山梨県の古い町並み

山梨県

 猪狩(いかり)/甲府市猪狩町
  観光道路の裏に古民家
 昇仙峡の入口にあたるところです。幕末・明治以降、多くの文人墨客や観光客で賑わったところで、それはいまも変わりません。江戸時代は土地がやせ細り、雑穀が少々できる程度。そこで荒川対岸の高成村に“出作”していたくらいです。「猪狩・川窪、寒地獄……」といわれたくらいで、冬の寒さは壮絶。また薪炭を背負って甲府城下に出て、米、塩、雑貨を得て帰るのに1日がかりでした。
 さて、昇仙峡ラインの一歩山側に入ると、土蔵や切妻型の古民家が連なります。平日の早朝にやってきましたが、とても静かでした。
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
上黒平(かみくろべら)/甲府市黒平町上黒平 
  切妻型の旧養蚕住宅
 かつて「猪狩・川窪、寒地獄、まして黒平、鬼が住む」とまで言われた辺境の地。下黒平からさらに奥地に進みます。山間に佇む集落ですが、NPO法人・自然森の学校を創設し、過疎化、高齢化を防ごうと活動しています。江戸時代、点々と開墾した所で雑穀を栽培。 
 
▲下黒平集落/斜面に沿って数軒 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
和戸(わど)/甲府市和戸町
和戸 ところどころ蔵を見られる
 歴史は古く平安時代にまでさかのぼることができます。このあたりを表門郷(うわとのごう)と呼ばれていました。
 江戸時代,武田氏が滅亡すると織田信長,さらに徳川家康の領国となります。当時,甲州街道が通っていて,小さな集落でもありました。文化年間には戸数63,人口は215人だったそうです。街道沿いには延々と松並木が続いていたとか。いまは往時の面影はありません。
 ただ歩いていますと,ところどころ土蔵や白壁の蔵を見ることができます。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはローソンに停めました
右左口(うばぐち)/甲府市右左口町
右左口宿 商品の保管のための蔵
 甲斐と駿河を結ぶ中道往還の宿場町です。耕地が狭いため,遠州産の塩や海産物を仕入れて,全国に販売するという商業が発達,そのための蔵が多かったとか。
▲正油ラーメン(550円/めん丸)
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました
西条新田(さいじょうしんでん)/昭和町西条新田 
  ところどころに古民家
 江戸時代、旧西条村の新田開拓地がそのまま町名になりました。現在、甲府市の郊外住宅地として発展。実際に、朝のクルマによる通勤ラッシュに遭遇しました。ラッシュが終わって歩くと、静かな住宅地。そんな住宅地の合間に、土蔵などの古民家が見られます。 
 
▲杉浦家住宅医院/昭和前期の医院建築。国の登録文化財 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは杉浦医院の駐車場に停めました 
鶴川(つるかわ)/上野原市鶴川
鶴川宿 ほとんどが戦後の建物
 甲州街道沿いの宿場町ですが,他の宿場と同じように正徳3年に集落が形成されました。天保14年には,戸数57,人口は295人,本陣は1軒,脇本陣2軒,旅籠は大3軒,中3軒小2軒の小さな宿場町であったそうです。現在はほとんど戦後の建物で改装されています。
 町名は宿場の東側を流れる鶴川から名付けたとか。この鶴川は絶えず増水することから,「増水時徒渡し」で,川越人足たちが,深さによって16文〜48文の賃銭をとっていたとの記録があります。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
野田尻(のたじり)/上野原市野田尻
野田尻宿 小さな宿場町でした
 甲州街道沿いの宿場町です。集落は正徳3年(1713)に形成され,天保14年(1842)に,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠は大2軒,中3軒,小4軒の小さな宿場町でした。蔦屋,紺屋,中田屋,酒屋,鶴屋,万屋などの屋号が現在でも残っています。もちろん職業は違っています。
 宿場の裏側は田畑が広がり,茶店では食料を売っていたといわれています。
 街道を歩いていて気がつくのは,民家の造りから養蚕を営んでいたように思われます。でもかなり修復されているようです。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
犬目(いぬめ)/上野原市犬目
犬目宿 往時の面影はありません
 甲州街道沿いの宿場町です。本陣は2軒,脇本陣はなく,天保14年には人口255人,旅籠は15軒あったというから,小規模ぐらいだったといえましょう。家並みはそこそこ続きますが,山間の中腹にあたるため,宿場の両端は急坂になっており,かつては難所でもありました。
 犬目は,近隣の猿橋宿,鳥沢宿など十二支から名付けたという説があるそうです。
 明治に入って桂川沿いに新道が開削されたり,鉄道(中央線)が開通すると一気に寂れたのはいうまでもありません。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
鴨沢(かもさわ)/丹波山村鴨沢
鴨沢集落/青梅街道 唐破風のある旧旅館
 戦国時代から金山採掘のため多くの人たちで賑わいました。江戸時代に入ると大菩薩峠越の山道は甲州裏街道と呼ばれ青梅と甲州を結ぶ要路となりましたが,明治初年に柳沢峠越えの新ルートが開かれ青梅街道に。交通が便利になった反面,昭和32年完成した小河内ダム(奥多摩湖)によって,110数戸あった鴨沢集落も半分が水没,一気に衰退。いま水没を逃れた古民家が残されており,土蔵,白壁,板壁の2階家,唐破風や千鳥破風のある旧旅館,料亭などが見られます。
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR青梅線奥多摩駅からバスで鴨沢下車すぐ
鳥沢(とりさわ)/大月市富浜町鳥沢
甲州街道 棟割りの2階家が続く
 甲州街道沿いの宿場町です。実際は上鳥沢宿,下鳥沢宿に分かれていました。建物は2階家の棟割りで簡素な出桁造りが,固まりとなって点在しています。ただ交通量がかなり多いので注意。
▲吉田うどん(370円/小竹林)
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはセブンイレブンに停めました
初狩(はつかり)/大月市初狩町
初狩宿 戦国時代からの宿場町
 甲州街道は幕府が整備した軍用道路だっといわれています。45の宿場の内,大月市内には12宿が位置します。初狩の歴史は古く,応仁の乱後の文明19年(1487)に京都聖護院門跡・道興がこの地を踏んで「はつかりの里」として1首詠んでいます。戦国の末期には宿場として整備されます。
 初狩は下初狩宿と中初狩宿に分かれています。しかしいまは境目はなく,ほとんど一体として捉えているのが実情。
 建物は2階家の庇の長い出桁造りの多いのが特徴です。
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはローソンに停めました
古川渡(ふるかわど)/都留市古川渡 
古川渡/富士道沿いの集落 富士講で賑わう集落
 甲州街道の脇往還で谷村路(やむらじ)といい,富士道ともいいます。江戸時代は富士講道者で賑わった街道で,下吉田で鎌倉街道とぶつかります。このあたりは川の渡しがあり,かなり賑わったようです。
明治40年築・国の登録文化財
▲東京電力駒橋発電所落合水路橋
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 富士急行禾生駅から徒歩10分
寺町(てらまち)/都留市中央
寺町通り/芭蕉の句碑巡りと重なっています ●寺院や古民家の寺町通り
 まちなかを貫く国道139号線に沿ったL字型の裏道に,幾つかの寺院が建ち並んでいます。石畳を歩きながら,のんびりできる散策コース。なかでも円通院の偉容には圧倒されます。特に,六角三重塔や鐘楼,山門の姿は印象的です。この寺町通りは,場所の句碑巡りと重なっています。天和2年(1682),江戸の大火で深川の草庵を焼失した芭蕉は,俳人でもあった国家老の高山伝右衛門宅に身を寄せたとか。
 白壁の土蔵や塀,美しい植栽や石垣など石畳みと似合う町。
専念寺 円通院 山の麓を巡ると寺院が続きます
▲専念寺/教育者・森嶋其進の墓 ▲円通院(左から)三重塔,山門,鐘楼 ▲石畳みが続く寺町通り
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 富士急都留市駅から徒歩10分
上谷(かみや)/都留市上谷
商家資料館(旧仁科家住宅) 古民家が多く残る
 江戸時代谷村潘の城下町として整備が進みました。その後幕府領となり,養蚕と絹織物の一大集散地として栄え,多くの問屋や商家が並びました。町には古民家や近代木造住宅も多く残り,けっこう楽しい町並み。
谷村町駅構内にあります
▲ラーメン(500円・文化飯店)
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 富士急谷村町駅から徒歩10分
十日市場(とおかいちば)/都留市十日市場
十日市場 富士道沿いの古民家
 最近,冬でも13度前後の湧水を利用した水掛菜が名産として注目されています。古民家は富士道沿いに多く残っています。瓦葺きやトタン屋根など色々で,軒下の深い,平入の造になっています。ほとんどが改装。
▲永寿院の湧水は「水百選」
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 富士急十日市場駅から徒歩5分
夏狩(なつがり)/都留市夏狩
夏狩集落/このF邸の蔵は手入れが行き届いていました 迷路歩きで見つけた土蔵
 名水を求めて歩いているうちに迷いこんだ集落です。意外にも古民家が点在しているのです。蔵も土壁が多く見えたのも,漆喰がはがれ落ちたからでしょうか。いたるところで見られます。共通しているのは,屋根の庇が突き出ていて,しかもトタン葺きというか,瓦葺きが見あたりません。2階建ての町家も軒下が深いのも,この地方の特徴か。
 クネクネとした迷路のような細道が続き,公道と私道の区別がつかないほどでした。でもこんな集落を歩くのが楽しい。地名の由来は夏に狩りをした所。
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 富士急東桂駅から徒歩15分
下吉田(しもよしだ)/富士吉田市下吉田
旧絹屋町 旧絹屋町に花街の面影
 大正11年(1922)に富士織物が設立されたのがきっかけで、糸屋、撚糸屋、染色屋などがたくさん軒を並べました。やがて、東京や大阪、名古屋からも仲買人が出張してくるようになり、このあたりの座敷を借りて市が開かれたのです。儲けた商人たちは月江寺通りや西裏通り、この絹屋町で豪遊しました。昭和30年代まで続いたとか。
 間堀川にかかる郷台橋周辺を歩きますと、旅館や妓楼らしき建物がごっそり残っています。2階の手すりや軒下にかつて花街を思わせます。
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 富士急下吉田駅から徒歩15分
月江寺(げっこうじ)/富士吉田市下吉田
旧角田医院/月江寺通り 「昭和の町」と富士山
 「月江寺」は「西裏」と並んで市内最大の繁華街です。絹屋町で儲けた織物商人たちは,この地で豪遊しました。裏道を含め,ギッシリと詰まった古民家群は,昭和の名残りを見ることができます。旅館,料亭,旧妓楼などがそのまま残っています。そこで「昭和の町」として売り出中。
 さびたトタン壁,モルタル造りの建物がひしめき合う路地の向こうに富士山が見えるのだから,うれしくなります。でも夜に歩けば,薄汚れた町並みも見えません。そんな月江寺商店街はドラマや映画のロケが多いとか。
旧妓楼/木造3階建てです。唐破風や2階,3階の窓の手すり,壁面や3階の窓のデザインなどおもしろい。 月江寺/古刹ですが,行って見てガッカリ。 カフェ月光/大正時代に建てられた
▲木造3階建ての旧妓楼 ▲古刹月江寺はガッカリでした ▲ロケに多く使われたカフェ月光
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 富士急月江寺駅から徒歩15分
上吉田(かみよしだ)/富士吉田市上吉田 
上吉田の町並み 御師宿坊の町並み
 御師(おし)とは自宅で宿坊を営み,冨士講の登山者を受け入れて登山の案内や祈祷など宗教的な役割を担ってきました。現在,15軒ほどの宿坊が残っていますが,信仰の宿坊として役割は終えたようです。
富士山駅の地階にあります。ライスが富士山頂上の形をしています。
▲富士山カレー(800円・天下GO!麺)
御師/菊谷坊 小佐野家住宅/国の重要文化財 旧外川家住宅は唯一一般公開しています/山梨県指定の文化財
▲御師 菊谷坊(秋山家) ▲小佐野家住宅(江戸後期築・重文) ▲御師 旧外川家住宅(県の文化財)
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 富士急富士山駅から徒歩15分
横町(よこまち)/富士吉田市上吉田
旧横町と横町通り 参道を横に折れるから横町
 金鳥居から表参道をまっすぐ歩き,上宿で肘を折ったように左に曲がる通りを横町通りといい,連なる町家が横町といわれました。そしてしばらく行くと浅間神社の入口,大門口に到着。
 ところで表参道が直角に曲がっているのは,度重なる雪代(ゆきしろ/大量の雪解け水)により,元亀3年(1572)に今の町並みに集団移転したのです。
 上宿交差点は江戸時代には「胎内追分」と呼ばれました。また横町通りの北側は上町と呼ばれ,御師以外にも山小屋の小屋主たちも住んでいたとか。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 富士急富士山駅から徒歩20分
勝沼(かつぬま)/甲州市勝沼町勝沼
勝沼宿 商家や問屋などが残る
 本陣は1軒,脇本陣は2軒,旅籠は規模別に大5軒,中7軒,小11軒あったそうです。農産物を江戸に出荷するなど,商家や問屋も多く,かなり賑わっていたとか。古民家も多少,残っています。
旧田中銀行
▲国の登録文化財・旧田中銀行
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 藤木(ふじき)/甲州市塩山藤木
  土壁の蔵が散見できます
 古くは秩父街道が村内を通っていました。平坦地で水田が多かったようですが、一方では養蚕も盛んでした。登録文化財の武藤酒蔵主屋は3階が養蚕部屋でした。このあたりは、武藤家同様に土壁の蔵が散見。用水路が巡り、美しい景観を見せています。
 
 ▲肉うどん(450円・竹の子食堂) 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 上条(かみじょう)/甲州市塩山下小田原
  「突上げ屋根」の蚕室
 斜面に連なる集落で、夏の平日に汗だくで歩き回りました。江戸時代後期から昭和時代初期にかけて残る古民家が中心です。切妻型13軒、さらに蚕室のある民家が5棟、さらにあちこちに土蔵が残っています。一般に養蚕住宅は風通しを良くするために屋根の両側に窓を付けたりします。でもココでは屋根の中央部を一段高くして窓を設ける「突上げ屋根」構造にしています。こんな蚕室ははじめて見ました。また、集落を歩いていると、漆喰の白壁と柱を組み合わせた真壁は、緑に映えて実に美しい。重要伝統的建造物群保存地区です。  
     
▲突上げ屋根の甲州民家情報館  ▲茅葺きの観音堂も整備されました ▲縦横の線の美しい真壁(しんかべ) 
 感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは甲州民家情報館の駐車場に停めました 
上於曽(かみおぞ)/甲州市塩山上於曽
  旧高野家は重要文化財
 JR塩山駅を中心に広がる町のせいか、甲府への通勤・通学客も多く、町は現代住宅で充実しています。しかし、一歩裏手に回ると土蔵などの古民家も多いのが特徴です。駅前の旧高野家は、江戸時代に幕府直営の薬草栽培所でもありました。国の重要文化財です。 
 
▲旧高野家住宅(甘草屋敷)/中央の突上げ屋根は養蚕も行っていた 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは甘草屋敷の駐車場に停めました
 下於曽(しもおぞ)/甲州市塩山下於曽
  切妻型や土蔵が点在
 中世の豪族・於曽氏の領地がそのまま旧下於曽村になったのではないかと推測。いまは、ブドウ、桃などの果樹の生産が主流になっています。同時にワインの生産量も多く、かつての酒造メーカーもワインも手がけています。歩いていますと、酒蔵や長屋門など白壁と腰板壁の美しさにひかれます。 
 
▲ 風間酒蔵酒店(右)と主屋(左)/国の登録文化財
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは風間酒蔵の駐車場に停めました
小原西(こばらにし)/山梨市小原西
  飯島家周辺に古民家
 戦国時代から続く集落。もともと小原村が東西に分かれて小原西村になりました。しかし古文書などには小原村として統一された記載が目に付きます。さて、旧青梅街道の宿場町で商店街、官庁などが集まっています。定期市は小原東村で実施。交通量が多く、撮影には神経を使いますが、飯島家周辺に土蔵や商家など古民家が集まっています。 
 
▲ 飯島家住宅/国登録文化財・左
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはコンビニに停めました 
北(きた)/山梨市北
  門前の周辺に多数あり
 地域の守り神である大井俣窪八幡神社の繁栄とともに栄えてきた町です。国の文化財のほかに県や市の文化財が多数あります。江戸時代は八幡北村と呼ばれていました。いま門前を歩くと、多くの土塀や土蔵、商家などの古民家が残されています。古民家を利用したカフェも見られます。 
 
▲大井俣窪八幡神社/文化財多数 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはコンビニに停めました 
 東(ひがし)/山梨市東
  養蚕住宅の面影
 旧青梅街道、秩父街道などが通り、交通至便のところでした。土地はおおむね肥沃で、なかには二毛作の地もあり、野菜なども採れました。しかし笛吹川の氾濫によっては不作の時もあったようです。また農閑期は、ほとんどが養蚕を行っており、歩いていても、至るところに養蚕住宅が目に付きます。 
 
▲上野家住宅/県の指定文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
江曽原(えぞはら)/山梨市江曽原 
  切妻型民家群として
 地名の由来は、『甲斐国志』によれば、蓮静院の僧・蓮静が平安時代の宮廷画家・巨勢金岡(こせのかなおか)の描いた“少彦名”の神像を古御堂という地にまつったことから絵像原の名が起こり、転訛したといいます。いわば歴史ある土地で、江曽原集落跡から縄文・古墳時代の遺物が多数出土。
 歩いていますと、切妻型の古民家が多数残されています。しかも真壁造り。白壁ではなく荒土ですが、日本古来の美しさを見せてくれます。山梨市は「切妻型民家群」として、景観を保とうとしていますが、拡張した道路がやってきています。 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 切差(きっさつ)/山梨市切差
  切妻型養蚕住宅群
 曲がりくねった県道31号線を奥地に向けて走っていると、突然視界が広がり、切妻型の古民家群が目に飛び込んできました。よく見ると、養蚕型の住宅であることがひと目でわかります。谷間の静かな集落です。地名の由来は諸説ありますが、地形の関係から霧が深くさすから「霧指」(きりさす)と呼ばれ、それが転訛したとか。
 農地が狭小のため江戸時代から養蚕が盛んでした。茅葺きはさすがになくなりましたが、トタンで葺き替えた切妻型の古民家が至るところに点在。また改築、改造がなされていますが、往時の面影を見ることができます。  
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました 
正徳寺(しょうとくじ)/山梨市正徳寺 
  白壁の土蔵や長屋門
 戦国時代に武田家が再興した臨済宗正徳寺がそのまま地名になったといわれています。掘り割りには用水が流れ、白壁の土蔵やや長屋門が散在し、美しい景観を保っています。かつてのかやぶき屋根も、いまはトタン等に改装。 
 
▲旧根津家住宅/山梨県下で第2位の大地主で豪農でした 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは根津記念館の駐車場に停めました
 西保中(にしほなか)/山梨市牧丘町西保中
  養蚕型甲州民家群
 江戸時代、秩父から甲府に抜ける“秩父裏街道”沿いの集落でした。ほとんどが山林で、水田が少なく残りは畑、麦、豆類、果樹などが中心。農閑期は炭の生産も。水田が少ないのは土地は肥沃ながら、急傾斜地だからか。江戸末期以降は、養蚕が盛んになり、春蚕、秋蚕、晩秋蚕の3回も収穫。
 いま、集落内を歩いていいますと、ブドウ畑が続いています。一方、“フルーツ直売所”には桃が1パック500円で売られていました。農家のほとんどが旧養蚕住宅を改築、改造したものです。典型的な養蚕型甲州民家が見られます。  
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
 窪平(くぼだいら)/山梨市牧丘町窪平
  切妻造民家の典型
  秩父街道と秩父裏街道が交わろ、さらに水運では笛吹川と鼓川が合流する交通の要衝。大正時代は、甲府と塩山ともにバスが運行されました。豪農と思われる屋敷が多く、いずれも養蚕型住宅の面影を残し、甲府盆地東部に分布する切妻型造民家の典型といえます。
 
▲ 西川家住宅/県指定文化財
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました 
徳和(とくわ)/山梨市三富徳和 
  旧養蚕住宅が目を引く
 急峻な地形ゆえに、水田は少なく、炭焼きなど林業に従事する村民が多い。しかしなんといっても養蚕業が中心で、タマネギ、豆類、野菜などの畑作で補填。徳和川からの急坂を上がったところに旧坂本家住宅(1761年築)があります。荒土の壁が素朴な感じです。 
 
▲ 旧坂本家住宅/県の有形文化財
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは旧坂本家住宅駐車場に停めました 
上釜口(かみかまくち)/山梨市三富上釜口
  わずかな古民家
  笛吹川沿いの山深い小さな集落です。地名の由来は『甲斐国志』によれば、笛吹川で一番の滝を指しており、二番目の滝を下釜口と呼んだそうです。もともと釜口村の一村でしたが、何らかの理由で上下に分かれました。急峻な地形ゆえに耕地は少なく、養蚕のほかタマネギ、豆類等を生産。炭焼きも生活の糧でありました。それ故に、村高はわずかに22石。
 昭和40年ごろまで通っていた三塩軌道が廃止、その後国道140号線のある川浦集落に中心地が移ります。いまはわずかに板張りの古民家が残る程度。でも静かな集落です。
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
下今井(しもいまい)/甲斐市下今井
下今井 蔵造りの町家が点在
 その昔,志田今井とも書いたというそうです。というのも,今井という名の集落が多いため,近くの村名を冠に付けて区別したそうです。
 釜無川沿いで甲州街道沿いの小さな集落です。武田氏滅亡後は,幕府直轄となり甲府代官所がその任にあたりました。
 クルマの停めた自性院は曹洞宗の寺院です。地域の案内板には寺町とも銘記されています。蔵造りの町家が並び,のんびりと,と言いたいのですが,国道20号線の裏道のためか交通量はめちゃくちゃ多いのです。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは自性院の駐車場に停めました
志田(しだ)/甲斐市志田
甲州街道 なまこ壁の土蔵が散見
 武田氏の滅亡後,徳川幕府の直轄となり,甲府代官所の支配下となりました。釜無川横を通る甲州街道沿いの小さな集落です。文化初年の調査で,戸数102,人口354,馬11だったそうです。
 また古くから釜無川の氾濫で,水害に苦しんだという記録も見られます。
 交通量が多く,蔵造りの町家が多いのが特徴です。とくになまこ壁の土蔵が多いようです。なまこ壁は漆喰壁の耐水性をさらに強化するもので,伊豆地方にも多くみられます。 
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 道路脇の空き地に停めました
小淵沢(こぶちさわ)/北杜市小淵沢町
  土蔵があちこちに点在
 江戸時代は、信濃国との国境に位置するために口留番所が置かれました。また八ヶ岳山麓からの湧水が豊富で、農産物のほか、養蚕も盛んに行われました。通りを歩いていますと、やや高台のあたりに、土蔵がやたらと目立ちます。  
 
▲平田家住宅/江戸時代中期の建築。国の重要文化財指定 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
台ケ原(だいがはら)/北杜市白州町台ケ原
台ケ原 「日本の道百選」
 現在の甲州街道から一歩中に入ったところにある旧甲州街道の宿場町です。江戸時代の中期,信州高遠の北原伊兵衛が江戸へ向かう途中,うまい「白州の水」に出会い,酒造業を始めたのが現在の山梨銘醸(写真)です。いまも本陣の建築様式を伝えたまま往時の姿を残しています。
 またこの道は,旧建設省が指定した「日本の道百選」の一つに選ばれています。のんびりと歩ける町並です。
 土産物店,レストランなども昔ながらの建物です。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 駐車場 酒造会社「山梨銘醸」専用駐車場あり
 花水(はなみず)/北杜市白州町花水
  真壁の美しい集落
  台ケ原から長坂町清春へ抜ける坂の途中から「花水坂」と呼びました。また古戦場でもあります。で、登り切ったところが七里岩といい、その崖下に広がる美しい集落です。古民家も釜無川の両側に点在し、特に清泰寺周辺に多い。清泰寺の茅葺きの山門に注目。
 
▲ 清泰寺山門/文化財多数ある
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
若神子(わかみこ)/北杜市須玉町若神子
若神子 消えつつある古民家
 戦国時代には若御子とも記したようです。武田氏は信濃攻略の前線基地に一つとして陣所が置かれ,陣立てが行なわれたところです。川中島の戦いでも,前日は若神子まで軍を進めたと記録されています。しかし武田氏滅亡後は,徳川幕府の直轄となりました。
 江戸時代は佐久往還沿いの伝馬宿として発展しました。延享元年の戸数は165,人口694,馬80という,中規模の集落。
 このあたりは,道路の改良工事で,古民家が消えつつあります。残念です。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 須玉総合支所の駐車場に停めました
 上手(うえで)/北杜市明野町上手
  古民家も散在しています
 地元では「うわで」と呼ぶ人もいます。『甲斐国志』によれば文政年間の上手村の人口は1174人、戸数286で石高は1682とありますので、かなりの恵まれた集落であったようです。5人の名主によって治められており、八代家はその一つ。 
 
▲八代家住宅/1808年築。保存状態が良く、国の重要文化財に指定 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 大井ケ森(おおいがもり)/北杜市長坂町大井ケ森
  旧養蚕住宅が点在
 戦国時代、武田信玄の信濃経営上の軍事道路として、“棒道”と呼ばれるものがありました。大八田建岡神社前で北西に分かれ、大井ケ森から小渕沢、信濃に向かう道路を“上の棒道”に対して“中の棒道”と呼ばれました。そして、大井ケ森に関所を設置。これが大井ケ森口止め番所で、警護は近隣の村が交代で行いました。
 ところで、農地開拓には灌漑用水と飲料水の確保が先決。八ヶ岳の湧水と河川を利用して田畑、雑穀を栽培。明治から大正にかけて養蚕が一大ブームとなりました。歩きますと、旧養蚕住宅が見られます。 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは大井ケ森公民館の駐車場に停めました 
上円井(かみつぶらい)/韮崎市円野町上円井
上円井 古民家の風情を保つ
 戦国時代は「上つふらい」という記述も見られます。釜無川の氾濫は藩主にとっても悩みの種で,多くの治水事業にあたったそうです。これは明治,大正はもちろん戦後も続くのです。しかも交通の要衝だけになおさら。
 駿河からくる駿信往還と甲州街道が合流するところで,かなりにぎわったそうです。文化元年の記帳によれば,戸数は108,人口は337,馬42,牛21という,当時としては大きな集落であったようです。町は,なまこ壁の土蔵や白壁の塀などがあり,それなりに風情は保っていました。 
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました
 西野(にしの)/南アルプス市西野
  壁や塀の白い町並み
  江戸時代は水利の悪いところで田は皆無。畑作が主力で葉たばこなど含む幾つかの野菜を生産していました。明治は養蚕業、大正は果樹栽培へと移ります。現在は桃、スモモ、ブドウなど生産が盛ん。土蔵など、白壁の古民家が連なる。
 
▲芦澤家住宅主屋/切妻造+入母屋造の玄関。国の登録文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 桃園(ももその)/南アルプス市桃園
  国の登録文化財1軒
 地名の由来は、清和天皇の皇子・貞純親王の領地があり、「桃園院宮」と称したという説もありますが定かではありません。バスの停留所、神社の呼び方は「ももぞの」と濁る。
 江戸時代から水利が乏しく、水田は皆無でした。用水を引き、12カ所と少ない。そのため耕地に恵まれないので、ほかにニンジン、ダイコン、ゴボウなどを生産して販売していました。その後養蚕、そして果樹栽培へ転換しました。
 国の登録文化財の村松家住宅も、養蚕の面影を残しながらも、いまはきれいに改装されています。 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは桃園神社の駐車場に停めました
 西南湖(にしなんご)/南アルプス市西南湖
  土蔵など古民家が点在
 もともと奈古・那古といっていましたが、江戸期に入って南湖(なんご)村となりました。さらに東西に分裂、西南湖村となったのです。300年間、一度も火災に遭っていない安藤家は名主として活躍。往時のままの住まいを残し、そのほとんどが重文指定になっています。 
 
▲安藤家住宅(国の重要文化財) 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは安藤家住宅の駐車場に停めました 
四日市場(よっかいちば)/笛吹市石和町四日市場 
  古民家の改築改装が進む
 よくよく見ると、古民家を見事なまでに改装、改築しているところが多い町です。白壁も、切妻型の住宅もピカピカにきれいです。少しでも長く持たせたいという施主の思いが強いのでしょうか。この地区の代表的な須田家住宅も改装されました。2階はドイツ壁の洋館です。  
 
▲須田家住宅/昭和2年築。国登録文化財。洋館に対する思いが強い 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
高家(こうか)/笛吹市八代町高家
高家 長屋門のある農家
 中世の時代は小岡とも呼ばれました。関ヶ原の戦い後,徳川幕府の直轄地となりましたが,農民たちの貧しさは頂点にたっし,何度も何度も一揆が起こったところでもあります。特に寛保年間は餓死者まででるほど。そこで養蚕や煙草の作付けも盛んに行なわれました。
 畑のなかをクルマで走っていますと,こんもりと木々の生い茂ったところが高家集落です。小山城の城下でもありますが,豪農といった感じの長屋門のある農家が見られます。土蔵も点在しています。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
鶯宿(おうしゅく)/笛吹市芦川町鶯宿
鶯宿 けっこう大きな山村
 車で芦川渓谷沿いに上ると,谷間にひっそりとたたずむ集落にぶつかります。でも意外と大きく,人も車もけっこういます。全体で100戸前後の建物があるとか。
 かぶと造りの母屋に土蔵も併設されており,建物もかなり大きいです。かつて薪炭とコンニャクの生産で栄えた時代のなごりでしょうか。集落内の小道を歩くと,のんびりとした農村風景を見ることができます。
 江戸時代は幕府とのつながりが強く,中期からは四卿の一つ田安家領でした。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 駐車場 クルマは道端に停めました
市川大門(いちかわだいもん)/市川三郷町市川大門
市川大門宿 ポツンポツンと古民家が
 甲府から富士川沿いに駿河まで向かう甲駿街道沿いの宿場町として発展しました。文化初年には戸数923,人口3686とかなり大きな集落でした。陣屋も置かれました。
 やはり一大産業として発展した和紙の生産があります。これは武田氏以来の伝統産業で,徳川幕府も積極的に奨励しました。そして幕府に上納するくらい,質が高いものであったそうです。
 商店街のゲートには「今昔通り」とありますが,古民家はポツンと建っています。寂しいです。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
岩間(いわま)/市川三郷町岩間
岩間 蔵造りの商家が点在
 富士川沿いに伸びる甲駿往還の宿場町でもあります。江戸中期には近郊近在の商品経済の中心地となりました。近代に入ると軍用足袋,印章業なども発展したのです。
 町を歩いていると,蔵造りの商家が点在。静かな町です。
▲巨大はんこのある資料館
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは山梨中央銀行に停めました
湯之奥(ゆのおく)/身延町湯之奥
湯之奥-1 茅葺き屋根もある
 下部温泉からさらに奥に向かって走ること30分,湯之奥に着いた。老人だけの静かな集落です。石畳の両側に10軒ほどの農家があります。かつて金山の前進基地として栄えたそです。
湯之奥-2
▲重文の門西家住宅・母屋
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 駐車場 集落入口に駐車スペースあり
小室(こむろ)/富士川町小室
小室 堂々たる古刹・妙法寺
 驚いたのは,妙法寺の大きさです。さすがに古刹といわれるくらい立派な建物でした。江戸時代は広大な寺領や独自の百姓を抱え,一村的な扱いを受けていたのです。かつて落語にも出てくる毒消しで知られた寺だそうですが,いまは旅館もなく参道入口に土産物店らきし店が1軒あるのみの門前町です。
 参道入口の前門あたりから急坂になっており,のんびりと歩きます。草葺き屋根のある農家があったそうですが,いまはそれもなく,寂れた感じになっています。
感動度★ もう一度いきたい度★★ 駐車場 無料駐車場あり
青柳(あおやぎ)/富士川町青柳町
青柳 追分宿として発展
 左へ駿信往還,右へ駿州往還となる追分宿として発展しました。また釜無川と笛吹川の合流して富士川となる地点で,舟運の起点でもあったのです。
 ただ歩いても,歴史的建造物は少ないのが実情です。
▲町の駅・あおやぎ宿活性館
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはあおやぎ宿活性館に停めました
鰍沢(かじかざわ)/富士川町鰍沢
鰍沢 山間の舟運の拠点
 富士川右岸に位置するため舟運の拠点でもありました。文化元年には人口は2897人と大きな集落となりました。各地から物資がココに集まり,甲州や信州へ運んだのです。
▲カレーうどん(850円/國本屋)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 富士川町分庁舎に停めました
十谷(じっこく)/富士川町十谷
十谷 山奥に石畳みと蔵の集落
 十の渓谷が集まった所から名付けたとか。江戸時代は山林業が中心。石畳みと土蔵の似合う小さな町並です。郷土料理のみみは,甲州名物ほうとうの原型といわれています。
▲みみ(630円/みみの里)
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 無料駐車場に停めました
 赤沢(あかさわ)/早川町赤沢
 赤沢  ●江戸,明治,大正の建物
 県道37号線から村道に入るための入口がわからず,ぐるぐる周りました。で,これだと思う道を走っているのですが,「ひよっとして違うかも」という疑問を何度か持つほど,田舎道が続いていました。でも、こんな田舎道を走るのは、とても気持ちよく大好きです。
 赤沢は身延山詣での信者たちの宿場町の役割を果たしていました。総2階建てで,江戸,明治,大正時代の建物が残されています。集落内を歩くと,軒先にマネギ板と呼ばれる講中札が下がり,往時の面影を残しています。重要伝統的建造物群保存地区です。
 感動度★★ もう一度いきたい度★★ 駐車場 どこにでも停められます
万沢(まんざわ)/南部町万沢
万沢 谷間の小さな集落
 甲州の武田勢と駿河勢とが常ににらみ合いを続け,のちに武田が駿河を奪うと,駿河江尻城から甲府にいたる道筋は甲駿往還として発展しました。この万沢は伝馬宿として栄えたと記されています。
 しかしいくら栄えたとはいえ,しょせん谷間の小さな集落です。米,麦,イモなど細々と生産していました。また養蚕業も盛んでした。
 町を歩いていると,ほとんどが戦後の建物ですが,一部養蚕業を彷彿させる民家も残っていました。
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道幅の広いところに停めました