岡山県

 足守(あしもり)/岡山市北区足守
 足守
進む町並み保存
 ここまできちんと,整備されているとは思いませんでした。町家,武家屋敷などどんどん改修されています。1990年に岡山市の「町並み保存地区」に指定されたからでしょう。行政と住民が一体となっているからです。
 平安時代は京都・神護寺の荘園でした。また豊臣秀吉の正室ねねの実兄・木下定家が関ヶ原の合戦以後,家康の命により,播磨から足守に移されました。ここから足守藩2万5000石の歴史が始まります。
 町は,武家屋敷群と町家群に分かれています。さらに街道沿いに商家が建ち並び、往時を偲ばせます。
感動度★★★★
もう一度いきたい度★★★
交通 クルマは無料駐車場に停めました
 金川(かながわ)/岡山市北区御津金川
 
旧津山往来沿いに古民家
 南北朝時代にすでに金川荘という荘園が見られました。宇喜多氏、小早川氏の支配後、慶長8年(1603)から岡山藩領。家老の日置忠俊が金川城(1万4000石)を築きました。以後、紆余曲折はあるものの、城下町として発展していきます。しかしながら元和元年の一国一城令後、取り壊しになります。そこで妙国寺塔頭10ヶ院のうち一つが移転、その跡地に陣屋を設けたのです。その後陣屋町として発展していきます。いま岡山城下から津山へ向かう旧津山往来沿いに古民家が見られます。また旭川にそそぐ宇甘川沿いにも、白壁の塀が続きます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは御津(みつ)郷土歴史資料館に停めました
中田(なかだ)/岡山市北区建部町中田 
 
   
▲JR建部駅/国の登録文化財  ▲駅前にも若干の古民家 
蔵造りの商家が連なる
 江戸時代、宇喜多氏、小早川氏のあと池田藩領。岡山城下と津山城下を結ぶ津山往来沿いにある集落です。建部池田氏は侍屋敷を設けたり、商人や職人を住まわせるなどして、町を形成。いまは蔵造りの商家が静かに連なり、光景は圧巻! 
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR津山線建部駅前の送迎用駐車場に停めました
 倉敷(くらしき)/倉敷市中央
 倉敷川
 倉敷  倉敷
▲倉敷川河畔に蔵が建つ 一歩裏手に入ると静かな町並み
 倉敷  倉敷
▲蔵屋敷のほとんどが土産物店 ▲虫籠窓や格子のある商家
倉敷川両岸に蔵が並ぶ
 ひと言で「騒がしい町」とうべきでしょうか、賑やかな街並みです。倉敷川の両岸に歴史的建造物が並んでいますが、土産物店やレストランになっています。白い土塀、ナマコ壁の似合う町。重要伝統的建造物群保存地区でもあります。
 10数年ぶりに訪ねました。変わっていません。一歩裏に入ると静かな街並みが続きます。江戸時代よりも明治になって倉敷紡績(クラボウ)ができてから、一気に発展した町です。住民と行政が街並み保存に力をつくした結果でしょう。地名の由来は、備中米の蔵屋敷が置かれていたからとか。
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★★
交通 JR山陽本線倉敷駅から徒歩20分
 下津井(しもつい)/倉敷市下津井
 下津井
北前船の寄港地
 北海道で獲れたニシン,コンブなどを北前船が運んで発展した港町です。また「風待ち,潮待ち」の良港でもありました。そのため瀬戸内航路の中継地、軍事上の拠点として、古代より要衝の地でした。
 海沿いに旧道が一本通っています。黒瓦葺きの平入商家や土蔵,格子のある町家などが目に付きます。特に旧回船問屋も多く,その繁栄ぶりは,『むかし下津井回船問屋』の展示資料でよくわかります。
 交通量も少ないので,のんびりと歩けるのがいいです。地名は、上の津(吹上)に対する下の津に由来します。
 感動度★★★ 
もう一度いきたい度★★★ 
交通 クルマは無料駐車場に停めました
 玉島(たましま)/倉敷市玉島町
 玉島-1
 玉島-2  玉島-4
▲新町通りに建つ土蔵や商家 ▲蔵を活用したイベントも盛んです
土蔵から町家,洋館
 江戸時代初期から干拓が進み、新田が開拓されました。また明治に入って、紡績工場ができ瀬戸内航路の重要港となったのです。その後戦災にもあわずに,これだけの町並みが残されたのは奇跡的です。玉島は,里見川を挟んで古い町並みは2カ所に見ることができます。まず新町通り商家,土蔵などが多く見られます。そして,里見川にかかる昭和橋を渡ると,仲買町です。
 白壁通りという名前を付けられています。なまこ壁の土蔵,商家,町家。さらに明治の洋館など,実に変化に富んだ町並みです。造り酒屋や味噌屋などが建っています。
 感動度★★★★ 
もう一度いきたい度★★★ 
交通 クルマは玉島歴史民俗海洋資料館の無料駐車場に停めました
 円城(えんじょう)/吉備中央町円城
 
   
▲円城寺から出てくる住民たち  ▲うどんセット(750円・かもがわ円城) 
かつて円城寺の門前町
 地元の中心寺院・円城寺と共に発展した門前町。江戸時代の寺領は20石で、金川日置氏の菩提寺。門前には酒屋、茶店、旅篭屋などが並び、近郊の商業の中心地となりました。いまの町並みは、往時の面影もなく、静かに町家が並ぶ。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
高梁(たかはし)/高梁市石火矢町
 備中高梁
 「日本の道100選」  微衷高橋
▲本町の町家は、水の流れと似合う ▲かなり大きな古民家が点在
町家と武家屋敷
 大きく分けて二つの町並みがあります。一つは石火矢町の武家屋敷通り(写真上)、もう一つは、本町の町家や中心とした商家(写真下右)です。本町の町家のほとんどが平入りで、2階の軒は出桁(だしげた)で、上品な造りになっています。特に醤油醸造の池上家は立派です。紺屋川沿い(写真下左)は「日本の道100選」に選定。
 武家屋敷は、伯備線の踏切を渡ってすぐのところにあります。
 ところで古くは高橋と書きましたが、14世紀初め松山に改めました。しかし伊予の松山と混同を避けるため、元に戻し梁を当てて高梁となったわけです。
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 JR伯備線備中高梁駅から徒歩20〜30分
 吹屋(ふきや)/高梁市成羽町吹屋
 
 吹屋-2  吹屋-3
▲切妻型の町家が並び土産物を販売 ▲壁もなんとなく赤みがかっています
   
郷土館(旧片山嘉吉邸)明治13年築  ▲旧片山家住宅/国の重要文化財 
赤褐色の石州瓦が特徴
 今回で2度目の訪問です。クルマで山奥の県道を延々と走りますが,途中で「道を間違ったか」と疑いを持つこと何度も何度もありました。しかし、20年ほど前に比べて駐車場も整備されバイパスもできて、大きくかわりました。外国人観光客も増えています。銅山と赤いベンガラで栄えた鉱山町。江戸時代は幕府直轄,明治時代は三菱の所有になりました。しかし1968年に休山になりました。
 ほとんどが切妻型の町家で,屋根には赤褐色の上薬を塗った石州瓦を葺いています。重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 感動度★★★★
もう一度いきたい度★★★★
交通 クルマは吹屋ふるさと村駐車場に停めました
 下谷(しもや)/高梁市成羽町吹屋字下谷
 
“赤い町”の印象度が高くなります
 吹屋集落からクルマで10分足らずのところ位置します。かつて銅山で栄え、多くの人たちが行き交った吹屋往来沿いの集落です。銅山の副産物・硫化鉄鉱からベンガラの生産を始めて、巨大な富を得たのです。集落に一歩踏み入れると、“赤い町”の印象が強くなります。観光客もクルマで通過するだけの町ですが、吹屋にはない趣があります。ベンガラ色の統一感をだし、格子窓、虫籠窓など土蔵造り家屋が軒を並べます。なお、精進料理で知られている延命寺へは、この集落から分かれて入っていきます。 
 感動度★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは空き地に停めました
 坂本(さかもと)/高梁市成羽町坂本
 
   
▲西江邸/国の登録文化財  ▲坂本民俗資料館(閉館中) 
坂本川沿いの参道に古民家が並ぶ
 成羽川支流・坂本川の上流の川沿いの集落です。川沿いを数分歩くと、地元の守り神・辰口八幡神社の鳥居に出ます。集落はいわば参道沿いに残っています。江戸時代は幕府領で、本山銅山があり、銅鉱とともに硫化鉄鉱が採掘されました。この硫化鉄鉱からベンガラを造る過程で、緑礬(りょくばん)の汚染水が田畑に流れ、いまでいう公害問題となったそうです。西江家が中心になってベンガラ生産に着手し、財をなしたのです。 
感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 西江邸駐車場に停めました 
 有漢(うかん)/高梁市有漢町有漢
 
造り酒屋の周辺に古民家が見られます
 戦国時代は圧倒的に毛利氏の力が強く、各城での戦いに毛利軍の手に落ちました。江戸時代は備中松山藩領となり、その後伊勢国亀山藩領となりました。ところが、元禄7年(1694)、水谷家が断絶すると、幕命により姫路藩主が検地(いわゆる元禄検地)を行うと、水谷氏時代に比べて2倍に増えていました。
 古民家は芳烈酒造を中心に旧道に広がっています。漆喰のはがれ落ちた土壁が趣があります。また土蔵の虫籠窓のデザインも見どころです。 ところで地名の由来は、古代、有漢川での鵜飼(うかい)が転訛したものと思われています。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは宝妙寺第一駐車場に停めました
 有漢市場(うかんいちば)/高梁市有漢町有漢
 
かつての中心集落で交易が盛んな土地
 高梁川支流の有漢川沿いを走る落合−高梁の街道沿いの集落です。かつて有漢町の中心集落で、農産物の交易の中心地でした。低地では米作、斜面地ではタバコ栽培が中心で基幹産業でした。またマスカット、野菜なども栽培していましたが、徐々に衰退していきます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 新庄(しんじょう)/新庄村新庄
 
   
▲松江藩の本陣/旧佐藤邸  ▲脇本陣/旧木代邸
出雲街道の宿場町は桜並木が美しい
 中世から出雲街道の宿場町でした。江戸時代に入って、参勤交代で松江藩主の松平氏の本陣として指定されて以来、宿場町として整備されました。人足15人、馬8匹が常備され、松平氏出府の時は周辺から人馬が調達されました。宿泊者も数百人というから、ものすごい数でもあります。たまたまこの日は桜のシーズンで「がいせん桜並木」として有名で、近郊近在から多くの観光客が殺到していました。
 建物(脇本陣)は江戸時代末期の建物で、2階は大壁造り、1階は真壁造り、腰はささらこ下見板張りという造りになります。入口脇には馬つなぎの環があり、トイレには刀掛けが残されています。  
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは道の駅メルヘンの里・新庄に停めました
 高下(こうげ)/新庄村高下
 
 ●大型のトタン葺きの入母屋造が並びます
 新庄村は大字(おおあざ)がないために住所表記「新庄村○○番地」となります。高下は小字(こあざ)になります。小字は井手原、中谷、大原などたくさんありますが、いずれも小さな集落です。高下集落は、高下川と野土路川の合流地点の低地にあり、県道58号線沿いにあります。かつては茅葺き屋根でしたが、いまはすべてトタン葺きに変わっています。白壁の蔵も見られますが、建物自体がかなり大きい。
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 新見(にいみ)/新見市新見
 
   
▲大池邸/明治末期の建築  ▲カルマツ醤油/昭和初期の建築 
かつて御殿町と呼ばれた城下町
 新見盆地とその周辺は、中世の荘園・新見荘のあった地域で、町は商業地として発展しました。特に、漆、紙、鉄、蝋などの集散地で、上方との取引も多かったようです。
 江戸時代は毛利氏の支配を経て幕府領、その後幾多の変遷ののちに、元禄10年(1697)に新見藩領となりました。一方、寛永19年(1642)、松山藩主となった水谷氏は、当地を北の経済拠点にするため、松山から今市まで高瀬舟復活させ、新見の町づくりを始めました。
 かつて御殿町と呼ばれた中心地は、城山公園の南東に位置し、長屋門や虫籠窓や格子のある商家や土蔵が連なっています。こんな山の中に城下町が残っているのはうれしいことです。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは御殿町センターの駐車場に停めました
 草間(くさま)/新見市草間
 
   
▲小さな峠を越えるともう一つの集落  ▲大きな入母屋造の家屋が点在
美しい農村風景が広がります
 毛利氏の支配を経て、幕府領、松山藩領などを変遷し、元禄10年(1697)から新見藩領となりました。村高は1600余石とかなり大きいですが、大部分はタバコ栽培によります。松山藩からの高瀬舟による水路も開削され、良好な水運が栽培に拍車をかけました。備中地方で最も古く元和年間(1615-24)が栽培の起源とされ、元禄年間に近郊近在に広まったそうです。しかし戦後は灌漑が進み、米や各種野菜などが栽培されるようになりました。
 晴れた日に歩いていますと、実にすがすがしい気分になってきます。美しい、清潔な農村です。土壁の蔵がけっこう目立ちます。トタン屋根の入母屋造や漆喰塗りの蔵や塀など、見飽きることがありません。昭和52年に草間自然休養村として開村されました。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは草間市民センターに停めました
 勝山(かつやま)/真庭市勝山町勝山
 勝山
 勝山  勝山
▲町全体がタイムスリップした気分 ▲虫籠窓や格子などさまざまな町家
暖簾の映える町並み
 清流・旭川が流れ、しかも町並みの姿は清楚で美しい感じがしました。格子戸のある町家がしっとりとした上品な感じを与えます。なぜ上品なのかと考えたら、のれんのせいではないかと思います。いたるところに、地元(女性染織家)で染めあげられたのれんが原因でしょう。
 戦国時代は戦乱の地でした。旭川と平行して通る出雲街道沿いの町並みでもあります。そして,これだけの量の建築物が残っていることに驚きました。
 江戸時代から旭川の河川港としても栄えました。地名は藩主の三浦氏が勝山城と改名したことに由来します。
 感動度★★★★
もう一度行きたい度★★★
交通 JR姫新線中国勝山駅から徒歩10分
 月田(つきだ)/真庭市月田
 
ギッシリと続く町家
 歴史は古く平安時代から郷名として残っています。江戸時代は津山藩でしたが、森氏の改易に伴い幕府領となりました。幾多の変遷を経て明和元年、三浦明次氏が三河国西尾からの所替えによりやってきて、勝山藩が成立します。
 また東城往来沿いの集落でもあります。瀬戸内沿岸の町から東城(広島県)に至る道で、たたら製鉄による鉄の運搬路でした。幾筋もあり、月田も繁栄したようです。また月田紙も特産の一つとなりました。しかし基本は木材で栄えた町といえます。いま出格子や虫籠窓のある2階建ての町家が続きます。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは宮島医院の駐車場に停めました
 美甘(みかも)/真庭市美甘
 
出雲街道沿いにトタン葺きの古民家が点在します
 江戸時代の初期は津山藩でしたが、その後幕府領などのいくつかの変遷を経て勝山藩領となります。当初、津山藩は幕命により出雲街道の整備を行いました。宿場町の高田と新庄の中間地になるため、休息用として茶屋を置き、さらに安永4年(1775)松江藩は独自に本陣を設けました。また周辺から産出する砂鉄や木地の問屋もでき、かなり賑わってきたのです。さらに瓦を焼き中国山地の村々に供給しました。あれやこれやで村高も1000石を越えるようになったとか。
 出雲街道は美甘神社付近で二つに別れ、一つは川沿いに向かいます。入母屋造りのトタン葺きが点在します。もう一つ通りは、2階建ての古民家が軒を並べます。こちらは旧商家が中心です。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは美甘神社前の空き地に停めました
 延助(のぶすけ)/真庭市蒜山上徳山
 
大山往来沿いの宿場町
 備前、備中方面から大山(だいせん)へ向かう大山往来は、鳥井峠を越えて延助集落を通過して向かいました。大山信仰とともに発展し、文化年間には牛馬市の開設でなおいっそう活況を呈したのです。作州二十四宿の一つに数えられ、野土路越えで出雲往来にもつながる交通の要衝。各種問屋、商人宿が立ち並び、馬持ち稼ぎが常駐。煙草などの集散地でもありました。明治に入っても賑わいましたが、大正元年に伯備線開通にともない、町は衰退していきました。
 いまは古民家が点在し、宿場町としての面影はありませんが、雰囲気は十分に感じられます。なお大山往来は県内には幾筋もあります。
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
  交通 クルマは空き地に停めました
 
郷原(ごうばら)/真庭市蒜山西茅部
 
大山詣での参拝者で賑わいました
 宇喜多、小早川氏の支配を経て、津山藩領となりましたが、その後幾多の変遷を経て幕末には幕府領・津山藩預かりとなったのです。それらはともかく江戸中期から大山詣でが盛んになり、多くの参拝者が郷原宿を通りました。同時に特産品でもある郷原漆器が知られ、漆器は中世の時代から生産されていたとかで、木地師とともに24軒の塗師屋がいました。幕末期の生産量は製品化すると3400両となり、山陰地方を中心に九州、上方方面に出荷されていました。その後輪島塗などに押されて完全に衰退しています。
 歩いていますと、農家のトタン葺き屋根や切妻型の2階建ての旧商家、町家、旅館と思わせる古民家が軒を並べています。  
感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
 落合(おちあい)/真庭市落合垂水
 
ほとんどの古民家が改築・改装されています
 江戸時代、慶長8年(1603)津山藩領でしたが、その後元禄10年幕府領、明和元年(1764)から勝山藩領となります。このあたり一帯の旧町名は「落合町垂水」ですが、川船による水運が盛んで、米、薪、炭などを岡山城下に移出していました。このとき垂水よりも落合の名が知れ渡っていたのです。また江戸中期、讃岐から高瀬舟で運ばれてきた砂糖と吉備高原のアズキがこの地で結びつき、“落合ようかん”が生まれ特産品となりました。落合の地名は、備中川と旭川が合流(落ち合う)することが由来だそうです。
 町を歩いていますと、ほとんどが改築、改装されており、古民家らしい町家は見かけません。切妻型で妻入り、平入りといろいろです。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは落合病院の駐車場に停めました
 鹿田(かつた)/真庭市鹿田
 
   
▲十字屋文庫館/旧木山郵便局  ▲十字屋教育財団・迎賓館 
備中往来沿いの宿場町で、近代洋風建築も見られます
 地元民は町名を「かった」と呼びます。南北朝時代に、武士団を結成して活躍したそうです。江戸時代の明和元年(1764)から勝山藩領で、村高は1000石を越えています。人口も800人強とこの地方としてはかなり多いようです。真言宗勇山寺は源頼朝の建立と伝えられ、寺領100石でしたが、戦国時代は20石になったとか。鹿田は備前から峠を越えて美作に入ってから最初の宿場であり、落合から備中高梁に向かう備中往来の通っていました。
 虫籠窓がああたり、近代建築の旧木山郵便局(昭和初期築)があったりと、意外と変化に富んだ町並みでもあります。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは鹿田公民館駐車場に停めました
 宮地(みやじ)/真庭市宮地
 
南北に貫く旧道沿いの集落
 戦国時代の古文書にも「宮地村」の名前がでてくらい歴史のある集落です。江戸時代は毛利氏の支配を経て、幕府領となりました。さらに遠州浜松領、再び幕府領となり、その後も領主が変遷。幕末には津山藩の預かり地となっています。村落は1250石前後と、そこそこの穫れ高を示していました。
 ほぼ南北に貫く旧道を歩いていますと、蔵造りの町家が連なります。改築しているところもあり、ブルーシートのかかった古民家も見られます。ここは有漢から高梁へ向かうルートになっています。  
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは空き地に停めました
 下呰部(しもあざえ)/真庭市下呰部
 
   
▲落合酒場・明治26年創業  ▲旧呰部郵便局・昭和初期の建築 
土壁の旧商家が見られました
 江戸時代は、毛利氏の支配ののち、幕府領にはじまり多くの領主の変遷を経て、幕末は津山藩預地となりました。旭川の支流・備中川の両側に平地が続きます。村高は1400石弱とけっこう獲れたようです。村内を南北に大山道が走り、現代の県道58号線とほぼ重なっています。つまり江戸時代から交通の要衝でした。
 漆喰がはがれ落ちたのか、土壁の家々があちこちに残されており、とても珍しい。 また近代木造建築も残されており、意外にも重厚な集落でした。
 感動度★★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは真庭市役所北房振興局の駐車場に停めました
下中津井(しもなかつい)/真庭市下中津井
 
旧道沿いに陣屋町の雰囲気を残しています
 備中松山藩主・石川総慶(ふさよし)が延享元年(1744)に三重県・亀山に移ったとき、13か村(1万石)は、亀山藩の飛び地となりました。つまり亀山藩領となり幕末まで続きます。このころタバコ栽培を奨励し「なかつい刻み」として、関西から四国へ販路を拡大。そのため藩の財政を潤し、中津井の町も大いに繁栄しました。いまに残る「鰤市」(ぶりいち)は近郊近在から人出でにぎわい、年間3000本を越えるブリが売買されたとか。いまに残る陣屋跡は、代官所が置かれたところで、明治4年(1871)の廃藩置県まで、実に127年間もの藩政が続きました。陣屋が無くなったあと、町は急速に衰えていくのです。
 いま静かな町なかを歩きますと、往時を思わせる古民家が多数残されているのに気づきます。また中津井川沿いにも見られ、美しい光景を見せてくれます。  
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは北房観光駐車場に停めました
 下弓削(しもゆげ)/久米南町下弓削
 
改装されても雰囲気は残る
 江戸時代、慶長8年は津山藩領、元禄時代は幕府領など、その後も所領は変遷します。
 集落内には岡山城下と津山城下をむすぶ津山往来が、南北に貫き、宿駅が置かれ町場が形成されました。その後も古河藩の陣屋も設けられ、宿場町として発展します。当時の名産として焼酎があげられます。
 一方、大庄屋の河原善右衛門は、津山藩の要請に応え、河川改修、水田造成、ため池築造に大きな貢献をしました。
 古民家は、旧津山往来沿いに点在し、虫籠窓からガラス窓に改築されていますが、往時の雰囲気が感じられます。
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはザグザグ久米南店の駐車場に停めました
 和気(わけ)/和気町和気
 
   
▲永井家住宅/国の登録文化財 ▲旧和気郵便局/戦前の建物です 
洋風&看板建築が点在
 和気地方での船運の中心地で河川港を利用した米の積み出しは年間3000石に及んだとか。さらに麦、清酒、醤油、炭なども移出。出港船数は600便に及びました。旧道を歩くと、洋風建築や看板建築が点在するのも、ハイカラ気風があったのか。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 尺所(しゃくそ)/和気町尺所
 
   
▲旧大國家住宅・国の重要文化財 ▲トタン葺きの大きな農家も 
大型の入母屋造りが散見
 この奇妙な地名は、古代の駅所が転訛したという説が有力。村高は約430石、田畑の他に綿花が主力産業で、江戸時代後期には酒造業も盛んになりました。古民家は入母屋造が中心で、かなり大型の家屋です。旧大國家近辺に見られます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
交通 クルマは旧大國家住宅前の駐車場に停めました
 岩戸(いわと)/和気町岩戸
 
   
▲ふる里会館・国の登録文化財 ▲アルミサッシに改築した古民家 
消えつつある古民家
 天神山麓の小さな集落。江戸時代から米作を中心に養蚕、炭焼きなどの兼業農家でした。また近くを流れる吉井川での小規模な水運で生計を立てていました。いま周囲は大規模な道路の拡張工事が行われており、古民家が消えつつあります 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 原(はら)/和気町原
 
   
▲万代家住宅・国の登録文化財 ▲いまや土壁もめずらしい 
入母屋の古民家多数
 慶長8年(1603)、岡山藩領。村高は徐々に増えますが、約300石弱で人口は220人、34軒程度の小さな集落でした。明治4年に備前国の農民一揆で最初の集合場所になったことで有名。集落は元恩寺を取り巻く形で形成。古民家も健在です。
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 土居(どい)/美作市土居
 
切妻型の町家が連なる
 江戸時代、宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年に津山藩領。このとき入封したのが森忠政氏でした。森氏は翌年からの参勤交代ルートの確保のため、杉坂越えの官道を付け替え、山家川から土居を経て、万能乢に至るコースを出雲街道としました。さらに慶安元年には出雲松前藩の出費を仰ぎ大整備を行なったのです。おかげで、土居は美作七宿の一つといわれ、人口700人弱、家数210という近郊最大の町として発展。
 いま歩きますと、かつての出雲街道は、県道46号線と重なり、宿場町資料館周辺に切妻型の町家が連なっています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマはJA勝英土居営業所の駐車場に停めました
 湯郷(ゆのごう)/美作市湯郷
 
廃業の旅館も多く……
 中世初期に「勝間田湯」といわれていたり、その後「塩湯郷」と呼ばれたりしていました。『明月記』にも登場します。地名は、塩湯郷の略称に由来。伝説では1羽の鷹が傷を治していので「鷹の湯」と呼ばれたとか。
 江戸時代に入ると、津山藩の保護を受けました。一の湯、二の湯、三の湯、女湯と分かれ、身分、禄高、職業などによって入るべき湯が決められていたそうです。いまも温泉街として賑わっていますが、当初の湯治客は少ないそうです。
 歩いてみますと、廃業と思われる木造旅館や飲食店も多く、ちょっと寂しい風情でした。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは湯郷温泉観光案内所前の駐車場に停めました
 古町(ふるまち)/美作市古町
 
   
▲本田邸/民俗資料館・観光案内所 ▲田中酒造場/明治18年の建築
   
▲脇本陣/江戸時代末期の建築 ▲本陣/江戸時代末期の建築 
因幡街道の大原宿
 鳥取藩主の参勤交代の道でもあります。それにしてもこれほどきちんと残されている宿場町は珍しい。この日は平日の夕方で豪雨、店は閉まり人は全く見かけませんでした。かつて4回も大火に見舞われているだけに、蔵造りや袖壁など火に強い町家。 
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 中谷(なかだに)/美作市中谷
 
   
▲蔵がけっこう広く残ります ▲林家住宅/国の重要文化財
石積みに蔵や主屋が建つ
 美作市の最奥の斜面に沿った集落、旧東粟倉村です。村高も200石前後と小村。ただ古くは鉄の生産が盛んであったと思われます。江戸時代は津山藩から幕府領まださまざま。今歩きますと、斜面だけあって、石積みに土蔵や主屋が建っています。 
  感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 津山(つやま)/津山市林田町
 津山
 津山  津山
▲町家は間口は狭いが、奥行きがある ▲路地歩きは津山を知るための第一歩
映画やテレビのロケ地
 津山城址のある中央エリアに武家屋敷、城西エリアに出雲街道があり、その街道に沿って歴史的建造物が建ち並んでいます。やや個性的でちょぴり豪華な格子のはまった町家が魅力的です。ここでNHK朝の連続TV小説『あぐり』、映画『男はつらいよ、紅の花』のロケ地に選ばれました。
 造り酒屋と土蔵、旧梶村家住宅などいくつか著名な住宅もありますが、無名の町家にも趣があります。あの寅さんも、のんびり歩いたのでしょう。ただ街道沿いだけではなく、路地を入って見ると、ココにも商家の町並みの趣が感じられます。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 JR津山線津山駅から徒歩20分〜40分
 牛窓(うしまど)/瀬戸内市牛窓町
 旧バス通り
 牛窓  牛窓の町
▲岡山城下から牛窓までの牛窓往来 ▲温暖な気候に恵まれた牛窓の町 
昔の栄華が偲ばれる
 古くは牛転、牛間戸とも書きました。奈良時代から見られる地名であり、万葉集など多くの歌集に登場します。
 瀬戸内海でも屈指の商業港でした。銀行や醸造所、豪商など栄華の限りを尽くした感じの町です。江戸から明治にかけたいくつかの古民家が残されています。また現在では数々の映画のロケ地として使われています。とくに『カンゾー先生』のロケ場所はそのまま残っています。
 海岸通りから一歩中に入ったところに、昔ながらの建物が残されています。クルマのすれ違いがやっと、という狭い道に、昔はバスが走っていました。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは港近くの大きな駐車場に停めました
 八塔寺(はっとうじ)/備前市吉永町加賀美
 八塔寺ふるさと村
高原に出現した茅葺き群
 八塔寺そのものは,かつて弓削道鏡が開基したと伝えられ,高野山のように山岳仏教の栄えたところです。しかしその歴史は波瀾万丈で,たびたびの兵火で焼失,天正14年(1591)には,とうとう寺領が没収されるにいたりました。その後,天台宗に改宗,岡山藩主から梵鐘を寄贈されるも,本堂や塔などが焼失。いまでは遺構から往時を偲ぶことができます。
 実際に訪れてみて、これほど茅葺き屋根の家屋が残っているとは思いませんでした。岡山県がふるさと村に,郷土保全地域にそれぞれ指定することで、景観を守っています。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは空き地に停めました
 矢掛(やかげ)/矢掛町胡町
 矢掛-1
   
▲路地にも石畳が敷かれています  ▲すし定食(寳来・ランチメニュー)
2軒の国の重要文化財
 室町時代から歴史のある町ですが,実際は江戸時代の参勤交代によって,宿場町として形成されてきました。国重文の本陣や脇本陣が整備されています。他の屋敷は短冊形の地割りになっています。地名は美しい屋影が由来とか。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました