福島県の古い町並み

福島県

 飯坂(いいざか)/福島市飯坂町湯沢
 飯坂温泉
 飯坂温泉 鯖湖湯 
 ▲木造3階建ての土蔵は珍しい  ▲町の中心地は温泉風情が漂う
 ●湯の香りする温泉街
 飯坂温泉はまさに日本を代表する温泉地です。その歴史は古く,奥州藤原氏の時代に開湯されており,元禄2年に松尾芭蕉も鯖湖湯に入湯したそうです。しかし湯治は湯治場としての役割で,一般観光客がどっと押しかけるのは大正末期の鉄道開通からです。
 湯の香りのする坂道を歩いていますと,温泉地に来たなあ,と感慨深くなります。やはり中心地にある共同浴場・鯖湖湯あたりは,木造3階建ての土蔵造りが立っており,温泉地の風情を感じます。坂道の多い町ですが、特に石段を「ちゃんこちゃんこ」と呼ぶそうです。 
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは福島信金飯坂支店の駐車場に停めました
 桑折(こおり)/桑折町北町
 桑折宿
 保存修理工事が終わったばかりの旧伊達郡役所  
 ▲旧伊達郡役所・国の重要文化財/和風も取り入れた擬洋風建築です
 ●古民家を修復し景観維持
 奥州街道の宿場町です。また羽州街道の分岐点でもあります。この平凡な宿場が,半田銀山発見後大きく変貌。運搬や採掘人夫の遊行の場となって賑わいました。いま街道沿いには修復した真新しい古民家が建ち並んで,景観を維持。地名は、郷村名にちなむとか。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはドラッグストアウエルシア駐車場に停めました
 貝田(かいだ)/国見町貝田
 貝田宿/奥州街道
 ●かろうじて残る宿場の面影
 江戸時代,奥州街道の宿場町。町中を流れる風呂沢川を挟んで長さ四丁(430m),道幅四間(7.3m)ありました。戸数は60軒前後で推移していますが,たびたびの大火で家並みのほとんどが焼失。今は過日の面影はあまり見られません。それでも,歩いていると,そこここに古民家が残されているのがうれしくなります。
 江戸時代初期には,検断屋敷,制札場が置かれていました。特に仙台藩に隣接していたため,貝田番所を置き,旅人や物資を取り締まったとか。地名は狭い土地に田を作ったに由来。「貝」は「狭」の意味を持つようです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 月舘(つきだて)/伊達市月舘町
 月舘
 ●下手渡藩の面影はない
 国道349号線と399号線との交わる付近にポツン,ポツンと古民家が残っています。なかでも黒塗りの蔵が目立ちます。それにしても交通量の多い道路だけに,歩くだけでもヒヤヒヤです。
 江戸時代,九州三池藩の立花種善(たねよし)が政争に敗れ,伊達・月舘に1万石の領主として移封されてきました。文化3年(1806)のころです。下手渡(しもてど)藩といいます。以来63年間続きました。
 現在は往時の面影は全くありませんが,陣屋の碑や耕雲寺に侍墓地が残っています。地名は、江戸時代領主の月見館があり、この辺りを築館という。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは川沿いの空き地に停めました
 川俣(かわまた)/川俣町本町
 川俣町
 ●古民家が随所に見られる
 東北地方に見られる切り妻タイプの町家が所々に見られます。歩いていて町の規模が大きく感じられるのは,江戸時代から人気のあった絹織物で栄えたからでしょうか。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは福島銀行川俣支店に停めました
 二本松(にほんまつ)/二本松市油井
 智恵子記念館
 ●高村智恵子の生家
 彫刻家でもあり詩人でもあった高村光太郎の夫人でもあった高村智恵子の生家(写真)のあるところです。智恵子は明治時代末期から大正にかけての女流画家で,病に侵されてから病院で千数百点もの紙絵を制作しております。
 生家は造り酒屋として明治の初期に建てられました。銘柄は『花霞』で,屋号は「米屋」。2階に智恵子の部屋が再現されています。さて古民家らしい建物は,この智恵子の生家のみで,歩くとガッカリします。地名は、中世の城主・奥州探題畠山氏の居城本丸に“霊松”が2株あったことによるとか。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは智恵子記念館駐車場に停めました
 都路(みやこじ)/田村市都路町古道
 都路
 ●大型のかぶと造りが圧巻
 古道(ふるみち)集落は,江戸時代初期まで未開地が多かったのですが,会津藩から三春藩に変わってから積極的に開墾が行なわれました。
 主な産業として馬の生産があります。山林原野が多く,放牧地として最適だったのですが長く続きません。一方の炭は幕府への献上品で,その後も生産が続けられました。
 三春藩主が参勤交代で都(江戸)に行く際に通過したことから都路といったとか。街道沿いにはかぶと造りの大型の町家が残っており圧巻。ちなみに都路街道は、三春から双葉町に至る道路で、国道288号線の一部です。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは田村市都路行政局に停めました
 七日町(なのかまち)/会津若松市七日町
 七日町
 七日町  七日町
 ▲出羽や越後への街道沿いなので旅籠屋が多いとか   ▲黒漆喰の土蔵のある商家は繁盛の印といわれているとか
 旧福島市役所  一口焼餃子
 ▲昭和12年築の会津若松市役所  ▲一口焼き餃子(472円/喜ど哀楽)
 ●レトロな町並みに復元
 会津若松には何度か来ましたが、七日町ははじめてです。武家屋敷はほとんどなく、町人の町だったようです。江戸時代末期の土蔵などがいくつか残っています。同時に、町ぢゅうあげての景観保護に努めてきた努力がすばらしい。
 この七日町は、特にJR七日町駅から国道252号線を通って、野口英世通りまでの約1qの商店街・七日町通りを活性化させた結果です。レトロな周遊バスが走ったり、市が立ったりと「まちなみ協議会」はがんばっているのです。町名は月々7日に市を開いていたことによるそうです。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR只見線七日町駅下車すぐ
 会津高田(あいづたかだ)/会津美里町旭杉原
 酒蔵群
 ●造り酒屋の土蔵が見どころ
 もともとこの地域には寺が多く,しかも会津若松や喜多方同様に文化財が集中しているのが特徴です。旭杉原から近くの富岡にある福生寺の観音堂は国の重要文化財に指定。
 また宮川沿いの小さな集落ですが,宮川扇状地の伏流水を使った酒造りは昔から盛んで,この町にも何軒かの醸造メーカーがあります。距離はさほどではありませんが,なまこ壁の酒蔵がギッシリ詰まっており,密度の高い町並を見ることができます。ところで会津高田は、旧町名で市町村合併と同時に消えてしまいました。今でも残念がる町民が多いとか。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 塔寺(とうでら)/会津坂下町塔寺
 気多宮(けたのみや)宿
 ●宿場町と門前町が連続
 国道49号線に沿った細長い集落です。もともと越後街道の気多宮宿でもありました。いまは真新しい碑が立っています。集落の西側には,越後路と柳津路の分岐点を表す追分という名の石の碑が立っています。
 この気多宮(けたみや)宿とつながるようにして塔寺(とうでら)の宿場が続きます。しかし塔寺や心清水八幡宮の門前町と発展したことのほうが大きく,かなり繁栄したものと思われます。交通量の多い街道だけに,のんびりと歩くというわけにはいかないのが残念です。地名は金や白銀をちりばめた塔があったことにちなむそうです。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは塔寺の駐車場に停めました
 喜多方(きたかた)/喜多方市中央通り
 喜多方
 喜多方  喜多方
 ▲アーケードのおかげで魅力も半滅  ▲大型で切妻型の町家が続きます
 ●東北一の蔵の町
 何度目かの訪問です。だいたいラーメンを食べるために寄ります。しかし今度ばかりはしっかり歩きました。パンフレットには蔵のマークが入っているのですが、実際に行くとアーケード(写真下右)になっていて、全体を見ることができません。そんな蔵がいっぱいあるのです。
 それでも東北一番の蔵の町です。防火だけではなく防寒も兼ねているから、重厚でとても立派でです。おもしろいのは、裏道です。意外にのんびりと、蔵の町並みを楽しめます。
 地名は、若松城の北方にあるからが一般的ですが、なぜ喜多方という漢字なのかが不明。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマはJR磐越西線喜多方駅横の有料駐車場に停めました。
 御清水(おしみず)/喜多方市御清水
 
   
▲ 手すりのある2階家 ▲入口の唐破風が象徴的です 
かすかに残る旧遊郭の姿
 御清水は喜多方でも最も賑やかな夜の街です。だいたい市役所の西側、北側付近といってもいいでしょうか。同時に花街でもあったわけです。実際に歩いて見ますと、スナックでも円形窓や手すりの付いた2階家、明らかにかつては妓楼と思われし建物など、あちこちに残されています。どこの街でもそうですが、昼間のスナック街はゴチャゴチャしていて見るに耐えない光景です。貸し座敷や料亭など華やかな町並みであったことはわかります。そして花街に付きものの稲荷神社も朱色の鳥居を連ねているのです。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 JR磐越西線喜多方駅から徒歩20分
 
 小田付(おたづき)/喜多方市中町
 
   
▲小原酒造/享保時代から約300年続く老舗の酒造店  ▲菅井屋薬房/大正3年築・市内唯一道路の角に建つ店蔵です 
   
▲金忠豆丸/江戸末期の建築・味噌醤油の老舗。風情のある店蔵です  ▲遠藤宗平宅/江戸から明治初期の建築。座敷蔵、米蔵、商品蔵と多い 
大部分の土蔵は明治時代中期の建築です
 もともと天正10年(1582)、蘆名(あしな)氏の時代、重臣の佐瀬大和守種常が、中田付村の市場が不便だという理由で93か村から人夫を徴発。そして4つの集落を造り替え、町割を行い小田付村と改めました。江戸時代は会津藩領で小田付組に属していました。村高は1000石を越え、かなりの穫れ高を示しています。その後、蒲生時代には市場が六斎市が開設、代官所も設置。また米沢への街道筋であったところから、多くの人たちで賑わいました。いま見られる土蔵の町並みは明治中期に建てられたものです。この日は小雨のせいか、人通りは絶えていましたが、逆にのんびりと歩けました。 
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 磐越西線喜多方駅から徒歩25分
 宮津(みやつ)/喜多方市岩月町宮津
 大沢集落の白壁
   岩崎集落
 ▲岩崎集落の土壁の蔵/数は少ないですが見応えのある土蔵です
 ●街道を挟んで白壁と土壁の2つの集落
 米沢街道沿いの集落です。大沢集落は白壁の蔵群が目立ちます。しかも漆喰で塗り替えています。街道を挟んだ反対側の岩崎集落は土壁の蔵が目立ちますが,数はわずかです。なかなかおもしろい地域です。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大沢集会所の駐車場に停めました
 三津谷(みつや)/喜多方市岩月町宮津火付沢三津谷
 若菜家
 ●レンガ造りの近代建築
 明治23年に操業を開始した旧樋口窯業のレンガ造り用の登り窯は,超大型でした。これは会津地方の建物,鉄道用資材,鉱山の炉などの需要を一手に引き受けていたからです。
 現在は,採算性がとれなくなったために昭和45年に操業を停止しました。しかし,国内ではレンガ製造のできる大型の登り窯は,ココだけになっており,貴重な存在でもあるのです。最近では,近代化遺産の認定を受けると同時に,再生プロジェクトをスタートさせ,体験コースや職人養成コースなどがあるとか。いまではレンガ造りを生かしたおしゃれなレストランも営業中です。名物はラーメン!
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 杉山(すぎやま)/喜多方市岩月町入田付杉山
 杉山集落
 ●蔵座敷や貯蔵倉がズラリ
 喜多方の蔵は市街地だけにあるのではありません。北部の農山村にも昔から点在していました。この杉山も米沢街道から奥へ入った,戸数19の小さな集落です。1本の小道の両側にズラリと蔵が並ぶ光景は壮観です。特に白と黒の漆喰が調和した観音開きの窓は,市街地の蔵にはない杉山集落だけの特長です。
 蔵には,生活や生産のための貯蔵倉,冠婚葬祭時に来客を迎える蔵座敷があります。蔵座敷の内部は漆で塗り飾られ,当時の座敷としては最高でした。なお住所の入田付は「いりたづき」と読みます。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 上野尻(かみのじり)/西会津町上野尻
 
 ●土蔵や切妻型の真壁造
 戦国時代は伊達政宗の知行であった記録が残されています。江戸時代はもちろん会津藩領。野沢組に属します。当時は幾つかの村が集まって一つの組を形成していました。また越後街道の宿場町で、人を物資の往来も多かったようです。そのせいか、野沢組の米を収容する米蔵が設置されました。交通の便が良かったからでしょう。
 一方、天明の大飢饉では餓死者が多数でました。その後大火も多く、さらに洪水と苦難の歴史を背負っていました。
 古民家は、街道沿いに多く見られ、土蔵や真壁造りの大型の町家など見応えがあります。
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 大内宿(おおうちじゅく)/下郷町大内
 大内宿-1
 大内宿-2  大内宿-3
 ▲寄せ棟茅葺きで妻側が街道に面して揃う  ▲太いネギ1本で食べるネギそばが名物です
 ●整然とした茅葺き建物
 2度目の訪問でです。会津西街道の南山通り,標高660mの高地に位置します。江戸への荷物の輸送,日光参拝客で賑わったそうです。江戸から明治にかけて,40数棟あったといわれていましたが,街道の往来も無くなり,単なる一田舎の村になってから急速に衰えたそうです。しかし30数年前から,各種メディアに紹介されてから,徐々に観光客が増え,今は重要伝統的建造物群保存地区に選定。それにしても,これだけの茅葺き屋根の建物が残っているだけでも驚きです。それは何より、江戸末期から大火がなかったというのが原因でしょう。
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 駐車場 クルマは村の入口の大きな駐車場に停めました
 福良(ふくら)/郡山市湖南町福良
 福良荒町
 ●茅葺きの民家が数軒
 「福浦」とも書きました。江戸時代は会津藩の所領でした。そして白河街道の宿場町でもあります。宿場は古町,中町,荒町で構成され、ほかに新町、裏町があったとか。江戸後期になると,本陣1軒,脇本陣1,問屋2軒になっています。
 会津藩の江戸米は,猪苗代湖の舟運を利用して,この福良で一時納め,その後江戸へ運んだそうです。しかし湖岸の村々による保管米の誘致争いは激しいものがありました。誘致すれば、収入があるからです。ところで福良を歩いていますと,まだ茅葺きや冑造りの民家が数多く残っています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは湖南高校のそばに停めました
 湯本(ゆもと)/天栄村湯本
 湯本温泉
 ●茅葺き屋根のある温泉
 約1000年前に開湯したと伝えられています。また白河藩主・松平定信が湯治にきたとか。歴史のある温泉です。
 国道118号線沿いにある小さな温泉地ですが,歩いていると茅葺き屋根の民家が7〜8棟も見られます。これだけまとまって存在するのも珍しい。
 旅館も茅葺き屋根ですが,かなり手入れが行き届いているように見えました。歩いていますと意外に小さな小さな集落ですが,共同浴場の張り紙には,住民以外の人の利用はお断りと書かれており,ガッカリ。
 地名の由来は、温泉の湧き出るところにちなむそうです。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは湯本集会場に停めました
 田島(たじま)/南会津町田島
 会津田島駅前通り
 旧南会津郡役所  会津ラーメン
 ▲県の重文・旧南會津郡役所  ▲会津ラーメン(900円/三保食堂)
 ●鎌倉時代から続く祇園祭
 田島といえば国の重要無形文化財である祇園祭があげられます。鎌倉時代から続く,日本三大祇園の一つといわれます。子ども歌舞伎や祇園囃子,何十人もの白無垢姿の花嫁の行列は圧巻であります。
 江戸時代は下野街道の宿場町でした。六斎市や馬市が開かれたり,本陣,陣屋などがあったりと、とても賑わいました。また南会津地方の中心地で、交通の要衝。検断も設置。
 町を歩いていると昭和初期の建物が点在しています。しかし古い町並みとまではいきません。やはり祇園祭のころに訪ねるのがいいのかなと思いました。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは福島県田島合同庁舎に停めました
 前沢(まえざわ)/南会津町前沢
 曲屋
 ●珍しい曲屋集落が現存
 雪深い東方地方の一般の農家は直屋(すごや)で,家族と牛馬が共に生活することが多いですが,飼育数が増えるにつれ,直屋から突出する形で,多数の牛馬を収容。それが曲屋(まがりや)のはじまりいわれています。ここでは数軒の曲屋が現存しており,もちろん牛馬は飼っていませんが,かなり大型化しています。大型化は豪雪に耐えるための造りだからです。柱と貫の構成が美しいですね。
 文禄年間(1592〜95)に,横田城主・山内氏勝の家臣が移り住んできたのが最初。明治40年の大火で壊滅しますが,約1年かけて13戸を再建したとか。
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは観光客用の無料駐車場に停めました
 水引(みずひき)/南会津町水引
 水引集落
 ●茅葺き屋根の保全に力
 水引には7軒の茅葺き屋根の家屋がありますが,そのうち数軒は曲屋です。訪れた日も2人の職人による屋根の「差し替え」修復を実施中。『会津風土記』には,隣の今市(栃木県)までの枯木超えは「馬不通」と。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 三春(みはる)/三春町大町
 三春
 三春  三春
▲裏手に回りますと、そこも風情がある   ▲ところどころに蔵や商家が見られます 
 ●やはり桜だけの町
 20年ぶりの訪問です。以前は、三春の紙細工による面を買うために寄りました。最近の三春は、桜ですっかり有名になりました。特に「三春滝桜」は日本三大桜として知られています。写真家・竹内敏信氏によれば「観光客が多すぎて、じっくり撮れない」と嘆くくらいです。
 桜はともかく、古い町並みは、ちょっと残っている程度です。城下町なのに、武家屋敷などは残っていません。若干の土蔵、町家が数軒。思った以上に寂しい町でした。地名の由来は、春の花、梅・桃・桜が一緒に咲くからというが、確証はありません。「見張り」の転訛説も。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは役場付近の駐車場に停めました
 白河(しらかわ)/白河市本町
 旧奥州街道
 ●旧奥州街道沿いの町並み
 旧奥州街道沿いになまこ壁の蔵が点在。また玄仙小路のように路地にも千本格子の町家が見られます。戊辰戦争で白河小峰城が焼けましたが平成に復元されました。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは東邦銀行白河支店に停めました
 矢吹(やぶき)/矢吹町本町
 矢吹宿
 ●明治以降の建物が中心
 奥州街道の宿場町です。参勤交代制度が確立すると,街道の両側には,本陣,脇本陣,旅籠,休処などが軒を並べ,一気に賑やかになったのです。
 かつて松尾芭蕉も奥の細道の途中,矢吹に滞在したことがあります。十辺舎一九の『方言修行金草蛙』では,名物にそばをあげています。
 嘉永7年では,81軒,人口406人でしたが,戊辰戦争で戦火を受けて町並みが消滅しました。いまある建物は明治以降のものです。地名の由来は、八幡太郎義家が戦いの帰途、神社を造営する際、矢の柄で屋根を葺いたにちなむとか。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは白河信用金庫矢吹支店に停めました
 小野(おの)/小野町小野新町
 荒町商店街
 ●内陸部の交通の要衝
 江戸時代,白河藩から幕府領,さらに常陸笠間藩へと変わっていきました。内陸部の交通の要衝で米市が立ちました。また年貢米の高騰から大規模な米騒動も起こったところです。小野小町で町おこしを狙いましたが,どうやら空振りのようです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは東邦銀行小野支店駐車場に停めました
 古殿(ふるどの)/古殿町竹貫
 御斎所街道
 ●海岸と内陸を結ぶ中継地
 江戸時代,竹貫氏の城下町で,御斎所街道の竹貫宿として栄え,浜通りと内陸部を結ぶ重要な中継地の役割を果たしていました。また幕府の竹貫代官所も置かれました。今は造り酒屋や味噌蔵があって往時を偲ばせます。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは大東銀行古殿支店に停めました
 浅川(あさかわ)/浅川町本町
 浅川
 ●南北朝時代からの歴史
 歴史のあり町です。南北朝時代の文献には,すでに浅川の名前が見られるとか。江戸時代は会津領,白河藩領,浅川領,越後高田藩領,幕府領と転々としました。寛政10年正月には村内全域で農民たちの一揆が起こり,多くの死傷者が出ましたが,現在の夏の花火大会は,その死者を弔う祭りという説があるそうです。
 石川街道沿いの町で,ポツンポツンと古民家が見られます。蔵造りや2階建て平入住宅が多く、ほとんどが商家です。地名の由来は、城主・浅川治郎左衛門にちなみ、館下の宿を現在地に移したことによる説。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは東邦銀行浅川支店に停めました
 棚倉(たなぐら)/棚倉町古町
 棚倉町
 ●城下町らしい風情
 江戸時代は棚倉藩城下町で常陸太田街道沿いの宿場町でもあります。当時,宿場は新町,古町に,さらに文化14年(1817)ごろは,下町,鉄砲町もできてかなり賑わいました。
 2,7の日には六斎市が開かれ,10月には馬市が開催。
 棚倉古町バス停周辺に,蔵造りや板塀の続く町家が残っています。また「城下町くらしの資料館」なるものがありましたが閉館していたのが,残念です。でも意外にも城下町らしい風情が感じられました。地名の由来は、東北地方で始めて稲作が導入されたころ、種を保管する倉が置かれていたからとか。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは白河信用金庫棚倉支店に停めました
 三和(みわ)/いわき市三和町上市萱
 三和
 ●地割りはそのまま
 江戸時代末期は上一萱とも書き,笠間藩の分領でした。浜通りと中通りを結ぶ重要な道路でもありましたが,特に米を運ぶための馬の中継ぎ所として栄えました。入母屋造が多くで茅葺きは見られませんでした。ちなみに地割りは、江戸時代のままだそうです。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道路に停めました
 小名浜(おなはま)/いわき市小名浜古湊
 小名浜
 ●一歩内側に静かな町並み
 江戸時代から船運の要衝で,東北と関東をつなぐ中継地でもありました。同時に漁業も盛んで,特にカツオ漁が盛況でした。また江戸時代末期から石炭の積み出し行われました。そして明治20年の鉄道敷設は町をいっそう発展させました。しかし鉄道に石炭輸送を奪われたことで、逆に漁業基地として命脈を保ち今日の発展となりました
 いま町は休日になると小名浜漁港付近の魚介類の安売り店に,観光客が殺到しています。しかし一歩内側に入ると,静かな町並みが続きます。旧廻船問屋の蔵や町家などがそこかしこに残っているのです。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは小名浜漁港の無料駐車場に停めました
 江名(えな)/いわき市江名
 江名
 ●茅葺きの民家
 蒲鉾やちくわなどの練り製品の生産が主流の町。海岸通りをまっすぐに行くと手入れの行き届いた茅葺きの民家が目に付きます。さらに通りの一歩内側には古民家が並ぶ。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは江名漁港の大駐車場に停めました