石川県
長町(ながまち)/金沢市長町 | |
▲L字型の通り。ロケ地で有名です | ▲金沢カレーパン(180円) |
●土塀の続く武家屋敷 おなじみの長町の武家屋敷街です。ここは仕事を含めて何度も訪ねました。まったく変わらないところです。むしろ周辺に飲食店ビルが林立している様子に驚きます。ここは金沢市唯一(?)の観光地といってもいいので、たくさんの人が歩いています。加賀藩の中級以上の武士が住んでいたところ。土塀が続き、立派な門のある武家屋敷がそのまま残っています。 その昔、ここで撮影会をしていたら、中の住人にしかられた経験があります。そうです、住人が居るのです。これだけの観光客が来ると、かなり迷惑な話でしょうね。同情します。 ●金沢は車移動が不向き 金沢を回るには,バスの一日フリー乗車券が便利です。バスのルート図やバス停などきちんと明記されたパンフレットももらえます。金沢市内は車で移動するのは,道が狭く規制も多くとても不自由な町です。 ●土塀を雪から守る薦がけ 冬になると雪から土塀を守るために,薦(こも)を掛けられます。金沢の冬の風物詩でもあります。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 1日フリー乗車券で香林坊・日銀前下車徒歩10分 |
小立野(こだつの)/金沢市石引 | |
▲明治32年築・金沢くらしの博物館 | ▲石川県立美術館広坂別館 |
▲瑞雲寺/美しい幾何学模様の壁 | ▲石川県立歴史博物館(重文) |
●坂道と共に立つ寺院群 金沢はかつて「尾山」・「御山」(おやま)などと呼ばれていました。金沢城の置かれていた台地の先端が山の尾のように突き出ていたからだとか。その台地の部分が小立野と呼ばれており,前田家ゆかりの神社・仏閣が集中し,起伏の富んだ地形とともに寺町を形成しています。 小立野は坂の多い町で,馬坂,嫁坂,大乗寺坂など数多くあり,一般住宅と寺院とが相まって美しい街並みを形成しています。また台地の兼六園の隣接部分に,数々の近代建築が残されているのも注目です。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 バス停小立野から徒歩5分 |
東茶屋街(ひがしちゃやまち) | |
▲まるで映画スタジオのようです | ▲一歩裏手に入れば静かな町並み |
●歩行者天国並みに込む まるで歩行者天国のようです。石畳の道の両側に、格子のはまった建物が並んでいます。とくに古い建物は180余年も経っているそうで、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区になっています。この日は日曜日だったので、公開している茶屋は、どこも満員でした。写真もなかなか撮りずらいものです。いまは茶屋街と言っていますが、昔は廓(くるわ)の町でした。 ただ、一歩裏道に入れば、やや歩行者の数は減ります。しかもそこかしこに和風のお店がかなりの数で集中。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 1日フリー乗車券500円で橋場町下車徒歩5分 |
主計町(かずえまち)/金沢市主計町 | |
▲木造2階建ての茶屋が連なります | ▲浅野川沿いの小さな茶屋町です |
●やはり夜、訪ねる町です 浅野川沿いに広がる金沢三大茶屋町のひとつ。正式には「主計町料理料亭街」。 昼間に訪ねたのですが、まったくおもしろくありません。ピシャッとドアが閉まり、だれも寄せ付けない感じでした。やはり夜になってから行くべき町だと、つくづく思いました。川沿いと、一本裏に入った道筋に20軒近くはあろうかと思います。お茶屋といっても、大半がスナックや旅館、小料理屋といったもの。なお文化庁から重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 ひがし茶屋街から歩きました |
卯辰山(うたつやま)/金沢市東山 |
●文化財が集中する寺院群 加賀藩3代当主・利常が城下の道路を防衛も含めて大幅に改造,整理しました。市内各地に散らばる寺院を幾つかの地域にまとめたわけですが,卯辰山山麓はそのうちの一つです。 寺院数も50余を数え,まがりくねった小道を歩くと,茶屋町あたりの喧噪とは逆の静寂さがうれしくなります。「心の道」と名付け,全長2.6kmの散策コースは藩政時代そのままの小道です。 ほとんどの寺院が金沢市の文化財に指定されています。全性寺山門は三間一戸楼門形式の類例を見ない貴重な遺構。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 バス停橋場町から徒歩15分 |
小橋(こばし)/金沢市小橋町 |
●「あめ」の暖簾のある町 「あめ」の暖簾で知られた俵屋本店のある町です。近くにある小橋は藩政時代は,犀川大橋,浅野川大橋と並んで金沢の三ツ橋と呼ばれ,防衛上重要な拠点でした。洪水で何度か流失し,最近では昭和27年に鉄筋に変わりました。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 周遊バス小橋バス停から徒歩5分 |
西茶屋街(にしちゃやまち)/金沢市野町 | |
▲片側だけが古い町並み | ▲西検番事務所(国の登録文化財) |
●こぢんまりした茶屋街です 加賀藩11代藩主・斉広が文政3年(1820)区域を決めて営業されましたが,天保2年(1831)に茶屋制度が廃止されました。しかし慶応3年には復活するのです。 茶屋町は上町と下町に分かれ,西茶屋街は下町にあたります。明治に入ると,上町は紳士の社交場として役割を果たしましたが,下町の西茶屋街は庶民の花街として発展していきます。街路のはずれに「金沢市西茶屋資料館」あります。 ●京や江戸とは違う格子 入口には大門があり,そばに番所が置かれていましたが,今はありません。建造物の特徴として金沢の格子は,細く間隔が狭いのが特徴。京都の島原や江戸の吉原とは異なります。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 1日フリー乗車券で十三間町下車徒歩8分 |
寺町(てらまち)/金沢市寺町 |
●約70もの寺町寺院群 加賀藩三代藩主・前田利常の命により,犀川周辺に散らばっていた寺院を集めました。主に南からの侵略に備えるためといわれています。またとっくり町と呼ばれるところがありますが,袋小路で入口が狭く,中ほどが広くなっているところで,戦略的に意図が感じられます。 前田家ゆかりの大寺院から宝暦の大火以降の本堂のない寺院まで約70近い社寺が林立しています。金沢城の出城の役割を果たした妙立寺は,その構造から別名「忍者寺」と呼ばれています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 周遊バスで十三間町下車徒歩10分 |
金石(かないわ)/金沢市金石西 |
●広大な地域に古民家群 金沢の北部,すなわち海岸沿いに砂丘が広がっていますが,その一部を切り裂くように開いた港が金石港です。江戸時代から金沢外港の役割を果たしており,町自体も大変な賑わいを見せていました。明治以降は魚介類,木材の輸入港となり,金石自には材業者の多さが目に付きます。しかしながら金沢港が完成してから,金石は急速に衰えていきました。 いま町なかを歩きますと,広大な古民家群が残されており,ほとんどが板壁,板塀,土蔵などの商家,町家などです。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマはゲームセンターの駐車場に停めました |
大野(おおの)/金沢市大野町 | |
▲町を歩きますと、プ〜ンと醤油の匂いがしてきました。懐かしい感じがします | ▲三輪家住宅・こまちなみ保存建造物/町家建築を伝えています |
●醤油生産で発展した町 江戸時代から醤油製造で発展した町です。金沢城下が発展するにつれ,醤油の需要が増し,大野醤油の生産は一時60軒まで増え,回船で能登,越中にまで販路を広げました。今でも往時の面影が残っています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 直江屋源兵衛蔵の駐車場に停めました |
高松(たかまつ)/かほく市高松 |
●京の影響を受けた町家 金沢から七尾までの七尾街道沿いの宿場町。加賀藩公認街道ですが,輸送量の増大により,幾つもの街道が公認され,総称して能登街道といいます。 高松は砂丘の移動との戦いの歴史でもありました。不作が続くことも多く,漁業のハマグリや瓦の生産に力を入れたりしました。特に能瓦と呼ばれ,“光り窯”を用いた光沢のある黒色瓦は名産です。 街道の中央に水路が流れ,その両側に桜が植えられています。京文化の影響の濃い,格子のある町家が続きます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは中町会館駐車場に停めました |
鹿島路(かしまじ)/羽咋市鹿島路町 |
●白壁と縦横の柱が美しい JR七尾線の沿って小高い丘陵側をクネクネとした七尾街道脇道沿いの集落です。江戸時代は加賀藩領。南側の潟(現・邑知潟・おうちがた)では漁が盛んでフナ,ボラなどをとり金沢に売り出していました。農作物は大豆,小豆,麦,菜種など。 クルマがやっと1台通れる幅の街道沿いに,この地方によく見られる古民家があります。黒瓦葺き切り妻で,妻壁部分が縦横の軸と漆喰の白壁が美しいデザインを見せてくれます。下見板張りで,周囲の景観とマッチしてるのです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
大町(おおまち)/羽咋市大町 |
●わずかに残る切り妻屋根 金沢と七尾を結ぶ七尾街道東往来(内浦街道)沿いの集落です。しかし戦国時代は,邑知潟を中心にした支流を利用して,七尾と羽咋湊を結ぶ河川交通がすでにあったとされています。また江戸時代は北前船が羽咋に寄港,物資の流通が盛んになり,大町まで陸上,水上を利用して物資の搬出入が行われました。また藩政時代,大町に3棟の加賀藩の米蔵が設置され,周辺の年貢米を収蔵ししました。いま町を歩きますと,わずかに切り妻屋根のある古民家が残されています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
飯山(いのやま)/羽咋市飯山町 |
●断続的に続く板壁の町家 江戸時代,内浦街道(七尾街道東往来)と越中往来の二つの街道の分岐点にあたる追分宿で,たいへん賑わいました。寛永6年(1629)には,すでに146軒の家屋があったとか。 元もと半農半漁の集落で,加賀藩3代藩主・利常の改作法による農政で大きく変化します。砂丘の植林,飯山川下流の整備,そして邑知潟干拓など矢継ぎ早に実施しました。そのためか,飯山村からの租税徴収高は,最高率を示しました。 いまは板壁,格子のある町家が街道筋に断続的に続きます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
作事(さくじ)/七尾市作事町 |
●市街地に広がる古民家 室町時代に町の基礎ができたとか。江戸時代は加賀藩領で,北前船の寄港地でした。そのため多くの商家が生まれました。作事以外にも古民家は七尾全体に見ることができます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはホテルルートイン七尾駅東に停めました |
田鶴浜(たつるはま)/七尾市田鶴浜町 |
●少し残る往時の雰囲気 はじめ海辺内通り・往還筋馬継所として発達,天正8年(1580)に長氏が居を構えてから人家も増え,町が一気に発展。江戸時代初期,まだ長氏の影響力が強く,加賀藩の威光も届きませんでしたが,長氏の内紛に乗じて加賀藩の勢力下に収まりました。同時に物流も大きくなり,珠洲までを内浦街道沿いの宿場町として発展しました。 旧街道沿いには,わずかに古民家が残っており,アルミサッシなどに改造されたとはいえ,突き出た庇,板壁等に往時の雰囲気が感ぜられます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは田鶴浜町行政福祉センターに停めました |
中島(なかじま)/七尾市中島町 |
●海上交通で発展した町 藩政以来中島港は海上交通の中心でした。木材,米穀,木炭などの搬出入で賑わったせいか,経済力豊かな地域でもあったのです。京都から高僧を招いて開基した定林寺など,社寺も多く,街道筋の町家も豪華な印象です |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは北國銀行中島支店の駐車場に停めました |
野々市(ののいち)/野々市町本町 |
●重要文化財の喜多家住宅 中世の時代は野市とも書きました。もともと北国街道の最初の宿駅として馬73頭を常備していました。また馬市も盛んに行われていましたが一時期衰退,江戸時代末期に復活したとか。 明治38年,金沢市から野々市を経て松任町まで,松金馬車鉄道が開通しました。その後相次いで鉄道が通り一気に発展するのです。 本町は,逆L字型に折れた北国街道の宿場町です。古い町並みが残るなかで,重文指定の喜多家住宅が光ります。加賀の典型的な形式を示した町家。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは喜多記念館駐車場に停めました |
鶴来(つるぎ)/白山市鶴来新町 |
●鶴来街道の宿場町 江戸時代は加賀藩で,農民一揆の続発した所でもあります。名産の一つに酒造がありますが,加賀菊酒と呼ばれ,加賀藩の御用酒となっていました。天明期には酒屋が6軒,酒造米高が3487石余だったと記録。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはマルエー駐車場に停めました |
美川(みかわ)/白山市美川今町 |
●石畳みの大正通り 中世の時代から交通の要衝で,北上する織田信長軍と南下を企てる上杉謙信勢との対峙もこの美川でした。江戸時代後期は北前船の寄港地で船持ちの船問屋や回船問屋,あらゆる商家が集中し,極めて裕福な商人が現れました。明治に入ると一時期石川県県庁も置かれていました。 ところで大正通りは,大正天皇即位を記念して名付けられました。全盛期は200軒もの商店が集中していましたが,いまは約30軒と激減しています。古民家は,大正通りを中心に点在。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはJR美川駅横の市営駐車場に停めました |
白峰(しらみね)/白山市白峰 | |
▲伝統的建造物が点在します | ▲白峰うどん(700円・てんぽうりん) |
●山奥に広がる古民家群 日本でも超豪雪地帯です。そのため常に孤立しがちな集落のせいか,独特の文化が守られてきました。江戸時代は越前,加賀藩の領有権争いが続きますが,どちらにも属さず白山18カ村は幕府領でもありました。しかし交通の便からは勝山との結びつきが大きく,越前の本保陣屋の支配下になったこともありました。争いの根底には白山信仰があり,いろいろな勢力が支配下にしようとしたのでしょう。 さてこんな山奥に突然広がる古民家群に目が点になります。 ●伝統的建造物群保存地区 江戸時代から昭和初期にかけて厚い土壁を持つ伝統家屋が見られます。これは2階,屋根裏に養蚕スペースを設けたからです。また豪雪の重みに絶えられるような屋根構造も特徴。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました |
今江(いまえ)/小松市今江町 | |
▲前川と平行した旧道には、板壁の民家や土蔵が点在しています | |
●前川を利用した船運が盛ん 戦国時代には今江城が築かれ,江戸時代は加賀藩領。北陸街道沿いの集落でした。寛政4年の人口は1244人,247軒で,農業,漁業が盛んでした。明治に入ると養蚕が,近年は織物業が発展,前川を利用した船運の利用が多かったそうです。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは前川沿いに停めました |
中町(なかまち)/小松市中町 |
●驚きの古民家群 もともと城下町・小松の中央に位置していることが町名の由来と言われています。はじめは京町と細工町の間にある南北の通り2本が町の区域でした。天明5年(1785)には152軒あったと記録されています。のちに東側の通りが材木町として分離,西側のみになったのは江戸時代後期といわれています。 それにしても歩いていてこれほどの古民家が残っているとは驚きました。細工町や南隣りの八日市町(八の付く日に定期市が開催)にも多数の商家,寺院が残されています。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは社会保険事務所に停めました |
安宅(あたか)/小松市安宅町 |
●北前船の寄港地で繁栄 梯(かけはし)川右岸に広がる港町です。加賀藩の時代は北前船も寄港し,米蔵や船問屋の倉庫が林立して,繁栄を極めたそうです。明治5年に安宅村に改称,人口1814人,392軒で交通の要衝でもあったのです。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは安宅住吉神社に停めました |
橋立(はしだて)/加賀市橋立 | |
▲北前船の里資料館の広場 | ▲旧酒谷長兵衛家住宅/文化財指定 |
●船主の屋敷がとても立派 日本海に面している古い町並みのほとんどが、北前船の寄港地ですが、この橋立も同じです。明治時代の船主の屋敷が残っており、実に静かな町です。2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。だから訪れる人もまだ少ないのかもしれません。いちばん上の写真は、周囲を板塀で囲み、切妻入りの屋敷でなかなか立派です。いはわゆる蔵六園とよばれ、国の登録文化財です。 ●「北前船の里資料館」 この日は日曜日でした。橋立のバス停を降りると、橋立地区の文化祭なのか祭りにぶつかりました。実ににぎやかなのですが、保存地区に入ると、全く静かなのがうれしいのです。とりあえず、ボツボツと歩くと、地図入りの看板があり、そこは「北前船の里資料館」でした。その前面が広場になっています。行政の力の入れようがよくわかります。石畳を敷き詰め、歩きやすいようにしています。 ●大聖寺の町並みとセット 大聖寺駅近くにも古い町並みがあります。橋立行きの路線バスの時間に余裕があれば、まず大聖寺を見て回り、なければ、先に橋立に行くといいでしょう。 |
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感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 JR大聖寺駅近くの南町バス停から乗車橋立下車すぐ |
大聖寺(だいしょうじ)/加賀市大聖寺山田町 |
●比較的、古い町家が残る 北国街道沿いに発達した町並みです。江戸時代は越前への交通の要地で,加賀藩の支藩・大聖寺藩10万石の城下町。今は加賀市の中心地で,歴史ある町ですが,それほど古民家があるわけではありません。ポツン、ポツンと建っていて、連続していません。この日は天気も悪く、なにか気分も晴れません。京町、本町などをブラブラしました。ただ2階家で深い庇が特徴で格子が美しい。このように確かに比較的、古い町家が残っています。なお地名の由来は白山五院の一寺に由来。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 JR北陸本線大聖寺駅下車徒歩10分 |
動橋(いぶりはし)/加賀市動橋町 |
●北國街道の宿場町 戦国時代から「いぶり橋」の名が歴史書に記録されています。また振橋,震橋,不忍橋とも書いたそうです。 天文26年,越前の朝倉軍が侵攻してきたとき,一揆は各城に籠城して戦うが1日で落城。後に総反撃に転じるが,動橋などで撃退されたのです。 江戸時代は大聖寺藩領で北國街道の宿場町でもありました。元禄14年の人口は282人とあります。いまは所々に古民家が残っている程度。江戸時代創業の造り酒屋が目に付きました。酒蔵資料館もあります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは北國銀行動橋支店に停めました |
瀬越(せごえ)/加賀市大聖寺瀬越町 |
●大聖寺川河口の大家家 江戸時代は大聖寺藩領。同藩は財政的に貧しく,常に加賀藩から養子を迎えて,細々と藩をつないでいました。 一方,江戸末期から明治にかけて北前船の寄港地で,たいへん繁栄しました。特に大家(写真/非公開),広海両家の船主たちは,地元に小学校を寄贈したり,道造り,水道造りなどに尽力しました。 大家家は船主でもあると同時に荷主でもありました。寄港地で良い商品を買い付け,必要とするところに売るという「買い積み式」(商社)をとったのです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
加賀東谷(かがひがしたに)/加賀市山中温泉荒谷町 | |
▲重要伝統的建造物群保存地区 | ▲珍しい土蔵が残っています |
●赤瓦,煙出し付きの屋根 東谷地区は荒谷町,今立町,大土町,杉水町の4つの集落から成り立っています。大日山を源とする動橋川と杉ノ水川の上流域に点在しています。藩政期から林業や製炭業が盛んで,「奥山方」と呼ばれ,一つの文化圏を形成していました。しかし昭和30年代に入って急速に衰退し過疎化が進み,人口も10分の1に激減したのです。全戸の半数が空き屋だとか。 建物は明治前期から昭和30年代に建てられた主家,土蔵が残り,赤瓦,煙出し付きの形式で統一されているのです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは各集落の道端に停めました |
馬場崎通り(ばばさきどおり)/輪島市河井町 | |
▲水塩はジめ(600円・海生) | ▲コーヒー(400円・さくらや) |
●新しい「古い町並み」 ひと昔前の輪島駅前通りを知っている人にとって,この変わり様に目をみはります。道路は狭く,夜は薄暗く,ぼんやりとしたスナックの明かりが目につくぐらいでした。 地場産業の輪島漆器と朝市だけでは町が冷え込むというわけで,駅前通りを改造。そこで街路整備とともに,輪島らしさを演出する「輪風」(わふう)を街づくりのテーマにしました。木造建築を主体にした切り妻屋根を持った家屋で,漁村に多く見られる建築です。第13回「いしかわ景観大賞」を受賞しました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 輪島バス停から徒歩5分 |
観音町(かんのんまち)/輪島市河井町 |
●往時の面影・旧赤線地帯 日本の漁師町には必ず花街がありました。輪島漁港・海士町から見て輪島川を越えた東方に「免許地」があります。いわゆる赤線地帯で,観音町であります。昭和34年の売春防止法が公布される以前の話しです。 1000年以上の歴史を持つ重蔵神社を抜けた所にある子ども広場を中心にスナック,料亭,居酒屋,焼き肉などの飲食店街に変わっています。しかし往時の面影は建物を見る限り,しっかりと残っています。笑い話に輪島塗の最盛期には,娼妓たちも「漆にかぶれた」とか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 輪島バス停から徒歩10分 |
朝市通り(あさいちどおり)/輪島市河井町本町通り |
●喧噪の中で輝く建物 1年中、込んでいるのが朝市通りです。1000年以上の歴史を持っているだけに,全国にその名を知られています。歴史的建造物は少なくなりましたが、板塀の2階建て町家、蔵造りの商家が少し残っています。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★★★ 交通 バス停輪島下車徒歩10分、100円バスあり |
海士町(あままち)/輪島市海士町 |
●漁師町特有の建物 午後1時ごろ、輪島川を渡って漁港に行きました。朝市で海産物を売っていた女たちが、リヤカーを引いて帰るところです。ここ海士町は漁師町です。男は漁に出て、女は卸しで魚を仕入れて,朝市や行商に出て売るのが日常となっています。 漁師町特有の間口の狭い妻入り2階家です。そして壁はほとんどが、昔ながらの板塀になっています。木は潮風に強いからでしょうか。港から一歩中に入ると、ぎっしりと家々が詰まっているのです。漁師町特有の匂いがします。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 バス停輪島から徒歩30分、100円バスもある |
上町通り(かみまちどおり)/輪島市鳳至町上町通り |
●格子戸のある町並み 喧噪の町・朝市通りから一転、静かな町並みへ入ってきます。夕市が開かれる住吉神社付近から始まる上町通りは、老舗が集まる静かな町です。格子戸の商家は黒板塀で、重厚感があります。格子は細く、密に詰まっていて、上品な感じがします。また大正末期から昭和の初めにかけて建てられた洋館もあちこちに残っています。 近年、馬場崎通りも格子戸のある町並に大改造されました。ココの上町通りは昔からの町並みをさらに改造しようとしています。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 バス停輪島から徒歩25分 100円バスもある |
曽々木(そそぎ)/輪島市町野町曽々木 | |
▲時国家(国の重要文化財)/分家にあたるため下時国家と読んでいます | ▲時国家(国の重要文化財)/本家なので上時国家。この日は修復中でした |
●一寒村に残る板壁の民家 有力な名主が時国家(ときくにけ)です。広大な屋敷群のほかに耕作地,塩田,海運業など多角経営者でした。 昭和30年の曽々木が舞台となった『忘却の花びら』が奥能登観光の幕開けとなりました。いま歩きますと,海岸付近にわずかに板張りの民家が残る程度。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは曽々木観光センターに停めました |
三井(みい)/輪島市三井町小泉 |
●茅葺き屋根が少々 江戸時代から続く農村集落です。茅葺き屋根が点在するという話を聞いて、「どこに?」というのが率直な感想です。たぶん、屋根替えした農家が多いのでしょう。茅葺きの整備はたいへんなコストがかかるだけに、難しい問題をはらんでいます。 元もと交通の要衝でもありますが,古代から“三井駅”があったとされています。鎌倉時代には「三井」と言う名が,典籍等に明記されているとか。 なお「三井の里」には150年前の農家を移築再生され,土産物店も併設されています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは三井の里駐車場に停めました |
上大沢(かみおおざわ)/輪島市上大沢町 |
●NHK朝ドラ『まれ』の舞台 日本海の強風から家を守るために、家屋の周囲に竹垣を囲んだりします。この大沢地区,上大沢地区は集落全体を、竹垣で囲んでいるのです。竹垣のことを間垣と呼んでいます。まず木で横に組み、さらに縦に並べます。そしてぎっしりと細かく、そのあいだに竹を編み込んでいます。これにより、潮風を含む強風から家屋を守っているのです。 ●大沢集落と上大沢集落 西保海岸沿いの県道をしばらく走ると大沢集落です。そして特徴のある間垣が見えます。酒屋さん、旅館の看板のみが見えてくるのです。建物はちょっと瓦だけを見せているだけです。もし、看板がなければ、間垣だけの集落にしか見えないでしょう。 大沢を過ぎて、しばらく走ると桶滝川沿いに少し上ったところに、上大沢集落があります。ここはさらに徹底しており、集落を完全に囲っています。3m、5mといった、人間よりはるかに背の高い竹垣が目に付くのです。橋を渡ったところの小さな看板に「間垣の里・上大沢」とあります。間垣の小さな入口をくぐると、ごく普通の家屋です。だから、写真を撮るなら外側だけからです。 |
感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは上大沢地区の大きな駐車場に停めました |
黒島(くろしま)/輪島市門前町黒島町 |
●意外な町並みに出会う こんな小さな町に、こんなすばらしい古い町並みがあると、うれしくなります。ホント、予想外の展開でした。ただ日本海に面した港町なので、ひょっとして北前船の寄港地なら、結構発展している可能性があるかも知れないと、半ば期待をしていましたが…。 坂を上っていけば、細い道が曲線を描くように続いています。たぶん、回船問屋なのでしょう、豪華な商家が見えます。下半分を板塀で囲み、上を漆喰で固めた白壁になっています。民家も数多く残されており、なかなか見応えのある町並みです。 ●狭い道の両側に民家 歩いている途中で、こぢんまりとした「北前船資料館」がありました。また石段を下っていくと国道249号線にぶつかります。そしてその向こうが日本海です。 石段の上から海が見渡せます。民家も石垣をしっかりと築いた上に建てているので,塀も高く、冬の日本海からの強風に備えての造りなのでしょう。 駐車場は、石川県指定文化財・角海家の土蔵、民家(写真上)の駐車場があります。あとは国道沿いです。重要伝統的建造物群保存地区です。 |
感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは角海家の駐車場に停めました |
皆月(みなづき)/輪島市門前町皆月 |
●穂のない真竹で風よけ 能登半島の海岸に多く見られるのが竹垣で風よけにしている光景です。皆月は穂のない真竹を用いているのが特徴です。だいたい5,6年で交換するそうです。国道から一歩内側に入ると,板張りの住宅が続きます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました |
門前(もんぜん)/輪島市門前町門前 |
●復興再生がいまなお続く 江戸時代,北前船の寄港で,大変な繁栄を見せましたが,その中心となったのは総持寺御用の森岡屋をはじめとする多くの豪商(回船問屋)たちでした。総持寺の影響力は大きく,明治に入ってまで続きました。ところが明治31年の大火で,大半が焼失。その後横浜の鶴見に移転し,ここは総持寺祖院となりました。曹洞宗は2本山制ですが,一方の永平寺は大変な賑わいです。 いま歩いてみます,かつての地震や水害のから,懸命に立ち直る姿が見えてきます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは市営駐車場(無料)に停めました |
高屋(たかや)/珠洲市高屋町 |
●少なくなる竹囲いの家屋 岩礁に囲まれた天然の良港で,藩政時代から漁船だけではなく,日本海航行の船が風待ちで利用していました。そんな船を相手にする商家も多くなり,かなり繁盛しました。加賀藩の破船奉行を設けたのもそのころ。 最近,漁場の開発,能登半島一周道路の改良で,高屋が注目されており,大規模な改修工事が行われています。 海岸の外側を歩きますと,風よけの竹垣が見られます。しかし無いところも多く,家屋が丈夫になったことと,竹垣の維持が大変なことからだそうです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは高屋漁港に停めました |
蛸島(たこじま)/珠洲市蛸島町 |
●ぎっしり並ぶ切り妻屋根 やはり地名の由来が気になります。タコが多く住み着いていたとか,人間を食べる大ダコが退治され,島になったという説もあります。さて鉄道ファンなら知っていることですが,昭和39年に能登線が全線開通し,蛸島駅が終着駅となりました。当時は活気のある町でした。 町を歩きますと,かなり大きな切り妻妻入りの町家がぎっしり並んでいます。江戸時代は醸造業が4軒もあり,干物,蛸島素麺,珠洲瓦,製塩などの問屋があったとか。豪商の面影が見て取れます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは東仲町町内会館に停めました |
正院(しょういん)/珠洲市正院町正院 |
●この地方独特の板張り とにかく歴史のある町なのです。まず古代,ココに正倉院があったと推定されています。また平安時代後期は,朝廷の所領でもあったそうです。 江戸時代,干しアワビ,干しイワシ,マグロ,油粕,灰,ほうきなどが,加賀,越中,七尾などへ積み出されました。さらに弘化2年(1845)には北海道松前から兵庫県但馬まで販路が広がっていたのです。 町並みは板張りの妻切りで,この地方独特の三角屋根がリズミカルるに続きます。ただその数はやや少なめです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはJAすずし正院支店に停めました |
松波(まつなみ)/能登町松波 |
●いろいろな形の古民家 昭和53年(1978),当時の内浦町長が城跡を破壊して宅地造成を計画,良識を持った反対派の前に計画を断念,町の最大の危機が避けられました。 松波城は国守畠山氏6代100余年の居城でありました。その後,天正5年(1577),上杉謙信の軍勢に攻められ陥落。 さて町並みは,迷路のようになっており,古民家も至るところに散在しているのです。切り妻屋根の家はもちろんですが,京風の細い格子の入った町家は料亭でしょうか,いろいろなタイプの古民家がおもしろい。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは能登町役場内浦庁舎に停めました |
小木(おぎ)/能登町小木 |
●切妻造りの三角屋根 江戸時代から主力の産業は漁業です。農業従事者も冬場の農閑期は,漁業で稼ぎをすることも多いそうです。そのため冬場は,近郊近在から多くの人が集まって賑やかになるが,そこからもれた者は金沢や関西方面に出稼ぎに行きます。すでに江戸時代後半から行われていたようです。明治に入ると沖合漁業もはじまり,大正になると北海道,千島方面に出稼ぎ漁民として出漁しました。 昔からの町家は長い板塀の続く立派な造りが多い。切り妻の三角屋根が印象的です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
柳田(やなぎだ)/能登町柳田 |
●改造,改築が進む町家 このあたりで最も大きな集落です。漆や炭,薪などの生産し移出しています。ほとんどの町家はアルミサッシが入って,機密性を高めています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは野田区コミュニティセンターに停めました |
鵜川(うかわ)/能登町鵜川 |
●見ごたえのある町並み 富山湾沿いの集落です。藩政時代から漁業が盛んで,沖合は好漁場でした。古文書にも商家,漁師が多く,繁盛していたと記され,かなり裕福な集落であったらしい。しかし江戸期の数回の大火で,多大な損害を被ったそうです。また宝暦年間には水害,風害が,日照りなどで百姓一揆が起こりました。 町を歩くと漁村特有の切り妻屋根が多く見られます。しかも1軒あたりの家屋も大きく,往時の繁栄ぶりが感じられます。また格子窓のある旧商家もあり,見ごたえのある町並みです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
宇出津(うしつ)/能登町宇出津 |
●板壁,板塀のある町家 藩政時代,奥能登の中心地でした。藩の地方行政機関,年貢米などを収蔵する蔵などを設置。漁業が盛んで,かなり繁盛したとか。通りには格子窓や板塀,板壁のある町家,漁港には土蔵が並んでいます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは能登町役場に停めました |
中居南(なかいみなみ)/穴水町中居南 | |
▲改築、改装でも往時の面影があり | ▲ガラス窓のデザインもオシャレ |
●往時の繁栄が偲ばれる 隣町の中居と同じく江戸時代初期は鋳物業が盛んでした。村田氏ら5家が鋳物師として伝えられています。町も大きく繁栄したそうで,わずかな人口にも関わらず,社寺は幾つもあります。しかし鋳物業も衰退していくにつれ,その技術は左官に伝えら,それは出稼ぎとして町の経済は支えられました。留守宅ではわずかな田畑を維持。また冬期はナマコ漁が盛んでした。 クルマ1台がやっと通れる道の両側に,石垣,土塀の蔵,板塀,板壁のある町家など,往時の繁栄ぶりが偲ばれます。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 クルマは大龍寺駐車場に停めました |
黒崎(くろさき)/穴吹町黒崎 |
●こぢんまりした町並み 黒崎集落を歩いていると,花壇や各種植栽の多さ,美しさに気がつきます。板壁の町家に花が似合うということを認識させられます。もともとこのあたりは甲(旧兜村)に属します。地元の人にたずねますと,専順寺背後にある台地からは能登島,さらに遠方には立山連峰を望むことができ,「景色の良さはこのあたりじゃ一番」といわれます。 ちょっぴり小さな集落ですが,照りの効いた黒瓦に大きな切り妻屋根,そして板壁……。アルミサッシが入ったりしていますが,ちょっとホッとする町並みです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました |
宇加川(うかがわ)/穴水町宇加川 |
●板壁と白壁の土蔵が続く 地名の由来が,川に鵜が住み着いたところからきたとか。ほかに鵜島とい島や珠洲市には鵜という地名もあります。 宇加川あたりまでくると,海はすでに富山湾になります。藩政時代,漁業が盛んなことはいうまでもありませんが,ほとんどが日持ちのする干物が中心です。またわずかながら塩田もあって,船出ししていました。 バス停付近には,板壁や板塀のある町家,漆喰の白壁の土蔵など海岸沿いの狭い道の両側に残されています。潮風の心地よさが感ぜられます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは宇加川集会場の駐車場に停めました |
高畠(たかばたけ)/中能登町鹿島高畠 |
●いろんな家屋がおもしろい 加賀から能登へ向かう内浦街道沿いの宿場町として開けました。約1qほどの距離の間に、ポツンポツンと民家が建っています。連続して建っていないために、どこでクルマを停めようか、と思いながら通り過ぎてしまうのでした。再度Uターンして再度眺めながら、ようやくクルマを停めたのが、写真のあたりです。 2階建ての低い町家があったと思ったら、やや大きな農家があったりと、いろいろで結構楽しいものです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました |
良川(よしかわ)/中能登町良川 |
●大きな三角屋根が続く 旧七尾街道西往来沿いの集落です。藩政時代,七尾の繁栄を維持するために,能登へ陸路は必ず七尾経由でいくこと定められました。そのため邑知潟の東往来が主力の街道となりましたが,実際は西往来が近道ということがわかり,取り締まりをかいくぐって良川を通りました。つまりこの地はあくまで細々とした間道ということです。しかし物流の増大と共に往来も盛んになってきたのも事実。 切り妻の大きな三角屋根が続くと,リズミカルで実に美しい街並みが見られます。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
西馬場(にしばば)/中能登町西馬場 |
●白壁と幾何学的な柱,格子 「にしばんば」ともいい「番場」と書くこともありました。町史によれば馬駆け場があったことから名付けられたそうです。旧七尾街道西往来沿いの集落です。 この西往来は,ときおり地元の軽トラックなどのクルマが通りますが,実に静かな町並みです。そしてほとんどが昔,多分明治時代の建物が残されているのです。 その明治時代,能登上布が盛んに作られました。しかし昭和初期には100軒あった業者も7軒に激減。いまは保存会を作って伝統を守っているそうです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
能登部下(のとべしも)/中能登町能登部下 |
●美しい真壁造りが続く 七尾街道西往来沿いは,意外にも多くの真壁造り古民家が残されています。切り妻屋根に白壁,柱をむき出しにした,デザインは1000年の歴史があるといわれています。また平入りで格子のある町家も美しく,見ていても飽きることがありません。 江戸時代,織物産業中心に発展した町です。特に能登上布は近江から職工,織女を招いて作った上質の布です。それを安部屋港(現・志賀町安部屋)から積み出し,特産品として流通しました。いま,織物の町を思い起こすようなものはありません。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |
久江(くえ)/中能登町久江 |
●旧街道沿いに古民家群 金沢から七尾へ向かう主力の街道で藩政時代は東往来といわれました。「くえ」とは古代から地滑りを意味するそうで,古墳群が発見されています。 もともと水量の豊富な久江川のおかげで,稲作が盛んで水田率が高いそうです。また石灰の製造も盛んで明治時代まで続き,さらに絹織物は大正時代まで,繁栄が続くのです。そうしたことから物流が盛んになり,町が繁栄していきました。 切り妻屋根に真壁造り,格子窓とこの地方独特の建築が並びます。黒瓦が美しい。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました |