静岡県

宇津ノ谷(うつのや)/静岡市駿河区宇津ノ谷
宇津ノ谷 山あいにひっそりと佇む
 全く期待しないで行って,予想外にきちんと整備されているとうれしいものです。この集落も,宇津ノ谷峠の手前の山あいにひっそりとたたずんでいました。かつて豊臣秀吉が北条征伐の帰途に立ち寄ったとされ,そのとき地元の石川家に羽織を与えたそうです。いまでも「お羽織屋」として残っています。
 ゆるやかな坂に石畳が敷かれています。また家々の軒先に下がった屋号に往時の姿が忍ばれます。
 古代から東海道の官道であったために、歴史の教科書に出てくる多くの書物、『伊勢物語』のように名前が出てきます。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは道の駅「宇津ノ谷」に停めました
蒲原(かんばら)/静岡市清水区蒲原
蒲原/塗り家造り(右側) 古民家の多い宿場町
 戦国時代は今川、小田原北条、武田、徳川などの戦国大名の支配を受けていました。
江戸から15番目の東海道蒲原宿です。現在でも本陣やなまこ塀の土蔵造りが点在しています。そのほとんどが平入の出桁作りで,1階の開口部が建物から出っ張っています。
 また元禄年間の大津波で,集落は壊滅しましたが,そのあとすぐに復興しました。現在残っている建物のほとんどは,大正時代に建てられたものだそうです。もちろん江戸時代に建てられた旅館は和泉屋は構造をそのまま残しています。また近代建築もあって,古民家の多い宿場です。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
由比(ゆい)/静岡市清水区由比寺尾
由比 由比正雪の出身地
 東海道の宿場町です。古くは湯居、湯井、由井とも書きました。ところで由比といえば,東名高速の海岸ギリギリにあるパーキングエリアとして知られており,よく仮眠をとっていました。今回,まちなかを歩くのははじめてです。
 由比は大きくわけて2カ所にあります。一つは由比川近くのあたりで,由比正雪の生家などがあります。このあたりは,連なって古い町家があるわけではありません。
 もうひとつは,寺尾あたりで,あかりの博物館を中心に広がっています。油あんどんなど各種明かりが展示しています。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはあかりの博物館横の無料駐車場に停めました
花沢(はなざわ)/焼津市花沢
花沢 山あいにたたずむ
 永禄11年(1568),武田軍が駿河をほぼ制圧しましたが,この地の花沢城・城主の大原肥前守だけが徹底抗戦したそうです。それにしてもこんな山深いところに、古い町並みがあるとは思いませんでした。交通の不便なところですが、東名高速の日本坂トンネルの裏側あたりになります。もともと初期の東海道沿いの集落でした。
 今は土蔵や黒板塀の古民家が軒を並べた静かな所。集落自体が標高差35m傾斜地に立地のため石垣を多用。近年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは有料駐車場(1回300円)に停めました。
島田(しまだ)/島田市河原
島田 典型的な平入り型
 大井川を挟んだ江戸寄りの宿場町です。「箱根八里は馬でも超すが、超すに超されぬ大井川」と言われたところです。幕府の政策により架橋せず,人々は川越賃を払って渡りました。宿場の建物は、ほぼ昔のまま復元されています。典型的な平入り型で、黒瓦の低い屋根の宿場ですが、農村の要素も入っているようです。
 だからいままで見てきた各地の町家とは、ちょっと違った感じです。一部、内部を公開していますので、ちょっとのぞくのもおもしろいです地名の由来は中州などの微高地に形成、島、洲、新田などの地名が多い所
感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました。
掛川(かけがわ)/掛川市掛川
掛川 裏手に昭和初期の建物
 掛川城は戦国時代,山内一豊が10年間城主として在城したが,やはりNHK大河ドラマ『功名が辻』で一躍有名になりました。今の天守閣は平成6年に復元されました。
 そんな天守閣の裏手にまわってみると,意外と古い建築物が目に付きます。いくつかの古民家もありますが,報徳図書館(写真)は昭和2年に設計建築されたものです。また隣には大日本報徳社も昭和初期の近代建築です。なお侍屋敷の竹の丸は,現在復元工事がされています。鎌倉時代には、東海道の宿場としてすでに掛川宿の名前が見られます。市名は宿場名を採用したとか。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
日坂(にっさか)/掛川市日坂
日坂 1軒ごとに屋号の木札
 このあたりの町を探し当てるには、カーナビの威力を頼ること! 時間に無駄がないのです。で、宿場町ですが、本陣、旅籠、商家など、1軒ごとに屋号の書かれた木札が、表にぶら下がっています。つまり昔は何の商売をしていたがわかるのです。これは地元のボランティア団体の発案だそうです。いまではいくつかの建物が公開されているようです。
 町並みの裏側は掛川バイパスがあります。あまり気持ちのいいもではありませんが、開発時の「折衷案」だったのか。
 当初、西坂と呼ばれていましたが、のちに日坂に転訛説。
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました。
横須賀(よこすか)/掛川市大須賀町横須賀
横須賀 出桁造りが目に付く
 歩いていて気がつくのは,意外にも古い町家が多いということです。それは線としてつながってはいませんが,約1qほどのあいだに古民家が点在しているのです。そのほとんどが,庇が突き出て,1階が出た出桁造りが多いのが特徴です。
 東海道の宿場町です。ふつうの町家,商家が多く本陣や脇本陣,豪商たちの建物はありませんでした。もう一つ,寺院が多いのに気がつきます。これは歴代の城主が,寺院を積極的に誘致したためです。寺院は人を集める効果があるからです。なお、横須賀城は徳川家康の命で築城されました。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは横須賀城跡に停めました
城下(しろした)/森町城下上
城下 ノコギリの歯のような区画
 全国各地を歩いていますと,いまだに明快な理由のわからないことがあります。それは,なぜノコギリの歯のような家並みがあるのだろうか,ということです。どうも統一した答えはないようです。戦いの時に兵が隠れやすいようにするためとか,社殿に向かうためだとか,いろいろです。でもそれらはあくまで推論です。
 城下の場合は,距離がかなり長く続いているのです。律令時代の地割りと,現代の道路が合わずにノコギリの歯のようになったとか。嘘のような話です。
 地名の由来は、天方城のある山の麓にちなむそうです。
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
三島(みしま)/三島市本町
三島-1 点在する古い建物
 江戸から出て難所の箱根を超えて最初の宿場町です。かつての面影の持つ建物は点在していますが,連続して見ることができません。旧東海道が賑やかな商店街なので,改築,改造が進んだからでしょう。地名は三嶋大社からという説がある
地元民の信仰を集める三嶋大社
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根鉄道三島広小路駅から徒歩10分
 加屋町(かやまち)/三島市加屋町
  「三島女郎衆」の面影
 『農兵節』にも歌われた「三島女郎衆」はよく知られています。遊里は、移転を繰り返していましたが、最終的には現代の加屋町から清住町にかけて落ち着きました。また本町あたりが、雑誌等で「三島ピンクゾーン」といわれて賑わったようです。しかし加屋町、清住町の妓楼も徐々に消えていきました。やはり昭和34年の売防法施行が効いたようです。
 いま歩いていても、ポツンポツンと往時の建築物が残されています。改築、改造を繰り返していますが、やはり面影は残るもの。目を凝らすと見えてきます。  
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 伊豆箱根鉄道駿東線三島広小路駅から徒歩15分
大場(だいば)/三島市大場 
台場の集落 下田街道沿いの集落
 江戸時代の大場村は,三島宿の助郷として出役。また下田街道沿いの集落で,水利がよく比較的米,麦が多く採れたようです。明治31年に大場駅が開設。一気に発展しました。古民家はポツンと点在しています。
姓は森,名は久治郎,久八といいます。天保10年(1839)頃は,上州系三大親分の1人として縄張りは,伊豆,駿豆,駿河,甲斐,武藏,相模にわたり幹部だけで3600人,有名貸し元49人を擁する東海一の大親分となっていました。
▲大場の久八の墓がある廣渡寺
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅から徒歩10分
八幡町(はちまんちょう)/沼津市八幡町
八幡町 旧赤線地帯の面影が残る
 大正2年の大火,戦災,さらに道路の拡幅で,町並みはほぼ壊滅状態になりました。上本町,下本町あたりが旧宿場町で最も賑わったところでした。
 いま残るのは皮肉なことに,旧赤線地帯といわれた戦後の町並みです。それもわずか。
合盛りざる/ダシもうどん用とそば用の2種類付く
▲合盛りざる(590円・杵屋)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線沼津駅から徒歩15分
原(はら)/沼津市原
原宿 江戸時代の造り酒屋
 江戸時代は東海道の宿場町です。本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠25軒と沼津宿の半分の規模です。すなわち東海道で最も小さな宿場町でありました。本陣は歴代渡辺家が当主としてその職をつとめており渡辺本陣と呼ばれていました。本陣の玄関は松蔭寺に移築されましたが,昭和63年(1988)に解体。脇本陣は天保の大火で焼失,以後再建されていません。
 いまは往時の面影はありませんが,駅近くの江戸時代後期創業の高嶋酒造が健在なのは救われます。地名の由来は、地形的に浮島沼が作り出した浮島ヶ原を略したという説。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線原駅から徒歩5分
西浦古宇(にしうらこう)/沼津市西浦古宇
西浦古宇 変形した蔵造りが多い
 もともと小田原の北条氏と深いつながりのある地で,直轄地ではないかと推定されている。北条氏康の娘が今川氏に嫁ぐときも,多額の金銭や紙類等が北条氏に届けられているくらいである。でも町内には北条氏とのつながりを示す建物はない
 石垣の上に植栽を行った建築物が多いようです。またところどころになまこ壁の蔵が見られます。特におもしろいのが,蔵の横に深い庇の下に半間ほどの家屋を増築して,外からも取り出せる納戸,多いようです。
 明治29年、西浦村が古宇村など9か村を吸収合併。古宇集落は大字となります。
西浦古宇 西浦古宇
▲意外と目に付くのが旧家の石積みと植栽  ▲また西伊豆に多いなまこ壁の蔵も多く見られます 
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 車は古宇公民館前に停めました
戸田(へだ)/沼津市戸田
勝呂弥三兵衛屋敷 一歩中に入ると風情が漂う
 江戸時代には,幕府領でもありましたが,文化5年(1808)には沼津藩領となり,幕末にいたりました。戸田は早くから天然の良港として知られ,伊豆の西海岸の港として大いに賑わいました。特に遠洋のカツオ漁業が盛んで,名物のカツオ節を江戸に出荷していました。
 現在約100軒前後の民宿があります。ほとんどは鉄筋や普通の民家。町を歩きながら古民家を探しましたが,平凡な港町です。しかし国道から一歩山沿いに入ると,なかなか風情のある建物が続きます。
 地名の語源は、海辺の地という意味があるそうです。 
戸田 江戸,明治の建物
 安政地震の津波で破損したロシア艦船のディアナ号の代船造りに,勝呂弥三兵衛(写真上)を含む7人で戸田号の建造に力を発揮したそうです。
 なお土蔵が江戸時代,他は明治時代の建物です。
▲天丼(1050円/食堂 の一)
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 車は漁港内の広場に停めました
吉原(よしわら)/富士市吉原
吉原 横丁に古民家が見えます
 江戸から11番目の宿場です。初期の宿場から今の所に移転したが,天和2年(1682)でした。今はかつての面影もありませんが,裏道や横丁に入れば,板張りの住宅があります。戦国時代は吉原湊が栄えました。
▲1両編成の岳南鉄道・吉原駅にて
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 岳南鉄道吉原本町駅から徒歩15分
岩淵(いわぶち)/富士市岩淵
岩渕宿/東海道の間宿・道路の正面に富士山が写っているのですが…… 富士川渡船で発展
 富士川に面した間宿です。慶長7年(1602)から岩淵村が,富士川渡船を幕府から請け負っていました。この渡船は意外と長く,大正13年の国道橋が開通するまで続いたのです。
 東海道の吉原と蒲原両宿の間にある「間宿」として,しかも渡船で賑わい,さらに甲州からの米,塩の輸送で舟運が盛んになったそうです。つまり富士川水運の中心で、河川港として発展したのです。
 間宿といっても旅籠はなく,休憩するための小休本陣と脇本陣しかありませんでした。いまは植栽の塀や黒板塀の住宅などが散見されます。 
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東海道本線富士川駅から徒歩20分
白須賀(しらすか)/湖西市白須賀
白須賀 大津波で旧宿場は壊滅
 東海道の江戸から32番目の宿場町です。白須賀宿の歴史文化に関することは,「おんやど白須賀」に行くとほとんど理解できます。また駐車場もありますので,ここに停めて10分ほど歩くと,古い町並みに行けます。
 高台にある宿場町ですが,以前は海辺にありました。1707年の津波で壊滅しました。以後,高台に移転したのです。
 ほとんどが平入の2階建て出桁造りです。しかも1階の開口部がかなり大きいですが,今はガラス戸になっています。また歌川広重の名画で知られる景勝地・潮見坂があります。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 白須賀小中学校付近に無料駐車場があります
熱海(あたみ)/熱海市海光町
熱海 石垣と石畳の似合う町
 相模湾に面した昔からの別荘地帯ですが,最近はリゾートマンション,企業の寮などが進出。少しずつ景色が変わりつつあります。町全体が石畳で、とても静かな町並みです。
▲ラーメン(650円/三愛
熱海 熱海
▲黒塀と石畳は似合います。でも石畳は歩きづらい  ▲こぢんまりした石畳の町ですが人影がありません 
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR熱海駅から徒歩15分
 春日町(かすがちょう)/熱海市春日町
  海の見える高級別荘地
 熱海駅を出ると左方向に小高い丘が目に入ります。遠目はマンションが林立しているように見えますが、急坂を上りますと企業の保養所や高級料亭、別荘地などがギッシリ詰まっています。風情ある古民家は各石段を海側に降りると点在しています。 
 
▲旧日向別邸/国の重要文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線熱海駅から徒歩12分
糸川(いとかわ)/熱海市中央町
糸川沿いの街並み 糸川沿いの旧花街
 熱海を一躍有名にしたのは明治30年から読売新聞に連載された尾崎紅葉の小説『金色夜叉』でした。さらに大正7年に後藤紫雲・宮島郁芳の作った同名の流行歌が大ヒット,まさに全国的な温泉地となったのです。
 東海道本線が開通すると,東京の奥座敷として一気に盛り上がり,大衆化するのでした。
 糸川沿いは三業地区(花街)として賑わいましたが,今は過日の面影は見られません。しかし建物は残されており,かろうじてスナックや居酒屋などの飲食店が営業しています。夜ともなれば、飲食店の灯りがわずかに光っています。
糸川沿いの街並み 糸川沿いの街並み
▲かつての遊里の面影が見られます ▲廃業店と営業店が入り混ざっています
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR伊東線来宮駅から徒歩10分
昭和町(しょうわちょう)/熱海市昭和町
昭和町の町並み 『花子とアン』のロケ地
 明治40年(1907)にそれまでの人力鉄道から蒸気機関車にかわり,便利になりましたが,関東大震災で壊滅。しかし大正14年に東京から直通で乗り入れが可能になり,一般大衆が一気に利用するようなりました。乗降客は20倍に増えたとか。
 戦後の熱海ブームで旅館が増え,料亭,茶屋,妓楼などもこの地まで広がり好景気を迎えました。超豪邸起雲閣も旅館に生まれかわり,多くの著名人が宿泊。最近NHK朝ドラ『花子とアン』のロケ地として使用されたことから人気沸騰。ところで昭和町は和田川の形成する扇状地にできた人口密集地です。 
起雲閣/旧岩崎別荘(大正8年築) 文豪たち/左から山本有三,志賀直哉,谷崎潤一郎 福屋/起雲閣の入場券を見せれば割引きしてくれます。
▲起雲閣/『花子とアン』のロケ地 ▲起雲閣庭園で文豪たちの記念写真 ▲コーヒー・ダンゴ付き(500円・福屋)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで起雲閣前下車すぐ
西山町(にしやまちょう)/熱海市西山町
急な石段も西山の名物です 大火から逃れた古民家群
 熱海は昔から津波の被害や火災の多い所でした。特に東部地区から発生した昭和25年の大火は,繁華街を中心に市内の4分の1を焼き尽くしたそうです。しかし西山町は,幸いにも大火から逃れることができたため,古民家が残りました。
 急坂の続く西山通り沿いには,戦前から別荘地が並び,今は保養所,寮なども見られます。歴史のある地域だけに,多くの文化人に愛されましたが,その後,企業や旅館に買い取られました。それでも残され,一部は公開されています。南部に来宮神社があり、毎年7月の念仏踊りは県の民俗文化財です 
凌寒莊/詩人・佐々木綱吉氏の旧居。庭園の公開は土日のみ 熱海市内で現役の木造旅館の最古といわれています 文豪・谷崎潤一郎の旧宅/今は青山学院大学教授が住んでおられます(非公開)
▲凌寒莊/詩人・佐々木綱吉の旧宅 ▲連月莊/木造建築最古の現役旅館 ▲潤雪庵/文豪・谷崎潤一郎の旧宅
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR伊東線来宮駅から徒歩15分
 和田町(わだちょう)/熱海市和田町
  迷路の果てに古民家
 和田川に沿った急斜面の町。狭い路地のような道が入り組み、歩いてバス通りに出るまでが一苦労します。そんな迷路のような町を歩くと、あちこちに古民家に出会います。そこには一大観光地・熱海とは別の姿があります。少々疲れますが、歩いて楽しい町(?) 
 
▲山田湯/温泉マニアが注目する 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで染殿橋下車、徒歩15分
上多賀(かみたが)/熱海市上多賀 
 上多賀の集落 坂道や枝道に点在
  歴史的に有名にしたのは、慶長年間以降、江戸城の修理に使う石の切り出しを行った所だからです。良質の石が採れ、採掘は大正時代まで続いたとか。古民家は駅から下る道の両側や枝道に多く見られます。また海岸沿いの街道沿にも点在しています。
 タウトが設計したテーブルとイスが保存/江戸末期に豪商宅を移築したものです。
▲そば処多賀/江戸末期の建築
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR伊東線伊豆多賀駅から徒歩20分 
下多賀(しもたが)/熱海市下多賀 
  熱海宮川沿いに見られる
 江戸時代は幕府領から小田原領、石見国浜田旛領、旗本領など絶えず変遷。昭和10年伊豆多賀駅の誕生をきっかけに町は大きく賑わいました。古民家は少なくなりましたが、熱海宮川沿いに下多賀神社と同じように見られます。
 
▲下多賀神社/古代の遺跡が発掘 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで下多賀下車、徒歩3分 
中野(なかの)/熱海市下多賀 
  河川沿いの上流に
 『増訂豆州志稿』によれば、かつて中村と呼ばれ、多賀村の小名にあたると明記されています。すなわち一色、新釜、中村(今の中野)、小山、和田木の5カ所の小さな集落がありました。慶長15年には上多賀村と下多賀村に分かれていました。その下多賀村も一時期“下多賀中村”と“下多賀和田木”分村していたのです。
 中野は仲川と鍛治川の2本の急峻な河沿いに発展しました。家屋も河沿いに集中。洪水に悩まされながらも、果物、薪なども生産していました。いまは河川は改修され、古民家も上流で見られる程度です。 
 感動度★ もう一度行きたい度 交通 JR東海道本線熱海駅からバスで中野下車すぐ
和田木(わだき)/熱海市下多賀 
  改修・改築がすすむ
 『増訂豆州志稿』によれば下多賀村の小名にあたり、一集落でした。その後多賀村に併合されますが、今度は隣の中村(現・中野)集落と一緒になって下多賀村となりました。建物は戦後まもないもので、ほとんどが看板建築風に改造改築。 
 
▲ワンコインセット(500円・間瀬) 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR伊東線網代駅から徒歩5分
網代(あじろ)/熱海市網代 
  古民家も残っています
 漁師町です。地名の由来も、生業が漁労であることからきています。小田原北条氏が干し鯉60枚、スルメ500枚を持参せよ命じるなど、戦国時代から漁業で発展。回船問屋も多かったとか。古民家も路地などにも多く、典型的な漁師町を形成。 
 
▲平井家住宅/国の登録文化財 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR伊東線網代駅からバスで網代小学校下車、徒歩10分 
原木(ばらき)/伊豆の国市原木
下田街道の裏手の道 下田街道の宿場町
 源頼朝が旗揚げをする際,原木を通過したそうです。江戸時代は宿場町で,西浦(駿河湾)と東浦(相模湾)方面への分岐点でした。つまり人馬の継立場であったわけです。渡船場,酒造人,商家なども多く,たいへん賑わいました。明治に入って伊豆箱根鉄道の開通し,発展。
 いま国道136号線は交通量が多く,旧街道の面影はありません。あきらめて裏道を探り出すと,静かな通りと対面。石垣と植栽,板塀の続く静かな道です。寺院も多く,旧街道かも知れないと思いましたが……。地名の由来は地区内の荒木神社の「あらき」が「ばらき」に転訛した
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根駿豆線原木駅から徒歩10分
韮山(にらやま)/伊豆の国市韮山
韮山の黒塀のある街並み 江川家から反射炉への道
 1160年源頼朝は当地に流され,森山で挙兵。江戸時代中期は代官江川氏の支配地が多く,江川家住宅が残されています。また反射炉へ行く道筋にも,古民家が見られます。
▲焼そば(550円・ひよしや)
江川家住宅 韮山時代劇場 韮山反射炉/実際は伊豆長岡駅からのほうが近い。なお伊豆長岡駅から路線バスは廃止されています。
▲江川家住宅(国の重要文化財) ▲韮山時代劇場 ▲韮山反射炉(国の重要文化財)
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆箱根駿豆線韮山駅から徒歩30分
南條(なんじょう)/伊豆の国市南條
南條の街並み/昔は南“条”と表記したようです。 下田街道沿いの集落
 江戸時代は下田街道沿いのため,人馬の往来が多く,南條宿と呼ばれたりしていたとか。狩野川には南條の渡しが設けられ,米,麦,酒などを輸送。幕末になると反射炉関係の石炭,鉄などの原材料と小銃,大砲,砲弾,さらに明治初年ごろから繭,米,酒などを輸送していました。絹糸生産を開始すると,養蚕が主産業になったのです。
 いま歩いていますと,石垣に植栽を施したり,板壁,蔵造りの町屋など往時の面影を残しています。また裏手の通りにも古民家が見られます。地名は『増訂豆州志稿』によれば条里制遺構の北條に対する由来。 
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根駿豆線伊豆長岡駅から徒歩15分
長岡(ながおか)/伊豆の国市長岡
長岡の旧遊里 飲食店街の裏手に旧遊里
 明治に入って開湯した長岡温泉を中心に発展した町です。『吾妻鏡』にも登場する,歴史ある小名温泉と合わせて伊豆長岡温泉と呼んでいます。近代的な旅館やホテルが林立しており,町の中心地でもあります。町の入口にある順天堂大学病院のドクターヘリの離発着する音がときおり聞こえてきます。
 ところで,この町で現在、古民家といえば遊里以外にありません。飲食店街の裏手に回ると,静かに残っていました。無人となった家もあれば,改造した家屋もあります。夢の跡という感じです。地名は長い阜(ふ/小高い丘陵)あったことに由来。 
妓楼/千鳥破風と2階の手すりが特徴 長岡
▲旧遊里にあった,今も残る建物。千鳥破風と2階に注目 ▲この建物はかなり改造されています
南山莊/創業は明治40年で純和風旅館。いまは1泊朝食付きのビジネス旅館です 温泉神社/手入れが全くされていません 伊豆長岡駅構内にあります
▲南山莊(昭和13年築) ▲訪れる人の少ない温泉神社 ▲椎茸そば(350円・Yショップ)
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根駿豆線伊豆長岡駅からバス温泉駅下車徒歩3分
大仁(おおひと)/伊豆の国市大仁
大仁の町並み 街道沿いの古民家
 江戸時代は幕府領から始まり,幾多の潘領となりました。しかし変わらないのは交通の要であったことです。下田街道の宿場町ですが,同時に狩野川の渡舟場もあり陸上,河川交通が活発でした。例えば天城山で伐採した官林材を狩野川に流し,大仁で筏にして沼津へ運んだとか。さらに牧之郷村との境界付近で金の採掘が行われていたりしました。
 いまは街道沿いにポツン,ポツンと古民家が残る程度。改築も多いですが,独特の庇の突き出た町家を見られます。地名の由来は大仁なる人物が居住していた為とかの説が。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根駿豆線大仁駅から徒歩3分
瓜生野(うりゅうの)/伊豆市瓜生野
歩いていると長屋門が残っていました 長屋門やナメコ壁の土蔵
 江戸時代初期,金山があって村は発展しますが,寛永年間まで約30年掘り続けて閉山。各種農作物も多く採れますが,狩野川の氾濫が絶えずあり,洪水のたびに流域が変わり隣村との争いが絶えなかったそうです。しかしながら下田街道沿いの集落で,狩野川の舟着場があり,河川交通の便はよく,畑作物の運搬に利用されていました。
 下田街道沿いの集落で,駅を出て狩野川を渡ったところから集落が始まります。交通量も一気に減り,長屋門や土蔵などもあってのんびりと歩けます。地名の由来は、瓜の生育に適していたとか、中世・瓜生氏の居住地だったとかいろいろ。
土蔵も残っています
▲窓や玄関はアルミサッシに改造されています ▲ナメコ壁の土蔵も残っています
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆箱根駿豆線大仁駅から徒歩25分
修善寺(しゅぜんじ)/伊豆市修善寺
修善寺温泉街 木造3階建ての旅館も健在
 狩野川支流の桂川沿いに開けた修善寺温泉を中心とした町並みです。古刹・修善寺から名付けられました。鎌倉時代,修善寺にまつわる話は今も語り次がれています。特に鎌倉2代将軍源頼家が幽閉,後に殺害された悲話は岡本綺堂の『修善寺物語』に著されています。また夏目漱石『修善寺日記』の舞台にもなりました。
 歴史のある町だけに,至るところに古民家が見られます。木造3階建ての新井旅館は注目。また幾つかの旧妓楼とおぼしき建物も残されています。
 最近中国人観光客が殺到しているそうです。
破風の残る土蔵/多分,遊里の跡と推定します 立派な唐破風が目立ちます。
▲千鳥破風のある土蔵造り。かなり改造されています ▲立派な唐破風のある旧妓楼
新井旅館の月の棟は国の登録文化財 桂川と独鈷の湯。修善寺温泉のシンボルです 修善寺です
▲新井旅館は国の登録文化財です ▲桂川にある独鈷の湯 ▲弘法大師が開基した修善寺
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 伊豆箱根駿豆線修善寺駅からバスで修善寺温泉下車徒歩5分
横瀬(よこせ)/伊豆市修善寺
横瀬の集落 坂道の両側に古民家
 狩野川と桂川の合流地点にある集落で,鎌倉時代,修善寺からのただ一つの出入口。頼家や範頼らが幽閉された理由がわかります。いまは緩やかな坂道の両側にわずかに古民家が見られます。大字修善寺の小名にあたります。
▲桂川沿いにある横瀬八幡神社
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根駿豆線修善寺駅から徒歩15分
 湯川(ゆかわ)/伊東市湯川
  意外に温泉宿は少ない
 地名は、温泉が流れて小川を形成していることに由来。共同温泉はあるものの、温泉宿は意外に少なく、むしろ駅裏や大川沿い、修善寺街道沿いなどに集中しています。古民家は街道の裏手にあって、意外に少ないです。やはり大火や水害の影響が大。
 
▲ 木下杢太郎の生家/市内最古の木造住宅・市の文化財指定
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩10分 
猪戸(ししど)/伊東市猪戸 
  遊里「猪戸新地」の面影
 伊東温泉の歴史は明確ではありませんが、和田湯は江戸時代初期には湯小屋があったそうです。もう一つの元湯・猪戸の湯は、傷ついたイノシシが傷を癒やしているのを土地の人が見て、温泉を発見したという伝説があります。
 温泉を中心とした観光都市となるのは伊東線の開通後(昭和13年)です。それにともない遊里が形成されます。猪戸は戦後の温泉ブームにのる形で発展。妓楼が立ち、技芸も多く、料亭、旅館も一気に増えました。いま、スナック、バー、居酒屋などに変わっていますが、かつての遊里の面影を見ることができます。 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩10分 
伊東(いとう)/伊東市東松原町
昔ながらの旅館街
 伊東には何度も来ていますが,古い町並みがあるとは気がつきませんでした。伊東の旅館街は,ほとんどが改築,改造されて昔の面影はありません。しかしここの松川通りは,東海館,いな葉などの木造の建物が建っています。
 特に東海館やいな葉には,望楼があって,大川を挟んだ遊歩道から見ることができます。東海館は平成9年に閉館し,そのあとは資料館として,一般に無料開放されています。美しい和風建築を堪能することができます。なお、隣の外国人の宿泊が多い「ケイズハウス伊東温泉」は国の登録文化財。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩15分
銀座元町(ぎんざもとまち)/伊東市銀座元町 
  看板建築がギッシリ
 平日の昼間でも人がいません。かつては、町の中心地でした。やはり役所や警察署など公共機関が転出したのが大きいようです。商店や飲食店は大川の左岸に固まっています。看板建築の宝庫といえます。 
 
▲ 観交番/国の登録文化財
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR伊東線伊東駅から徒歩20分 
川奈(かわな)/伊東市川奈 
川奈の植栽 いたるところに植栽
 江戸時代は三島宿への助郷の役割を負わされていました。昔から漁業が盛んで,イルカの追い込み漁は有名。いまはサバ,イカ,サザエなど。駅から急坂を下る途中に,植栽を見かけます。やはり海風が強いから。
川奈駅構内にある
▲親子丼(650円・まんまや)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線川奈駅から徒歩10分
富戸(ふと)/伊東市富戸
富戸の町並みは海岸に向かって急坂が続く 石垣と古民家
 東伊豆のこのあたりは,江戸城築城のための石を切り出した所として知られています。富戸には尾張家や毛利家の名前が絵図に見られるそうです。また江戸時代は文化8年(1811)から沼津藩領。三島宿への助郷,東浦筋(伊豆東海岸)の街道の普請,酒匂川架橋など,公役を負わされていたのです。
 富戸駅から町の中心である海岸までは細い道が続き,しかも急坂です。道沿いには石垣が組まれた所に古民家が見られます。美しい植栽も見られますが,大部分が現代家屋です。地名の由来は、古くは栗、豆の田を富戸と呼んだことにちなむとか
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線富戸駅から徒歩20分
 城ヶ崎海岸(じょうがさきかいがん)/伊東市富戸
城ヶ崎海岸駅前は整然とした町並みです 東京から直行の別荘地
 昭和35年(1960)に伊豆急行線が全線開通から遅れること昭和47年に城ヶ崎海岸駅が開業。東京から直行でき,一気に別荘開発が進みます。しかし初期の建物は築50年近くなり,一部では建て替え時期が来ています。約4kmの海岸が絶景です。
▲ログハウスの城ヶ崎海岸駅
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線城ヶ崎海岸駅から徒歩10分
八幡野(やわたの)/伊東市八幡野
八幡野 石垣,植栽,白壁が残る
 江戸時代は小田原潘領,浜田潘領(島根県),沼津藩領と変遷しました。また東海道三島宿への助郷を負わされていました。八幡野自体は,浜と岡の2つの集落に分かれ,半農半漁で生計を立てていました。古からの集落は,どちらかといえば浜の八幡野港周辺に残っているとか。しかし岡にも石垣に植栽,白壁の民家が残っています
 ところで八幡野が大きく変貌するのが昭和35年(1960),伊豆急行線の開通からです。同時に伊豆高原の分譲を開始,一気に高級別荘地として発展しました。地名の由来は、地区内に八幡宮にちなむそうです。 
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線伊豆高原駅から徒歩15分
大川(おおかわ)/東伊豆町大川
大川で見つけた石倉 石蔵や古民家を散見
 江戸時代の藩主は絶えず代わりましたが,後期になると沼津藩とに落ち着きました。寛政年間で家数は48軒,人口は308人で交通の便の悪さを考えると,そこそこの大きさです。もともと半農半漁の村で,魚介や天草,また山での使役で税を納めたとか。秋から冬にかけては薪を切り出し,他村から船を借りて江戸へ出荷しました。
 町を歩いていて,石蔵を見つけました。この地は江戸城や大坂城の修復用石材の切り出しを行われいるところです。また古民家もあり歴史を感じます。地名は『増訂豆州志稿』によると地区内の大川に由来するとか。
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線伊豆大川駅から徒歩10分
熱川(あたがわ)/東伊豆町奈良本
濁川沿いの温泉街 濁川沿いに建つ温泉街
 天城山の南東斜面の海岸部に立地します。まさしく東伊豆を代表する温泉地で湯量もトップクラス。町の中心部に濁川が流れ,その両側に温泉街が広がっています。
 かつて自噴する温泉が川に流れ込み,冬になると川からモウモウたる湯気が上がっていることから「あったかな川」が地名の由来だとか。
 室町時代に太田道灌が発見したという伝説があります。しかし飛躍的に発展したのは,伊豆急行線の開通によります。歩いていますと,大きな石垣のあるカフェなどがありますが,大部分は戦後の建物です。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線伊豆熱川駅から徒歩15分
片瀬(かたせ)/東伊豆町片瀬
片瀬の町並み 古民家も植栽で隠れる
 片瀬の海岸には松がギッシリ植えられています。江戸時代の中期,海防問題がにわかに高まり,寛政5年(1793),幕府は沿岸諸藩に海防を命じると共に,老中松平定信自ら伊豆の海岸を巡視。その結果,海防のために松を植えるように指示しました。いま当時の松は数本残るだけ。耕作地や家屋を守るためだけではないようでした。
 いま歩いてい見ますと,内陸でも家屋の周囲は風よけに植栽で覆われています。そのため古民家も外からうかがい知れません。地名の由来は『増訂豆州志稿』によれば、片菅の転訛説や「川の瀬」の転訛説があり。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線片瀬白田駅から徒歩15分
稲取(いなとり)/東伊豆町稲取
稲取/港の海岸沿いに石垣と古民家を見ることができます 港周辺に古民家が集中
 江戸時代からテングサと石材産出で知られ,東伊豆有数の漁港があります。特にテングサを沼津潘の直営として独占。また当時から人口も多く,かなり繁栄したようです。古民家は,港の周辺に固まっており,路地歩きの楽しい町並みです。
▲カニ雑炊(472円・一丁)
旧カフェ街 石造りの家
▲旧カフェを思わせる建物です。曲線が独特。 ▲路地を歩くと石蔵を改造した古民家にあたる
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線伊豆稲取駅から徒歩20分
見高(みだか)/河津町見高
見高の集落 急斜面の路地が迷路
 今井浜海岸の名で知られていますが,もともと半農半漁の町でした。江戸時代は,伊豆の産物を回船を使って江戸へ出荷していました。同時に江戸文化が逆に入ってきたのです。幕末には歌舞伎役者市川小団次を生むことになるのです。明治に入っても,石材,木材など多数の産物を東京へ出荷,見高港は賑わいます。さらに,温泉,海水浴と観光客も増加しました。
 それにしてもこれほど古民家が残っているとは予想外。斜面の迷路のような路地の両側にギッシリ。地名の由来は地区内の見高神社によるとか。戦国時代、「耳高」の記載もあるとか。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線今井浜海岸駅から徒歩15分
浜(はま)/河津町浜
河津にも古民家がありました 美しい植栽と古民家
 桜の開花シーズン(毎年2月頃の早咲)にたずねたため,とんでもないラッシュにぶつかりました。しかし浜地区は名所とは反対方向なので、シーンとした静寂さを保っていたのが幸いでした。なっといっても植栽が美しいく,歩いていてホッとします
 江戸時代に入って,伊豆はそれまでの北条氏から徳川領になって,幕府,旗本らの支配下となりました。浜地区には往時の面影はありませんが,石造りや板壁,板塀を施した戦前の建築物が残っています。河津川に近づくにつれ,観光客で混み合いますが,早朝(6時半頃)だったので桜見物ができました。
浜の植栽 河津川堤防 朝のモーニングセット/駅前で早朝から営業していました
▲浜地区の美しい植栽 ▲河津川堤防の桜のトンネル ▲モーニングセット(680円・きりん館)
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線河津駅から徒歩8分
谷津(やつ)/河津町谷津
谷津温泉・石田屋 谷津川沿いの温泉町
  河津川の支流谷津川沿いに成り立つ集落です。もともと耕地面積が少ないせいか,薪や炭,木材などを回船を利用して江戸へ出荷していました。また一部では隣の浜村と共同で漁業を生業とする者もいたようです。温泉は伊豆では最古と言われいるとか。昭和初期には29の源泉がありました。今は河津温泉郷の一つとして賑わっています。
 谷津川沿いにところどころ旅館が見られます。建物は比較的新しく,戦後の建物が多い。しかしポツンと離れた石田屋に趣があります。地名の由来は、『増訂豆州志稿』によれば古くは谷の出口付近を「ヤツ」と呼んだから
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆急行線河津駅から徒歩20分
峰(みね)/河津町峰
下田街道沿いに建つ旅館 国の登録文化財1軒
 江戸時代は茶を年貢にするなど貧しい村であったと思われます。農閑期は天城山の雑木を炭にして江戸に出荷していました。しかし河津川の氾濫は明治に入るまで続き,治水工事の途切れることが無かったそうです。また飢餓が発生するなど、困窮を極めたとか。明治に入って養蚕業が活発化。また大正15年に温泉が噴出,伊豆急行線や路線バスの開通などで,一大観光地に発展しました。河津温泉郷では最大の旅館数とか。
 それにしても河津川の桜並木は歩行者天国並みの混雑ぶり。一方,昔ながらの旅館や住宅などが所々に見られます。
木村屋敷/「秩父宮様のお茶室」として,旧三菱財閥の重鎮・木村久寿弥太氏が建設。しかし太平洋戦争敗戦後,宮様の病気と重なり,一度も使われることはありませんでした。いま洋間をカフェとして営業。 定期的に自噴する峰温泉の源泉 河津川沿いでは最も美しいといわれる峰地区の桜並木
▲木村住宅/国の登録文化財 ▲自噴する峰温泉の源泉 ▲河津川沿いで最も美しい桜並木
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線河津駅からバス停峰温泉で下車徒歩すぐ 
湯ヶ野(ゆがの)/河津町湯ヶ野
湯ヶ野温泉 ふるさとの坂道30選
 江戸時代は上質のヒノキ,マツなどが生育していることから幕府直轄領となり,指定の9木を伐採禁止としました。そのかわり他の雑木は伐採を許可したそうです。いまは河津川沿いの小さな温泉地です。なんといっても文豪・川端康成の『伊豆の踊子』の舞台となったところで知られています,作者自身が福田家に宿泊して執筆したとか。休廃業の旅館が続くなか,その福田家だけが健在で一人勝ち状態です。
 手作り郷土賞の中部地方「ふるさとの坂道30選」に入選。石畳の美しい街並み。地名の由来は「野から湯が出る」にちなむ。
湯ヶ野温泉 福田家 創業して100年を超える宿です 伊豆の踊子碑
▲石畳みの坂道が多い温泉街 ▲川端康成がかつて逗留した福田家 ▲福田家近くにある「伊豆の踊子」碑
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線河津駅からバス停湯ヶ野で下車徒歩3分
梨本(なしもと)/河津町梨本
梨本宿 下田街道の宿場町
 江戸時代の中期になって伊豆の南北を結ぶ陸路が急速に整備されました。東海岸は崖に阻まれたり,橋がなかったりで船運が発展。その点小田原−三島−下田ルートは,かなりきついが安定した歩行ができるので,人馬の往来が急増しました。いわゆる下田街道です。
 梨本は人馬継立場でしたが,旅籠などもできて宿場町として発展しました。昔ながらの旧道が残り,河津川沿いの商店もない小さな集落ですが,白壁や土蔵などが目に付きます。またときおりハイカーなども見かけます。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線河津駅からバス停川合野(かわいの)で下車徒歩3分
安良里(あらり)/西伊豆町安良里
旅館・宝来屋 昭和の時代が彷彿する
 江戸時代からカツオ節の生産で賑わっていました。土佐から伝わった製法に改良を加えて,さらに発展したとか。また天然の良港を生かして,イルカの追い込み漁も盛んだったそうです。
 また安良里には文学の宿・宝来屋旅館(写真左)が必ず紹介されます。作家三島由紀夫が『獣の戯れ』をココで執筆したとかで、部屋もそのまま保存されています。
 町内を歩くとほとんどが戦後の建物ですが,昭和初期の建物が幾つか残っています。海のかおりのする裏道散歩がいい。地名の由来は新たに開いた里(村)にちなむとか。
安良里 安良里
▲西伊豆地方に多いなまこ壁も見られます  ▲2階建ての棟割長屋風の古民家も多い 
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 車は漁港内の広場に停めました
田子(たご)/西伊豆町田子
田子 ほとんどが戦後の建物
 江戸時代は幕府領から館林藩に移り,さらに掛川藩へ変わりました。また西伊豆地方共通の産業でもあるカツオ節製造は,ここ田子でも同じです。地元では田子節とも言われています。沿岸漁業も盛んに行われていました。
 町は国道136号線沿いに発展しましたが,いずれも釣り客,観光客向けの民宿が多く,建物もほとんどが戦後のものです。しかし西伊豆共通ですが,一歩山沿いに入ると,路地が入り組んでおり,漁村らしい光景を見ることができます。
 地名は地元にある多胡神社に由来するそうです。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 車は田子港内の空き地に停めました
下田(しもだ)/下田市3丁目
下田 ナマコ壁がシンボル
 何度も訪問している町です。平滑川の両サイドが石畳のおしゃれな小道になっています。
 安政元年(1854),日米和親条約締結後開港され,米国総領事館が玉泉寺に置かれました。そのため一時期,日米外交の大きな舞台となった町で,幕末,維新期の史跡や建物が多く残されているのです。
 いま町を歩いていますと,なまこ壁が下田のシンボルになっているせいか、なめこ壁をデザインした建物があちこちに見られます。それらを見て回るだけでもおもしろいかもしれません。地名は山手にある本郷村に対して“下手にできた田”が由来。
下田 下田
▲シンボルのせいか、もう何でもかんでなまこ壁!  ▲なまこ壁の多さに圧倒されます 
感動度★★ もう一度行きたい度★★  交通 クルマは海岸沿いに停めました
蓮台寺(れんだいじ)/下田市立野
下田街道 下田街道沿いに古民家
 温泉の歴史は古く,寛永年間には温泉地が誕生していました。下田温泉の奥座敷として知られています。また蓮台寺川流域の集落で,下田街道の通る交通の要となる所です。街道沿いには,老舗の和風旅館や石蔵,ナメコ壁のある土蔵造りなどの古民家が見られます。
 隣接する立野(たちの)は,蓮台寺地区に連なる住宅地で,昔から正月3日まで餅を食べない風習があります。氏神が餅を食べて死んだためで,餅を食べると火にたたられると信じられています。
 古くは藤原と称しましたが、真言宗蓮台寺が創建されますと、そのまま町名となりました。
創業130余年の石橋旅館/格天井がすばらしい。 数々の雑誌等に紹介されています 下田駅前にあります
▲創業130年余の石橋旅館 ▲えびピラフ(980円・ベイリーフ) ▲伊豆岩のりうどん(800円・得得)
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 伊豆急行線蓮台寺駅から徒歩20分
須崎(すざき)/下田市須崎
須崎 急な石段の両側に家々
 天皇家や皇族の別荘である須崎御用邸のあるところです。それだけに景色のとても美しいところです。ホテル,民宿,旅館,釣り宿などが集中。また須崎は伊豆の民宿発祥の地ともいわれているそうです。
 切り立った壁のようなところに家屋が密集しており,長〜い石段を歩くだけでクタクタです。民家自体は戦後のものですが,風雨や高潮よけの石垣などに歴史を感じさせます。
 集落自体は平凡で,埋め立て地に公園や漁港が見られますが,周囲に散策路などがあってのんびりできます。「洲崎」とも書いたようで、地名は地形が突出しているからが由来だとか。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは無料の駐車場に停めました
松崎(まつざき)/松崎町松崎
松崎 歴史の匂いがします
 明治時代の呉服商の建物が,那賀川に架かるときわ大橋のそばに建っています。そばに時計台もあって、町のシンボル的な役割を果たしています。その橋を渡ると、ナマコ壁通り(写真左)といいますが、観光パンフレットやポスターに使われています。漆喰でしっかり固めた土蔵は、潮風にも火災にも強いのです。
 町を歩いていると、かなり古い瓦葺きの2階建ての民家が見られます。なまこ壁が生活に溶け込んでいる点が下田とは違うところです。地名は松ヶ崎が転訛したとか、『増訂豆州志稿』では嘴の名だとか諸説。
松崎 うまい桜葉もち
 松崎は西伊豆地方の中心地でもあります。交通・産業・文化などの要となっています。
 ところで町を歩いていますと桜葉もちの看板をよく見かけます。モチ米に塩味のきいた桜の葉で巻き付け,ちょうどいい甘さになっています。
▲桜葉もち(2個280円/桜味堂)
那賀川 松崎
▲那賀川沿いが観光の名所でもあります  ▲ときわ大橋を渡りますと古民家が集中 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 駐車場 無料駐車場が各所にありました
岩科(いわしな)/松崎町岩科南側
岩科南側 生活感あふれるなまこ壁
 松崎のなまこ壁は観光客向けに整備されすぎ,のイメージがありますが,岩科のなまこ壁のある家々は生活感にあふれています。岩科には北側,南側の二つの集落がありますが,比較的南側(なんそく)のほうにまとまって存在しています。岩科川の左岸に位置し,その支流に沿って数軒が建っています。
 なまこ壁は漆喰壁の防水性を高めるために,平瓦を貼り付けます。その平瓦の継ぎ目に漆喰を盛り上げるようにして塗り込む。その形がなめこのよう見えるのです。地名は『増訂豆州志稿』によれば、村は岩を段々(科々)上るような形で立地するからが由来とか。
岩科南側 岩科南側
▲なまこ壁の土蔵も川沿いに多い  ▲土蔵も実際に使われています 
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは集落の入口近くにある広場に停めました
子浦(こうら)/南伊豆町子浦
西子浦 西子浦のほうが漁村らしい
 かつては秘境地域でもありましたが,近年は海水浴場など観光客相手に集落自体が活気を帯びてきました。歩いていると民宿の看板が目につきます。
 子浦は西地区と東地区に分かれています。西子浦は,路地の入り組んだ,昔ながらの町並みです。漁村特有の木造の家(写真)も多く見られます。小さな漁港もあって特有のにおいがします。東子浦は建物も新しく,道幅も広い。埋め立てるなど,あとから開発されたのでしょう。見て回るなら、やはり西地区のほうがおもしろい。
 地名の由来は、地形的に小さな湾であるところにちなむとか。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは車は道幅の広いところに停めました
入間(いるま)/南伊豆町入間
入間 高い塀が強風から守る
 国道136号線から石廊崎へ向かう県道16号線に入り,さらにくねくねとした町道に入って入間の集落に着きました。伊豆半島南端の集落です。
 小さな集落ですが,歩いていて気がつくのは,海に面した高台にある集落特有の塀の高さです。ほとんどが屋根と少しの家屋の壁が見える程度です。やはり強風から家屋を守るためでしょう。これは四国や南九州,紀伊半島南端部に見られる光景と同じです。家屋自体は最近のものです。ところで,入間にも小さな海水浴場がありました。地名の由来は二つの岡に挟まれたところという意味だとか。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは無料の大駐車場に停めました