道沿いの一集落
 古くは倉坂、倉迫とも書きました。南北朝時代から見られる歴史のある集落です。関ヶ原の戦い後、福島正則が入部し、最初に行ったのが慶長検地。しかし蔵迫は、増減にほとんど変化はありませんでした。その後浅野氏が入部し、広島藩の支配下となります。また浜田藩(島根県)の参勤交代時に、必ず通るのが石州街道で、蔵迫は街道沿いの一集落です。隣接する本地宿の助郷の役割を担っていました。  いま歩いて見ますと、美しい赤瓦屋根が続きます。造り酒屋があるなど、幾つかの出し桁造りの商家が見られます。土蔵もあり、変化に富んだ家並みです。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました
 大朝(おおあさ)/北広島町大朝
  二つの街道が交差する
 古くは大麻と書かれたとあります。つまり麻の産地説も地名の由来の一つ。江戸時代は浅野氏が入部し、広島藩領となります。『芸藩通志』によれば、村高は4296石とかなり豊か。人口も5705人で戸数は1342とあり、かなり規模の大きい集落といえます。その原因の一つに、浜田と結び、さらに大森銀山とも結ぶ街道が通るため、人馬の動きが激しいかったといえます。この二つの街道は、その後脇往還として整備されました。「鉄産業」、「農村市」なども発展の要因。
 庇の深い出し桁、千鳥破風の玄関など、見ていて楽しい古民家が軒を連ねています。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはJA大朝支店の駐車場に停めました
 加計(かけ)/安芸太田町加計
  「町をまるごと博物館」に
 土蔵もあり、商家の家並みもあります。古寺や庭園の吉水園には茅葺きの東屋もあります。町には街道の要所として古くから栄えており、古民家も多く残されています。そこで「町をまるごと博物館」にしたのです。 
 
▲日新林業/国の登録文化財 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました
 中筒賀(なかつつが)/安芸太田町中筒賀
  街道裏に古民家
 寛永15年(1638)に旧筒賀村が3村に分割したうちの1村。田畑の石高はわずかだが、収入のほとんどは山林からでした。炭や御用木材、板などを広島城下へ積み出しました。いま、街道裏に古民家が見られます。特に旧筒賀村役場庁舎は必見です。
 
▲旧筒賀村役場/国の登録文化財
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは町役場支所の駐車場に停めました
 戸河内(とごうち)/安芸太田町戸河内
  旧街道沿いに古民家群
 村の主な産業には林業や農業がありますが、たたら製鉄による鉄産業がありました。砂鉄購入先の石見国が近いこと、また炭が大量に産出でき、太田川の水運が近いことが上げられます。ゆるやかな坂のある街道の両側に古民家が充実しています。 
 
▲来夢そば(600円来夢・道の駅とごうち) 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは安芸太田町役場の駐車場に停めました
 三津(みつ)/東広島市安芸津町三津
  京の影響も受けた町家
 神功皇后の朝鮮出兵説のなかで軍船が寄った津(港)であるところから、御津(みつ)と称した説もあります。さらに安芸の国に御津をプラスして安芸津と命名したとか。江戸時代は広島藩領で、村高は963石と明記。
 しかし、地勢的に重要なのは内陸部の出入り口の役割を持っていたことです。米の集散地で、特産の白魚も移出していました。また瀬戸内沿岸の村である三津は、上方との交易船の寄港地(安芸津港)でした。
 いま歩いていますと、酒造会社を中心に古い町並みが形成されています。商家も多く、京風の町家み見られます。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマはもみじ銀行駐車場に停めました
西条(さいじょう)/東広島市西条本町
西条 酒蔵が名物です
 2度目の訪問です。再開発の波で残ったのが、駅近くの醸造メーカーだけになったそうです。「加茂鶴」「福美人」「加茂泉」など8銘柄が西国街道沿いに集中しています。良質の米と水、優秀な杜氏に恵まれており、灘、伏見と並ぶ「日本三大酒造地」として知られていました。
 ところで裏道を歩くと、白壁の建物が続きます。酒蔵はかなり大きく、特長のある赤瓦が目に付きます。でも、それだけで、それほど特長のある町とはいえません。
 古代には、安芸国の国分寺が置かれていました。近世は西国街道の宿場町でもあります。 
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR西条駅から徒歩5分〜10分
白市(しらいち)/東広島市高屋町白市
白市-1 重厚な町屋が並ぶ
 JR白市駅から行きはタクシー(720円)で,帰りを歩きました。白市は古刹・養国寺の門前町として開かれました。町屋は赤瓦葺きで緩やかな坂道の両側に続いています。戦国時代,平賀氏の城下町でもありました。のんびり歩きたい町並みです。
白市-2
▲重要文化財の旧木原家住宅
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR白市駅から徒歩25分
 幸崎能地(さいざきのうじ)/三原市幸崎能地
  「洋館のある港町」
 『日本書紀』にも見られ、瀬戸内海漁業発祥の地とも言われています。家船(えぶね)といわれ家財道具一式、家族を乗せて漂白漁民として、漁をしました。国道185号線の旧道沿いにギッシリと古民家が詰まっています。 
 
▲南山資料館/国の登録文化財 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました 
 糸崎(いとさき)/三原市糸崎
  妓楼群が見られます
 松浜港があり松浜地区にあったことから松浜遊郭と呼ぶ人もいます。唐破風のある棟割長屋風の妓楼が有名ですが、一歩路地を入りますと、妓楼らしき建物群が見られます。地名の由来は井戸崎が転訛したとか。 
 
▲港に面した長屋風の糸崎遊郭 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました 
和草(わそう)/三原市久井町和草 
  旧茅葺き農家が散見
 古くは、和佐宇(わそう)とも書いたようです。旧和草村は広島藩領で石高は555石と中規模。水田のほかに茶、柿、梨、縄などを生産。幾野家は地域の戸長を勤めていました。「和草」バス停付近を歩きました。静かな農村です。茅葺きをトタンに改装した農家が幾つか見られます。
 
▲幾野家住宅主屋/国登録文化財 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました 
尾道(おのみち)/尾道市東士堂町
尾道 急坂のある町です
 尾道は仕事を含めて何度もきています。坂の町というイメージが強いのですが、やはり今回も同じです。昔は坂の途中の廃屋もあったりして、廃れているという感じでした。考えてみれば、坂道のある家で暮らすとというのはたいへんな苦労を伴うものです。駐車場も確保できないし、日常の買い物などの不便さは一級でしょう。当時、こんな所に住みたくないなあ、と思いましたがそれは今回も変わりませんでした。
脱映画&文学!?
 最近の尾道は、戦艦大和の大型模型とかで何かと話題になっています。映画や文学だけでは、いつまでも人は呼べないのでしょうか。
手入れがいい
 さて、古い建物ですが、歩いていてもあまり見かけません。戦前の建物ですが、木造2階建ての町家で、板塀が特長です。あとは旧旅館が見かけました。狭い散策路を歩いていると、手入れの行き届いた民家がたくさんあります。年寄りには、この道はこたえるなあ、と思いながら歩きました。
軽自動車や車いすが…
 全行程を歩くと、ほんとうに疲れます。充実感がないので、よけい疲れました。帰りはバスにしました。昔はなかった尾道ラーメンを食べようと思いましたが、混んでいたのであきらめました。
 瀬戸内海の離島にも足を運びましたが,急坂にへばりつくような集落は,いずれも過疎になっています。軽自動車や車いすが玄関までこれないようでは,衰退の一途をたどるのでしょう。もちろん地元のNPO法人が熱心に空き家対策を行っています。それに期待するしかありません。
瀬戸内海の物資集散地
 平安時代(1163年)、備後国大田荘の船津倉屋敷が置かれており、瀬戸内海の物資の集散地でもありました。そのためたいへんな発展をとげたのです。さらに高野山の支配下に入り、浄土寺が建立されました。
「山の尾の道」
 地名の由来は、裾をはう道という意味から、「山の尾の道」とよんだことで、名付けられそうですが、諸説あります。
尾道
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR尾道駅から徒歩15分〜30分
向島(むかいしま)/尾道市向島町 
  日本一古い吉原家住宅
 古代は歌島と称したようですが、戦国時代に、尾道の向かいにあるので向島と呼ぶようになりました。柑橘系の畑の合間を歩くと入母屋造の農家が散見できます。吉原家(1635年築)は旧大庄屋ですが、現存する農家で日本一古いそうです。 
 
▲吉原家住宅/国の重要文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは吉原家住宅の駐車場に停めました
 重井西(しげいにし)/尾道市因島重井町
  切妻型の家屋が多い
 重井には、東港と西港があり、どちらかといえば東港のほうが発展しています。というのも東港付近には工業団地があるからです。そのことで古い家並みは西に片寄っています。歴史は西港が完成したのは、いずれも幕末期で天保9年(1838)、東港は安政4年(1857)に完成。西港のほうが少し古い。
 室町時代後期、村上氏の勢力が拡大し、重井荘中央部に青木城を築城。江戸時代は広島藩領で、『芸藩通志』によれば旧重井村は、人口2100余人。西港を中心に町が形成されています。多くが切妻型2階家で、窓は小さく板壁が多いのが特徴。 
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは西港市営駐車場に停めました 
 田熊(たくま)/尾道市因島田熊町
  明治橋付近に古民家
 因島の南西部にある小さな集落。江戸時代は広島藩領で、旧田熊村の人口は『芸藩通志』によれば約1800人。狭い土地に密集している感じです。小さな港の周囲に町家が集まり、集落を形成。物産の集散地で移出港でもありました。そのため商家も多く、かなり栄えた時期もあったようです。地名の由来は、土地(田)が湾曲(隈)していることによるそうです。
 明治橋付近から町中を歩きますと、港町らしい板壁や格子のある町家が、かたまっています。多少の改造はあるものの往時の面影を感じます。 
  感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 土生(はぶ)/尾道市因島土生町
  戦前、戦後の町並み
 歴史は古く、室町時代後期には、因島村上氏は海岸に突出した丘の上に長崎城を築造、その前面や側面に船継ぎ場を設けた水軍城としました。江戸時代は広島藩領で、農業に従事しますが、土地は狭い。そこで農民たち自力で小規模ながら埋め立てによる新田開発を行います。農間に漁業、塩田を行うとか。しかし土生が最も発展したのは明治末期からです。造船からその関連する産業の発達で、人口が急増。大正時代に日立造船が誕生。そして島内最大の市街地が形成。
 いま歩きますと、密集地帯に最盛期の面影が見られます。 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは市営長崎駐車場に停めました
椋浦(むくのうら)/尾道市因島椋浦町
  土壁やナメコ壁の蔵
 古代から天然の良港として利用され、回船業が盛んでした。江戸時代は広島藩領で、その石高はわずかに58石。『芸藩通志』によれば、大部分は海運業に従事し、農業は婦女子が担当したそうです。
 さらに造船業も興り、回船方頭取・石井家によって統括されました。また広島藩との関わりが深く、御城米の輸送に当っていました。また藩関係の物資の輸送は、瀬戸内海から日本海一円に及んでいます。
 いまは小さな集落ですが、曲がりくねった道沿いに、トタン葺きやナメコ壁のある土蔵など農村風景が広がります。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマはいきいきサロン椋浦の駐車場に停めました
 大浜(おおはま)/尾道市因島大浜町
  斜面に沿った古民家
 地名の由来は浜の規模が大きいから。『芸藩通志』によれば江戸時代は戸数158、人数795人で島の一集落としては大きい。幕末期は外国船に対する農兵隊が組織され、砲台も設置されたとか。斜面に沿って古民家がギッシリ詰まっています。 
 
▲たこ天うどん(600円・大浜PA) 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました
瀬戸田(せとだ)/尾道市瀬戸田町中野
瀬戸田 堂々たる町家が多い
 瀬戸内海に浮かぶ生口島の中野集落にある町並みです。いまは橋(瀬戸内しまなみ海道)でつながっており,尾道からも気軽に行けます。特に耕三寺参りで多くの参拝客で賑わう島でもあります。
 江戸時代末期から,製塩業,海運業などで栄え,民家も長屋門,土蔵,白壁など武家屋敷にみたいに堂々たる建物が多いです。朽ちた白壁もなかなか趣があります。
 ところで地名は、『芸藩通志』によれば、迫門(瀬戸)を埋め立てて田を造ったことに由来するというそうです。なお、鎌倉時代は生口水軍の本拠地。
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
東野(ひがしの)/竹原市東野町 
  旧商家が旧道沿いに続く
 江戸時代は広島藩領。『芸藩通志』によれば、高屋、志和、二庄にも東村があるため、区別する意味から竹原を付け竹原東野村といったそうです。賀茂川沿いの集落ですが、下流で埋め立て地による竹原塩田が発達し、広島藩に膨大な収益をもたらしました。
 すると人口が急増すると、周辺の村々から食料や薪などの燃料、縄、塩袋などの需要を呼び、大きく発展したのです。東野も商家や宿も増えました。
 いま、人気のない通りを歩いて見ますと、商家風の町屋がずらりと続き、かつての繁栄ぶりがうかがえます。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
竹原(たけはら)/竹原市竹原町
竹原-1 いつ行っても静かな佇まい
 竹原を訪れたのはこれで4回目です。いつもながら石畳があって,変わらない光景を見せてくれます。古い町並みというのは,いついかなることがあっても変わらないということでしょうか。ただ古民家を生かしたカフェが新登場しています。
 瀬戸内海に臨む町は,平安時代、京都の下鴨神社の荘園でありました。また北前船の影響で,ますます繁栄してました。
 ゆるやかななカーブを描くのが本町通りで,平入りや妻入りの町家などバラバラな造りで並んでいます。なお、NHK朝ドラ『マッサン』の舞台になったことで一躍有名になりました。
竹原-2 竹原-3
▲水路もそのまま残されています  ▲石畳がゆるやかにカーブしています 
竹原-4 竹原-5 竹原-6
▲本町通りの先を右に曲がると本川 竹鶴酒造(資料館もあり) ▲ラーメンと餃子(喜楽軒)
感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは有料駐車場に停めました
 忠海(ただのうみ)/竹原市忠海中町
  切妻型の町家群が残る
 中世の時代から港町として栄えましたが、それは江戸時代も同じです。三次藩領時代に、御屋敷・御船蔵を建て、奉行、町役人を定め、船入り堀を築造。三次藩廃絶後、広島藩領となりました。酒造屋、各種問屋、さらに遊女のいる茶屋など、たいへんな賑わいとなったのです。交易先は上方、九州一帯、尾張、越後、出羽まで広がりました。
 歩いていますとあちこちに古民家群が見られます。ひとつひとつはそれほど大きくはありません。切妻型平入りの商家が多いですが、妓楼を思わせる建物も見られます。
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは呉信用金庫の駐車場に停めました
鰯浜(いわしはま)/呉市音戸町鰯浜 
  旧遊郭の面影を見ました
  文字通りイワシが大量に取れ、余ったイワシは干して瀬戸町に搬出。その量は数万袋というからスゴイ。副業として袋の生産も盛んだった。さて、なにより有名にしたのは、遊郭の存在です。今では往時の建物が残されています。
 
▲旧呉銀行音戸支店/銀行も進出 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは音戸大橋有料駐車場に停めました 
隠渡(おんど)/呉市音戸町北隠渡
  迷路に板壁の町家が続く
 隠渡については音戸の古語という説もあります。一般的には、平家落人が海賊たちに見つからないように隠れて海を渡ったからが、地名の由来というが定かではありません。音戸に関しては、追門に立つ平清盛の石塔を御塔(おんどう)と称したことにちなむとか。
 中世の時代から交通の要衝で、瀬戸内の有数の商業港でもありました。戦前、軍港呉湾が航行中止なり、この地が航路の中心となり、大いに栄えました。町を歩きますと、漁師町の様相を示しています。板壁の町家が続き、しかも迷路。楽しい家並みです。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは音戸大橋有料駐車場に停めました
室尾(むろお)/呉市倉橋町室尾
  漁業や造船で発展
 「室」の語源は、山で囲まれた小さな入江を河谷の小盆地をさします。江戸時代から室尾漁港のある小さな漁師町です。また造船業や商業も発展していました。やはり「浮過」と称する定職を持たない人でも生きていけたのでしょう。 
 
▲板張や板壁の町家が多い 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました 
尾立(おたち)/呉市倉橋町尾立 
  漁港を囲む古民家群
  小さな漁港の周囲に古民家が軒を並べています。特に簡易郵便局周囲に集中しています。出桁造りのごく普通の町家ですが、ほとんど漆喰塗りと板壁、板塀など板張が中心です。やはり海風に強い素材を使っているのでしょうか。
 
▲商店も郵便局も迷路のなか 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 下島(しもじま)/呉市下蒲刈町下島
  下島川の両岸沿いに残る
 旧下蒲刈町の中心地は三之瀬ですが、面積的には下島が圧倒的に占めています。海岸は埋め立て地がほとんどですが、近くに天神鼻という半島がありその付け根に多賀谷水軍の城がありました。いわゆる海賊城です。戦国時代、芸予の島々で“活動”しましたが、その後小早川氏に敗れてから、その支配下になりました。下島は水軍の里ともいうべきでしょう。もちろん今は往時の面影はありません。
 古民家は町の中央を流れている下島川の両岸に沿って、わずかに残っています。板壁もありますが、大部分は出桁造りでの漆喰壁です。   
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました 
三之瀬(さんのせ)/呉市下蒲刈町三之瀬
  歴史的町並みを再現
 幕府の命を受けた福島正則の海駅の設置が発展に寄与しました。本陣や番所が置かれるなど、海上警護の拠点に。また朝鮮通信使宿泊の影響も大きく、莫大な投資をしたのです。いま、移築、復元などで歴史的町並みを再現。 
 
▲観瀾閣/国の登録文化財 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは下蒲刈支所の駐車場に停めました
大地蔵(おおじぞう)/呉市下蒲刈町大地蔵
  古くからの漁師町です
 江戸時代から沿岸漁業が盛んで、周囲は良好な漁場に囲まれていました。特にイワシ、タイはもとより、回遊してくるボラ漁が盛ん。大地蔵の東端の岬に「山見」小屋が立ち、ボラの群れを見つけていたほどです。しかしそれも昔の話です。古民家は海岸道路の内側。 
 
▲大地蔵松風園/海辺の和風庭園 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは漁港の空き地に停めました  
豊島(とよしま)/呉市豊浜町豊島
  路地に古民家が点在
 漁師町特有の板張の家屋、路地が縦横に通る集落です。大部分は現代住宅に改築されていますが、古民家も健在です。小規模な沿岸漁業が行われていますが、幾つものの橋の開通で本土と直結。観光客が増えつつあります。 
 
▲路地が入り組んでいます 
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは漁港の空き地に停めました
 大長(おおちょう)/呉市豊町大長
  迷宮に迷う楽しさ
 飛弾家住宅を探すために一歩集落に踏み入れると、そこは迷路でした。路地が縦横に走り、所々やや広い場所に出ます。板壁2階家が多く、江戸時代から何度も火災にもあっています。ミカンやモモなどの果物の生産も昔のこと。小規模な漁業と畑作が中心です。 
 
▲飛弾家住宅/国の登録文化財 
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは空き地に停めました
 御手洗(みたらい)/呉市豊町御手洗
   ●江戸末期の蔵造り
 2度目の訪問です。前回はフェリーできましたが、今回は橋が開通したしたためクルマで一気にやってきました。
 駐車場を出て一歩裏道に入ると,そこは別世界。江戸末期の蔵造りや昭和初期の芝居小屋,木造3階建ての遊郭などが残っています。御手洗は北前船の風待ち港でもありました。遊女を乗せた「おちょろ舟」が風待ちの船に向かいました。提灯の灯りが波間から見えたとか。離島のため交通の便の悪さが,観光化されずに素朴な町のたたずまいが残されました。同時に,住民の保存意識が高かったのでしょう。
 感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 海田(かいた)/海田町上市
  西国街道の宿場町
 実に交通量の多い道路です。海田市駅から歩くと,ぽつんぽつんと古い建物が見えてきます。かつて広島藩の本陣、脇本陣が置かれていたところから発展しました。宿場には穀物、茶、味噌、酒、醤油、小間物などを販売する商店が並び、かなりの繁栄を見せました。
 
▲千葉家住宅/国の重要文化財 
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは明賢寺の駐車場に停めました
宮島(みやじま)/廿日市市宮島町
宮島-1 船は気分転換
 旅の途中で船に乗るのはいいもです。周りの景色が変わることから気分転換になります。だからフェリーにはよく乗ります。この宮島へも船で渡ります。広島電鉄,JRの2社が別々に運行しています。どちらも運賃も所要時間も同じです。今回は2度目の訪問です。
一本裏の町屋通り
 昔から「神の島」とあがめられてきた宮島は世界文化遺産に登録されています。それだけに常に観光客でいっぱいです。
 宮島桟橋を出ると表参道ではなく,もう一本裏の町屋通り(写真上)を歩きます。こちらの方が人通りが少なく,古い建物をゆっくりと見ることができます。
 白壁やべんがら格子の商家が続きます。遠くに五重塔が見えます。なにやら京都という感じです。居酒屋,スナック,土産物店などが並んでいます。
趣のある滝小路
 町屋通りから歩くこと約5分,御手洗川を渡ると,そこは景色も一変します。滝小路(写真下)です。かつて内侍や神官が住んでいたところで,とても静かな住宅地です。武家屋敷のような建物もあります。とても落ち着いた風情です。
 ところで戦前は厳島町という町名でしたが、宮島の名前ががあまりにも有名なので、昭和25年(1950)改称しました。日本三景の一つです。
宮島-2
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 宮島桟橋から徒歩15分
地御前(じごぜん)/廿日市市地御前 
  踏切を挟んだ両側に古民家
 古民家はJR山陽本線の踏切を挟んで両側に広がっています。厳島神社とは海を挟んで相対し、陸地側にあるために地御前神社と呼ばれ、かつての門前町でした。独特の風習があり、年中行事も多いとか。 
 
▲地御前神社/厳島神社の外宮 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは地御前神社の境内に停めました
玖波(くば)/大竹市玖波
  出格子や虫籠窓の町家
 古くは薪、木材の積出港であったことから木場(こば)と称したとか、万葉集の「高庭駅」(こば)の転訛説など、由来はさまざま。
 新田開発に伴い農業や漁業が発展しました。しかし、紙商人、板材木商人、薪炭商人たちが活躍したのが玖波。すなわち商業の町でもありました。西国街道の宿駅で、本陣は眺望のいいところに設置。ここに文人墨客が集いだしました。しかし玖波の栄華はいつまでも続かず、周防新港(現・岩国港)ができると一気に衰退。いまJR玖波駅付近から順広寺付近まで、街道沿いの長い距離に出格子や虫籠窓などの町家が随所に見られます。 
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは順広寺第3駐車場に停めました 
 小方(おがた)/大竹市小方
  ごっそり残る古民家群
 家臣団を中心にした家中町。しかし慶長18年(1613)に幕命により亀井城は破却されました。その後は次第に町人町となり、山陽道の間宿として発展しました。旧街道沿いには、多くの土蔵や町家が残されています。 
 
▲和田家長屋門/文書が有名
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマはゆめタウンの大駐車場に停めました
木野(この)/大竹市木野
  驚きの古民家群
 これだけの古民家がいまだに残されているとは…。町並みは山陽道沿いだけではなく、路地から路地へと縦横に広がっています。住民の方によれば、バス停も遠くなり本当に不便になったとか。ただ、クルマ1台が通れる道幅が残っているので助かっているそうです。で、昔から住んでいる方ばかりだそうです。
 『芸藩通志』によれば広島藩領で、家老の上田氏が治めていました。古くから和紙の生産が盛んで「木野川紙」の名で知られていたそうです。 やはり田畑が狭く、洪水も多かったようです。明治に入るとハワイへを中心に海外移民が多かったのもうなずけます。
   
▲和紙を扱う家が圧倒的に多かったようです  ▲土蔵や出格子のある町家が詰まっています 
  感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★★ 交通 クルマは道端に停めました