横浜市

 関内(かんない)/横浜市中区
 横浜指路教会/大正15年築,フランス初期のゴシック風。設計・施工は竹中工務店
 ●関内と関外
 幕府は安政6年(1859)の開港にともない,9万6000千両を投じて外国人居留地を造り,その出入り口に関門が設けらました。そこで関内と関外とに分かれました。以後、居留地を関内というようになったのです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR根岸線桜木町駅から徒歩5分
 馬車道(ばしゃみち)/横浜市中区
 旧横浜正金銀行本店本館
 横浜第2合同庁舎/旧生糸検査所  平成元年復元/横浜市認定歴史的建造物
 ▲旧生糸検査所(横浜第2合同庁舎)大正15年築  ▲日本興亜馬車道ビル・大正11年築/気味の悪いデザインです
 横浜郵船ビル・昭和11年築  
 ▲横浜郵船ビル(昭和11年築)RC造3階建て  ▲横浜銀行協会(昭和11年築)RC造4階建て
 旧富士銀行横浜支店/現東京芸大  
 ▲旧富士銀行横浜支店(昭和4年築・昭和28年増築)  ▲馬車道大津ビル(昭和11年築)RC造4階建て地下1階
 平成15年復元/横浜市認定歴史建造物  昭和9年築/平成15年復元・横浜市認定歴史的建造物
 ▲旧横浜銀行本店別館(昭和4年築) ▲旧東京三菱銀行横浜中央支店 
 ●港と居留地を結ぶ煉瓦通り
 日米通商条約が結ばれて,関内地区に外国人居留地が置かれました。そこから横浜港を結ぶ道路を外国人たちは馬車で通るところから,いつしか馬車道と呼ばれるようになりました。当時の道路はレンガで敷き詰められ、1867年に完成しました。また東京行きの乗合馬車が4時間かけてこの地と結んだそうです。1900年代初期以降、横浜を代表する商店街になりました。通りは馬にちなんだデザインがあふれています。
 著名な建築ビルのほかに,無名の近代建築や馬車道会館ビル,相生ビル,白陽ビルなども健在です。
馬車道は各地にもあります
 馬車道という呼び名は,意外にも全国にあります。地元の有力者,富豪たちが馬車に乗って料亭,遊郭に通う光景を見て,いつのまにか住民たちは馬車道と呼んだというのです。横浜とはちょっと様相が違います。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 みなとみらい線馬車道駅からすぐ
 日本大通(にほんおおどおり)/横浜市中区日本大通
 横浜市開港記念会館/大正6年(1917)築・国の重要文化財
 平成13年復元改修/戦前の官庁建築の代表作  神奈川県庁本庁舎/昭和3年築・登録文化財/ドラマなどのロケ地として親しまれています。
 ▲横浜地方・簡易裁判所/
昭和5年(1930)築
 ▲神奈川県庁本庁舎/昭和3年(1928)築・国の登録文化財
   旧横浜商工奨励館(現・横浜情報文化センター)平成12年改修と増築
 ▲横浜海岸教会/
昭和8年(1933)築
 ▲横浜情報文化センター/
昭和6年(1929)築
 平成16年に改修と増築/イスラム寺院風のドームが特徴  横浜開港資料館旧館/旧英国総領事館・昭和6年築
 ▲横浜税関本館庁舎/
昭和9年(1934)築
 ▲横浜開港資料館旧館/
昭和6年(1931)築
 正面の4本の円柱が最大の特徴。  
 ▲三井住友銀行横浜支店/
昭和6年(1931)築
 ▲旧横浜市外電話局/
昭和4年(1929)築
   大倉土木(現大成建設)が設計施工
 ▲三井物産横浜ビル/1号ビル:明治44年築・2号ビル:昭和2年築  ▲横浜貿易協会ビル/
昭和4年(1929)築
 平成7年に改修・改築  2号倉庫:明治44年(1911)築。日本大通りから徒歩10分
 ▲綜通横浜ビル/昭和5年(1930)築  ▲赤レンガ倉庫/1号倉庫:大正2年築
  ●日本で最初の近代道路!
 この大げさな地名に,昔から不思議に思っていました。明治7年,横浜居留地30ケ町の一つで,当時の住所は番号のみでした。そこで,町名を付けるにあたり,その伺い書を内務大臣・大久保利通に提出。翌8年に許可がおりました。そのとき明治12年に完成した日本で最初の近代道路,ということでそのまま日本大通となったわけです。“簡単”な名付けだったのですが,当時の道路にかけた意気込みが伝わってきます。ではなぜ当時としては広い道路を造ったのでしょうか。
●江戸時代末期の大火
 慶応2年10月20日の大火で,日本人街3分の2,外国人居留地の4分の1が焼失しました。この火災が契機となり日本人街と外国人居留地との間に延焼防止のための海岸から公園(現横浜公園)まで幅広い道路を造ることが決まりました。約束は幕府から明治政府に引き継がれ,明治4年英国人ブラントの設計で幅36m,中央車道18m,歩道・植樹は各9mとして明治12年完成したのです。
近代建築が立ち並ぶ
 いまは新緑に覆われ,すがすがしく横浜を象徴する道路となりました。両側には幾つかの近代建築、神奈川県庁、横浜地方裁判所、横浜開港資料館旧館などが立ち並び,多くの人々が散歩を楽しんでいます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 みなとみらい線日本大通り駅から徒歩すぐ
 山下町(やましたちょう)/横浜市中区山下町
 旧英国7番館(現・戸田平和記念館・創価学会)大正11年(1922)築
 旧露亜銀行横浜支店/大正10年(1921)築。ロシアとフランス資本銀行として建築。古典主義様式建築の特徴。  ホテルニューグランド本館/昭和2年(1927)築
 ▲旧露亜銀行横浜支店
大正10年(1921)築
 ▲ホテルニューグランド本館/
昭和2年(1927)築
 外国人専用の長期滞在型アパートとして建築。今は貸しビル。  
▲インペリアルビル/昭和5年(1930)築 ▲旧横浜居留地48番館明治16年築
 平成21年改修再建/大和ハウス工業が設計施工  
 ▲ストロングビル/昭和13年築  ▲飲茶ランチセット(650円・悠香房)
 ●山の手に対して山の下
 もともと久良岐郡横浜村でした。安政6年に外国人居留地であった所です。そして日本大通など30ケ町と幕末の港崎町(公園)を総称した地域です。さらに大正12年に埋立地を編入しさらに広くなります。その後も数回にわたって埋立地を編入しました。同じ外国人居留地であった山手に対して“山の下”に対応する町名ということで,山下と命名されたのです。地名としては山手のほうが古いのですが,外国人居留地として整備された時期は山下のほうが早いとか。
南京町から中華街へ
 文久2年(1862)に横浜天主堂が,明治5年(1872)に日本基督公会が創立されました。安政6年(1859)の開港以来に欧米人が住むようになったのですが,その使用人として中国人も大挙して来日したのです。そして中国人たちが住む所として,中国人街が形成され南京町と呼ばれました。そしてその後の中華街へと大きく発展。
象徴的なニューグランド
 第二次世界大戦の空襲で多くの近代建築は焼失しましたが,それでも奇跡的に残った建物も少なくありません。そのシンボルとなっているのが,ホテルニューグランド本館でしょうか。進駐軍のマッカーサー元帥が宿泊したのは有名ですが,内外の多くの著名人が名を残しました。今でも横浜を代表するホテルでもあります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 みなとみらい線元町・中華街駅からすぐ
 元町(もとまち)/横浜市中区元町
 代官坂
 ●近代木造建築群の代官坂
 やはりイメージとしては元町商店街に代表されるオシャレな町並みでしょうが,実際は現代ビルに変わっています。その一歩裏手にゆるやかにカーブする坂道が,いま注目されている代官坂です。戦前の近代木造建築も見られ,逆にモダンな印象。
 代官坂は,山手の丘を越えて本牧方面へ向かう道で,箕輪(みのわ)坂と称していました。ところが坂の途中に横浜村の名主・石川徳右衛門が居住していたところから,代官坂と呼びましたが石川は代官ではありません、名主です。ペリー提督が名主と代官を取り違えたという笑い話のような説があります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通
 みなとみらい線元町・中華街駅からすぐ
 山手(やまて)/横浜市中区山手
 山手本通り
 山手  山手本通り
 ▲カトリック山手教会聖堂/
昭和8年(1933)築
 ▲山手234番館/
昭和2年(1927)築
 旧ライジングサン石油会社社宅,鉄筋2階建て  山手
 ▲フェリス女学院大学10号館/
昭和4年(1929)築
 ▲山手111番館/旧ラフィン邸
(大正15年・1926)築
   旧中澤邸として建築。その後2度の移築後,現在地に建つ
 ▲横浜共立学園本校舎/
昭和6年築 
 ▲山手資料館/
明治42年築(1909)・木造2階建て
   
 ▲横浜山手テニス発祥記念館  ▲ブラフ18番館/大正末期築
   
 ▲べーリック・ホール/昭和5年築  ▲横浜山手聖公会/昭和6年築
   
 ▲横浜市イギリス館/昭和12年築   ▲旧内田家住宅/国の重要文化財
 外人墓地内にあります。ふだんは非公開  山手駅近辺にあります
 ▲建築家モーガンの墓 ▲星ブレンド(450円ハーヴェストコーヒー
 ●おしゃれな山手本通り
 外国人たちは手狭になった山下地区に変わって目を付けたのが山手でした。明治政府は領事館に貸与すると言う形で許可しました。いまは外人墓地や港の見える丘公園など有数の観光地で,山手本通りという一本の通りで結ばれています。教会や学校なども数多くあり、それがまた大規模な開発を阻止しているのです。
 神戸市の北野地区や長崎市の山手町と比べて、横浜の建物は明るく、やや開放的な感じがします。建物のほとんどは関東大震災後のもので、先の第二次世界大戦では、空襲を逃れたのが幸いしています。江戸や明治の建物はありませんが、この町は重要伝統的建造物群保存地区の選定価値があり。
約2qののんびり散歩道
 JR石川町駅寄りは、いくつかの女子校が集中しています。その通学ラッシュぶりは、週刊誌に紹介されたぐらいです。学校も景観を守るために、落ち着いた雰囲気を保つように努力。
 一方外人墓地寄りは、各洋館が豊かな緑に囲まれており、そのいくつかは無料で公開されています。何でもかんでも金を徴収する神戸市とはずいぶん違います。
 横浜市が独自に制定している認可制度があります。特に都市景観を維持することを目的に外観保全を重要視しているとか。
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR石川町駅から徒歩15分
 宮川(みやがわ)/横浜市中区宮川
 都橋商店街/ドラマの舞台になることが多い
 ●緩やかな川沿いの町並み
 1964年東京オリンピックのために,屋台や露店を整理,収容するために大岡川沿いに造られた商店街。1,2階合わせて約60軒が入居しています。飲食店がほとんど,夜になると輝く長屋風の町並です。ちなみにテレビドラマのロケ地としてよく利用されます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR桜木町駅から徒歩10分
 伊勢佐木町(いせざきちょう)/横浜市中区伊勢佐木町
 親不孝通り
 ストリートミュージシャンとしてゆずがデビューする前,ここで歌っていました  
 ▲旧横浜松坂屋西館/昭和6年築  ▲あら煮定食(680円・たまや)
 ●親不孝通りの旧カフェ街
 明治から昭和にかけて舶来品,芝居小屋,飲食店が軒を並べる繁華街でした。明治初年,伊勢国の佐々木某がそば屋「佐々木庵」を開業したとか,元神奈川奉行の佐々木信濃守と合原伊勢守が開発して、二人の名前を連結させたとか。いろいろありますが昭和40年代に歌手・青江三奈が歌って大ヒットした『伊勢佐木町ブルース』がその名を全国的に広めたのは間違いありません。
 ところで古民家などの建物は少なく,裏通りや親不孝通りの旧カフェ街に戦後の“バラック小屋”の雰囲気が残されています。風俗店もかなり目に付きます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 地下鉄伊勢佐木長者町駅から徒歩5分
 竹之丸(たけのまる)/横浜市中区竹之丸
 竹之丸花道
 ●竹之丸花道沿いに洋館
 それにしても横浜のど真ん中に空き家の多い町並みがあろうとは,想像もしませんでした。丘陵の中ほどにある狭い道が,クネクネと続いています。もちろんクルマは通れません。ココに下水溝が埋設された光景が舞台の花道に似ているからと名付け,竹之丸花道となりました。
 『大言海』では竹は嶽の意味。江戸末期は根岸村に属していましたが,このあたりは字名も単純に“山”。丸の語源は、単純に小山、丘の意味。いわば崖の続く未開の地。明治末期になって、やっと開発の手が入るようになったとか。洋館が所々に見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR根岸線山手駅から徒歩15分
本牧元町(ほんもくもとまち)/横浜市中区本牧元町
 S邸(非公開)
 この界隈は現代住宅で占められていますので,古民家はとても目立ちます  八聖殿/現在は横浜市の郷土資料館として併用されています
 ▲岩崎屋酒店/近代木造建築  ▲八聖殿/1933年(昭和8年)築
   旧バーナード邸/イギリスの貿易商・バーナード氏の子息が建築。現在は「バーナードハウス」として貸しスタジオになっています。(一般は非公開)
▲古い棟割り住宅も見られます   ▲旧バーナード邸/1937年築(非公開)
 ●わずかな古民家
 『新編武藏風土記稿』によれば,久良岐郡本郷村にあたり,本牧本郷村と記されている場合もあるようです。明治22年,北方村と合併し本牧村となり,さらに本牧町。このあたりは昔の本牧本郷村の元であったため,本牧元町と命名されました。
 なによりこの地を有名にしたのは,ペリー来航のときアメリカ水兵がボートで乗りつけ,断崖にペンキで横文字を記したことで、地元では大騒ぎになりました。一説には“ミシシッピ湾”と読めたとか。
 通りを歩いていますと,丘陵地帯から海岸まで,ほとんど現代住宅。古民家はわずかです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR根岸駅からバスで本牧市民公園前下車徒歩20分
 原町(はらまち)/横浜市磯子区原町
 原町
 ●区画の広い宅地
 JR根岸駅から歩いていて気がついたのは,駅の左手方向にある堀割川(明治7年に開通した人工河川)を境にして,民家の様相が変わるということです。川を渡ると町家は庶民的な棟割り長屋や小粒の町家が続きます。川の手前の下町や原町は比較的,1区画が広めの門構えの住居が散見できます。
 もとは滝頭村内の一集落でした。『新編武藏風土記稿』では、この辺りの地域は、根岸村の字名で“芝生”とあります。元もと原っぱであったのでしょう。明治に入ってから,風光明媚な海浜地区の別宅としての利用が多かったと推定されます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通  JR根岸線根岸駅から徒歩5分
 下町(しもちょう)/横浜市磯子区下町
 下町/T邸
   
 ▲旧柳下邸/横浜市指定文化財 ▲旧家と思われる屋敷が並ぶ 
 ●薬医門のある邸宅が散見
 このあたりは閑静な住宅地。薬医門のある邸宅が散見されます。やや高台にありますが,海岸から見ると下の方に位置する町で,下町と名付けられたとか。『新編武藏風土記稿』に,根岸村の字名で“下”とあります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通  JR根岸線根岸駅から徒歩8分
 中浜町(なかはまちょう)/横浜市磯子区中浜町
 
 ●庶民の町家がギッシリ
 前面の海が埋め立てられる前は浜でした。「浜町」にしなかったのは鶴見区の浜町と区別するためか。裏手の通りは庶民の町並みで,トタンで改装した一見しもたや風町家がギッシリ。また板塀のある町家も散見でき、歩いていてホッとします。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通  JR根岸線根岸駅から徒歩12分
 久木町(ひさきちょう)/横浜市磯子区久木町
 浜マーケット/今は20軒の店が営業中。生鮮食料品から雑貨,クリーニングまであることと,経営者はすべて地元民。
 ●ヤミ市が発展・浜マーケット
 『新編武藏風土記稿』によれば,磯子村,岡村,瀧頭村の三村を禅馬郷と呼びました。そこで町名に禅馬の名を採用する予定が,もっとわかりやすく読みやすくという要望から,旧久良岐郡→久良木→久木(ひさき)となったそうです。すなわち昭和40年の住居表示の施行にともない新設された町名です。自治会名に禅馬が残っています。
 歩いていますと,近代木造住宅や現役の理髪店,畳屋などが見られます。しかしおもしろいのは市場です。終戦後,空いていた戦車道路が疎開道路となり,さらに闇市に発展。昭和29年に今の原型が完成しました。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通  JR根岸線根岸駅から徒歩15分
 南軽井沢(みなみかるいざわ)/横浜市西区南軽井沢
 
旧東海道沿いに石蔵や古民家がチラホラ
 三ツ沢の南斜面に広がり、さらに旧東海道沿い面した集落です。といいてもほとんどが現代建築の住宅群です。しかし街道を歩いていますと、石蔵や改築された古民家などがチラホラと見られます。で、町名の由来は、字名からとり「南」を付けました。地名の語源は、旧東海道で斜面に沿っているいるところから「荷を軽うする」の転訛説があります。また水の流れのある沢に対して、水のない「枯れ沢」を語源とする専門家もいますが、詳細は定かではありません。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 JR東海道本線横浜駅から徒歩15分
 
 浅間町(せんげんちょう)/横浜市西区浅間町
 
旧東海道沿いの集落でした
 旧東海道沿いの小さな集落。古くは芝生村といい、明治22年の市町村制施行のおり青木町、神奈川町と合併して神奈川町となり、その大字芝生となりました。本来なら芝生町となるべきですが、芝生は“死に通じる”として嫌われ、この地にあった浅間神社から名をとったということです。浅間神社は斜面にあり、急な石段を上ります。さて旧東海道を歩いていても旧街道の面影は見られません。妻入りの改造、改築された古民家が見られる程度です。 
 
 南浅間(みなみあさま)/横浜市西区南浅間
 旅館笹本
   
▲戦後の建物ですが今はスナック  ▲神社に往時の面影が残ります
 ●旧新天地カフェ街
 かつて40軒近くの郭があったそうで,新天地と呼ばれたました。昭和33年に売春防止法が公布されて旅館に転業しましたがほぼ消滅。いまは閑静な住宅に変貌しています。お稲荷さんに当時の名前が…。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 相模鉄道線西横浜駅から徒歩10分
 真金(まがね)/横浜市南区真金町
 真金町
 ●かつての遊里も消える
 明治21年,高島町から遊郭が移転され,娼妓数約600人の大きな遊里が誕生しました。しかし関東大震災,横浜大空襲で壊滅。戦後は少し復活はしましたが,昭和33年に消滅。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 地下鉄伊勢佐木長者町駅から徒歩10分
 神奈川(かながわ)/横浜市神奈川区東神奈川
 
   
 ▲良泉寺/外国公館の依頼を拒否  ▲成仏寺/ヘボン博士の宿舎
   
 ▲普門寺/イギリス士官の宿舎  ▲慶運寺/フランス領事館に使用
   
 ▲田中家/江戸時代から続く老舗  ▲甚行寺/フランス公使館に使用
   アメリカは山門を白ペンキで塗りつぶしたそうです。
 ▲浄瀧寺/イギリス領事館に使用  ▲本覚寺/アメリカ領事館に使用
 ●白壁と松並木が見られる
 慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が定められた頃からの歴史ある宿場町です。しかも規模が大きい。寺領を含め,宿全体の総石高は1728石にも及ぶとか。長さは2kmに達し,天保14年(1843)には1341軒,5793人,本陣2軒,旅籠は56軒,助郷村も34か村にも達したとか。
 これだけ町が大きいと,何かと便利なので,明治維新後各国は領事館の設置を要求。いま歩いていますと山門横の石碑が往時を語るのみ。「歴史の道」として,松並木を再現。古民家は見られません。地名の由来は、あまり水の流れない「上無川」が「カナガワ」になった説など。
 感動度★
 もう一度いきたい度
 交通 京急本線神奈川新町駅から徒歩10分
 六角橋(ろっかくばし)/横浜市神奈川区六角橋
 六角橋商店街ふれあい通り(旧仲店通り)
 ●貴重な木造アーケード
 江戸時代は六角橋村で,東海道神奈川宿の助郷の役割を持っていました。昭和に入って,市電の開通と共に小机・中山地方の農家が神奈川町や青木町の市場に出荷し,帰りに六角橋で日用品等を購入することで,一躍町が発展しました。戦後はバラックの闇市が立ち,現在の原型となったのです。
 六角橋商店街には160軒近くが加盟していますが,ふれあい通りには,50軒前後が軒を並べています。ほとんど昭和30年代の木造建築で,貴重な木造アーケードが残っています。
 最近では神奈川大学生など若者相手のカフェやファーストフード店が進出しています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 東急東横線白楽駅から徒歩3分
 子安(こやす)/横浜市神奈川区子安通
 浜通り
 ●漁具入れの倉庫が並ぶ
 鎌倉時代からの歴史ある町です。明治に入って埋立地を編入するなど拡大。いまの浜通りは入江川沿いに立つ釣り船屋などの漁具入れの倉庫となっています。地名は子安神社にちなむというが、その神社がない…
 感動度★★
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 交通 京急本線子安駅から徒歩10分
 生麦(なまむぎ)/横浜市鶴見区生麦5丁目
 生麦
 生麦  JR国道駅
 ▲早朝からオープンし、一般客もやってききます  ▲昼間も暗い国道駅。TVドラマによく登場します
 ●旧東海道の魚河岸
 江戸時代の末期、文久2年8月21日薩摩藩士がイギリス人4人を殺傷した事件が世に言う生麦事件です。そんな歴史的なところに、魚介類の卸屋さんがずらりと並んでいるのです。通称「生麦魚河岸通り」といい、一般客も詰めかけます。
 この日は土曜日の朝7時、半分は休業で、開いている店も後片付けで忙しいのです。この通りは旧東海道でもあります。戦後の建物ばかりですが、黒瓦2階建て平入りや看板建築がほとんど。JR国道駅はドラマのロケ地によく使われます。また生麦事件の碑や墓もあり、旧東海道散策に寄る人が多いとか
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR国道駅から徒歩すぐ
 本町(ほんまち)/横浜市鶴見区本町通り
 本町通り
 ●旧カフェ街の面影
 京浜工業地帯ど真ん中の旧カフェ街です。鶴見小野駅から歩くこと10数分,住宅街のなかでやっとそれらしき建物を見つけました。不思議なことに1回見つけると,次々と見つかるのです。もちろん今は普通の住宅地になっています。
 感動度★
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 交通 JR鶴見小野駅から徒歩12分
 獅子ヶ谷(ししがや)/横浜市鶴見区獅子ヶ谷町
 獅子ヶ谷の旧家
 旧横溝家住宅/横浜市の指定文化財第一号です。江戸時代末期から明治にかけて建てられました  
 ▲旧横溝家住宅/獅子ヶ谷村名主 ▲神明社/獅子ヶ谷集落の守り神 
 ●農村から郊外型住宅地へ
 熊野権現の所領で,獅子舞を受け持った,ということが地名の由来とか。江戸時代は典型的な農村ですが,名主を思わせる旧家も点在。旧横溝家は養蚕も行なっていました。いまでは大型のスーパーもでき,現代住宅も建ち並ぶ、典型的な郊外型住宅地に変貌しました。
 感動度★
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 交通 東急東横線綱島駅からバスで神明社下車徒歩10分
 綱島(つなしま)/横浜市港北区綱島台
 飯田家住宅(非公開)/横浜市指定有形文化財。旧北綱島村の名主を務めた名主で堀割も残されています。江戸時代後期の建築です
 薩摩出身の住職が多く,島津公の信仰を得ていたそうです。  
 ▲東照寺/慶安2年(1649)創建  ▲綱島稲荷神社/綱島の守り神です
   綱島駅近くにあります
 ▲長福寺/文禄元年(1592)に開基  ▲ピリ辛鶏ねぎそば(400円・富士そば)
 ●旧名主の長屋門,主屋
 綱島の地名の由来は,「川がめぐり流れて,島のようになっている地域」が定説らしい。駅付近の地形を見て納得。かつて武田信玄が相模国に侵攻した際,小杉や綱島で乱暴狼藉を繰り返し,諸寺院から寺宝を強奪,「信玄重宝」としたという。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 東急東横線綱島駅から徒歩15分
 小机(こづくえ)/横浜市港北区小机町
 
 ●JR横浜線沿いに点在
 小机城は関東管領・山内上杉氏によって永享の乱(1438-39)のころ築城と推定。以後、廃城、修復を繰り返したが、最後は秀吉の小田原攻めの後に廃城。古民家はJR横浜線沿いに若干残されています。土蔵や植栽による塀などです。
  感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR横浜線小机駅から徒歩15分
 日吉本町(ひよしほんちょう)/横浜市港北区日吉本町
 
住宅街のなかにポツンと旧家があります
 丘陵のふもとに旧家が見られます。日吉は旧駒林村で、大正から昭和にかけて農業が盛んで、米作が圧倒的に多かったようです。副業として野菜や果樹、特に桃の生産は後に全国に知れ渡るほどの特産となりました。町内にある金蔵寺、駒林神社はそれぞれ日吉社を祀っており、地区内の“中心地”にあることから“本町”を付けたのではないかといわれています。旧家はかつての名主とも思われますが、日吉で見られのも珍しいです。 
感動度★
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交通 横浜市営地下鉄日吉本町駅から徒歩20分
 保土ヶ谷(ほどがや)/横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷
 東海道保土ヶ谷宿
 ●旅籠や蔵造りの町家
 江戸時代の慶長6年(1601)に幕府によって宿駅・伝馬制度が定められると同時にできた宿場町です。このころは,両隣の川崎宿,戸塚宿は未整備状態でした。また慶安元年(1648)ごろに大改修され道筋が変わりました。初代,歌川広重の浮世絵でおなじみの帷子橋(新町橋)もこのときに架けられましたが,現在,古道の正確な道筋に関して諸説があり,特定されていないとか。
 保土ヶ谷には本陣のほかに脇本陣3軒,旅籠37軒あり,現在本金子屋が残されています。地名は、谷間の細長い地形が女性の“ホド”に似ているからと柳田国男は力説します…。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR横須賀線保土ヶ谷駅から徒歩10分
 戸塚(とつか)/横浜市戸塚区矢部町
 戸塚宿
 伊東医院  
▲伊東医院/大正14年築、裏に住居棟  ▲昭和20年建築の善了寺本堂
 ●近代住宅がわずかに残る
 早朝の江戸を立って,次に泊まるところが戸塚あたりです。しかしいまJR戸塚駅に降りて周囲の光景を見たら驚くでしょう。区画整理の真っ最中で,いたるところで工事中なのです。かつて駅前は迷路のような住宅密集地でした。それがここ2〜3年で大きく変わります。
 旧東海道を歩いていますと,ところどころに古民家が見られます。しかし伊東医院などの歴史的建造物の見られるのがうれしい。本陣や一里塚などの碑などがありますが,かつての宿場町の面影は見られません。古くは富塚と書かれ、富塚古墳が地名の由来とか。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR戸塚駅から徒歩5分
 柴(しば)/横浜市金沢区柴町
 柴町
 ●漁村特有の旧市街地
 横浜市の南端,東京湾に面する市内最大の漁港です。シャコ,アナゴなどが獲れるとか。旧市街地は迷路や路地,急坂など漁村特有の町並みを形成。広大な埋め立て地に公園も隣接。遊び場でもあります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 シーサイドライン横浜線海の公園柴口駅から徒歩10分
 洲崎(すさき)/横浜市金沢区洲崎
 
 ●古民家があちこちに点在
 江戸時代は田畑からの収穫ほか、農繁期は貝類採集・塩焼とあります。塩焼とは、塩水を釜に入れて焼いて塩を採る「塩屋場」のことです。また鎌倉道が通り、交通の便は良かったようです。トタン葺きの古民家あちこちに点在しています。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 京急本線金沢八景駅から徒歩10分
 寺家(じけ)/横浜市青葉区寺家町
 いまでは珍しい古民家を見つけました。このあたりは民有地で,ふるさと村として憩いの場所となっています
   
 ▲青山亭と茶室白心庵があります  ▲田園の片隅に水車小屋を再現
 ●都市近郊の農村地帯
 江戸時代は幕府領と旗本の知行で農村地帯でした。いまでも美しい農村風景が見られます。横浜市が市街化調整区域に指定することで,開発の波を防いでいます。同時に都市近郊の食糧供給地区としての役割も持っています。
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 交通 東急田園都市線青葉台駅からバス寺家町下車徒歩10分
 元石川(もといしかわ)/横浜市青葉区本石川
 
花桃の丘の麓に古民家が点在します
 バス停の覚永寺からのんびりと花桃の丘をめざして歩きます。宅地開発が進むなか、地元の農家が農地を残したいと、18年間にわたる努力で良好な農地になりました。今では花桃の咲く桃源郷です。江戸時代の石川村は、徳川将軍・秀忠の正室お江(ごう)の化粧料でした。その後、芝・増上寺御霊屋領となっています。毎年3〜4月、白やピンクの花桃が丘陵いっぱいに咲き乱れ、花桃の里として、多くの人たちが訪れます。そんな花桃の里の麓に農家が点在し、かつては茅葺き屋根であったことが想像されます。 
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交通 東急田園都市線あざみ野駅からバスで覚永寺下車徒歩20分
 長津田(ながつた)/横浜市緑区長津田町
 
旧大山道やハイキングコースに古民家が点在
 江戸時代の長津田宿は大山道(矢倉沢往還)の宿場の一つでした。蘭学者・渡辺崋山が藩の用事で厚木に旅しますが、その途中長津田宿に寄ります。日記に長津田宿での様子が細かく描かれているのです。いま旧大山道を歩きますと往時の面影は見られません。しかし周辺の寺社にかつての旧長津田村の面影が垣間見え、さらに大山道を奥に入りますと、路地のような細い道に出ます。「えっ、これが大山道?」とビックリします。そんな旧道から横に入ると、軽自動車がやっと1台通れる道の両側に古民家が点在しています。このあたりは、ハイキングコースでもあり、駅周辺の賑わいぶりが信じられないくらいです。 
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 交通 JR横浜線・東急田園都市線長津田駅から徒歩20分
 中山(なかやま)/横浜市緑区中山町
 
 ●中山駅近辺に古民家
 地名の由来は、村内の中央に山のような丘陵地があるからとか。また村内には中原道と神奈川宿へと、ふた筋の街道がが通っていました。古民家は中山駅近辺の杉山神社や長泉寺周辺に、わずに見られます。植栽が続き、屋敷林も散在し、駅前の喧噪がウソのようです。 
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 交通 JR横浜線中山駅から徒歩5分

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