昨日・今日・明日A
2008年(平成20年)
11月2日(日)
城郭研究の学会を大きく揺るがした「杉山城問題」ってなんだ!
 いま城郭(城館)研究者の間でホットな話題になっているのが,杉山城問題です。埼玉県嵐山町にある小さな城です。いわゆる陣城(じんじろ)といって,砦のような城といっていいでしょう。小さな無名の城郭が学会を揺るがすような大きな問題になっているのです。
 従来,杉山城は戦国大名・北条氏の典型的な城郭として評価されており,学会でもそのように認められていました。まさしく「中世城郭の教科書」であったわけです。このことを主張していたのは縄張論で研究調査する人たちです。縄張論というのは,地形や砦跡を綿密な外観調査で検証する学問です。各郭,虎口,馬出部,大手口など全体を子細に描いていきます。まるで立体図のごとく城郭が浮かんできます。
杉山城の誕生が半世紀もずれていたことが,発掘で判明する
 ところが,縄張論に反対する研究者たちが,2002年から杉山城を発掘調査したのです。いわゆる考古学派の人たちです。その結果,なんと定説から半世紀以上もさかのぼる,扇谷上杉氏と山内上杉氏による抗争の最前線に位置する城であることがわかったのです。しかも戦うための城で,なおかつ臨時的な城で,きわめて使用期間の短い城であることもわかったのです。嵐山町教育委員会の担当者は発掘していて,なんとも生活が感じられなかったそうです。
学会がひっくり返るような大騒ぎ。過去の城の誕生に疑問
 従来の手法である縄張論に対して,約半世紀も違ったことに対する疑問符がつきました。こうなると過去に縄張論で調査した多くの城に対して疑問が湧いてくるのも仕方ないこと。学会がひっくり返るような大騒ぎになったのも無理はありません。
 しかも杉山城発掘のきっかけを作ったのが,文献史学派の人で,古文書のたった1行から杉山城の年代に疑問をもったというから,話がだんだん大きくなったのです。
日本の城郭研究者も戦国時代(?)を迎えています
 城郭研究対象は,いま戦国時代の前期に移っており,わからないことが多いそうです。そして日本の研究者は,大まかに分けて,@文献史学派,A縄張論派,B考古学派の3つに別れています。20数年前に,これではいけないので,お互いに連携を取りながら調査研究しましょう,ということになったのですが,まったく生かされていないどころか,2週間前の10月18日に山梨県で行われたシンポジウムでは,議論百出で平行線に終わったそうです。最後は「ケンカごし」とか。城郭研究者もまさに戦国時代を迎えています。
ますますおもしろくなる城郭(城館)研究の最前線!
 私は無理に手討ちをする必要はないと思います。平行線だっていいのではないでしょうか。ケンカしたっていいのでは。いま城郭(城館)研究が,おもしろいところにさしかかっています。
10月29日(水)
江戸時代のエコを支えていた最下層の人々
 江戸時代の「エタ」,「非人」についての詳しいことを知りたいと思っていましたら,大田区教育委員会(東京都)の人権塾で『江戸に学ぶ地域のコミュニティ/公共の福祉を担った人々』というテーマで,作家の塩見鮮一郎氏のシンポジウムが開かれることを知り,早速参加しました。
 「エタ」と「非人」は全く違うということや,この日のテーマである最下層の人たちが行う仕事について,教科書には絶対に出てこない歴史的事実を再度認識することになりました。
 塩見氏の話では,大きく分けて3つの仕事があったとのこと。@処刑の手伝い。これがもっともいやがる仕事だそうです。A灯芯造り。これは「非人」たちの独占的仕事として,収入を支えました。ろうそくの芯のことで,幕末まで続きます。B皮の製作。完全な鎖国により,東南アジアから皮革の輸入が途絶えたため,1630年代から国内で死んだ牛や馬から皮だけをはぎ取る作業を,全国の「非人」が行なったこと。今日に伝わる馬頭観音は,牛馬の死体処理場にありました。
 この3つが大きな仕事であったこと。ほかに紙拾い,厠の清掃などがあり,川沿いの「非人小屋」に住まわされたことなど,微細に話していただいた。だいたいはわかっていたものの,子細に聞いてみるとあまりにも壮絶な内容でありました。
「江戸時代はエコ」に隠された被差別部落のこと
 最近の江戸ブームで,「江戸時代はエコで成り立っている」などと歴史学者や,環境学者が述べられていますが,江戸時代のエコロジーを支えていたのが,「エタ」,「非人」であることきちんと知れば,話しの内容も少しは変わって来るのではないでしようか。
 いずれにせよ江戸というテーマで,被差別部落のことを知るのも「もう一つの江戸」を知るきっかけになればいいかと思います。
注:「エタ」「非人」という言葉あえて使いました。
10月24日(金)
月尾嘉男氏(東大名誉教授)『自然・伝統と共生する都市環境』
 東大名誉教授・月尾嘉男氏(つきお よしお)の『自然・伝統と共生する都市環境』につてのシンポジウムに参加しました。情報通信を活用した地域おこしを提唱しておられます。早い話が,地域の名産を掘り起こして,インターネットを活用して販売しよう,というのがねらいです。それで成功した全国各地の村々の成功例を紹介していたのです。結局それだけでした。
 私自身も町おこしには,その集落が昔から持っているものを利用するのが大事だと思います。ただ地元の人は,自分の町の良さに気がつかないのが現状です。祭りやB級グルメ,野菜,果物などの食材,歴史上の人物,古民家,古い町並みなど材料はたくさんあります。
道路の拡幅だけでは,町は発展しません
 ただ言えることは,例えば「古い町並みを削って4m幅の道路を拡張すれば,町が発展する」という道路拡幅信仰がありますが,これは100%失敗します。地元の土建業者が潤うだけです。こういうことを言う首長は,選挙のときにビラ貼りや事務所の借用,人手の応援などで世話になっているので「当選御礼」の意味を込めて,選挙の応援費用を仕事を出すことで帳尻を合わせようという仕組みです。道路を拡張して,町が発展したという例は聞いたことがありません。失敗例はたくさんありますが…。
10月20日(月)
方形の屋根 池上本門寺宝塔の修理の現場
 大田区教育委員会(東京都)と池上本門寺との共催で「宝塔保存修理工事」を見学することができました。池上本門寺は,日蓮宗14の大本山(総本山は身延山久遠寺)の一つで,全国に多くの信徒を抱える大きな寺院です。戦災で多くの建物が焼けましたが,五重塔(国の重文)や宝塔(都の重文)が奇跡的に残りました。見学会は,1回30人,4度に分けて行われ,地元のケーブルTV局や新聞などの取材陣がかけつけました。
江戸時代に建立された宝塔
 宝塔とは、円筒形の塔身の上に宝形造(ピラミッド形)の屋根を載せた建築形式で、石造などの小規模なものが多く、屋外に建つ木造宝塔で大規模なものは珍しく,本門寺の話ではココだけですというわれます。1828年(文政11年)に建立され,本門寺では国指定の文化財になるべく保存修理を行なっているそうです。
宝塔は今後も非公開とか
 ヘルメットを着用して,狭い足場を注意しながら急な階段を上ります。ヘルメットがなければ,頭をゴツンゴツンと打っていたところでした。
 周囲の板張りや各飾りなどの漆はいったん全部はがし,再度塗り直す。思った以上に痛んでいることから2009年(平成21年)秋の完成が伸びるそうです。完成したとしても,一般公開はされないので,今回の見学が最後のチャンスというわけです。
 古民家の解体修理保存や古墳の発掘現場は何度か見ましたが,寺院関係の修理の現場を直接見られたのははじめて。貴重な体験でした。
屋根の内側
直径5.5mの円形軸部
円形の軸部の床をはがす
テント張りの外観
10月17日(金)
伝統の「花嫁のれん」が美しい
 「花嫁のれん展」に行ってきました。花嫁のれんは加賀藩の能登,加賀,越中に見られる昔からの風習です。
 花嫁が嫁入りの時に,花嫁のれんを持参し,花婿の家の仏間の入口にかけます。そして,玄関で「合わせ水」の儀式を終え,両家の挨拶を交わした後,花嫁のれんをくぐり,先祖の仏前に座ってお参りをしてから結婚式が始まるのです。1枚,1枚に女性の物語があり,嫁いだ日の華やぎと各家の変遷を見つめながら,今日まで受け継がれている伝統の美でもあります。
 しかし簡略化する家庭も多く,嫁ぎ先の花嫁のれんを使う場合もあるとか。やはり地方から嫁いでくる家庭にとって,なじみのない風習でしかも経費がかかるからだとか。なかには,披露宴の入口にかかげた花嫁のれんをくぐることで簡略化することも多いそうです。
◆花嫁のれん展は2009年4月29日〜5月10日に,石川県七尾市一本杉通りで開催。東京は,2008年10月22日まで,文京区千駄木の旧安田邸で開催中。
 
10月1日(水)
『浅草寺とその界隈−浅草今昔物語−』の鼎談会
 江戸東京博物館の『浅草今昔展』開催を記念して,鼎談会が江戸東京博物館で行われました。席上,浅草寺貫首・清水谷孝尚氏が,戦後の焼け野原から復興するまでのお話が感動的でありました。昭和33年に観音堂(本堂)が4億円で復興しました。これは一口100円で,100万人から寄付していただくという目標で完成したものだそうです。瓦の裏には寄進者の名前が書いてあるとか。ちなみに本土の屋根瓦をチタン製の瓦に葺き替えることに決まったそうです。
 また雷門が松下幸之助氏からの全額寄進で再建されたのは,幸之助氏が病に伏せていたところ,清水谷貫首が祈祷したら1週間で元気になったそうです。幸之助氏は「お礼に何かをしたい」と言ったら,貫首は「それなら雷門を建ててください」という。幸之助氏は「おいくらですか」と聞く,貫首は「2300万円です」と答えた。すると幸之助氏はしばらく考えて「よろしおま,だしましょ。ただし私の名前は出さないでほしい」といわれたそうです。
 その2年後,ホテルニューオータニのオーナー・大谷米次郎氏の寄進で仁王門が完成。その後,各種宝物を収納することで,宝蔵門と改名しました。その後五重塔など次々と建立するわけですが,貫首は「私の仕事は浅草寺の復興のために,いろいろな方にお願いすることです」と言われます。その清水谷貫首も11月3日で90歳になられます。
捨て子が多かった浅草寺。『浅草寺日記』から
 ちなみに江戸時代からの浅草寺の宝物は,戦時中に本堂の地下2mのところに埋めておいたので,すべて助かったそうです。そのなかで,浅草寺やその周辺のことなど,江戸時代から日々を綴った「浅草寺日記」が残されており,現在28巻まで復刻されています。戦後,子どもを捨てる親が多かったそうで,子どもをほしがる親に「観音様からのさずかりものである」といって預けたとか。また花やしきの創業当時のことなども記載されているそうです。
9月29日(月)
昭和15年の『幻の日本万国博覧会の会場・月島を徹底解剖』
 江戸東京フォーラムが中央区(東京)のタイムドーム明石のプラネタリウム館で開かれました。今回のテーマは『幻の日本万国博覧会/月島の地域学』です。1940年(昭和15年)に東京と横浜で開かれるはずだった日本初の万国博覧会が中止になった経緯はだいたい知られています。会場プランも決まり,かちどき橋も完成し,切符まで販売され,世界60カ国にまで招致使節団を送った万博です。
 ところがあまり知られていないのが会場となった埋め立て地・月島のことです。月島1号地から13号地まで,順次埋め立てられていくのですが,東京(帝都)のなかでどのような役割を果たすのか,万博後にはどのような未来像を描かれているのかを,増山一成中央区教育委員会文化財調査指導員が,丹念に資料を集められて,系統的にまとめられたものを発表されました。また伊東孝日本大学教授(理工学部社会交通工学専攻)のかちどき橋がなぜかけられたのか,なぜ跳ね式になったのかなども詳しく検証,『かちどき橋と幻のウオーターフロント計画』を発表されました。同席されていた吉見俊哉東大教授,陣内秀信法大教授も驚くほどでした。
 詳しい内容は省きますが,いずれの専門家も口をそろえていた疑問が,この万博の「旗振り役」はいったい誰だったのか,という一点につきるそうです。政治家や財界人,軍関係者の名前があがったりしたが,結局わからずにいままできたそうです。
 ちなみに月島13号埋め立て地は,現在のお台場あたりです。また東京万博の切符を買った人で,その後の大阪万博で3000枚近くが,愛知万博では80枚ほどが使われたそうです。
9月24日(水)
浅草・料亭の一部を再生
 江戸時代から続く浅草の料亭『一直』(いちなお)が取り壊されることになり,その一部を利用,再生したのが千葉県鎌ヶ谷市のK氏宅。Kさんは昔はどこにでも見られた数寄屋風の住宅を建てたいとのことから,古材をできるだけ生かすことにしたそうです。
 また平屋にしたのは,「年をとると階段の上り下りが大変になるからです」といわれます。欄間,床,障子など使えるものはできるだけ生かしたそうです。また息子さんと建築家が一緒に,京都の北山まで丸太を買い付けにいったとか。ここまで熱心なお施主さんがいるのは珍しいと,驚かれたそうです。昔はどこにでも見られた家でした。
 
数寄屋風の外観
▲落ち着いた数寄屋風平屋建て
内部の和室
▲平屋建てのオール和室
9月18日(木)
浅草寺本堂落慶50周年記念行事のシンポジウムに参加
 浅草寺本堂落慶50周年記念に合わせて,浅草では多くの記念行事が10月から始まります。それに先だって,各界の著名人が集まってシンポジウムが開かれたのです。これが実におもしろく,浅草の意外な一面を知ることになりました。
浅草寺は庶民の一大民間信仰センター
 法大教授(民俗学専攻)の長澤利明さんは「浅草寺は一大民間信仰センターです」と前置き,全国各地から神仏の歓請,庶民崇拝のシンボル,そして神仏の流行と衰退を説明されました。境内にはあらゆる神仏があって,庶民のすべての願い事に対応できるようになっているのです。恋愛成就,頭痛の神,痔の神など,いっぱいあるのです。そのために各地の支院があるのも特徴だとか。
「江戸の蒲焼きは,武士の切腹を連想するので背開き」はウソ
 近茶料理研究家の柳原紀子さんは,江戸の料理は京都の料理を元にしながら,紀州から連れてきた醤油造りの職人を銚子や野田に住まわせ,そこで造った醤油と砂糖を使った味付けになってきたといわれます。特にウナギの背開きについては,「武士の切腹を思わせるので,関西とは違って背開きにした」という説は間違いですと断言。魚料理の歴史的,地理的な背景を説明されると,う〜んとうなずきました。
上野と浅草は,江戸時代から「対」になって発展してきた
 日本にはむかしから「見立て」というのがありますが,上野は「京都と近江を見立てて造られています」というのが,寛永寺の浦井正明さんです。東にそれぞれ京都御所,江戸城,西には琵琶湖と不忍池があり,それぞれ竹生島と弁天島があるように「対」になっているのです。さらに「上野と浅草も対(つい)になっています」と説明。寛永寺と浅草寺,その遊里でもある湯島,吉原,上野の文化の密集地に対して,浅草の六区,仲見世があるように,江戸時代から対になって発展してきたそうです。聖地があれば必ず俗地があるそうです。「参拝のあとのお楽しみ」というわけです。
浅草寺・仲見世の土地は寺の所有,建物は東京都が所有
 ところで興味深いのは,仲見世のことです。明治時代は,支院が並んでそれぞれ商売をしていたそうです。いまは土地が浅草寺のもので,建物は東京都のものです。もちろん税金は東京都に納めているそうです。で,店主はそれぞれ浅草寺の「株」を持っているので,入れ替わりがないようです。
9月10日(水)
おもちゃのカメラとカメラのおもちゃ展
 東京・半蔵門にある日本カメラ博物館に行ってきました。おもちゃカメラの展示をしているのですが,その数,種類がものすごいのです。これらを見ていて,日本人はカメラが好きだなあとつくづく思いました。
 タバコ型カメラ,ラジコンカメラ,タイヤ型カメラ,ライター型は序の口。雑誌の付録,食玩,店頭のディスプレー用,置物,人形などさまざま。
 また昔のなつかしい小型カメラも展示されていました。それぞれの歴史やその時代背景が説明されています。(〜2009年1月18日まで開催)
▲400円(込み/16p)
9月8日(月)
北京の伝統住宅地・胡同の四合院住宅に住む日本人
 オリンピックのために,北京では大きな都市開発が行われました。特に伝統住宅地である胡同(フートン)がどんどん取り壊されたことは,いろいろと報道されています。古い町並みがどんどんなくなっていくのは,日本も同じです。特に中国の四合院(しごういん)住宅は,中国独特の住宅だけに惜しいきがします。
 そんな状況のなかで,その胡同の四合院に住み続けて,フリー記者として,翻訳家として活動する多田麻美さんが一時帰国されました。多田さんは,1973年静岡県に生まれ,その後京都大学文学部を卒業,北京に留学して地元紙で編集・記者を経られて,現在フリーです。
 先日お会いする機会があり,胡同や四合院住宅の現状,胡同の長所,短所,四合院住宅の長所,短所を約3時間にわたって,細かく聞くことができました。
 最近は,やはりマンション生活にあこがれるために,胡同から出たいという若者が多くなったそうです。だから一概に都市開発だけが原因ではないようです。いまいちばん問題点は,住民同士のコミュニケーションが失われて,「相互の扶助」の精神が失われているとか。
 いずれにせよ,オリンピックを境に,市街地開発の波は,胡同地区にいっそう押し寄せるものと思います。それにしても,実際に胡同の四合院住宅に住んでいる日本人に会ったのははじめてでした。
9月7日(日)
待ちに待ったニコンD90
 予想通り,ニコンからD80の上位機種・D90が発表されました。スペック上においても,いずれも上回っており,これは買わなくてはいけないなあ,と思いました。ビッグカメラの価格ではボディのみで12万円弱でした。
 いまはやりの顔認識や動画が撮れるのはご愛敬として,AFエリアが自在に動かせるの魅力的。メディアもSDとD80と同じなのはありがたい。
ニコンD90
▲9月19日発売予定のD90
9月4日(木)
衰退する町や商店街などのお助け団体の報告会に参加
 (財)ハウジングアンドコミュニティ財団主催の全国NPO法人の交流会に参加しました。北海道から福岡県まで多くのNPO法人が参加し,それぞれの活動を報告されました。岩手県紫波町の紫波中央駅前コミュニティー・プラザの会は,駅前に「何でも屋」を拠点にした活動は,とてもおもしろかった。住民や町のなかで孤立する年寄りなどに,ご近所づきあいのためにと生活必需品の販売店を設けました。さらに喫茶部門を設けて,1日中,誰とも話したことのないお年寄りがいなくなったそうです。
 新潟県村上市からは,町の発展のために道路の拡幅が大事という開発派に対して,道路を拡幅しても町は発展しないと,断言する景観派の主張が認められたのです。それは,過去の町の遺産を生かすことで,多くに人たちが訪れ,活況を呈するようになったのです。そこにはいろいろな仕掛けがあるのですが,その手法は衰退する商店街,町にはとても役立つのではないでしょうか。
 ほかにも多くのNPO法人からの報告がありましたが,実におもしろい町おこし法があるものだと感心しました。
8月27日(水)
『浅草花やしき』のローラーコースターは民家すれすれに走る!
 先日,日本で現存する最古のコースターに乗ってきました。浅草にある『浅草花やしき』にあるローラーコースターです。民家すれすれに走るコースターは,建物にぶつかるのではないか,コースターが壊れるのではないか,という恐怖に襲われました。『浅草花やしき』自体は江戸時代の末期に誕生したもので,かなりの歴史をもっています。ほかにビックリハウスもおもしろく,人間の三半規管をおかしくするような遊具でもありました。大規模なテーマパークもおもしろいですが,こぢんまりとした遊園地もあなどれません。東京には,ほかに区立荒川遊園というのもあります。
8月26日(火)
世界最大の倍率のレンズが登場
 タムロンからついに18〜270ミリという世界最大の倍率を持つズームレンズを開発が終えたことを発表されました。15倍という驚異的な倍率です。従来は18〜200ミリ,続いて18〜250ミリを販売していました。ただ270ミリというと,従来の35ミリ換算で,419ミリに相当します。当然,手ブレ補正機能が付いています。
 絞りも,従来のF3.5-6.3も変化なし。旅行にはこれ1本あれば十分です。発売日,価格は未定ですが,たぶん年内発売で,10万円を切るでしょう。
 でも,ワイド側に伸ばしてほしかった。15〜200ミリは難しいか!
▲タムロン18〜270ミリ
8月21日(木)
どんな町にも,得意とする分野があるはずです
 先日,「環境モデル都市の構築をめざして−スイスの事例から」(主催・千葉大学持続可能なまちづくり研究会)のシンポジウムに参加しました。特に落ちぶれた工場を建築家,行政,市民などが町の再生計画をたてる過程は,なかなか迫力があります。地権者も納得しながら進めていくわけですが,古い建物もそのまま生かすなどして,住居,店舗,劇場,事務所,工場などに分類しながら再生したのです。
 ハンス・ビンダーHSB教授は「町には過去の足跡が必ずある。その過去の足跡を見つけることから,持続可能なアイデンティがその町に自然と形成されるのだ」と報告。つまり過去の遺産を生かそう,というわけです。ただ石の建物と鉄筋との耐久度が違うことから,過去の建物を生かすのは難しいかもしれません。鉄筋は50年以上経つと,劣化が激しくなるし,耐震面からも,どうしても全部ぶっ壊さなくてはいけないという理由があるのです。
8月14日(木)
猛暑,酷暑,ドッコイショ
 お盆に入りました。報道では新幹線や高速バスがかなり混んでいるとのことです。僕は,どこにも行きません。込んでいてしかもクソ暑い日に,何もできません。写真を撮る気力さえわきません。夏は静かにしています。
『どうも,魚が好きなもので』
 かつての上司で,書籍,雑誌の編集者の先輩でもある坂井昌彦さんが,何冊目かの本を上梓されました。釣りが大好きだとは聞いていましたが,読んでいるとそのうんちくが実に豊なのです。巻末の「魚名さくいん」が役立ちます。本書は坂井さんの自分史でもあります。(新風舎文庫/800円・320ページ)
▲坂井さんの自分史でもある
8月11日(月)
大森山王の洋館は移築,和館は解体が決まりました
 この欄の4月1日(昨日・今日・明日@を参照)で大森山王(東京都)Y邸(岩波書店社長・山口昭雄さん)が取り壊される,ということを書きましたが,このほど洋館は茨城県つくば市の個人宅が引き取り,移築することに決まりました。これは日本民家再生リサイクル協会の斡旋で実施されたものです。いずれも築100年以上で,洋館は室内のガス灯や半地下の食堂,大正期の水洗トイレ,ドイツ風の玄関など,すばらしい建築物です。しかし和館は取り壊されることになり,すでに解体工事がはじまりました。大森山王という,超高級住宅の象徴のような建物だけに残念です。でも「洋館だけでも助かったのはうれしい」と持ち主の山口さんは言われています。
7月23日(水)
昆明の路線バスで爆弾テロが発生しました
 今度の年末年始は雲南省へ行こうと思っていました。ところがいきなり昆明で爆弾テロが発生しました。それも路線バス54番だそうです。54番がどこからどこへ行くのか,わかりませんが,それにしてもあんな落ち着いた町で,と思います。ただ政府は少数民族の犯人説を流しているようですが,いつも悪者役にされてしまいます。独裁国家の指導者は,誰かをスケープゴートにしなくてはおさまらないのでしょうか。
 雲南省は貴州省と並んで,中国で最貧の地域でもあります。これは少数民族だけではなく,漢民族の農民たちも超貧乏です。オリンピックが終わると,ますます暴動やデモが増えるかも知れません。そろそろ,一党独裁国家の限界が見えてきたといえるでしょうか。
7月21日(月,祝日)
「江戸のエコとスローライフ」のセミナーに参加しました
 最近,江戸時代に関する書籍の出版や催し物が開催されていますが,先日「江戸のエコとスローライフ」に関するセミナーが開かれました。講師は管野俊輔氏です。江戸の庶民の暮らしをユーモア交えておもしろおかしく話されました。結局,氏は江戸時代におけるエコ社会の現出,継続の原因は,
@戦争がなかったこと。
A「鎖国」政策をとったこと。
B身分制度の「士農工商」とそれ以下の身分があった,いう役割分担があったことと。
C労働力の中心が人力であった。
 以上の4点が大きかったそうです。「鎖国」政策については,いまだに賛否両論があります。でも江戸時代に関しては,まだまだ知らないことが多いと思いました。
7月20日(日)
石見銀山世界遺産登録記念のシンポジウム
 石見銀山が世界遺産の会議で逆転登録して,ちょうど1年を迎えました。平泉は登録延期になるなど話題は豊富ではあります。そんななかで,識者が4人が集まって,基調講演,シンポジウムと中身の詰まった催しでありました。特に脇田晴子氏(石川県立博物館館長)の「世界経済史のなかの石見銀山」は,実におもしろく中国,朝鮮,ヨーロッパとの関わりに驚きました。
シンポジウム





江戸東京博物館大ホールで開かれた1周年記念のシンポジウム
7月15日(火)
通天閣 NHK『ふたりっ子』から激変
 子どものころから新世界に通っていただけに,最近の変わりようには目を見張るものあります。これもすべてNHK連続テレビ小説『ふたりっ子』からです。つまり観光地になったのです。昔はカメラを持って歩くだけで「兄ちゃん,何,撮っとんねん。許可とったんかいな」といって,その筋(?)のお兄さんや酔っぱらいが絡んできたものです。いまは外国からの観光客も多く,けばけばしい原色広告とともの記念写真の撮影をあちこちで見かけるようになりました。
 1970年後半だったと思いますが,新花月で寄席を見たころのことが懐かしく思い出されます。大阪に行くたびに,新世界に行き,通天閣歌謡劇場に入り,帰りの新幹線の最終に間に合うように,劇場を飛び出しました。
やっぱり串カツ店に直行!
 いま新世界は串カツが名物になっています。いろいろ入りましたが,「てんぐ」,「八重勝」は老舗で平日から並んでいます。僕は並んでまで食べる気がしないので,同じ並びの小振りな店で家族だけで経営されている店に入りますが,そこも並ぶようになってしまいました。
繁華街の画一化から反抗
 あまりのけばけばしさに,気持ちが萎えるときがあります。でもそれが新世界なんです。キタやミナミにはない原色使いなんです。都会の繁華街は画一化されてきました。しかしここ新世界は,独特の世界があるのです。
 
▲南本通り商店会から通天閣
新世界
▲「目立ってなんぼ」の世界です
ジャンジャン横丁入口
▲ジャンジャン横丁の入口です
▲1991年11月演歌まつりプログラム
土日がTENGEKI,月曜日が歌謡劇場
 通天閣歌謡劇場はよく通いました。プログラム(左上の写真)もできるだけ保存しているようにしていますが,古いのはもうありません。入場料は1000円で,入れ替えナシ。当時はたばこの煙で場内はあまり健康にいいとは言えませんでした。中入り後から入場すると,500円になりました。
 いま歌謡劇場は毎週月曜日のみとなり,土日は漫才,落語が中心になり,TENGEKIとなりました。経営が松竹芸能なので旧角座の代わりだそうです。若手の芸人を安い値段で見られるのはいいものです。
▲通天閣歌謡劇場5周年記念のテレカ
7月14日(月)
江戸の絵地図と比較しながら
 江戸東京博物館のメンバーと一緒に,向島界隈を歩きました。出発点は東向島駅です。かつて玉の井駅といわれていましたが,売春防止法が公布されてから,駅名も現在の名前に変わったそうです。江戸時代の絵地図と比較しながらの散歩だったので,大名屋敷の別邸や庭,河川の改修以前の様子などがわかって,とてもおもしろい散策でした。社寺も多く,雨の中をのんびりと歩けました。
隅田川七福神と重なる
 以前にも向島を歩いたのですが,そのときは廃れていく料亭街という感じでした。今回は,女給さんやお女郎さんもいた鳩町は行きませんでした。
 いくつかのお寺は,以前に参拝した隅田川七福神とダブっていました。また,向島芸者と他の芸者の違いなどもおもしろく,もういちど見てまわりたいと思ったものです。

白髭神社
▲昔は白髭神社横に舟着き場
弘福寺
▲禅寺でもある弘福寺
見番通り
▲見番のあるビル前が見番通り
7月11日(金)
秋田県の土蔵を移築再生
 つい先日,鎌倉で2軒の移築再生された民家を見学しました。建築家でもあるNさんは秋田県横手市(旧雄物川町)にある蔵を移築されたのです。柱の間隔が60cmと狭いことから,開口部をどうやって造るかが悩んだそうです。また吹き抜けを造って,蔵独特の暗さをなくし,開放的な空間が生まれたのです。
 間仕切りを極力減らして,風通しをよくすることにしたとか。夏はほとんどエアコンは必要なく,冬も薪ストーブを導入。2階まで暖かく快適な冬だったそうです。蔵造りのせいか,近所の人,友人などリピーターが多くなった。やはり人を引きつけるものがあるのでしょう。
 費用は,解体費390万円,運搬費(2回)58万円,棟上げまで440万円,上棟後の造作工事約3000万円。
都内にもあった江戸の農家
 2軒目が東京都北区にあった上十条にあった江戸時代の庄屋の母屋で,大正年代に改築されています。こんな民家が奇跡的に残っていたのです。しかもいずれも図面が残されていました。構造的には大黒柱,田の字の中心に立つ長者柱による典型的な農家の間取りです。
 Oさんはそれらをうまく生かし,なおかつ日本民家再生リサイクル協会会員たちのボランティアにも助けられて,2007年8月に完成しました。まだ少しずつ手を入れており,完全な完成ではないようです。都内のも古い建物があったのですね。
N邸
▲秋田県から移築再生されたN邸
N邸リビング
▲柱間隔が60cm,地震に強い!
O邸
▲江戸−大正を経て移築したO邸
O邸天井裏
▲大黒柱など古木を巧みに利用
7月2日(水)
●貴州省瓮安県の「暴動」は当然か!?
 中国貴州省の瓮安(おうあん/繁体字では甕安と書きます)で,少女の死をめぐって暴動が起きました。貴州省で暴動が起こったのは珍しいかもしれません。ただ最貧の省だけに,人々に不満がたまっていたと思います。
 省都の貴陽市にいただけではわかりませんが,地方へ行くとその貧しさがよくわかります。ましてや少数民族(この瓮安県ではプイ族とミヤオ族など)の置かれた立場はとても低く,生活はたいへん苦しいものを感じます。今回の暴動は少数民族の問題とはあまり関係ないようです。中国政府は,インフラ整備のために高速道路の充実,一般道の拡幅。さらに地元政府はショッピングセンターを建てたり,高層ビルを建てたりしていますが,半分は空室です。むしろ強制立ち退きの弊害の方が目立ちます。
 暴動の根は深く,少数民族はもちろんですが漢民族すら貧しく,地元共産党幹部たちの腐敗ぶりに対しての怒りは,爆発した感じですが,まだまだ怒りかたは小さいと思います。


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