栃木県

宇都宮(うつのみや)/宇都宮市小幡
宇都宮宿 二つの街道の分岐点
 日光街道,奥州街道の分岐点にあたる宿場町。江戸時代は本多氏の城下町,市場町としても繁栄。明治17年(1884)に県庁が栃木市から移転,名実と共に中心地となりました。また陸軍第14師団が設置,軍都の側面も。
▲焼き餃子(350円・どっこいしょ)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東北本線宇都宮駅から徒歩30分
大谷(おおや)/宇都宮市大谷町
大谷 さすが石の町です
 大谷に来ると,むき出しの岩肌など独特の景観に驚きます。大谷石で造った観音像,巨大な地下採掘場などに驚きます。
 さすが石の町だけに,大谷石で造られた家屋が所どこに見かけます。数は少ないです。
旧大谷公会堂(重文)
▲国の登録文化財・旧大谷公会堂
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端の広い所に停めました
白沢(しらさわ)/宇都宮市白沢町
白沢宿 奥羽街道の宿場町
 日光街道の宇都宮から別れた奥羽街道の宿場町です。天保14年には本陣,脇本陣,旅籠が13軒を数えました。
 いまは堀割に鯉を放流し,水車を回したりして,宿場町の雰囲気を盛り上げています。
▲ぎょうざ(240円/おんざ)
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは河内郵便局に停めました
徳次郎(とくじろう)/宇都宮市徳次郎町西根
徳次郎町西ね 奇妙な石の町並み
 “とくじら”ともいいます。で,ひと気のない奇妙な町でした。旧日光街道沿いの町ですが、石でできた町なのです。蔵も町家も石なのです。もちろん普通の木造や鉄骨造りもあります。小さな農村ですが、石は裏山から切り出した徳次郎石といわれ、大谷石と同質だそうです。
 江戸時代は宇都宮潘で,日光街道の宿場町でした。かつて石瓦葺きという屋根でしたが、今は少なくなってきたそうです。それにしても石瓦葺きは中国貴州省ではなんども見ましたが、日本でははじめてです。
感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマはどこにでも止められます
雀宮(すずめのみや)/宇都宮市雀の宮
日光街道・雀宮宿 板塀で囲まれた町家
 日光街道の宿場町です。元和年間(1615-24)に街道が形造られましたが,雀宮宿は新しく造られた宿場だそうです。江戸の末期には本陣,脇本陣が各1軒,旅籠は38軒。この旅籠には40人の飯盛り女が居て,ほとんどが越後国の蒲原郡出身者がだったとか。やはり同郷の人たちでかたまるものである。
 国道4号線とほぼ重なっていますが,ところどころに板塀で囲まれた町家があって,ちょっと落ち着きます。徳川将軍が日光社参の折りに必ず参拝する雀宮神社もすぐそこにあります。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東北本線雀宮駅から徒歩10分
鹿沼(かぬま)/鹿沼市上材木町
福田家住宅(国の登録文化財) 2つの街道名の利権!?
 江戸時代末期の天保14年(1843)には,鹿沼宿の人口は2844人,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠21軒とこのあたりとして,規模の大きい宿場でした。
 ところで昔からある田町,新興の内町の対立,利権争いが絶えませんでした。というのは,街道,宿場の整備で,宿場入口が内町に設けられたことから対立が激化。一説には内町通りは日光例幣使街道を名乗り,田町通りは日光街道壬生通として,お互いに利権を守ったとか。
 いま例幣使街道沿いには,古民家が散見されます。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線新鹿沼駅から徒歩20分
楡木(にれぎ)/鹿沼市楡木町
楡木宿・日光例幣使街道 かろうじて残る町家
 元もと日光街道壬生通りの宿場でしたが,京都から例幣使が通るようになってから例幣使街道と呼ばれ,一気に発展。隣の奈佐原宿と相宿を構成。本陣,脇本陣,旅籠などが整備。
▲にらそば(750円・よし乃家)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線楡木駅から徒歩10分
喜連川(きつれがわ)/さくら市喜連川本町
御用堀 御用堀と寒竹囲いの家
 喜連川藩主・煕氏は飢饉や大火から町を守るために生活用水の確保に走りました。平成2年,現存する御用堀の改修工事を行ない,鯉を放流して「やすらぎの散歩道」として開放しました。裏に寒竹囲いの家があり。
寒竹囲いの家
▲寒竹囲いの武家屋敷
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは本町交差点角の無料駐車場に停めました
櫻野(さくらの)/さくら市櫻野
櫻野 奥州街道沿いの古民家
 奥州街道沿いの集落です。江戸時代,宇都宮藩と下総の佐倉藩とが交互に入封したこともありました。また奥州街道氏家宿の助郷でもありました。
 櫻野を語るとき相撲を切り離すことはできません。12代木村庄之助は心願成就のため土俵一式を奉納,以後八幡宮の奉納相撲が行われてきました。
 国道283号線から分かれた旧奥州街道を入ると,古民家がところどころ見られます。特に瀧澤家住宅は,伝統的な板塀と立派な長屋門などの屋敷構えは往時の面影を残しています。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは八幡宮に停めました
大田原(おおたわら)/大田原市中央
大田原 城下町と宿場町で発展
 大田原藩1万2400石余の城下町で,同時に奥州街道の大田原宿としても発展しました。町並みに城下町としての面影は感じられませんが,所々蔵造りの民家が見られます。
▲ラーメン(400円/たんぽぽ)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは栃木県庁那須庁舎に停めました
黒羽(くろばね)/大田原市黒羽向町
黒羽 登録文化財の足利銀行
 黒羽藩の城下町です。特に向日町は関街道の陸運,さらに那珂川の水運を利用した交通の要地で,3,8日は市が立っていました。いま町を歩きますと,蔵造りや平入りの古民家が点在。かつての繁栄ぶりを偲ばます。
▲国の登録文化財・足利銀行
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは足利銀行の駐車場に停めました
馬頭(ばとう)/那珂川町馬頭
馬頭 江戸時代は交通の要衝
 江戸時代は水戸藩領でした。水戸から黒羽へ向かう往還と奥州棚倉から江戸へ向かう往還が合流する交通の要衝でした。特に煙草,米の出荷,積み出しでにぎわい,多くの人たちで賑わったそうです。
▲国の登録文化財・飯塚家住宅
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは那珂川町役場に停めました
烏山(からすやま)/那須烏山市中央
烏山 古民家が消えていく町
 江戸時代,烏山藩は領主が絶えず変わっていました。享保10年になって近江国から若年寄の大久保常春が2万石で入封し,ようやく藩主として定着しました。以後,明治まで8代,約150年にわたって在封しました。
 で,町を歩いていると,いたるところで道路の拡幅をしており,片っ端から蔵など古民家を壊している光景を目撃します。道路を拡幅して町おこしに成功した例はありません。
 それでも,あちこちに土蔵造りの商家や格子のある民家が残っています。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは足利銀行の駐車場に停めました
石橋(いしばし)/下野市石橋
大正時代の建築 消えつつある往時の面影
 日光街道の宿場町の一つ。本陣,脇本陣が各1軒,旅籠が30軒と中規模の大きさでした。日光街道は,公用に伴う通行が多く,助郷を含めて大変な負担だったとか。いま古民家も極めて少ない状態です。
▲かけうどん(100円・SYOJI)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東北本線石橋駅から徒歩10分
小金井(こがねい)/下野市小金井
小金井宿/日光街道 土蔵造りの古民家
 日光街道15番目の宿場で,家数は126軒あったそうです。本陣,脇本陣,旅籠は40数軒もありました。一方,米造りは盛んでしたが,江戸への搬出は半田河岸の河川港を利用しました。また農家が旅籠,茶屋を営む者もでたとか。五穀栽培のほか,野菜造りや男は往還稼ぎや草履造り,女は木綿織を行なっていました。
 いまは国道4号線とほぼ重なっており,一里塚は国の史跡に指定されています。将軍家の休憩所となった慈眼寺は,新田義兼が一族の祈願所として建立。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東北本線小金井駅から徒歩12分
小山(おやま)/小山市中央町
持宝寺/江戸時代政策の梵鐘が残っています 古民家風の建物が…
 中世は小山氏の居城で,江戸時代は日光街道・小山宿でした。いま小山宿通りを歩きますと,道路の拡幅で宿場の雰囲気はゼロ。少しばかりの古民家風の建物が残っています。
▲とろろそば(350円/きそば)
感動度 もう一度いきたい度 交通 JR東北本線小山駅から徒歩10分
間々田(ままだ)/小山市乙女
間々田宿 日光街道の宿場町
 江戸時代は日光街道の宿場町として発展しました。本陣,脇本陣のほか旅籠50軒,居酒屋16軒もあったとか。交通機能は河川もあり,乙女河岸は周辺地域のから江戸への米の積出港でもありました。
▲小川家住宅(国の登録文化財)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東北本線間々田駅から徒歩10分
栃木(とちぎ)/栃木市
栃木 都市景観賞を受賞
 巴波川沿いに黒塀に囲まれた8棟の蔵(写真左)が並んでいる写真は有名です。しかしそれだけではく、日光例幣使街道沿いには黒漆喰で造られた見事な土蔵が並んでいます。聞けば、栃木市内には約400もの蔵が残っているそうです。1995年には都市景観大賞「景観100選」を受賞しています。まさに「蔵の町」です。
 江戸時代に栃木城が出来て,19年後には打ち壊されました。これで城下町から商人町へと転化することで,町の性格が激変したことが大きい。 
蔵の町・栃木 蔵の町・栃木
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 あちこちに駐車場があります
嘉右衛門(かうえもん)/栃木市嘉右衛門町
日光例幣使街道/重要伝統的建造物群保存地区 歴史的建造物が続きます
 街道が穏やかなカーブになっており,両側には歴史的建造物がズラリと連続しています。かつての日光例幣使街道を彷彿させるような感じです。交通量も比較的少なくのんびりと歩けました。見世蔵,白壁土蔵,町家,さらに近代建築と続きます。
 天正年間(1573〜92)に,岡田嘉右衛門が独力で新田開発,その後岡田家は畠山氏の陣屋となりました。また巴波川(うずまがわ)舟運が開かれ,栃木町を中心に大きく発展。現在岡田記念館として広大な敷地と数々の宝物が残されています。 
国の登録文化財に指定/重要伝統的建造物群保存地区 油屋傳兵衛の店
▲例幣使街道の入口の登録文化財が目立ちます ▲天明年間創業,味噌・田楽の油屋傳兵衞本店
感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 東武日光線栃木駅から徒歩25分
金崎(かなさき)/栃木市西方町金崎
金崎宿・日光例幣使街道 日光例幣使街道沿いの町
 正保年間に京都からの例幣使が定例化すると,例幣使街道の宿場町として発展しだしました。本陣1軒,旅籠12軒,人馬継問屋1軒とそれほど大きくはありません。いまは県道131号線の両側に古民家が少々残る。
本陣跡(古澤家)
▲旧本陣跡(古澤家)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線金崎駅から徒歩5分
富田(とみだ)/栃木市大平町富田
富田宿/例幣使街道 趣のある洋館も見られる
 元和元年(1615),徳川家康の棺を日光に埋葬するために,富田宿を通過したときにはすでに,宿場としての機能が備わっていました。正保3年(1646),幕府から例幣使街道の伝馬宿に指定されとか。のちに宿場は,新町,上町,中町,荒町,下町の5町で構成され,かなり大きな宿場であったことが想像できます。
 富田交差点の一画に,本陣跡の石碑が建っています。古民家もわずかながら見ることができます。また旧大平下病院の板壁の洋館は趣があります。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線新大平下駅から徒歩5分
合戦場(かっせんば)/栃木市都賀町合戦場
日立の創業者生誕の地
 地名に惹かれてやってきました。かつて皆川宗政と宇都宮忠綱とが戦った古戦場にちなむそうです。もちろん例幣使街道の宿場町でもあります。毎年4月,朝廷から幣帛(へいはく)のための例幣使が京都から派遣されていた時の街道です。
 もう一つの自慢は,日立製作所創業者・小平浪平の生誕の地(写真)でもあります。建物は街道沿いに残されています。
 本陣や脇本陣は普通の民家になって往時の面影はありません。ただ磐根神社に向かう道筋に古民家が残っていました。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線合戦場駅から徒歩7分
野木(のぎ)/野木町野木
一歩横丁に入ると雰囲気が漂う 横道に入ると往時の面影
 もともと野木神社の周りに住居が集まってきたのがはじまりで,その後,街道筋に出て馬継が開始され野木村が成立。さらに慶長7年(1602)に本野木村と新野木村が合併して野木宿になりました。それから整備が進められたのです。
 このあたりの日光街道は,国道4号線とほぼ重なっています。ところどころ古民家が見られますが,往時の面影はなし。「野木宿入口」の小さな立て札があります。そこで一歩,横道にそれますと,一気に雰囲気がよくなるのです。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東北本線野木駅から徒歩20分
真岡(もおか)/真岡市荒町
やすらぎの堀 意外にも多い古民家
 江戸時代,真岡木綿の名で江戸に広がりました。そのせいか商家が目立ちます。ところが文政年間に効率のいい足利木綿に圧されて消えていきます。意外にも古民家が多かったなあ。
▲やきそば・300円と餃子・320円(足立屋)
真岡 真岡
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは真岡信用組合の駐車場に停めました
益子(ましこ)/益子町益子
益子 茅葺き屋根の民家や商家
 焼き物のふるさとでもあります。江戸時代,黒羽藩が当時瀬戸から伝わった焼き物・瀬戸焼を藩の特産物として,奨励保護しました。そして農家の余業として徳利,土鍋,土瓶などを鬼怒川を利用して江戸に運んだそうです。その「後御産物瀬戸物役所」まで置いて支配したとか。
 瀬戸物市に何度か訪問したことがありますが,ふだんはとても静かな町です。駅前や県道沿いに益子焼きの専門店がありますが,人は見かけません。歩いているとところどころ茅葺き屋根の民家や商家を見かけます。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは町営駐車場に停めました
七井(なない)/益子町七井
七井 江戸時代から交通の要衝
 江戸時代からの交通の要衝で,奥州街道喜連川宿や白沢宿,日光街道宇都宮宿の助郷を勤めたところでもあります。そのせいか天保年間には,喜連川藩,大田原藩,黒羽藩,幕府など多くの藩の所領でした。
▲真岡鐵道七井駅
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 真岡鐵道七井駅前広場に停めました
茂木(もてぎ)/茂木町茂木
茂木 明治にたばこ産業の発展
 ところどころ土蔵造りの商家が見られます。明治以降の建物です。以前から煙草の生産が盛んに行われてきましたが,明治に入って,葉たばこ,刻み煙草の生産額が急速に伸び,西の広島県と肩を並べるにいたりました。7つの委託工場4000人近い従業員がいました。それに伴い,多くの飲食店,芸者の置屋などもあったりしたのです。
 煙草は東京や茨城方面へ幾つかある茂木街道を利用して出荷。しかし煙草生産の委託が解消されると一気に大不況がやってきたとか。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは足利銀行駐車場に停めました
壬生(みぶ)/壬生町通町
壬生蘭学通り 美しいまち賞を受賞
 江戸時代,壬生城下は3万石前後の領主が絶えず変わりましたが,小藩といえども,いずれも幕府の要職に就いた譜代大名。また日光街道・壬生通りの宿場町としても発展しました。
 古い町並みは蘭学通り約800mの両側に広がっています。平成6年,通学路の整備と商店街の活性化を目指して,電線の地中化などを行ない平成14年に完成しました。このあたりは,医者が多かったことから「蘭学通り」と命名されたとか。このことから栃木県経済同友会が「美しいまち賞」に指定しました。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは足利銀行駐車場に停めました
文挟(ふばさみ)/日光市文挟町
日光道中壬生道・文挟宿 壬生道の宿場町
 江戸時代は日光神領で日光街道壬生道の宿場町。旅籠は14軒と小規模な宿場でした。いまは,古民家は所々に残されていますが,消えてゆく運命にあるかも知れません。
▲正油ラーメン(650円・あじ峯)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR日光線文挟駅から徒歩5分
板橋(いたばし)/日光市明神
板橋宿 道路の拡幅で古民家が…
 板橋藩は江戸時代初期の極小藩で,2代藩主・松平成重は,大坂の陣の功績により,三河国西尾に2万石で転封となり,板橋藩は廃藩となりました。
 廃藩となっても日光神領になったので,宿場は残ります。本陣,脇本陣,旅籠は25軒あったそうです。また茶店,各種商店,問屋なども多く,男は宿駅まで駄賃稼ぎをしたとか。
 いま,板橋付近は,道路の拡幅,バイパスの建設等で,街道の様子が変わってきました。かろうじてポツンと残る古民家が数軒あります。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線明神駅から徒歩25分
今市(いまいち)/日光市今市
今市宿/会津西街道 3つの街道が合流する
 日光街道,例幣使街道,会津西街道が合流する宿場町だけに,交通の要衝でもありました。物資の集散,人の往来は盛んで,元禄8年(1695)には,周辺の宿場への人足の継立ては延べ1万3500人余とか。
▲ラーメン(480円・光来軒)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武日光線下今市駅から徒歩15分
日光(にっこう)/日光市上鉢石町
日光 古民家は土産物店に変身
 言わずと知れた徳川幕府の聖地。江戸時代前期に日光山貫主の天海僧正が徳川家康をまつるために東照宮を建造した所です。背後には家康の墓もあります。
 徳川将軍の行列は日光街道の終着,鉢石宿入口(JR日光駅付近)で,いったん身繕いをし,乱れた列を立て直して,宿場内を堂々と進みます。そして神橋で駕籠を降りて歩いて参拝に向かうのです。
 いまは駅から神橋まで,蔵造りや瓦葺きの古民家など大部分が土産物店になっています。
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 東武日光駅から徒歩10分〜30分
湯西川(ゆにしがわ)/日光市湯西川
湯西川温泉 交通不便な最奥の温泉地
 福島県境の奥深くにあり,平家落人の里ともいわれる交通の不便なところ。戦前は4軒の湯治宿があった寂しい温泉地だったそうですが,昭和30年代の温泉ブームで,一気に注目されました。ただ歴史は古く,開湯は天正元年といわれています。江戸時代は日光山の寺領となっていました。将軍家の日光参拝の折りには,人足を出すなど日光と深い関係がありました。
 いま町を歩きますと会津西街道に沿った湯西川沿いにあり,茅葺き屋根の民家,鉄板葺きなどの古民家も見かけます。
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは日光市営駐車場に停めました
松原(まつばら)/日光市足尾町松原
松原/銅街道 国の登録文化財2件
 江戸時代は一寒村でした。ところが銅山の発見により,幕府直轄の陣屋が置かれ,役人,銅山師,作業員,商人などが往来。明治10年(1877)に古河市兵衛が経営すると,一気に町は発展しました。そして大正元年に通洞駅が開業すると,足尾の中心地となったのです。しかし度重なる火災,銅山の衰退で足尾の町も寂れていきました。ただ今でも銅山観光の起点でもあります。
 明治の旧家は消えましたが,それでも銅街道沿いに古民家は残っています。
駅舎とプラットホームが指定 このあたりには何軒かの旧カフェを思わせる建物が見られます わたらせ渓谷鉄道では幾つかの架橋も登録文化財に指定されました
▲通洞駅も国の登録文化財に指定 ▲旧カフェを偲ばせる建物も残る ▲渋川橋梁も国の登録文化財です
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 わたらせ渓谷鉄道通洞駅から徒歩5分
足尾(あしお)/日光市足尾町足尾
銅街道の横道 足尾駅も国の登録文化財
 慶長年間には銅が発掘されていましたが,慶安2年(1649)に足尾陣屋から利根川河川までの銅山街道(銅街道)が整備され,宿場が整備されるにつれ発展していきますが,明治,大正になると最大級の繁栄を迎えます。しかし負の遺産,すなわち公害が表面化し,鉱毒事件,争議,集団脱走,天皇への直訴などが相次ぎます。「日本の公害原点」ともいわれています。
 足尾駅近辺はわずかの古民家が残る程度ですが,迎賓館・古河掛水倶楽部など近代建築が見られます。   
明治41年築の足尾教会堂
▲足尾駅も国の登録文化財です ▲足尾キリスト教会(明治41年築) ▲焼そば(400円・ラ ポール)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 わたらせ渓谷鉄道足尾駅から徒歩10分
下間藤(しもまとう)/日光市足尾町下間藤
下間藤の集落と 街道沿いに土蔵や商家
 上間藤,赤倉と共に一大商業地となりましたが,明治の末期に“工作課”が,大正6年に“分析係”が開設されて,足尾鉄道の開業も含めて一気に工業地となりました。いまは土蔵や商家が街道沿いに残る程度。
銅街道から少し入ったところにあります。もちろん無人です。
▲今でも残る銅山の旧社宅群
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 わたらせ渓谷鉄道間藤駅から徒歩8分
佐野(さの)/佐野市本町
佐野 意外に多かった蔵造り
 地味な町です。佐野ラーメンで知る人ぞ知るという町です。ところが、かつての本陣、問屋、町家などが集まる日光例幣使街道の宿場町(天明宿)でした。また渡良瀬川を利用した水運の町でもありました。現在は本町を中心に蔵造りの商家が残っています。黒塀のある蔵、共通しているのは黒瓦葺きで,蔵造りの建物が意外に多かったのが印象的。
 はじめて訪ねた町です。ところどころ赤い布に白い文字の「佐野ラーメン」ののぼりが目に付きます。味は、あっさり目です。
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR両毛線佐野駅から徒歩15分
犬伏(いぬぶし)/佐野市犬伏上町
犬伏宿/例幣使街道 例幣使街道最大の宿場町
 隣村の堀米の加宿を加えると,例幣使街道では最大の宿場町だとか。本陣2軒,旅籠は44軒,問屋2軒を数えました。毎月1と6日に市が立ち,かなり賑わったようです。いまは古民家が所々に点在しています。
▲手打中華そば(600円・森田屋)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR両毛線佐野駅から15分
田沼(たぬま)/佐野市田沼町仲町
田沼 土蔵造りの商家が点在
 中世に建立された一瓶塚稲荷神社の門前町として発展しました。江戸時代は佐野氏の改易により彦根藩領となったりと,複雑な様相を示しています。今は土蔵造りの商家がわずかです。
▲田沼の守り神・一瓶塚稲荷神社
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは商店街の買い物客専用駐車場に停めました
葛生(くずう)/佐野市葛生町東
葛生 蔵造りの町家が目につく
 葛生原人で知られた町です。昭和25年,石灰会社の採掘場から人骨が発見され,昭和27年に直良信夫氏(早大教授)が葛生原人と命名しました。しかし平成13年にフッ素年代測定法で調べたら,室町時代ころの人骨と判明したのです。
 つまり石灰採掘は江戸時代からの主要な産業で,高瀬舟に積んで渡良瀬川や利根川で江戸まで運んでいたのです。また徳川将軍の日光参拝にともない,今市宿の助郷の役割を果たしたそうです。今は,蔵造りの町家が多く残っています。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは「町の駅」で停めました
足利(あしかが)/足利市大門通
足利 古代は東山道の宿駅
 何度か来ました。両毛線沿線の観光地では、最も集客数が多い、のではないかと思います。復元された足利学校、鎌倉時代の本堂が残るばん阿寺があり、その周りを江戸や明治の蔵が若干残っています。
 古代から交通の要衝で東山道の宿駅でもありました。また渡良瀬川を利用した舟運も発達。そして言わずと知れた足利氏発祥の地でもあります。江戸時代は宇都宮藩の陣屋が置かれ,養蚕を利用した機織り業が発展しました。戦前は東洋のマンチェスターと言われたとか。 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 東武足利市駅から徒歩20分
八木(やぎ)/足利市上渋垂町
八木宿/例幣使街道 八木節発祥の宿場町
 江戸時代は八木宿村といい,例幣使街道6番目の宿場でした。例幣使一行は,毎年4月11日に太田宿に宿泊,八木宿や隣の梁田宿で小休止,12日に佐野・天明宿に宿泊するのが恒例でした。当時,本陣は1軒旅籠19軒,総数は96軒あったと記録されています。八木宿村は明治に入って福居町の一部になりました。
 ところで,八木節は越後出身の飯盛り女たちが「くどき節」を原型に,明治期に堀込村の堀込源太が整調したものです。ここは八木節の発祥の地です。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東武伊勢崎線福居駅から徒歩10分
梁田(やなだ)/足利市梁田町
梁田宿/例幣使街道 往時の面影はほとんどない
 明和3年(1766)に宿場町が形成しました。江戸末期の天保14年(1843)には,本陣2軒,旅籠32軒にまで大きくなっています。とはいっても,できた当初から隣の八木宿と合わせて1宿扱いでした。実際に歩いても10分足らずで八木宿に行けました。
 明治元年戊辰の役では,佐幕派と官軍の争いとなった梁田戦争が起こり,民家40軒が兵火に見舞われました。戦死塚が長福寺にあります。いまは往時の面影はほとんどありません。宿場の案内板も薄れて読めない状態でした。
感動度 もう一度いきたい度 交通 東武伊勢崎線福居駅から徒歩30分