大師(だいし)/川崎市川崎区大師町 |
●川崎大師の参道です 言わずと知れた川崎大師の参道です。正月の参拝客数は全国トップクラス。山門前までの仲見世通りには,縁起ダルマやくず餅,せき飴などの土産物店が並びます。一見,“蔵造り風”の店もありました。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京急大師線川崎大師駅から徒歩10分 |
本町(ほんちょう)/川崎市川崎区本町 | |
▲東海道かわさき宿交流館/旧街道沿いにあります。茶店「万年屋」を復元 | ▲宗三寺/戦国時代の創建。川崎宿の遊女の供養碑が立つ |
●旧東海道・川崎宿の面影はなし この地は飲食店、会社事務所、さらに風俗店などが集まる市内でも有数の繁華街でもあります。しかも旧東海道が東西に貫通しています。その旧街道の宿場・川崎宿のはずれに「かわさき宿交流館」があります。そして周辺に幾つかの寺院、古建築が続きます。歩いていても、繁華街とは思えないごく普通の住宅地。ましてや旧街道の面影はまったく見当たりません。ところどころに『旧東海道』や『川崎宿』の案内版が立っている程度です。なんとも寂しい宿場町でした。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線川崎駅から徒歩10分 |
小杉(こすぎ)/川崎市中原区小杉陣屋町 |
●中原往還沿いの宿場町 江戸時代の初期,江戸に入る場合,中原往還(現中原街道)を利用していました。家康も入封するときに使いましたが,海岸に近い東海道が整備されると同時に,衰退していったのです。天保9年(1838)には旅籠も髪結,湯屋も各1軒に激減。 東京から丸子橋を渡った所にある宿場町ですが,交通量は極めて多いのが特徴。また幾つかの寺院や古民家が点在しています。北条時頼にまつわる伝説のある西明寺付近は,道路がカギ字型になっており,防衛のための工夫なのでしょう。 地名は、小字に榎戸というところの古木を目印にするためか旅人が「小杉の榎戸」と呼んだ |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 東急東横線新丸子駅から徒歩5分 |
二子新地(ふたごしんち)/川崎市高津区二子 | |
▲二子の渡し跡/大正14年まで渡し船を利用していました | ▲二子神社/境内の片隅の柱に「二子三業組合」の紋章がある |
●大正〜昭和は花街を形成 江戸時代から“二子の渡し”で知られており,対岸の世田谷区の玉川地区と結んでいました。大山街道,厚木街道が通り,溝口,有馬方面から薪など生活物資,帰りは下肥を運ぶ重要なルート。また大山参りの参拝客で賑わいました。大正時代に入ると,多摩川の新鮮なアユが名物となり,料理屋,旅館などが建ちます。大正14年(1925),県から三業地の指定を受け,対岸の玉川三業地と一体となって花街を形成。今は往時の面影は見られませんが,ポツンと旅館が残っていました。 地名の由来は、東京側にもうり二つの町が形成されているところから、双子が転訛したとか。ちなみに対岸の世田谷区(東京都)では、「ふたこ」とにごりません。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 東急田園都市線二子新地駅から徒歩5分 |
溝口(みぞのくち)/川崎市高津区溝口 | |
▲溝の口駅西口商店街/まさに昭和の香りのする飲食店街です | ▲宗隆寺/陶芸家・人間国宝の濱田庄司の墓があります |
●大山街道沿いの宿場町 戦国時代は溝ノ口,溝乃口とも書きました。江戸時代,江戸から大山阿夫利神社へ詣でる道の大山街道沿いの宿場町です。天保9年(1838)には,旅籠が6軒,居酒屋4軒などがあり,大いに賑わったそうです。いまは看板で隠れています。なお駅名は、東急では「溝の口」、JRは「武蔵溝ノ口」と書きます。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 東急田園都市線高津駅から徒歩5分 |
岡上(おかがみ)/川崎市麻生区岡上 |
●旧家が散見できます 地名の由来は鶴見川の右岸にあり,岡の上に位置するところから名付けられたなど諸説あります。江戸時代は旗本領,幕府領で,村名は岡上村。いま裏道の迷路沿いには,旧名主と思われる土蔵などのある旧家が散見できます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急鶴川駅からバスで岡上下車徒歩7分 |
下鶴間(しもつるま)/大和市下鶴間 | |
▲それにしても黒塀の美しい家並み | ▲白い蔵と植栽が似合う町です |
▲小倉家住宅と土蔵(いずれも復元) | ▲観音寺(村立鶴間学校発祥の地) |
●矢倉沢往還の宿場町 江戸時代,青山(東京都港区)を起点に,神奈川県を西南方向に横切り,関本・矢倉沢・足柄峠(南足柄市)を通り,三島(静岡県)へと通じる矢倉沢往還が存在しました。江戸中期には,大山信仰,富士信仰の行者や参拝者が利用する人も多く,宿場町として発展したのです。また八王子往還もココを通っています。ところで江戸末期,渡辺崋山は旅籠を兼ねた「まんじゅう屋」で1泊しており,「ものさびしい」と日記に記されています。 いま歩いて見ますと,土蔵が点在し,黒板塀,美しい植栽など往時を彷彿させます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 東急田園都市線つきみの駅から徒歩15分 |
上和田(かみわだ)/大和市上和田 |
●左馬神社周辺に点在 中原街道の拡幅工事は、古民家を消滅させています。しかし駅から境川付近まで歩きますと、川沿いに鎮守の森や屋敷林などが点在。旧代官の小川家などが見られます。古民家は巡礼街道の碑が残る左馬(さば)神社近辺に見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急江ノ島線桜ヶ丘駅から徒歩20分 |
四ツ谷(よつや)/座間市四ツ谷 |
●かろうじて残る往時の面影 東海道平塚宿から分岐する八王子往還沿いの集落です。戦国時代,地元の豪族・川島家たち4家が開拓したことから「四ツ家」とよばれたとか。しかしその四家も織田信長に敗れます。 江戸時代は幕府領ですが,農村地帯でもありました。しかしながら、洪水などの水害も多く、かつて村ごと移転したとか。 戦後は,広大な農村地帯で,1戸あたりの面積も広く,自然の高そのまま取り入れた農家が連なっていました。しかし,東京のベッドタウンとして一気に開発が進みます。それでも四ツ谷付近は,多くの植栽も残り往時の面影が見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR相模線入谷駅から徒歩15分 |
厚木(あつぎ)/厚木市寿町 |
●かつて旧カフェ街を形成 江戸時代,幾つかの街道が重なり,宿場町まで形成し,小江戸ともいわれた面影は、今は全くありません。そのかわり,小規模ながら旧カフェ街を形成し人々が集まってきました。今は普通の飲食店街です。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急本厚木駅から徒歩15分 |
飯山(いいやま)/厚木市飯山 | |
▲光福寺/浄土真宗本願寺派 | ▲小島家住宅/国の登録文化財 |
●幾つかの旧豪農の邸宅 河岸段丘状の高い位置から低い位置に至る所にある集落。集落内に大山、丹沢の2街道が通り、けっこう賑わったようです。小鮎川沿いに降りると、ほとんど現代住宅に。旧名主と思われる邸宅や豪農の邸宅など幾つかの大きな旧農家が点在。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急本厚木駅からバスで光福寺下車、徒歩すぐ |
半原(はんばら)/愛川町半原 | |
▲旧カフェを思わせるような建築です | ▲石積みもあちこちに残っています |
●山あいの小さな集落 古くは飯原とも書いたとか。相模の三大養蚕地帯の一つ。現在では衰退し,わずかに織っているようです。糸の町としては,繊維会館で体験教室が行われています。山間の小さな集落で,古民家が幾つか残ります。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田急本厚木駅から半原行きバス終点下車すぐ |
中津(なかつ)/愛川町中津 | |
▲中津往還沿いは菖蒲の里 | ▲古民家山十邸(国登録文化財) |
●神奈川まちなみ100選 中津川沿いの農村地帯です。浸食崖と低地で形成,崖上に中津往還が通り,古民家山十邸や寺院が建っています。一方低地は,豊富な水の流れに沿って土蔵や板張りの古民家が続きます。このあたりは菖蒲の里で売り出しています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田急本厚木駅から愛川町役場行きバスで中津下車徒歩10分 |
大山(おおやま)/伊勢原市大山 | |
▲大山不動さんと呼ばれる大山寺 | ▲古代から続くという阿夫利神社 |
▲宿坊街沿いにある旧緒方竹虎別邸 | ▲肉生姜そば(450円・箱根そば) |
●「かながわの古道50選」 大山川沿いの静かな宿坊街です。宿坊街は新玉橋あたりからケーブル駅付近の参道まで長く続きます。阿夫利神社社務局付近に少し古民家(宿坊)が残っています。ただこのあたりは観光客が少ないです。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田急伊勢原駅からバスで大山駅下車すぐ |
磯部(いそべ)/相模原市中央区磯部 | |
▲旧中村家住宅/国の登録文化財 | ▲長屋門も点在しています |
●長屋門や土蔵が点在 この地を有名にしたのは、大正15年(1926)、大山柏氏によって発見された土器です。装飾的な文様、顔を表現した取っ手などによって注目され、後に「勝坂式土器」として縄文中期の目安とされました。この勝坂遺跡は国の史跡に指定。 磯部は戦国時代から戦乱の渦のなかにいました。江戸時代は上磯部と下磯部に分かれ、八王子往還と府中街道が村内を通っていました。人口も常に800人前後と農村としてはそこそこの大きさでした。いま町を歩きますと、郊外の住宅団地に変貌。でも旧集落には長屋門や土蔵など点在。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR相模線下溝駅から徒歩25分 |
上溝(かみみぞ)/相模原市中央区上溝 | |
▲美しい植栽の向こうに古民家 | ▲清水家長屋門/市の文化財 |
●旧名主の屋敷が残る 江戸時代になって上溝村に。八王子往還が通り、街道沿いには商家が軒を並べたいへん賑わっていました。また八王子に近いことから、農閑期には養蚕が盛んになりました。いま養蚕の名残はありませんが、旧名主の屋敷や土蔵などが散見。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR相模線番田駅から徒歩15分 |
小原(おばら)/相模原市緑区小原 | |
▲神奈川県下で唯一現存する本陣 | ▲街道沿いに古民家が点在 |
●甲州街道沿いの宿場町 江戸幕府は急速に甲州街道沿いの宿場を整備しました。小原宿は小仏峠を前にして重要な宿場。また吉野宿までの片継ぎの宿場でした。旅籠は7軒あって,身延山参拝客も宿泊したとか。本陣(清水家)は1軒。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR中央線相模湖駅から徒歩12分 |
与瀬(よせ)/相模原市緑区与瀬 | |
▲土蔵など2棟の蔵がありました | ▲旅人を疫病から守った与瀬神社 |
●土蔵や石垣のある古民家 与瀬村の歴史は古く,慶長年間(1596〜)には存在していたとか。甲州街道与瀬宿を形成していましたが,本陣は上宿にありました。代々本陣を勤めたのが坂本家で,先祖は武田氏に仕えたそうです。弘化元年(1844)には,人口566人,114軒,旅籠6軒,茶店や商店などがあり,そこそこの規模だったようです。 街道は20号線をまたいで通っており,宿場町の面影はありません。中央道で中断しているのが残念です。歩いていますと土蔵や石垣,松岡医院の近代建築が目を引きます。地名の由来は、蔵王権現が大和国吉野から呼んだとき、八瀬と名付けられたが、その後与瀬に転訛。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR中央本線相模湖駅から徒歩12分 |
吉野(よしの)/相模原市緑区吉野 | |
▲吉野宿ふじや/郷土資料館です | ▲吉野宿の高札場跡です |
●土蔵は江戸時代の遺構 甲州街道の10番目の宿場町です。江戸と甲府の中間地点にあたります。『新編相模国風土記稿』によれば、江戸から18里、東西1里20町(約6km)、南北1里10町で、神社が13もあったそうです。信州高遠潘や甲府勤番などの参勤交代の常宿でもありました。江戸末期には人口527人,104軒。本陣,脇本陣があり,旅籠は3軒ありました。しかし明治29年の大火でほぼ全壊,いまは往時の面影なし。 しかし,平成3年(1991)に郷土の資料を保存,歴史を守ることから郷土資料館「ふじや」をオープンしたのです。いま焼け残った土蔵が江戸時代の遺構として保存されています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR中央本線藤野駅から徒歩20分 |
関野宿(せきのじゅく)/相模原市緑区小渕 |
●かろうじて残る宿場の面影 甲州街道,隣の甲斐の国に通じる相模国の最後の宿場。本陣,脇本陣,旅籠は4軒で内2軒は茶屋も兼ねていたとか。人口は100余人とそこそこ大きさ。しかし明治に入ってから幾度かの大火で,いまは往時の面影はあまり見られません。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR中央本線藤野駅から徒歩15分 |
和田(わだ)/相模原市緑区佐野川 | |
▲たまに白壁の蔵が見られます | ▲情報発信の陣馬自然公園センター |
●旧甲州裏街道沿いの集落 江戸時代の和田は佐野川村の一集落でした。和田組とも呼ばれていたとか。そして武藏国と相模国を結ぶ重要な甲州裏街道沿いの集落で,多くの商人や旅人が通りました。いまは陣馬山ハイキングコースとなって,いつもハイカーで賑わっています。途中の和田峠(標高688m)は、文字通り国境の峠。人々は頂上でホッと一息ついたとか。また佐野川地区は「日本の里100選」の一つに選定。 歩いて見ますと,板壁の古民家があちこちに見られます。なかには養蚕農家ではなかったかと思わせる家屋も点在。茅葺きや長屋門はなくなり,蔵も10棟近くまでに減ったようです。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR中央本線藤野駅からバスで和田下車徒歩6分 |
上澤井(かみさわい)/相模原市緑区澤井 |
●養蚕農家の面影が残る 旧澤井村の字名です。『新編相模国風土記稿』には,小名として上澤井が明記されていますが,澤井は見あたりません。戦国時代は小田原北条氏の津久井衆の所領でした。しかし甲府藩との境にあり、甲府の影響もあったとか。江戸時代はすべて幕府直轄となり幕末まで続く。 澤井川に沿った集落で,旧澤井村のなかでは最も上流部にあたります。谷間に位置するため,民家は斜面に石垣を造り,へばりつくように建っています。家屋のほとんどは屋根や窓枠,玄関などは改造されていますが,出桁造りの骨格は残され,養蚕の面影も見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR中央本線藤野駅からバスで上沢井下車徒歩3分 |
落合(おちあい)/相模原市緑区澤井 |
●二つの川が落ち合うところ 語源の由来は,沢井川と栃谷川とが合流するところ,すなわち落ち合うところという意味です。『新編相模国風土記稿』では小名にあたります。旧澤井村の共通することですが,谷間に位置するため,洪水などを避けるため,比較的斜面の高い位置に,石垣を造っています。そのためわずかな畑作と養蚕,炭焼などで生計を立てていました。古民家の妻側の破風は,今はふさがれていますが、空気抜きの跡が見られます。また別荘風のオシャレな建物も目に付くのも特徴です。 落合は,陣馬登山コースの一つになっており,週末は多くのハイカーで賑わいます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR中央本線藤野駅からバスで陣馬登山口下車徒歩3分 |
中里(なかざと)/相模原市緑区澤井 | |
▲森川家住宅主屋/慶應年間建築 | ▲石井家住宅主屋/国重要文化財 |
▲佐々木家土蔵/味噌蔵を修理 | ▲遠藤家住宅/国登録文化財 |
●国の文化財2軒が建つ 旧澤井村の字名です。ただこの地だけは他の集落と違い,幾つかの文化財が残されています。澤井村のなかでも,戦国時代から続く歴史のある村だからでしょうか。特に小田原北条氏の影響が強く,旧家の石井家は家臣でもあり、多くの所領を有していました。しかし北条氏滅亡後も当地に居住し,代々名主を勤めました。 沢井川左岸の旧道沿いに幾つかの古民家が並んでいます。白壁の蔵や旧養蚕農家の面影を残す切妻造の建物を見ることができます。また新道沿いにも幾つかの古民家が見られます。国の文化財は貴重です。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR中央本線藤野駅からバスで中里橋下車徒歩5分 |
橋本(はしもと)/相模原市緑区橋本 | |
▲牛久保家の長屋門(市の文化財) | ▲香福寺(見張り番所があった) |
●八王子往還の宿場町 八王子往還の重要な宿場町で,人馬の継立てを行った所です。香福寺あたりを上宿,瑞光寺近辺を中宿,境川にかかる両国橋付近を下宿と呼ばれていました。ちなみに両国橋は,武藏と相模の両方の国をつなぐ意味から命名。これは東京の墨田川にかかる両国橋も同じ意味。またこの地は大山道と交差していることから,7月の大山開きのころは,参拝客で賑わったそうです。 今歩きますと,長屋門や門構えや板塀のある大きな屋敷が続き,風情が感じられます。なお国道16号線沿いの町並みで,交通量の多さが難点か。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 京王相模原線橋本駅から徒歩15分 |
東橋本(ひがしはしもと)/相模原市緑区東橋本 |
●豪農の長屋門が散見 橋本宿の上宿からやや離れていますが,歩いていますと豪農の長屋門が幾つか残されています。農閑期には養蚕も行ったとか。裏道にはさらに竹垣や板塀の続く旧家が見られ、かつては農村地帯であったことがわかります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京王相模原線橋本駅から徒歩10分 |
平井(ひらい)/相模原市緑区根小屋 |
●山深い里に老舗の酒蔵 津久井城は中世の城郭として代表される名城。江戸時代は幕府領から小田原領と替わりました。城の南部に位置するこのあたりは,城下町として栄えましたが,山深い山村でもありました。現在、津久井城の遺構は、空堀、曲輪、築井が残っている。 交通量の多い県道から脇の急坂を下ると平井地区に出ます。串川にかかる平井橋を中心に広がる小さな集落です。串川沿いのわずかな平地に養豚場,養鶏場を営む畜産農家や,重厚な造りを誇る久保田酒造(創業1844年)の建物が点在しています。清涼な空気が凜と張り詰めます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 京王相模原線橋本駅からバスで無料庵下車徒歩2分 |
上九沢(かみくざわ)/相模原市緑区上九沢 | |
▲旧笹野家住宅/国の登録文化財 | ▲旧養蚕住宅も残ります |
●古民家が点在しています 江戸時代は地味はあまり良くなく、甘藷、桑、蕎麦などの栽培が中心です。そのため農家の余業は養蚕が盛んでしたが、これは明治になってさらに発展するのです。いま歩いていますと、旧養蚕住宅は少し見ら、他の古民家も残っています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR橋本駅からバスで北公園入口下車、徒歩10分 |
山北(やまきた)/山北町山北 |
●鉄道の町に近代建築 山北が繁栄し知られるようになったのは明治に入ってからで,東海道線が開通し山北駅が開業してからです。急勾配を乗り切るために,補助機関車で後を押す必要があり,そのための機関車11両,要員600人が配置されました。ここから鉄道の町として繁栄するのですが,昭和9年丹那トンネルの開通で,東海道本線は小田原−熱海間を経由することになり、御殿場線と改名。町は急速に寂れます。 いま駅前に立つと,昭和8年以前に建てられたと思われる近代建築2棟が見られます。また町なかを歩くと古民家も多く残っているのです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR御殿場線山北駅からすぐ |
大磯(おおいそ)/大磯町大磯 | |
▲大磯教会/国の登録文化財 | ▲旧木下家別邸/国の登録文化財 |
▲日本三大俳諧道場の一つ鴫立庵 | ▲旧東海道を散策する人は多い |
●歴史の道として再現 江戸から8番目の宿場町。本陣3軒,旅籠66軒で、長さ29町33間(約3.2km)と、かなり大きな集落でした。今は碑が立つのみです。歴史の道として石を敷き詰めています。また著名人の別荘や邸宅があることで有名。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東海道本線大磯駅から徒歩10分 |
井ノ口(いのくち)/中井町井ノ口 | |
▲手入れの行き届いた茅葺き屋根 | ▲米倉寺近くに建つ美しい長屋門 |
▲米倉寺/多くの文化財を所有 | ▲あちこちで見られる茅葺き屋根 |
●茅葺き屋根がまだまだ残る 江戸時代の井ノ口村は小田原藩領と旗本領とが複雑に入り組んでいたようです。それにしても,江戸時代末期と思われる茅葺き屋根のある民家が,あちらこちらに点在している光景に驚きました。葛川に沿って建っており,長屋門などいずれも手入れが行き届いています。田畑や林などの自然を背景に,玉石の石垣,さらに植栽と,豊かな農村風景が見られます。地名の由来は、葛川の美しい源泉を、“井源”と称したことによるとか。 古民家が連なっているわけではありませんが,手入れの行き届いた美しい古民家を見つけるとうれしくなります。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田急秦野駅から二宮行きバスで下井ノ口下車徒歩10分 |
金子(かねこ)/大井町金子 |
●植栽の間から古民家 約2m近い植栽が連なり,生け垣と樹木に囲まれた敷地の中から蔵など古民家が垣間見ることができます。秀吉が小田原城攻めのとき掌握し、軍事的に重視した集落でもあります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR御殿場線相模金子駅から徒歩10分 |
金井島(かないしま)/開成町金井島 | |
▲香徳院/医師下山玄仲の墓がある | ▲瀬戸屋敷/江戸時代後期の建築 |
▲茅葺きの医薬門を見つけました | ▲ナポリタン(700円・モンペリエ) |
●美しい農村風景が広がる 酒匂川沿いに広がる農村地帯です。歴史ある地域で豊臣秀吉は小田原城攻めの際,金井島を重要視していたとか。それはともかく,曲がりくねった道を歩くと茅葺きや鉄板の仮葺き,薬医門,今は廃業された醸造所などの古民家が多く見られます。なにやら懐かしい光景に出会えました。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田急新松田駅から関本行きバスで四つ角下車徒歩15分 |
曽我(そが)/小田原市曽我別所 |
●山腹の小路沿いに農家 曾我兄弟が親の敵討ちを描いた『曽我物語』の舞台となったところです。同時に梅林でも有名で,小高い山腹を縫うように巡る小路の両側に広がっています。また富士山の眺めは絶景とか。そんな小路の両側に素朴な農家の土蔵や古民家が点在しています。ちなみに城前寺には曽我兄弟の供養塔があります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR御殿場線下曽我駅から徒歩15分 |
鴨宮(かものみや)/小田原市鴨宮 | |
▲岩瀬家住宅/国の登録文化財 | ▲蔵も至る所で見られます |
●茅葺き屋根が見られます 古くは柳の老樹が多かったので柳下とよばれましたが、地元の守り神である加茂宮とし、江戸時代に鴨宮の字が当てられました。いま歩いていますと、昔からの町並みも新し住宅に変わってきていますが、ときおり茅葺き屋根も見られます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線鴨宮駅から徒歩12分 |
本町(ほんちょう)/小田原市本町 | |
▲だるま料理店本店/国登録文化財 | ▲佐藤和夫法律事務所/昭和7〜8年築 |
▲ 旧明和銀行/昭和3年築 | ▲ぼっかけ焼きそば(450円/長田本庄軒) |
●近代木造住宅群 本町と名の付く地名は全国各地にありますが、その大部分は戦後の町名改正で名付けられました。ところがこの町の本町は江戸時代からの歴史ある町名なのです。『新編相模国風土記稿』によれば、小田原北条氏の時代には「通小路」でしたが、江戸時代前期に、この町を基準に町人町を左右に町割りしたときに「本町」と改められました。その後、隣の宮前町とともに小田原宿の中心地となりました。 ビルの谷間に、近代木造住宅群が「風情のかたまり」となって佇んでいるのです。なんとも楽しい散歩になりました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩15分 |
小田原(おだわら)/小田原市栄町3丁目 |
●面影が残る旧カフェ街 この日は山王神社の例大祭で,町中だんじりや子ども御輿などが出ていました。男たちのはっぴには抹香町(まっこうちょう)という名前が染めてあります。そうココはかつて抹香町と呼ばれていた,いわゆるカフェ街。地名の由来は近くに十王堂(閻魔堂)や寺院が多く、線香の煙が絶えなかったから。 小田原市内にはこの日3つの大きな神社の例大祭が行われており,朝からとても賑やかです。そんななかを路地から路地を歩いていますと,黒塀やカフェを思わせるような建物が見られます。「女給さん」たちが歩いていたのでしょう。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩20分 |
手代町(てだいちょう)/小田原市栄町4丁目 | |
▲小田原カトリック教会/昭和6年築 | ▲トーストセット(360円・トレッタ) |
●古民家が点在しています 江戸時代の町名です。『新編相模国風土記稿』では「まち」と明記されています。この地の北西角に手代が住んでいたそうです。手代は商家の者ではなく、奉行や代官の下役(足軽)のことです。この辺りは古民家が点在しており、城下町の面影が見られる。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩20分 |
国府津(こうづ)/小田原市国府津 |
●洋館や看板建築がズラリ 驚きました。古い洋館や看板建築などが途切れ途切れに並んでいるのです。なぜこんな町に,と疑問が湧いたのです。 明治,大正時代は箱根方面への小田原馬車鉄道への乗り換え駅で,たいへん賑わったそうです。さらに東海道本線が御殿場線経由で開通すると,国鉄の連結作業のためますます発展したとか。しかし丹那トンネルが開通すると,一気に寂れたそうです。 しかし戦後の建物ばかりなのは,しばらくは賑やかだったのでしょう。ところで地名は、平安時代、国府の外港にあったことに由来するそうです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東海道本線国府津駅からすぐ |
西海子小路(さいかいちこうじ)/小田原市南町 |
●旧武家屋敷通り かつて武家屋敷がずらりと並んでいたところです。いまはたまに車が通る瀟洒な住宅地でもあります。もちろん武家屋敷を思わせる建物はありません。 歩道には桜が植わっており,春ともなれば花見客でにぎわう小路でもあります。 また多くの文学者が居を構え,文学活動が盛んに行われていました。この小路の一画にある小田原文学館は,北村透谷,北原白秋,谷崎潤一郎など,小田原にゆかりのある文豪の資料を展示しています。 ところでこの奇妙な地名は、この地に「サイカチ」の木が植えられていたことが由来だとか。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩20分 |
諸白小路(もろはくこうじ)/小田原市南町 | |
▲ 小田原聖十字教会/昭和2年築 | ▲三好達治旧居跡の碑 |
●旧中級武士の屋敷町 小田原城主稲葉正則の時代、この地に上方から酒を造る職人・杜氏を招いて諸白酒を造らせたことから、この地名が生まれたそうです。諸白酒とは、当時の濁り酒などと比べてかなり高価な酒。道の両側は中級武士の屋敷群でした。いまは高級住宅です。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線小田原駅から徒歩17分 |
板橋(いたばし)/小田原市板橋 |
●別荘地と職人の町 旧東海道・小田原宿を出て最初の町で、職人が多く住んでいるところでした。間口が狭く奥行きのある江戸期の面影を残す町家が見られます。また豪華な蔵造りの商家がところどころに残っています。職人の町のイメージは全く残っていませんが、豆腐屋「とうふ工房」が歴史的な建物を維持しています。なお元禄時代からは小田原宿の助郷となっています。 一歩裏側に入ると、寺院があり、一気に静かになります。このあたりは別荘地帯というのもわかるような気もします。地名は土橋が通例の時代、景観上あえて板橋と名付けたとか。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 箱根登山鉄道箱根板橋駅から徒歩10分 |
早川(はやかわ)/小田原市早川 |
●旧熱海道沿いの集落 小田原から分岐する熱海道沿いの集落です。小田原宿の助郷でもあります。藩主の熱海巡視や遊覧は,この地から船を出したそうです。今はところどころに石垣と植栽が連なり,また土蔵などの古民家も見られる美しい町並みです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東海道本線早川駅から徒歩10分 |
風祭(かざまつり)/小田原市風祭 | |
▲旧菊地家主屋と土蔵/秋田県から移築・国の登録文化財(現・かまぼこの里) | |
●旧東海道沿いに古民家 江戸時代の旧風祭村は小田原藩領で、小田原宿の助郷でした。ところで、かわいい地名は、“風”に関する農業神事からきているといわれますが、中世の地頭・風祭氏にちなんだ説もあるとか。旧東海道沿いの集落で、古民家が点在しています。今はかまぼこの里に多い。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 箱根登山鉄道風祭駅から徒歩10分 |
入生田(いりうだ)/小田原市入生田 |
●旧東海道の両側に続く街村 旧東海道は、ほぼ箱根登山鉄道に沿って通っています。入生田駅は県立地球博物館があるため、展示会の内容次第で混雑するとか。また紹太寺の桜の時期も同じ。しかし何も無いときは、静かな集落です。 旧街道を歩いてますと、取り立てて東海道を象徴するような碑があるわけではありません。古民家が左右にポツン、ポツンと見受けられます。しかし交通量も少なく、ときおりハイカーが歩く程度の集落ですので、実にのんびりできます。 変わった地名は、谷間に入り会う形で水田が展開していることにちなむという説もあります。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 箱根登山鉄道入生田駅から徒歩10分 |
真鶴(まなづる)/真鶴町真鶴 |
●急坂に立つ旧港町 地形がツルが羽を広げた形が似ているところから名付けられたとか。町は急な坂が多く,港近くからお椀状態で民家が広がっています。建物もほとんどが戦後のもので,民宿,釣り宿も多く見られます。漁業から釣り船に転業する人が多い。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR真鶴駅から徒歩20分 |
本町(ほんちょう)/横須賀市本町 |
●観光名所のどぶ板通り 本町というより通称のどぶ板通りのほうが知られています。明治時代から軍港でしたが,大正時代に入ってどぶ板通りと呼ばれたようです。この通りにドブ川があり,その上に厚い板を敷いてあったことからどぶ板通りと呼ばれたようです。 戦後は米兵相手のアメリカナイズされたバーやスーベニヤ街として飲食店が中心となって賑わいました。しかし最近では、米兵が去り、日本人客が圧倒的に多くなり,特に週末の混みようはスゴイのひと言です。 建物は鉄筋の他は,看板建築が多く,いずれも戦後のもので,地味な感じです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 京急線横須賀中央駅から徒歩10分 |
東浦賀(ひがしうらが)/横須賀市東浦賀町 |
●「浦賀の渡し」付近に点在 江戸時代の元禄5年(1692)、旧浦賀村が東・西に分村。以後、幕末まで幕府領となります。当初、近海で獲れたイワシは干鰯(ほしか)に加工されて、上方に送られていました。そのため、干鰯問屋が最盛期には30軒近くが軒を並べたそうです。また歩いていますと寺院の多さに驚きますが、干鰯問屋の支援によって大きくなったと言われています。 しかし繁栄もここまでで、享保5年(1720)に浦賀番所の設置に干鰯問屋が反対。そこで西浦賀に番所が設置され、繁栄は西浦賀に移りました。いま古民家は渡船場付近にわずか。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 京急浦賀駅から徒歩20分 |
西浦賀(にしうらが)/横須賀市西浦賀町 |
●わずかに残る蔵造り 初めての訪ねました。江戸時代中期、浦賀村が東西に分村したのが発祥。その後,浦賀奉行所と塩の商人によって基盤が作られたそうです。戦後になって一時は造船不況をまともに食らって、町自体が寂れましたが、いまふたたび活気をとりもどしつつあります。 歴史的な家屋は、東浦賀への渡船場近くに残っています。蔵造りの町家などがありますが、消えるのも時間の問題でしょうか。なお集落の守り神である西叶神社近辺には、旧妓楼らしき建物も見られます。また南側に県下で一番古い愛宕山公園があり,咸臨丸出港の碑があります。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 京急浦賀駅から徒歩15分 |
船越(ふなこし)/横須賀市船越町 |
●「近代化遺産」と「旧花街」 江戸時代はほんとんど人家もなく,近くに浦賀道,鎌倉道が通っていました。宝永年間(1704年〜),武州で新田開発を経験した永島団右衛門が,海を埋め立てた船越新田の開発を行ないました。 近くの長浦港には,明治から戦後にかけて,旧海軍工廠造兵部や水雷学校などが置かれ,いまなお「近代化遺産」が残されています。敷地内には入れませんが,道路から一部を見ることができます。 さて,船越のもう一つの顔が旧花街であったことです。ところで地名の由来は、諸説ありますが観音様が舟でお越しになったことから名付けられたとか。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京急線京急田浦駅から徒歩5分 |
田浦(たうら)/横須賀市田浦町4丁目 | |
▲JR横須賀線の1m幅の小さな田浦沢踏切を渡ると、そこは異界でした | |
▲海軍工廠の技師職工らとその家族らで急増。軍港バブルは人を集めました | |
●小さな踏切を渡ると、そこは廃墟村でした 1970年代に「湘南田浦ニュータウン」の建設計画があり、業者が立ち退きなどを進めたものの、途中で難工事が予想されることが判明。結局、計画は頓挫しました。以来、行政も入ることができずに、30年以上もそのままの放置状態になっているとか。いまや都心で最も近くにある廃墟村です。ただ浮浪者などが住み着き、治安面で心配されています。警察も定期的に巡回しているそうです。また家財道具などを持ち出すと犯罪になるので注意。 廃墟村に行く途中に古民家もあり、ごく普通の住宅地です。江戸時代は浦賀往還沿いの集落で、幕末は幕府領で迎えます。このあたりは海岸線の入り組みの多い地形から手浦の地名が生まれ、後に田浦に転訛したとか。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★ 交通 京急田浦駅から徒歩20分 |
逸見(へみ)/横須賀市東逸見町 |
●旧道沿いに明治から続く酒屋さんなどが見られる 江戸時代、徳川家康の外交顧問であった三浦按針は220石の禄高を持ち、浄土寺(西逸見町)の近くに住んでいました。逸見は幹線道路・浦賀道が通り、軍事的にも経済的にも重要な地域でした。幕末は幕府領で、そのまま明治維新を迎えます。『新編相模国風土記稿』によれば、鎌倉時代に逸見二郎の所領でした。 いま、逸見駅から伸びる幹線道路の一歩裏手に入ると旧道が伸びています。その旧道沿いに明治から続く酒屋さんなどがあり、さらに旧茶屋、旧妓楼などの古民家が連なります。いずれも改築、改装されていますが、デザインや材料から推定できます。かつては大いに賑わった所だったのでしょう。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 京急線逸見駅から徒歩10分 |
上町(うわまち)/横須賀市上町 |
●三崎街道沿いに看板建築 江戸時代は,寒村であったそうで,明治に入ってやっと数十軒になったとか。上町も戦後に名付けられた新しい町です。 横須賀中央駅を出て少しゆるやかな坂道,すなわち三崎街道を歩きます。三叉路を経てさらに歩くと,看板建築がズラリと並んでいるのに気がつきます。ちょっとカラフルな感じがします。なかには蔵造りや銅板張りの商家もあって,意外に古い町並みであることがわかります。アーケードの天井を境にして,上下がかなり違って見えます。 余談になりますが、陸軍の施設が多かったことから「陸軍の上町」と呼ばれ、「海軍の下町」と区別されていました。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 京急線横須賀中央駅から徒歩10分 |
柏木田(かしわぎた)/横須賀市上町3丁目 |
●旧遊郭「柏木田」の面影 横須賀には3つの遊里がありました。「安浦」、「皆ケ作」(現・船越町)、そして柏木田(現・上町)です。柏木田は特に海軍の軍人たちに愛され通ったところだったようです。しかし全国的にその名が知られたのは、文豪・山口瞳の私小説『血族』でした。母親の生家が遊郭の経営者。自分もその血を引いているのか。亡き母を追い求める純文学 駅を出て、坂を上ったり下ったりと……、さんざん歩き求めて探しました。妓楼、旅館、料理屋などを思わせる建物が数軒、点在していました。娼妓が150人以上いたそうで、貸座敷が30近くあったとか。面影も消えそう。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 京急線県立大学駅から徒歩15分 |
安浦(やすうら)/横須賀市安浦町 |
●もう一つの顔・旧特飲街 大正時代からある町名です。早い段階から安浦の大部分は埋め立てられ,区画整理された整然とした町並みになっています。地名は,埋め立て工事にあたった東京・安田財閥の安田保善社の安と海岸を表す浦を合成したとか。また安浦港は,漁港と同時に建設資材を扱ったりもしていました。 もう一つの顔に横須賀三大花街の一つで、安浦は戦前から花街でもありました。戦後は特飲街となり昭和33年まで続いたのです。町を歩いていると,神社があり、数軒もある質屋,民家などに,かつての花街特有の風景が目に付きます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 京急線県立大学駅から徒歩5分 |
三崎(みさき)/三浦市三崎 |
●蔵造りの旧廻船問屋 江戸時代は徳川水軍の拠点の一つで,なおかつ浦賀奉行所も置かれていました。廻船問屋も多く,蔵造りの商家が見られます。最近はマグロで町おこしを図っており,ラーメン,カレー,まんじゅうまでマグロ入りが売られています。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 京急線三崎口駅からバス三崎港下車すぐ |
北鎌倉(きたかまくら)/鎌倉市山ノ内 | |
▲円覚寺/国宝舎利殿など文化財 | ▲浄智寺/鎌倉五山の第四位 |
▲去来庵/市の景観重要建築物 | ▲北鎌倉古民家ミュージアム |
●古刹の間に風情を感じる 北鎌倉駅を中心にした町です。昭和5年(1930)に駅開業以来,円覚寺,東慶寺などへの観光客が増えました。以来北鎌倉という名前が定着したのです。風情のある飲食店なども並び,一大観光スポットとなりました。裏道を歩いています、古都・鎌倉を感じさせます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR横須賀線北鎌倉駅からすぐ |
雪ノ下(ゆきのした)/鎌倉市雪ノ下 | |
▲鏑木清方記念美術館/昭和7年築 | ▲川合邸/大正11年(1922)築 |
▲川喜多映画記念館(左が和館) | ▲石島邸/大正末期から昭和築 |
●鎌倉観光の中心地 鶴岡八幡宮や若宮大路など鎌倉観光の中心地です。頼朝が雪見のため鶴岡別当坊を訪れたとき,積もった雪を長棹に詰めて,山陰に「氷室」を造らせたことから雪ノ下と言ったとか。またユキノシタという野草が生えていたからだという説も。 ところで雪ノ下は,裏道がおもしろいです。迷路のような路地には板塀や垣根など独特の風情が見られます。また美術館なども迷路の合間に見られます。閑静な住宅地だけに1軒あたりの敷地面積も広く,旧家や別荘の多い所でした。明治のころは人口は700人足らず。最近では裏道を歩く人たちが多いようです。 ●裏道の迷路に古都の風情 鎌倉らしい風情を感じる所は,佐助や扇ガ谷,大町などの旧市街地にはたくさんあります。歩いていますと、古都の景観を守ろうという住民と行政の一体感が見られます。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 JR鎌倉駅から徒歩10分 |
小町(こまち)/鎌倉市小町 | |
▲丸七商店街/昭和の香りがします | ▲鎌倉市農協連即売所/市民の台所 |
▲釜揚げしらす丼(900円・あさくさ) | ▲年明けうどん(390円・大船軒) |
●ところどころに古民家 通称小町通り。鎌倉観光の中心地です。鎌倉時代,町の北端に幕府や北条氏の屋敷など幕府の中枢がありました。いまはその面影もなく,500mほどの通りには土産物店がギッシリ。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR横須賀線鎌倉駅から徒歩3分 |
由比ガ浜(ゆいがはま)/鎌倉市由比ガ浜 | |
▲由比ガ浜公会堂/木造2階建て | ▲寸松堂/昭和11年(1936)築 |
▲ハリス記念鎌倉幼稚園/大正14年 | ▲かいひん荘鎌倉/大正13年築 |
▲看板建築や古民家が多い所 | ▲日本基督教団鎌倉教会会堂 |
意外にも看板建築が多い 歴史を遡ると,実に多くの怨霊めいた話しが登場します。斬首されたとか,嬰児が遺棄されたとか,血なまぐさい戦闘の場であったとか。実際に昭和10年(1935)の専売公社建設途中で,556体の人骨と馬,犬の骨が発見され,いずれも元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの戦乱で死んだ人たちの遺骨とされました。他にも忌まわしい遺骨が多数出土されています。 一方では,近代建築の宝庫といえます。特に昭和初期の建物が目に付きます。特に看板建築が多いところです。ところで地名の由来は由比郷からという説と相互に助け合う「結い」にちなむとか。いろいろです。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 江ノ電由比ヶ浜駅から徒歩10分 |
長谷(はせ)/鎌倉市長谷 | |
▲旅館對遷閣/昭和2年(1927)築 | ▲白日堂/昭和15年(1940)築 |
▲加賀谷邸/大正14年(1925)築 | ▲安齊商店/大正13年(1924)築 |
▲旧諸戸邸/明治41年(1908)築 | ▲旧前田利為別邸/昭和11年築 |
▲吉屋信子記念館/昭和37年築 | ▲古民家ギャラリー・イシワタリ |
高徳院/鎌倉の大仏 | ▲寺まんじゅう(210円・長谷寺境内) |
●古建築の“野外博物館” 文字通り長谷寺から派生した地名です。『吾妻鏡』には長谷の名がないので、鎌倉時代後期に地名が生まれ、同時に寺の形ができあがったようです。また大和・長谷寺の「長谷観音信仰」を広げるための東国拠点でした。 それにしても蔵造りや出桁造りなどの重厚な町家が目に付きます。南北の大仏坂切通,東西の長谷小路沿いに集中しているようです。これらは高徳院(大仏)や長谷観音(長谷寺)への参道にあたるからでしょう。また長谷小路から横道へ入ると,近代建築が目白押し。長谷は建物の屋外博物館といえます。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 江ノ電長谷駅から徒歩15分 |
坂ノ下(さかのした)/鎌倉市坂ノ下 | |
▲旧家が続きます | ▲力餅家/元禄年間の創業とか |
●切り通しの坂下に旧家 地名の由来は、極楽寺切り通しの坂下に位置することだそうです。切り通しを抜けると、左右に旧家と思わしき長い板塀が続きます。江戸時代から幕府領で、漁業を営むものもいましたが、捕獲したした魚はすべて江戸・新肴場に納めそうです。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 江ノ電極楽寺駅から徒歩10分 |
扇ガ谷(おうぎがやつ)/鎌倉市扇ガ谷 |
●植栽や竹垣、板塀などで景観を維持しています 北鎌倉駅を降りてしばらく線路沿いに歩き、丘陵部へ入りますと扇ガ谷地域になります。鎌倉市周辺部に開発の波が押し寄せていますが、扇ガ谷は旧鎌倉の景観を見られる所と言われています。古来の歴史書、物語や戦場などに登場し、いわば歴史の舞台となったところでもあります。多くの古刹が見られますが、その割には訪れる人は少ないようです。扇ガ谷でも丘陵部の頂上付近は開発の手が入っていますが、谷あいに流れる扇川沿いには古民家が連なり、古都・鎌倉の雰囲気を盛り上げています。植栽や竹垣、黒板壁などで景観を維持し、落ち着いた町並みが見られます。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR横須賀線鎌倉駅から徒歩20分 |
宅間ガ谷(たくまがやつ)/鎌倉市浄明寺2 | |
▲報国寺/竹林が有名です | ▲旧華頂宮邸・昭和4年築 |
●深い谷間の入口に民家 報国寺の迦葉(かしょう)像は宅間法眼の名作といわれました。そこから「宅間が谷というなり」と伝えられたとか。 元暦元年(1184)正月,頼朝の命で京都から下向した宅間派の絵師・宅間為久(ためひさ)は聖観音像を描き,翌年には勝長寿院の壁画を制作するなど,鎌倉幕府と深い繋がりを持ちました。このため為久は鎌倉宅間派の祖とみなされました。 深い谷間をゆくと,周辺の環境がよく保存されており民家もわずかにあって静寂さが保たれています。現在、谷の尾根沿いに杉本寺と逗子・岩殿寺の往還路であった板東三十三観音巡礼道が残っています。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR鎌倉駅から浄明寺バス停下車徒歩10分 |
浄明寺(じょうみょうじ)/鎌倉市浄明寺3 | |
▲石窯ガーデンテラス/大正11年築 | ▲浄妙寺/鎌倉五山の五位 |
●植栽が古都の景観を保つ 金沢街道から裏手に入ると静かな住宅地が続きます。2015年に逝去された往年の大女優もこの地に長く住まわれていました。美しい植栽で造られ塀は、古都にふさわしい景観を保っています。大部分の主屋は新築、または改築、改装されています。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR鎌倉駅からバスで浄明寺下車徒歩5分 |
十二所(じゅうにしょ)/鎌倉市十二所 |
●美しい詳細や竹垣塀 地元の古老のなかには「じゅうにそ」と呼ぶ人もいます。鎌倉時代は谷合(やつあい)4か村(ほかに浄明寺、二階堂、西御門)の一つにあたります。地名の由来は諸説ありますが、天保9年(1838)まであった光触寺の境内の鎮守・熊野三山の「熊野十二所権現社」にちなむのが有力なようです。『新編相模国風土記稿』にも明記されています。町内にある明王院は嘉禎元年(1235)、将軍・藤原頼経が創建。本尊に五大明王を安置するのは、鎌倉市内で当寺だけです。古民家はこの明王院周辺に点在しており、美しい植栽や竹垣の塀が見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR鎌倉駅からハイランド入口バス停から徒歩10分 |
腰越(こしごえ)/鎌倉市腰越 | |
▲腰越付近を走る江ノ電 | ▲小動(こゆるぎ)神社の狛犬 |
●江ノ電を境に山側と海側とでは変わる町の形 腰越を一躍有名にしたのは、源義経の腰越状です。兄の頼朝に疎外された義経は京都から下向しましたが、鎌倉に入ることが許されず「腰越駅」で滞在。そこで頼朝の勘当をとくように大江広元に依頼した書状が腰越状のことです。ところで腰越“駅”、すなわち小さな宿場でもあったのです。中世、京都と鎌倉を結ぶ街道で鎌倉に入る手前で、西の境界でもあったのです。 腰越を歩いて見ますと、古民家が点在していますが、決して連なっていません。江ノ電の踏切を越えて奥に入りますと、まさに路地が続き迷路状態です。各地で見てきた漁村のような形態を見ました。腰越は鎌倉でも最古の漁港とも言われています。『新編相模国風土記稿』によれば、鎌倉往還沿いに352軒、漁船は60艘、江戸までの海路は26里とあります。それにしても江ノ電を境に海側は短冊状、山側は迷路状と町の形態は大きく変わっていました。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 江の島電鉄腰越駅から徒歩3分 |
逗子(ずし)/逗子市逗子 |
●別荘地に近代木造住宅 明治22年(1889)に横須賀線が開通,明治27年に隣町に葉山御用邸ができました。さらに徳富蘆花作『不如帰』の舞台になってから,別荘を建てる人が一気に増えたのです。戦後は保養地から観光地,住宅へと変化しましたが,往時の雰囲気は残っています。 とくに竹垣を利用した塀がかなり残されています。また生け垣や見越しの松などが伝統的な町並みと同時に典型的な別荘地としての光景が散見。さらに戦前の建物も多く,近代木造住宅が塀越しに見られます。 地名は地蔵菩薩像を安置する厨子、もう一つは地図を製作する豆子(図師)からとか。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 JR横須賀線逗子駅から徒歩10分 |
藤沢(ふじさわ)/藤沢市藤沢 |
●そこかしこに残る古民家 中世は鎌倉,三浦半島方面からの街道と東海道が交わるところで,清浄光寺(遊行寺)の門前町として発展しました。江戸時代は,ココに宿場を置き,宿場町,市場町として発展したのです。本陣は江戸中期から蒔田源右衛門が勤め,いまは碑が残るのみとなっています。脇本陣は2軒,旅籠は50軒弱あったとされています。 遊行寺橋を渡って右に曲がると藤沢宿の始まりです。土蔵造り,格子のある町家などが,ときおり見られます。古民家の存在をすっかりあきらめていただけにうれしいものです。 地名は地形の渕沢が転訛したといいますが諸説あります。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線藤沢駅から徒歩20分 |
長後(ちょうご)/藤沢市長後 |
●2mを越す植栽にビックリ 引地川に沿った町並。江戸時代は,大山道,八王子往還が通り,継立村でもありました。古来,このあたりは農村でしたが,大きな余裕のある敷地が受け継がれました。それにしても2mを越す植栽は大きい。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急江ノ島線長後駅から徒歩20分 |
用田(ようだ)/藤沢市用田 |
●古民家が散在しています 江戸時代、旧用田村には厚木道、中原往還、大山道が通り人馬継立てを行っており、意外にも早くから発展した集落でした。いま大部分が郊外住宅に変わっており、古民家は鎮守の寒川神社近辺や中原街道の裏手に見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急江ノ島線長後駅からバスで用田下車、徒歩10分 |
宮原(みやばら)/藤沢市宮原 |
●立小路沿いに古民家 江戸新道(中原街道)裏には、立小路(たてこうじ)という通りがありますが、かつては表通りでした。そのため名主などの屋敷や屋敷林も見られました。現在も立小路入口には地蔵尊が立っています。また畑や造園業などの庭、通り沿いの古民家も見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急江ノ島線長後駅からバスで用田下車、徒歩15分 |
鵠沼(くげぬま)/藤沢市鵠沼松が岡 |
●竹垣のある旧別荘地 歴史は古く、平安時代の書物に鵠沼郷の地名が見られる。 江戸期,享保13年(1728),海岸沿いに大筒(大砲)実射場が設置されました。このため幕府鉄砲組の逗留費用など,経済的な負担が大きく,ただでさえ藤沢宿の助郷負担もあって,村民は疲弊するばかりでした。もともと半農半漁の村で,農繁期のあと,漁に出ていました。 明治時代,海水遊泳場,別荘地として開発。明治35年,鉄道が開設してから一気に観光地化したのです。鵠沼の一部には,生け垣,竹垣などの植栽が残されており,旧別荘地としての風格が漂っています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急江ノ島線鵠沼海岸駅から徒歩15分 |
片瀬(かたせ)/藤沢市片瀬 | |
名主でもあった旧小池邸(左)と旧福原邸の長屋門(右)。新林公園に復元 | |
●えのしま道沿いの集落です 古代からの開発が進み、水田も広範囲に存在し、そのため遺跡も多く発見されています。鎌倉時代は鎌倉への入口にあたり、幕府にとっても要地でもあります。刑場もありましたが、基本的には鎌倉幕府の外にあったことになります。逆に言えば、それだけ多くの合戦が行われました。特に新田義貞の鎌倉攻めは有名です。江戸時代は徳川幕府の所領となり、幕末まで続きます。 藤沢宿からのこのえのしま道は、「江の島詣で」の人々で賑わいました。いまほとんどが宅地化されていますが、江の島に近づくにつれ、旧家が残り、土蔵や美しい植栽に囲まれた古民家がわずかに見られます。また藤沢最古の本連寺、龍口寺など古刹も多い。、 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 江の島電鉄鵠沼駅から徒歩20分 |
州鼻通り(すばなとおり)/藤沢市片瀬海岸 |
●江ノ島神社の門前町 州鼻というのは砂州のことで,境川河口から江ノ島に伸びています。江戸時代から江ノ島神社への多くの参拝客が通った道で,両側には土産物店や旅籠などが林立。また境川河口には片瀬港があり,藤沢宿の周辺の米などの農産物の移出,日用品,雑貨などの移入品があふれ,賑わっていました。 大正から昭和にかけて、流行りだした海水浴客がゾロゾロと歩いていました。いま「片瀬州鼻通り」を歩きますと,高層マンション、おしゃれなカフェやレストランなどの間に,木造旅館,蔵造りの土産物店な幾つかの古民家が見られます。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 江ノ島電鉄江ノ島駅から徒歩5分 |
江ノ島(えのしま)/藤沢市江の島 |
●裏道に漁師町の雰囲気 江戸時代,三坊の中でも岩本坊が江ノ島全体に力を及ぼしていました。明治の神仏分離政策以後、江ノ島神社参道が賑わっており土産物店やレストランが集中しています。裏道は古民家は見られませんが,漁師町らしい雰囲気が残っています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田急片瀬江ノ島駅から徒歩10分 |
御岩屋道通り(おいわやみちどおり)/藤沢市江の島 | |
▲道は狭く、アップダウンも多い | ▲大部分が土産物店や飲食店 |
●聖地へ向かう“修行道”沿いに建つ二重せがい造り 名所「山二ツ」から「稚児ヶ淵「までの小道を御岩屋道通りと呼んでいます。つまりその先の岩屋へ行くための“修行道”というわけです。岩屋は、鎌倉時代から宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきました。海食洞で富士山風穴をはじめ関東各地の洞穴と奥でつながっているという伝説があります。いまはアップダウンの激しい通りで、両側は飲食店や土産物店が続きます。いずれも頑丈な古民家を改装したもので、太い出し桁が二重になっており、いわゆる二重せがい造り。そのなかを多くの観光客が歩いています。 このあたりの飲食店は崖側にテラスを設け、富士山などの眺望が楽しめることから人気が高い。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急片瀬江の島駅から徒歩60分(ほかに船やエスカレーターあり) |
平塚(ひらつか)/平塚市平塚 | |
▲現在は公民館の旧平塚議事堂 | ▲平塚にある平塚の塚 |
▲八幡山の洋館(旧横浜ゴム)市内で唯一の明治の建物・国の登録文化財 | |
●白壁の土蔵が2棟 地名のいわれは諸説ありますが,桓武天皇の三代孫の高見王の娘政子が旅の途中この地で逝去。棺はココに埋葬されましたが,その塚が少しずつ平らになったので,地元民は「平塚」と呼んだとか。 平塚宿は中世の時代から、東海道の軍事・交通の要衝でした。いまは古民家もなく,かつての面影はありません。かろうじて個人所有の白壁の蔵が2棟並んでいるくらいです。しかし旧平塚議事堂という近代建築が途中に見られます。戦後まもなくの昭和25年(1950)に建てられた,瓦葺きの入母屋式,和洋折衷型です。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道線平塚駅からバスで柳町下車すぐ |
田村(たむら)/平塚市田村 | |
▲大山道沿いにも蔵が見られる | ▲井筒屋/明治3年創業の和菓子屋 |
●2つの街道が交差する 「旧田村十字路」交差点で、大山道と八王子往還が交差しており、田村宿のあったところと推定。人馬継ぎ場や数件の旅籠が並んでいました。また相模川の渡船場もあり、かなり賑わいました。今は井筒屋の和菓子「たむらの渡し最中」が名物。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急本厚木駅からバスで田村十字路下車すぐ |
御殿(ごてん)/平塚市御殿 |
●地名は中原御殿にちなむ 中原御殿は文禄5年(1596)に徳川家康の命により、江戸・駿府間の往復や鷹狩りの際の宿舎として建てられました。いわば別荘です。 約7100坪の広さをもち、周囲には約10m幅の堀をめぐらしていたといわれています。現在の跡地には中原小学校が設置されています。ただ、実際にはあまり使われていなかったようです。中原街道の名は御殿から由来します。 この辺りは戸建ての住宅が広がっています。バスを降りて、歩きながら古民家らしき建物も少し見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR東海道本線平塚駅からバスで向原下車、徒歩10分 |
中原(なかはら)/平塚市中原 |
●中原往還沿いの集落 中原という名は鎌倉時代の文献にも見られます。しかし明確な記録としては、江戸時代初期に中原村が存在し、その後明暦2年(1656)上、下宿に分離。しかし元禄8年に合併したが、宝暦8年に再び2宿になりました。2宿合わせて120軒余とかなり大きな宿場で、中原往還沿いに町家が軒を並べたとか。しかし、東海道が徐々に整備されると、脇往還的な存在になり、商品作物の輸送が主となり人々の往来は減少し、江戸の近郊農村へと変わっていきます。 いま旧中原街道(往還)沿いの裏手や家康の肖像画のある日枝神社近辺に古民家が点在。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 小田急伊勢原駅からバスで大縄橋下車徒歩3分 |
大雄山(だいゆうざん)/南足柄市関本 | |
▲大雄山最乗寺は室町時代の創建 | ▲大雄山駅/南足柄市指定文化財 |
●大雄山最乗寺の門前町 まだ東海道,箱根路ができるはるか以前,古道・足柄道の要所で,西国から相模に入る最初の宿場町でありました。江戸時代になると,宿場は上宿,中宿,下宿に分かれ,矢倉沢往還の要地となりました。同時に小田原宿の助郷でもありました もう一つの顔が大雄山最乗寺の門前町。かつて豊臣秀吉や小田原藩の制札(せいさつ)を有することから、支配者層から信仰を得ていました。今では年間90万人を超える参拝者がいます。通りの両側は旅館,土産物店,茶屋などが連なりますが,ややかげりが見えて寂しいものです。なお杉並木は圧巻。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 伊豆箱根鉄道大雄山線大雄山駅から徒歩15分 |
湯河原(ゆがわら)/湯河原町宮上 | |
▲さらに旧道を奥へ歩きますと、3階建ての旅館が見られます。廃業中も多い | |
●風情のある和風旅館 隣の熱海温泉は高層ホテルが林立していますが,湯河原はまだまだ風情のある旅館が残っています。歴史は古く,遠く万葉集にも詠われていますが,やはり江戸時代,小田原藩主が温泉通いしたことで名が知られたとか。また多くの文人墨客が訪れ,小説の舞台になりました。いまは推理作家の西村京太郎氏が京都から移転し、文学記念館を併設されています。 メインのバス通りは、両側に,木造の旅館や土産物店,飲食店が並び,昔ながらの町並みとしての風情が感じられ,路地裏を歩くと,廃業した木造旅館も見られます。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR東海道本線湯河原駅からバス温泉場中央下車すぐ |
奥湯河原(おくゆがわら)/湯河原町宮上 |
●湯河原の奥座敷 湯河原温泉から藤木川に沿って約3km上流に高級温泉旅館街があります。温泉客1日2組限定旅館や離れ形式の旅館など「湯河原の奥座敷」の名に恥じない高級旅館街の雰囲気です。戦後,宇野千代,林芙美子らも滞在,水上勉は『飢餓海峡』をこの地で完成させ,小林秀雄は『ゴッホの手紙』の構想を煉りました。また著名人の別荘や外国人の住まいも多いとか。庶民には敷居の高い温泉街といえます。 土塀,石塀に植栽,石垣,独特の和風旅館建築など,ちょっと落ち着いた感じがいいのです。まさしく奥座敷です。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR湯河原駅から奥湯河原行きバス終点下車徒歩13分 |
福浦(ふくうら)/湯河原町福浦 |
●石垣と坂のある町 福良も真鶴と同様,坂のある町です。知り合いの写真家がこの福浦に住んでいて,日常生活を悲喜こもごもに話していたのを思い出しました。酔いつぶれて,急な石段の途中で寝込んだことや,宅配便の配達人が事前に必ず電話が入り「何時ごろ行きますから,必ず居てくださいね」の念を押すそうです。 歩いていますと,石垣のある家が目に付きます。なまこ壁のある土蔵も見かけます。でも大部分が現代の建築物です。ただ坂の上からの景色はよさそうです。地名は、『新編相模国風土記稿』によれば、漁業による利益が多かったからが由来。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR東海道本線真鶴駅から徒歩15分 |
湯本(ゆもと)/箱根町湯本 |
●木造3階建ての旅館 旧東海道沿いの温泉街でしたが,1951年に小田急電鉄の乗り入れで一挙に発展。所々木造建築の温泉宿が往時を偲ばせます。また裏道にも古民家が散在しています。地名は『新編相模国風土記稿』によれば温泉七湯のうち最初の湧出地。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 小田急箱根湯本駅から徒歩10分 |
塔ノ沢(とうのさわ)/箱根町塔ノ沢 | |
▲oZ楼/国の登録文化財 | ▲函嶺洞門/土木遺産 |
●登録文化財や土木遺産 古くは東之沢とも書いた。地名の由来は、塔ノ峰の下に開かれたこちにちなむとか。 塔ノ沢温泉は阿弥陀寺開山の上人が1605年(慶長10年)に発見したといわれています。古くから水戸光圀,伊藤博文などの著名人が数多く訪れており,島崎藤村の小説『春』の舞台になった由緒ある温泉です。 早川沿いに明治,大正時代の木造和風建築の老舗旅館が建ち並んでいます。いずれも文化財としての価値があります。もう一つ古い橋やトンネルも数多く残されています。これらは土木遺産として土木学会が選定したものです。ちなみに箱根駅伝のコース沿いで、アナウンサーが絶叫するところです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 小田原駅からバスで塔ノ沢下車すぐ |
宮ノ下(みやのした)/箱根町宮ノ下 | |
▲旧道を入ると坂のある旅館街 | ▲富士屋ホテル/国の登録文化財 |
●富士屋ホテルが代表格 宮ノ下温泉も箱根七湯の一つで富士屋ホテルが代表格といえます。明治11年に温泉街の中心地に和風3層の外国人専用ホテルとして開業しました。また周囲の古美術店や土産物店も古風な造りになっています。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 小田原駅からバスで宮ノ下下車すぐ |
元箱根(もとはこね)/箱根町元箱根 |
●箱根観光の出発地 旧元箱根村が箱根町と合併したとき,箱根宿と区別するために元箱根を残しました。一歩裏側に入るとやや古い民家が見られますが,いずれも戦後のものです。湖上の赤い鳥居が印象的です。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田原駅からバスで元箱根下車すぐ |
箱根(はこね)/箱根町箱根 | |
▲旧箱根関所 | ▲箱根駅伝ミュージアム |
▲関所だんご(300円/御番所茶屋) | ▲ざるそば(500円/あさひ屋) |
●人為的に開いた宿場町 1618年(元和4年)に徳川幕府によって宿場が開かれました。時の松平政綱が幕府の命を受け山野を開き,三島宿と小田原宿から各50戸づつ移住させ,人為的に箱根宿を開いたとされています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 小田原駅からバスで箱根町下車すぐ |