新潟県の古い町並み

新潟県

鍋茶屋通(なべちゃやどおり)/新潟市中央区東堀通
鍋茶屋/鍋茶屋通の由来となった料理屋/弘化3年(1846)創業。スッポン鍋を名物にしたようです。 羽目板張りの古民家群
 幕末期に創業した鍋茶屋が通り名の由来だとか。かつては東新道といい,一大遊郭でした。その後幾多の変遷を経て,現代の飲食店街に定着しました。板壁を注意深く見ますと,ほとんどが羽目板張りです。積雪と関係があるのでしょうか。 
▲夏野菜の冷し柚子麺(850円・本町)
羽目板張りは,雪の滑りをよくするために板を縦に張ったものと思われます。
▲路地には旧妓楼など多くの歴史的建造物が見られます ▲鍋茶屋通のほとんどが飲食店で,夜の街です
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR新潟駅から観光循環バスで本町下車徒歩8分
西大畑町(にしおおはたちょう)/新潟市中央区西大畑町
白壁通 近代建築が凝縮!
 江戸時代は牢屋敷が置かれ,明治にも刑務所として引き継がれた所。砂丘と松林に覆われた土地でしたが,別邸などの個人宅として急速に開発。洋館や近代建築が多く見られます。楽しい町並みです。
料亭は江戸時代から続く行形亭。旧新潟刑務所は,現在公園になっています。
▲地獄極楽小路/旧新潟刑務所と歴史ある料亭の間にある小路
旧伊藤家の別邸だった建物を博物館として開館。會津八一が晩年の10年間過ごしたところです 豪商齋藤家の4代・齋藤喜十郎が大正年間に建てた別荘。庭園と建物が一体となっている 金井彌一が東京で写真の勉強をしたあと,明治20年(1887)に建てた金井写真館。現在は個人宅で非公開です。設計は中島泉次カ
▲北方文化博物館新潟分館 ▲旧齋藤家別邸/大正時代の建築 ▲金井文化財館/明治20年(1887)築
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 観光循環バスで北方文化博物館新潟分館入口下車徒歩10分
旭町通(あさひまちどおり)/新潟市中央区旭町通
旭町通/新潟大学医学部のある文教地区 静かな文教地区
 新潟大学医学部付属病院に出入りするクルマの多さに驚きます。しかし静かな文教地区であることは,裏側に回ればわかります。丘陵上にある町で,都心からすぐの所。新津記念館など、木々に覆われた大きい建物が目に付きます。
新津記念館/昭和13年(1938)築。出雲崎町出身の石油王・新津恒吉が外国人用迎賓館として建てた西洋館です。
▲新津記念館/国の登録文化財
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 観光循環バスで新津記念館前下車徒歩5分 
湊町通(みなとまちどおり)/新潟市中央区湊町通
湊町通 かつての“税関通り”
 幕末は戊申政争の影響などで,開港がやや遅れたものの,各国の領事館も設置。新潟港の信濃川河口付近には,税関も設けられました。いわゆる運上所のことです。この運上所から新潟市内に入る通りを運上所通りと呼びました。その後も運上所市がたつなど、大いに賑わいました。いまの湊町通のこと。
 ところが当てにしていた外国船が,港の水深が浅く接岸できず,他の港に廻ることが多くなりました。信濃川の土砂の堆積が多いためです。そのうちに各国の領事館も去っていきました。今は商家や雁木のある古民家が少し見られます。
▲石山味噌醤油/国の登録文化財 ▲旧第四銀行/国の登録文化財 ▲旧新潟税関庁舎/国の重要文化財
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR新潟駅から観光循環バスで歴史博物館前下車徒歩10分 
下町(しもまち)/新潟市中央区上大川前通
旧小沢家住宅/新潟市文化財。改装する前の小沢家住宅の写真を撮っていました。あまりの変わりように驚きました 新潟市内にも古民家
 このあたりは空襲をのがれたせいか,古い町屋,商家,廻船問屋などの家々が点在しています。商店街のなかにも,よく見ると土蔵造りの店があったりして楽しい町です。
 上大川前通は1番町から12番町までありますが,番号の若いほうに銀行や証券会社など集中。11番町や12番町は住宅や商店が混在しています。
 下町(しもまち)という呼び方は,このあたりから信濃川河口の下流方面を指すとか。1軒で妻入りと平入が混在した建て物はそう多くはありません。また10年ほど前と比較しますと、景観が統一され、住民の景観守ろうという意思を感じます
下町-2
▲本町通は活気のある商店街が続きます ▲景観を守るために見事に改装しました
らーめんたごさく/本町通12
▲ヒレかつ丼(640円/しおさい) ▲イタリアン(320円/みかづき) 冷し中華(580円・らーめんたごさく)
 感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR新潟駅から観光循環バスで北前船の時代館前下車すぐ
十四番町(じゅうよんばんちょう)/新潟市中央区本町14番町
長屋 遊郭の面影は見られない
 明治31年の大火で,新潟遊郭が全焼。その後,幾つかに分散してできた遊郭の一つです。通称“14番町”で知られ,旅館が軒を連ねていました。今では一般住宅に変身しており,往時の面影は見られませんが、古民家を見つけました。
▲裏道で見つけた旅館
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR新潟駅から観光循環バスで北前船の時代館前下車徒歩15分 
沼垂(ぬったり)/新潟市中央区沼垂東
沼垂/今代司酒造 発酵の食文化が残る
 南北朝時代からある歴史のある集落です。「のったり」とも言ったようです。江戸初期は,各藩の米蔵が集まり積出港として繁栄しました。ところが海岸の浸食が進み,集積地は次々と移転していったことから衰退。その後,堀の掘削工事などが行われましたが,次第に港の機能は失われたのです。その背後には長岡潘支配の新潟港と新発田潘支配の沼垂港の抗争があったといわれています。
 明治に沼垂駅が開業すると,一気に周辺の開発が進みますが,後に衰退。 いまは酒,味噌,納豆,醤油などの発酵食品の町で,かつては川沿いに蔵が並んだとか。
雁木のある商店街 金山小路/明治の初期の絵図から判明したそうです。
▲雁木のある商店街/ごく普通の光景です ▲金山小路/金山作平の屋敷があったことが由来
戊辰戦争では新政府軍の本陣となりました。僧侶の愍生(みんじょう)はアゴが長かったそうです。 龍は水に通じることから雨乞いの祈願所になりました。戊辰戦争では新発田潘の本陣
▲西尊寺/江戸期の塔頭が残る ▲光照寺/新政府軍の本陣となる ▲龍雲寺/江戸期から雨乞い祈願所
うどんや/新潟駅地下のレストラン街にある朝の定食です。
▲沼垂朝市/衰退しつつあります ▲白山神社/沼垂の総鎮守です ▲和定食(500円・うどんや)
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 JR信越本線新潟駅から徒歩20分
寺町(てらまち)/新潟市中央区西掘前通
寺院群/眞浄寺 今は28ヵ寺の甍が並ぶ
 永禄年間,すでに善導寺,長善寺,宝亀院,不動院が開基。さらに元亀・天正年間に眞浄寺などが開基しました。その後24ヵ寺と18の前寺,末寺が甍を並べ,明治初年の町名改正まで寺町と呼ばれていました。
西堀通3番町にあります。ダシが透きとおっています
▲ラーメン(320円・こばやし)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR新潟駅から観光循環バスで東堀通6番町下車徒歩10分
 新津屋小路(にいつやこうじ)/新潟市中央区本町通
  にいがた人情横丁
 戦災復興のまっただ中、昭和26年(1951)に野菜など生鮮食料品を基本にした市場として発足。江戸時代は新津屋小路掘と呼ばれ、信濃川からの水運を利用して、野菜が運ばれたそうです。現在、飲食店を含め38軒が並びます。通称・人情横丁。 
 
▲かき揚げそば(450円・新潟やなぎ庵) 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR新潟駅からバスで古町下車、徒歩5分
上古町(かみふるまち)/新潟市中央区古町通
上古町商店街 古民家を生かした店舗
 同じ古町通りでも地域差が生じ,白山神社寄りの1番町〜4番町は,空き店舗などができ寂れていました。そんなとき大学研究室などと提携,若者たちを中心とした個性的な店舗がオープンしました。通称“カミフル”として全国に発信。古民家を改造したオシャレな店や各種イベントが登場しました。
▲古町通の“上”にある白山神社
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR新潟駅から観光循環バスで白山神社前下車徒歩3分
 内島見(うちしまみ)/新潟市北区内島見
  木崎宿は新発田街道沿い
 江戸時代、新潟を舟で出て木崎から陸路で新発田に向かいました。そのため木崎は交通の要衝でした。十返舎一九や吉田松陰は、木崎に宿をとっています。いま、街道沿いや裏通りにわずかに古民家が残ります。 
 
▲新発田街道は町の中央を通る
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR新潟駅から新発田行きバスで木崎中学校前下車徒歩3分
 葛塚(くずつか)/新潟市北区葛塚
  「葛塚市」沿いに点在
 江戸時代初期、大部分が阿賀野川自然堤防上に立地した寒村でした。つまりほとんどが荒れ地だったのです。当時、新発田藩が積極的に干拓事業を行い新田開発に力を入れました。葛塚をはじめこのあたりの村は福島潟の干拓によってできたのです。そのため交通も水路を利用した船運が中心。しかし大正時代に入ると鉄道やバスが運行されると船運も衰退。
 いま毎月「葛塚五・十の市」が開催され140軒前後の店舗が並びます。地元産の“豊里とまと”や“やきなす・丸なす”は人気。古民家もそんな「葛塚市」に沿って見ることができます。 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR白新線豊栄駅から徒歩7分
 嘉山(かやま)/新潟市北区嘉山
  切妻型真壁が見られます
 福島潟干拓の結果、多くの村が誕生しましたが嘉山村もその一つ。江戸時代末期、相次いで酒造業が誕生したのも、新潟への水運拡充、新発田への道路整備があったからです。交通の要で、在郷町として発展。古民家は1丁目付近に集中。
 
▲DHC小黒酒造/創業明治41年 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR白新線豊栄駅から徒歩12分
亀田本町(かめだほんちょう)/新潟市江南区亀田本町
亀田本町 蔵造りの商家が散見
 旧亀田町。元禄5年(1692),当時の名主・村木善右衛門が新発田潘に町割普請を願い出ました。ところが,普請中に大亀が1匹出てきたので,それまでの中谷内新田を,将来の発展のために,郡奉行が亀田に改称。その後埋め立てなどが進み,交通の要衝となり,物資の集散地となりました。近代になって県内各地の金融機関や商人が進出。本町は中心地。
 いまは蔵造りの町屋や雁木と共に並んでいますが,改装,改築が進んでおり,かつての面影は失われつつあります。それでも通りの反対側から見ると、蔵造りの商家の様子がわかる。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR信越本線亀田駅から徒歩15分
袋津(ふくろづ)/新潟市江南区袋津
袋津の迷路。最初は広いのですが,そのうちクルマも通れない狭い道に入っていきます “迷路度”は第一級でした
 信濃川水系で小阿賀野川下流域の右岸に広がるところです。地名の由来は,かつて太古袋のような地形の湾に臨んだ港があったことからとか。
 ところで日本各地は“迷路の町”がたくさんありますが,ここはとびっきりの迷路。最初はクネクネとしていても,広い道幅でした。ところが右に左に曲がっているうちに,路地になり完全に迷いました。地図を見ていても迷うのです。古民家はそれほどありませんが,板塀のある家並みは似ています。帰りの時間も気になって、ホント焦りました……。ところで、“迷路”を町おこしの材料に使うのも、意外におもしろいかもしれません。 
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR信越本線亀田駅から徒歩25分
 味方(あじかた)/新潟市南区味方
  笹川家住宅の周囲に散在
 江戸時代は村上藩領で、旧味方組8か村を束ねる大庄屋が笹川家。藩から年貢の取り立て、警察、裁判権を与えられていました。市内の通勤圏にあるなかで、笹川家住宅付近に古民家が散在。古くは「味潟」と書いたとか。 
 
▲旧笹川家住宅の白壁の倉庫群/国の重要文化財江戸末期の建築 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは旧笹川家住宅の駐車場に停めました
 月潟(つきがた)/新潟市南区月潟
  角兵衛獅子の里
 歌手・美空ひばりファンならご存じかもしれません。映画『とんぼ帰り道中』で角兵衛獅子を演じて『越後獅子の唄』を歌った舞台がココなのです。「角兵衛獅子の里」として売り出しています。鉄道跡の遊歩道や歌碑、美空ひばり像などもあります。
 月潟商店街を歩きますと、各電柱に「角兵衛獅子の里」のプレートが目に付きます。天明年間(1781-89)には75軒が従事し、各地を回っていました。
 古民家は商店街のあちこちに板壁の町家、土蔵などが見られます。おしゃれな地名は、散在した潟沼が月に似ていたからとか
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 新飯田(にいだ)/新潟市南区新飯田
  円通庵周辺に古民家
 中ノ口川河畔の水運の基点、白根・吉田方面から三条に至る宿駅として町場を形成。江戸末期には、生肴、干物、塩物が行き来しかなり繁栄しました。また水害の発生で困窮者も多く出たのも事実。円通庵の僧・有願は良寛の親友で二人の像がある 
 
▲表通りは雁木が続きます
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
小須戸(こすど)/新潟市秋葉区小須戸
小須戸の町並み 連続した町屋が見られる
 長岡潘領で,信濃川の河川港として発展しました。舟運組織が作られ,150俵積の大船が3艘あったとか。明治に入っても蒸気船が就航するなどの要衝となりました。しかし明治に入って相次ぐ大火で焦土と化します。つまり現在の建築物は,明治34年大火以降の建物です。これだけの古民家群が残されているのも,幹線交通網から外れたことが幸いしました。
 連続した町屋の町並みが見られるのは,新潟市内ではココだけ。2階のガラス雨戸と戸袋のデザインに注目。ガラス雨戸っていいですね。この日は休館中の町家ギャラリーをわざわざ開けていただきました。
小須戸の町並み 小須戸の町並み
▲1階の格子のある大戸と雁木が特徴です ▲明治時代の商家を姿を見ることができます
▲下中野小路/中野家の敷地だった ▲町屋ギャラリー薩摩屋/公開中 ▲冷し中華(750円・くり新)
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR信越本線矢代田駅からバスで小須戸1丁目下車すぐ
 大鹿(おおじか)/新潟市秋葉区大鹿
  国道460号線沿いに
 江戸時代は柴田藩領。元和年間(1615-1624)、下級武士10人が帰農して開墾。幕末には家数150軒、酒造、味噌造、大工、医師などいろいろな職業の村民が誕生したとか。国道460号線沿いと裏道に古民家が広がります。旧名主ら豪農が見られます。 
 
▲吉田家住宅/国の登録文化財 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線新津駅からバスで大鹿下車すぐ 
 古田(こだ)/新潟市秋葉区古田
  旧名主の大型農家が点在
 古くは古田(こんだ)を再開発したことから古田(こだ)に転訛したという地名の由来があります。江戸時代、主に新発田藩領で、藩命で新田を開発したことから新田と名の付く地名が多いですが、この地も古田新田と呼びました。能代川沿いの平地ですので、水利がよく豊かな農村地帯へと発展。また幕末から明治初期にかけて、意外にも櫛(くし)の生産が行われ、近隣に出荷されていました。
 町を歩いていますと、旧名主と思われる大型の農家が点在しており、国道460号線沿いに見られます。家紋の付いた土蔵が印象的です。 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線新津駅から区バスで古田2丁目下車、徒歩10分
 朝日(あさひ)/新潟市秋葉区朝日
  古民家の減少が著しい
  古くは旭村といいました。地名の由来は集落内に旦飯野(あさひの)神社があり、その名が転訛したとか。ところで農村集落ですが、普談寺は観音霊場として知られ、近郊近在からの参拝者が多かったとか。いまは新潟市内への通勤圏でもあり、古民家の減少は著しい。
 
▲農協石造倉庫(昭和17年築) 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩7分 
 西島(にしじま)/新潟市秋葉区西島
  村落の原型・塊村
 拡大した地図を見て、ひと目で典型的な塊村(かいそん)とわかりました。ひとかたまりになっていて、集落の外側は田畑になっています。塊村内には社寺、井戸などの水源もあります。名主は田中家で世襲だとか。
 塊村は自然発生的に形作られたので、ほとんどが迷路状態です。実際に村内に一歩踏み入れると何やら異境の地に迷い込んだ感じ。土蔵や板壁の民家、真壁の美しい意匠、植栽にも目が届いています。塊村の状態がほとんど崩れずに残されているのは珍しい。なお真宗大谷派の蓮徳寺には、黄檗版一切経3563巻があり市の文化財。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩18分
東島(ひがしじま)/新潟市秋葉区東島 
  古刹・妙蓮寺周辺に散見
 隣の西島から江戸初期に分離独立。新発田藩領でしたが、後期から幕府領。村高は100石前後で、農閑期は炭や柴を町場で販売。古刹妙蓮寺の参道は、途中信越本線が横切る。踏切には警報装置がないので注意。古民家は妙蓮寺周辺に散見。 
 
▲妙蓮寺山門/文政9年(1826)築 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩15分
 古津(ふるつ)/新潟市秋葉区古津
  金津川に沿って古民家
 信濃川の右岸の丘陵地にあります。歩いていますと坂道が続きました。その後下ったあと金津川に沿って歩きますと、古民家が見られました。一部は廃屋になっていました。しかし全体として現代の住宅が多く、新潟市の郊外住宅の役割を果たしているようです。
 かつて内湾に臨む船着き場で、古い湊(津)でした。地名は新しい湊「新津」に対しての意味を持っています。江戸時代の初期は新発田藩領でしたが、その後は幕府領となりました。村高は300余石、金津川からの取水で、比較的恵まれた地勢だったといえます。
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩10分
割町(わりまち)/新潟市秋葉区割町 
  旧家の面影が感じられる
 金津川に沿って歩いていますと、典型的な農村風景が広がっています。田畑が広く、戸建ての面積も広い、旧家の趣が感じられます。江戸時代初期は新発田藩領、中期から幕府領となります。石油は江戸時代初期から採掘されていましたが、そのことで幕府領となったのでしょうか。村高は80石弱と小さく、わずかな田畑で生活。石油の恩恵は少なかったとか。
 地名の由来は、鎌倉期金津氏のころ商人町の形態をなしたからという説。また村人たち共同開墾で、土地を平等に割り当てたことから、という説が有力。新潟県は“割”の付く地名が多い。
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR信越本線古津駅から徒歩20分
 金津(かなづ)/新潟市秋葉区金津
  旧道沿いに古民家が点在
 日本の石油王といわれた中野貫一・忠太郎親子の旧宅です。石油は江戸初期から採掘が行われていました。採掘量は微々たるものですが、明治期に本格的に始まりました。いまは旧道に沿って、土蔵や真壁造りなどが見られます。 
 
▲中野邸美術館/建築や美術品が多数 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR信越本線古津駅から区バスで金津・石油の里前下車すぐ
稲島(とうじま)/新潟市西蒲区稲島
稲島宿/北國街道 切妻破風の意匠に感動
 意外にも古民家がまとまっていることに気がつきました。また道幅が狭く,特にL字型に屈折した街道ではクルマの運転に気を付けることを除けば,宿場町らしい雰囲気を持っていました。
 この地も他の領地と同じく,多くの領主が統治し,そのまま幕末を迎えたのです。また北國街道沿いで,弥彦神社と新潟との中ほどにあたり,間宿として多くの参拝客で賑わったようです。ただ旅籠や本陣などがあったといの記録はありません。それにしても白壁の土蔵や大型の切妻破風の意匠、さらに真壁と板壁の組み合わせの美しさに感動しました。
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました
福井(ふくい)/新潟市西蒲区福井
福井の集落 美しい真壁造りが散在
 もともと地元では“ホタルの里”として知られています。格子状の柱と白壁の美しい組合せの真壁造りが散在。旧北國街道の南側に細い道が比較的碁盤の目状に通り,美しい街並みを形成しています。この辺りは、越後でも最も早く開けた地域。
▲佐藤家民俗資料館/旧名主
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは佐藤家民俗資料館前広場に停めました
和納(わのう)/新潟市西蒲区和納
和納 伝統的な意匠の町家
 戦国時代から続く歴史のある村でした。上杉家が会津に移封されたあと,江戸時代は越後の各小藩の領主は絶えず入れ替わっていますが,この旧岩室村和納地区も同じです。逆にいえばコロコロ替わる藩政と距離を置き、自らの力で活動する商人たちが見られます。
 集落の南北を貫く西川は舟運の要衝で,右岸域にある和納は中継点でもありました。そのため物資の集散地となって,町が発展したと思われます。今は少なくなりましたが,雁木のある切り妻屋根のある町家があちこちに残されています。伝統的な意匠の真壁が美しい。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはJA越後中央和納支店駐車場に停めました
岩室(いわむろ)/新潟市西蒲区岩室温泉
岩室温泉/北國街道 北國街道沿いの温泉街
 旧岩室村。閑散期に訪れたせいか,静かな温泉街でした。北國街道の宿場町でもあります。正徳3年(1713)に温泉業が正式に認可。切り傷,打ち身に効能ありとして,江戸後期から越後を代表する温泉になりました。今は新潟市の奥座敷だとか。
高島屋/江戸後期の特徴を残しています。ほかに旧米蔵,土蔵も文化財として登録されています。
▲高島屋/国の登録文化財
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR越後線岩室駅からバスで岩室下車徒歩5分
五泉(ごせん)/五泉市本町 
五泉市/吉田家住宅(非公開) 広大な吉田家住宅
 江戸時代から三国街道の宿場町でしたが,六斎市など在郷町として発展しました。大庄屋の吉田家が,大正8年に五泉吉田銀行を設立,それまでの明治35年創業の五泉吉田合資会社の業務を継承。その銀行も大正12年,新潟銀行に併合。医薬門のある吉田家には多くの古民家が見られます。
『第四銀行百年史』に詳しい
▲旧(資)五泉吉田銀行(大正8年)
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは第四銀行五泉支店に停めました
津川(つがわ)/阿賀町津川
津川の町並み 宿場町,河川港として発展
 江戸時代,会津藩の枝城・津川城が置かれ,城下町として発展。しかし寛永4年(1627)に廃城となりました。ところが新潟から阿賀野川を利用して津川までの舟運が開け,さらに津川から会津若松までの会津街道を利用するルートが開拓されました。津川は交通の要衝となり,宿場町,河川港としてさらに発展。
 通りを歩いていますとL字型の道路は、かつての城下町を彷彿させます。庇の深い出桁造りが軒を並べます。また慶長年間に家々の軒先に屋根を造ること城主が命令,これが雁木の誕生です。地名は「船着き場のある川」の意味を表しています
雁木発祥の地/雁木のことを地元ではとんぼと呼ぶそうです 川のそばに建つ狐の嫁入り屋敷は阿賀野川の支流,常浪川沿いに立つ 新善光寺の鐘楼門
▲津川は“雁木発祥の地”だとか ▲狐の嫁入り屋敷は川のそば ▲鐘楼門のある新善光寺
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは狐の嫁入り屋敷の駐車場に停めました
花立(はなだて)/阿賀町花立
越後街道/花立宿 会津街道沿いの宿場町
 江戸時代は幕末まで会津藩でした。会津街道(又は越後街道)沿いの宿場町です。しかし新発田潘や村上潘の参勤交代で利用していましたが,隣の津川宿を発つとそのまま素通りすることが多かったとか。ただ津川港で陸揚げされた荷物の多くが通ることで,賑わったようです。
 地名の由来は,お彼岸以外にも外で花を立てたという説,当時信仰の厚かった津川宿の玉泉寺にある即身仏に対して花を立てたという説などいろいろいわれています。
 ゆるやかな坂道の両側に,幾つかの古民家が軒を並べます。静かな町並みです。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
鹿瀬(かのせ)/阿賀町鹿瀬
鹿瀬の集落 茅葺きもトタンで覆う
 「大鹿瀬」とも呼ばれました。江戸時代初期は街道から離れ,わずかな畑作,炭,林業などで貧農でした。しかし銅が採掘されるようになってから賑わい,幕末期は最盛期を迎えました。今は典型的な過疎の村。茅葺きもトタンで覆われています。
麒麟山温泉・松仙閣/廃業。本館は昭和9年築。新館は昭和10年に新潟市内の格式あり料亭鍋茶屋から一部を移築したとか。木造3階建て地階1階,阿賀野川から見ると4階建て。
▲近代木造住宅の旧松仙閣
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは鹿瀬区民センターに停めました
行地(ゆくじ)/阿賀町行地 
  茅葺き屋根を葺き替え
 一歩足を踏み入れたとたん「三角屋根がいっぱいだ」が第一声でした。かつての茅葺き屋根をトタンなどに葺き替えたのです。歩いていますと、無人の家屋も見られますが、人が住み、まだまだ健在です。
 江戸時代は会津藩領。村高は50石弱と小村。田畑が少ない分、村人たちは林業、炭焼き、物資の運送などで稼ぎました。それは新発田街道沿いの集落で、宿場町でもあったため交通の便があったからです。しかし、明治期になると新発田街道が西に移ったために、村は寂れていきました。地名の由来は、行者からきているとか。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 綱木(つなぎ)/阿賀町綱木
  築100年以上の古民家
 このあたりは綱木川に沿って旧街道が通っています。新発田街道(会津街道・県道14号線)の宿場町で、当時商家だった跡に小さいながらも石碑が立っています。写真を撮っていると、古老がやってきて「明治4年の会津戦争で、この辺りは全部焼けた。今残っている建物は、その時に建てたものよ」という。それでも築100年は経っているのです。茅葺き屋根にトタンをかぶせています。また木造2階建ても健在です外壁には薪を積み上げて、冬に備えているのも雪国ならではの光景です。
 地名の由来は、駅馬をつないだ所にちなむとか。 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 小荒(こあら)/阿賀町豊実
  旧茅葺き屋根のある村
 実川渓谷森林公園内にある旧実川(さねかわ)集落に向かってクルマを進めていました。ここには重要文化財の五十嵐家住宅があるからですが、村道途中の小荒集落過ぎた辺りで、通行止めになっていました。
 小荒集落は豊実地区の小名にあたります。人口はおそらく数人の限界集落。土蔵やトタンで葺き直した旧茅葺き屋根などが点在。かつて陸の孤島といわれた地域で、昭和63年に船渡大橋が完成。渡船による不便が解消されました。とはいうものの、その後の過疎化は避けられませんでした。地名は小さな荒れ地にちなむとか。 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました 
 船渡(ふなと)/阿賀町豊実
  真壁造りの古民家
 古くは「舟渡」とも書きました。江戸時代は会津藩領で、ここまでくると確かに福島県に地階と感じます。陸の孤島と言われた時代、会津との結びつきが強くならざるを得ない。それはともかく、田畑が少ないのに村高が200石前後もあるのは、林業が栄えたからでしょう。ほかに筏乗りで稼いでいました。江戸末期は本村で28軒がいたとか。
 豊実駅前の街道沿いに、三角屋根の真壁造りの古民家が点在します。梁や柱の間隔が狭く、雪の重さに絶えられるような工夫か。
 地名の由来は、阿賀野川を舟で渡るところにちなむ。 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマはJR磐越西線豊実駅前の広場に停めました 
寺町(てらまち)/新発田市諏訪町
寺町通り/この道の広さは藩政時代のままであります 16ヵ寺の寺院が集中
 どこの城下町も同じですが,新発田潘も築城の際,城郭の防衛の一端を担うために城下の寺院の大半を集めて寺町としたのです。現在,幅の広い寺町通りは,藩政時代の遺構です。寺町とその周辺には,16ヵ寺の寺院が集中。なお町名は諏訪神社にちなむとか。
▲ラーメン(500円・あじよし)
佐々木因幡守重家は上杉謙信配下の武将。天正15年(1587)10月新発田城落城とともに討ち死す。
▲宝光寺/新発田藩主の菩提寺 ▲三光寺/天正10年(1582)開基とか ▲福勝寺/佐々木因幡守重家の墓
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは大光銀行新発田支店の駐車場に停めました
大手町(おおてまち)/新発田市大手町1丁目
三宜町/「月に宜し,雪に宜し,女には殊に宜し」から命名されたとか 「下町」で垣間見る旧遊郭
 堅牢な雁木を設けた旧下町通りは,新潟方面に向かう重要な街道でした。「下町」は武家や潘お抱えの高級職人などが住む「上町」,「中町」の成立から少し遅れて成立しました。潘は「下町」に住居を希望する人に家屋の間数に応じて労働役を命じたとか。ユニークな手法。
 もうひとつの顔は,三宜町遊郭と重なります。戦前は妓楼19軒,娼妓90余人,戦後は貸座敷20軒,娼妓150人といわれています。地域としては御幸町1丁目とも重なります。通りを歩くと,料亭や妓楼と思わしき建築を多く見かけます。昭和34年の売防法施行で衰退しました。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは竹町パーキング(30分200円)に停めました
御幸町(みゆきちょう)/新発田市御幸町1丁目
白勢長屋/明治20年築。多くの市民団体が保存活動を行っています/もう一つ,白勢家の本当の建築目的は,娼妓用に貸し座敷を造ったのではなかったのか,と思うのですが……。今ひとつ建築目的がわからないのです。 旧紺屋町の白勢長屋
 町名の由来は,明治天皇の行在所があったから。しかし江戸時代は四ノ町(しのちょう)と総称され,材木町,紺屋町,上定役町,築地通りの4町が新発田川の南に新町として発展しました。で,ココは旧紺屋町。
 明治20年(1887),新発田市金塚の“千町歩地主”の白勢家が12軒長屋を建築。昭和の初めまで所有していました。現在は8軒で,5軒が現役です。それにしても,明治の建築で8軒長屋は圧巻です。部分的に改装されていますが,庇の深い,雪国らしい建物です。ただ建物を注意深く見ますと、貸座敷などに使われいたように思えます。 
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは竹町パーキング(30分200円)に停めました
 山内(やまうち)/新発田市山内
  トタン葺き古民家が多数
 江戸時代は新発田藩領で、会津街道の宿場町。同時にもう一つの役割が、警護でした。会津街道の藩の境界に位置する唯一の口留番所でもありました。新発田藩は意外に番所の少ない方で、この山内口留番所は代表例といえるでしょう。さらに番所の他にも山内御殿も建設されたのです。山内口留番所の歴史は古いのですが、往時は「桂の関」と呼ばれていました。
 旧街道を歩いていますと、トタン葺きの三角形の農家が幾つも見られます。また立派な長屋門や真壁造りの古民家な飽きることはありません。広い道幅も往時のままだそうです。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 赤谷(あかたに)/新発田市上赤谷
  真壁や出し桁などいろいろ
 江戸時代は会津藩領。集落内には赤谷街道(越後街道)が通り、新発田から会津へ向かう重要な道筋になり、宿場を形成しました。街道の両側には、松川屋、吉野屋、中村屋、小川屋などの旅籠が軒を並べたとか。
 明治に入ると鉱山開発が進み、旧藩士たちも加わり村は一気に発展します。搬出のための鉄道も敷かれました。それも昭和50年代に終焉を迎えます。
 いまは広い道路の両側に出し桁のある建物や白漆喰を生かした真壁造りなどいろいろ見られます。広い街道に違和感を覚えますが、明治に入っての鉱山開発のために拡張したのか。 
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました 
 新谷(あらや)/新発田市新谷
  トタンで覆った農家が点在
 『新編会津風土記』によればその昔、ここより6町(約650m)ほど東にあって、島村と称したようです。その頃の新発田街道(越後街道)も島村から鹿瀬(かのせ)の諸村へ出ていましたが、いつの頃からか今の街道となり、集落も移転し新谷村と名付けたとか。
 集落内に街道が通り小さな宿場町を形成。村高も200石前後とわずかで貧しい。農閑には炭焼きや物資の運搬などで稼いでいました。しかし明治になって鉱山開発が昭和30年代まで続きましたが、昭和37年に閉山し衰退。
 いま、茅葺きにトタンを覆った三角屋根の農家が残されています 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは空き地に停めました
蓮野(はすの)/聖籠町蓮野
二宮家住宅/国の登録文化財。いまは年に1回バラ園を開放するときに邸宅を見物出来ます  超豪農二宮家の文化財
 蓮野を語るとき,新潟県でも屈指の豪農・二宮家を外せません。江戸時代中期から続く二宮家は,明治維新期には近郊の土地を買い集め,戦前は“千町歩地主”といわれました。農地解放でほとんど失いましたが,それでも広大な宅地や庭園,池などが残りました。多くの家屋,7つの蔵など大部分が文化財に指定されています。
▲米蔵も国の登録文化財です
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはおもいやり駐車場に停めました
弥彦(やひこ)/弥彦村弥彦
弥彦・神社通り 門前町と宿場町と古民家
 江戸時代は500石の神領で,幕府の手厚い保護を受けていました。北國街道浜通りの宿場町ですが,近郊近在から参拝客を集め門前町としても大いに賑わいました。旅館や土産物店などの古民家も多く,大通りや路地などを歩いていて楽しい町並みです。
▲彌彦神社/鬱蒼たる樹林のなか
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR弥彦線弥彦駅から徒歩15分
燕(つばめ)/燕市秋葉町
一方通行の大通商店街の「秋葉町一」の交差点を直行すると,さらに大型の建物が続きます 大型の切り妻型住宅群
 市内には幾つかの商店街がありますが,大通り商店街が見ものです。特に秋葉町1丁目交差点付近が大型の切り妻屋根のある建築物が見られます。また破風に工夫された建物もおもしろいです。いずれも現役で、実際に使われています。
アルミサッシなど,かなり改築改造されていますが,往時を彷彿させます。
▲昭和初期の建物と推定されます
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端の無料駐車場に停めました
下町(しもまち)/燕市吉田下町
下町 国の登録文化財あり
 下町通りを歩いていますと,洋館が目に付きます。すなわち今井家の住宅なのです。吉田町(旧)を語る場合,今井家を外すことはできません。
 近江(現・滋賀県)の出身で,初め菅田姓を名乗り小国氏の会津移住後,吉田村に移りました。江戸時代初期の吉田は,藩の政治,経済の中心地で,長岡潘に対して“才覚金”を上納するまでに力を付けたそうです。その後,酪農,養蚕,洋食器,ラケットの製造,小売業,味噌,醤油など幅広く手がけ,戦後の困難な時期を乗り切ったとか。最近,多くの建築物が国の文化財に登録。
大正12年(1920)築。鉄骨の床梁,外壁は焼過煉瓦(やきすれんが),窓回りは花崗岩で装飾。 明治25年(1892)ごろ応接として建設。“越後の鹿鳴館”と呼ばれる。レンガはフランス積み
▲旧今井銀行/国の登録文化財 ▲今井家西洋館/国の登録文化財 ▲吉田天満宮/今井家が創基
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
本町(ほんちょう)/三条市本町
中心市街地にも切り妻型
 江戸時代は三条潘をはじめ多くの領主が幕末までめまぐるしく替わりました。それも,水運は信濃川・五十嵐川の河川港,陸運は北国街道・三国街道の枝宿でした。特に河川港は幕府指定の河渡しでもあることから,多くの物資の集散地となったのです。特に金物,足袋,染め物は特産品で,東北,関東一円に販売していました。一方陸運では三条宿から5宿への継立てが行われるなど、交易の中心地でした。
 本町は三条の中心市街地で,金融機関や商店などが軒を並べていました。雁木とともに切り妻型の家屋が並びますが,現代住宅と混在しています。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは三之町病院駐車場に停めました
 庭月(にわづき)/三条市庭月
  世界的な漢学者の出身地
 江戸時代は旧庭月村で、村上藩領、後に安田藩領となり幕末を迎える。村高も80余石と五十嵐川沿いの小さな集落。なにより有名にしたのが、日本を代表する漢学者・諸橋轍次の出身地であることです。30余年を費やした『大漢和辞典』は世界的偉業 
 
▲遠人村舎/国の登録文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道の駅「漢学の里しただ」に停めました
見附(みつけ)/見附市本町
見附の町並み 切り妻型住宅が多い
 平安時代は,一部が東大寺の荘園,戦国時代は上杉氏の所領,さらに江戸時代は県内の各藩領と変遷を繰り返しました。一方、なんといっても足利や結城から織物の技術を導入したため,織物産業が発展。紆余曲折はあるものの,農業と共に今でも中核産業といえます。
 本町は,町の中心地で明治初期は見附本町と呼ばれていました。いま中心を外れた1丁目,3丁目には,切り妻型下見板張りの町家がたくさん残っています。また裏道に入りますと白壁や土蔵も見られます。
 町名は町を刈谷田川が貫流することで「水漬け」の転訛説
偽洋風建築 雁木のある町並み
▲偽洋風の看板建築もかなり残っています ▲切り妻型住宅もアルミサッシや新建材で改造
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは大光銀行見附支店駐車場に停めました
谷内(やち)/長岡市谷内
切り妻と雁木のある商店街
 旧栃尾市の中心地。昔のガイドブックには,繁華街と明記されています。河川が多く水運に恵まれています。谷内とは湿地の多かった所を意味するとか。おなじみの切り妻型の町家と雁木の組合せが北国らしい風情を感じさせます。
常安寺/数々の文化財があります。(谷地2丁目)
▲常安寺/上杉謙信が開基したとか
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマはスーパーしまむらの駐車場に停めました
摂田屋(せったや)/長岡市摂田屋
摂田屋の町並み・長谷川酒造 酒,醤油,味噌の三業種
 霊場巡りの信者を接待した世帯場,田に接する集落から名付けられた説があります。江戸時代は幕府領で,金峰神社奉納用に酒の醸造が盛んになりました。町を歩くと酒,味噌,醤油が交代で匂います。登録文化財が多数あります。
▲光福寺/長岡本陣があった
星野本店/醤油,味噌の醸造を手がけています。江戸時代末期の建築が残る 越のむらさき/醤油の製造(国の登録文化財) 鏝絵の技法を使った土蔵(国の登録文化財)
▲星野本店/大正末期の建築 ▲越のむらさき/天保3年の建築 ▲機那サフラン酒/鏝絵の土蔵
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
与板(よいた)/長岡市与板町与板
与板の中心街。平日昼間の12時半ごろの光景です。寂しい町でした NHK大河ドラマ『天地人』
 切り妻型妻入り住宅がズラリと並ぶ町並みです。丈夫な鉄製の雁木も整備されています。江戸時代は与板潘の城下町で,陣屋跡が残されています。肥沃な土地と黒川の灌漑で,良質な米が獲れたところでもあります。同時に信濃川の河川港としても発展しました。そのため大坂への米の移出,新潟,長岡への物資の集積地として多くの豪商が誕生しました。
 NHK大河ドラマ『天地人』の舞台で,一時期大変な賑わいを見せていました。しかしいま歩いていても,シヤッター街と化し、かつての賑やかさは見られないのが残念です。  
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
和島(わしま)/長岡市島崎
はちすば通り はちすば通りの古民家群
 島崎は旧和島村の中心地で,島崎川の舟運の物資集散地でもありました。大きな寺院や学校,美術館などが集まっています。長岡市と合併後は,このあたりも含めて一般に和島と呼ばれ,良寛の里と言われます。江戸時代の旧和島村には、なんと27か村もの集落がありました。
 良寛を仏道や歌の師として仰ぎ接した貞心尼は,数年後良寛の最期をみとりました。その後貞心尼は良寛との交流を『はちすの露』にまとめました。
 「はちすば通り」は,蓮の葉の上で揺れる朝露のきらめきを2人の交流に例えたのが,小路名のいわれです。
隆泉寺 はちすば通りの入口近くにあります
▲隆泉寺/良寛の墓や銅像が立つ ▲木村家/良寛が晩年を過ごした ▲ラーメン(650円・手まり)
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは良寛維宝堂駐車場に停めました
山田(やまだ)/長岡市寺泊山田
山田 板張りの民家が並ぶ
 出雲崎宿と寺泊宿の中間にあり,高札場が設けられました。また巡見使のための茶屋や屋敷もあったが元禄年間に焼失したそうです。いま海岸ではどこでも見られる切り妻型の下見板張りが並んでいます。
▲変な蔵/板張りのなかに土蔵が隠れています。潮風から守るため?
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは山田海岸磯浜広場駐車場に停めました
野積(のづみ)/長岡市寺泊野積
野積の町並み 板張りの家屋が並ぶ
 平安時代に西生寺門前の約300軒が,家ごとに酒造りを行ない野積酒といわれ,越後一の銘酒といわれていました。また杜氏としての出稼ぎも盛ん。江戸時代は近辺に銅が産出,町は大いに賑わったとか。いまは下見板張りの家屋が見られます。
弘智堂には弘智法印のミイラ仏が安置されているそうです。
▲西生寺境内にある弘智堂
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
松代(まつだい)/十日町市松代
松代の町並み 板壁や真壁などの古民家
 古くは松平と称し、慶長15年松平忠輝による越後支配のとき、松代に改称した説がある。 松代は松之山郷に含まれますが,北組に属し高田藩領の時代には,松之山郷を支配する陣屋が置かれていました。というのも,柏崎街道と松之山街道の分岐点で交通の要衝。長く続いた六斎市もいったん中止になりましたが,その後も絶えず市が開かれました。特に青苧(あおそ/繊維となる原料)で織った越後縮布は江戸でも珍重され,多くの人が集まりました
 いま板壁や真壁造りなどの大型の古民家が,街道沿いに残されており,冬は雪国にふさわしい光景を見せてくれます。
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは松代公民館駐車場に停めました
室島(むろじま)/十日町市室島乙
室島集落 茅葺き,トタン屋根の農村
 信濃川支流の渋海川沿いの農村集落です。江戸時代は高田藩,幕府領と支配が変遷。そのため,これといった産業の発展は見られませんでした。やはり交通の不便さ,すなわち北國街道,三国街道の脇往還に出るにも時間がかかるからか。
 一方,古代から歴史ある集落で,「ミタザワ」と呼ばれていました。修験密教の名残がある村でしたが「ミタザワ」が関係していると郷土史家は分析。
 緩やかな坂道を歩きながら,茅葺き屋根やトタン屋根のある農家を幾つも見つけました。過疎地帯で,人に会うことはありませんが,穏やかな集落です。 
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
 上野(うえの)/十日町市上野甲
上野甲の集落 大型の古民家が多数
 江戸時代から新田開発が盛んで、しかも良質の米がとれ,また馬市,千手市が開かれました。近郊近在から多くの人々を集めるなどの中心地。道幅の広さは,往時の賑やかさを彷彿させます。古民家も大型で,切り妻の真壁造りが印象的。
▲独特の切り妻の真壁造り
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
小白倉(こじらくら)/十日町市小白倉
小白倉-1 のどかな農村地帯
 豪雪地帯にある農村です。谷底の狭い土地に,トタンの大屋根のある農家が目に付きます。茅葺き屋根は、わずかです。周囲は棚田があり,のどかな感じです。この日は祭りにあたり,大勢の外国人の研修にも利用されていました。
▲茅葺き屋根の農家もわずか
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 クルマは道端に停めました。
塩沢(しおざわ)/南魚沼市塩沢
三国街道塩沢宿 23年度都市景観賞受賞
 夏の平日夕方6時ごろの光景。食堂を探したのですが,見あたりませんでした。せっかく町並みを改造したのに,人を見かけず本当に静かでした。
 江戸時代,寛永12年(1635)に幕府より三国街道が諸大名や佐渡奉行の通路に指定されました。本陣,脇本陣,問屋,旅籠などが整備され,宿場町,交易の町として大きく発展。六斎市が開かれ,白布や越後縮は魚沼特産として京,大坂,江戸に出荷。酒造業も繁栄。
 平成23年(2011)度の都市景観大賞を受賞しました。今はピカピカの町並みですが,10年後には風格が出る?
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは観光客用の無料駐車場に停めました
相川(あいかわ)/佐渡市相川町
相川-1 高台にある武家文化
 相川は金鉱開発とともに発展した町です。高台には一般住宅があり,なかでもかつての繁華街でもあった京町通り(下),西坂や長坂もすてきな所です。また時鐘楼とそれに続くレンガ塀が知られています。坂道がちょっときついです。 
相川-2
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 両津港からバス相川下車15分
二見(ふたみ)/佐渡市相川町二見
二見 金の積み出し港で賑わう
 南北朝時代「蓋見」(ふたみ)といわれた時期もあったようです。江戸時代はもちろん幕府領。相川で発掘された金を運び出す港でもありました。かつては大変な賑わいを見せていたそうです。もちろん商家や旅籠も多かったのですが,地元の人が旧遊郭(写真)だよ,と教えてくれました。
 建て物は平入の2階屋が続きます。簡素な造りですが,二見本村から二見新町まで約1qほど続きますが,見所はバス停の二見(北)付近です。また町を全体を見渡すには,バス停前の二見神社へ向かう山道の途中から見ることができます。
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 相川バスターミナルからバスで二見下車
両津(りょうつ)/佐渡市両津
両津-1 いくつかの風情ある商家
 文字通り佐渡の表玄関の役割を果たしています。到着した地点は戦国時代,加茂湖と両津湾を境にする礫州上にできた街並みです。
 幕府の政策で,島内の生産された各物産が他国への移出解禁となり,多くの物資が港から全国各地へ積み出されることになって発展したのです。
 のんびりと歩いていますと,商家や廻船問屋などがいくつか残っています。また漁師町「湊」周辺には,軒先で魚を並べている店もあったりで,両津は歩くにもいい町です。地名の由来は夷(えびす)、湊(みなと)の両方の港(津)を合わせた事にちなむ。 
▲トキの野生保護ステーション(新穂) ▲ラーメン(500円・海産そば処) ▲中華そば(480円/福来軒)
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 両津港から徒歩10分
畑野(はたの)/佐渡市畑野
畑野 裏道に土蔵が少し残る
 真野新町と両津を結ぶ県道から一歩裏手の本光寺脇から入る旧街道沿いにあります。土蔵などが少々と垣根が目に付きます。
 江戸時代は幕府直轄地で,赤泊港へ向かう途中の集落でもありました。また寺社の多いところで,江戸期は寺院が47カ所,神社が21カ所もありましたが,そのほとんどが明治政府による廃仏毀釈によって廃寺となりました。佐渡は農民一揆の多いところで,特に畑野は多く,多くの農民が罪人となったのも特徴。
 明治に入って、寺田、安国寺、畑方、畑本郷、河内の5か村が合併して畑野村を成立。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは本光寺の駐車場に停めました
真野(まの)/佐渡市真野新町
350号線の真野新町 二つの街道分岐の追分宿
 真野は両津に次ぐ町でもあります。小木街道が相川と小木港を結んでいますが,新町はその宿場町でした。さらにここから赤泊港へ向かう梨木街道もココで分岐します。
 新町でひときわ目立つのが森医院の洋館(写真の左端)です。国の登録文化財になっており,設計者は加糖新右衛門です。味噌蔵が明治初期,母屋が明治42年建築で,他は大正から昭和初期にかけて建てられました。なお毎年10月に茶会(800円〜)を国分寺本堂と共に森医院本座敷で催されています。
 ところで地名の由来は、近江国の豪族真野氏、また真野郷にちなむという説があります。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは真野商工会館駐車場に停めました
豊田(とよた)/佐渡市豊田
西三川 旧マルゴ味噌蔵が残る
  旧小木街道が台地上を通っていますが,少し離れた海岸付近に,木造の旧マルゴ味噌蔵が今も残されています。中をのぞいて見ますと、今はがらくたばかりの倉庫のようです。その向かいにある倉庫の一部を使って「えんや」というショップ兼情報センターとして利用。
▲食堂など複合施設のえんや
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは裏道に停めました
小木(おぎ)/佐渡市小木町
小木 木造2階建ての出桁造り
 佐渡の町々は金山の影響を受けていますが,小木も金山のある相川から海路や陸路で運ばれてきた金を積み出す役目を持っていました。陸路は小木街道を利用して,小木港に運ばれてきた金を対岸の幕府領であった出雲崎まで船で運ぶのです。また松前(北海道)と上方など諸国を結ぶ航路の風待ち港として発展しました。天保12年(1841)の幕末期には家屋92軒,530人の規模でした。
 建物は県道沿いに並び,木造2階家が多く,港町らしく出桁造りが多いの特徴です。歩いていますと、繁栄した町にふさわしい妓楼らしき面影も見られます
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは港の公園横に停めました
宿根木(しゅくねぎ)/佐渡市小木町宿根木
宿根木 初めて見た奇妙な集落
 バスを降りると駐車場があり,その奥に板塀が張り巡らせてあり,その横の隙間から入るような感じでした。中に入ると,今まで見たことのないような光景が広がります。窓は小さく,庭や門がありません.塀もなくただ焦げ茶色の板で外壁を造り,四角形の木箱のような感じがします。窓が小さいだけに,排他的で外敵に備えているような感じさえするのです。
 それにしても変わった集落です。集落の中央に小さな川が流れ,かつてここが洗い場で社交場でもあったのです。
 地名の由来は鎌倉時代、宿禰宜と呼ばれる神職・高貴な人が泊まったという説あり。
宿根木 宿根木
▲水路が集落を縦断しています  ▲宿根木を象徴する建物だけに写真に撮られます
感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 小木港からバス宿根木下車
筒石(つついし)/糸魚川市大字筒石
筒石 ●超過密の漁師町
 すぐそこまで山が迫るわずかな土地に密集する漁村です。すなわち北国街道の街村。木造平入の2階建て,3階建てがギッシリ詰まっています。また玄関脇に流しがあって,外から使うようになっています。
道路に面した流しと半地下部屋
▲玄関脇に流しがある
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは国道8号線沿いに停めました。
小泊(こどまり)/糸魚川市能生小泊
小泊2区の迷路 漁師町特有の迷路
 泊は港の意味を持ち,能生の外港の役割を果たしています。隣の名立地区にも小泊があって,区別する意味から能生小泊としたのです。集落は1区から6区に分かれ,国道8号線と県道の間の傾斜地に密集しています。漁師町特有の細い路地の迷路から形成しており,歩いているとエアコンの外機はすべて頭上高くに設置していることに気がつきます。道が狭いため、通行の邪魔にならないようにするためです。
 板壁はほとんど下見板貼りで,細い棒で押さえる押縁下見です。海の香りのするなつかしさを覚える漁師町です。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは空き地に停めました
能生(のう)/糸魚川市能生
宿場町と港町で繁栄
 江戸時代は高田藩領,幕府領,糸魚川潘領とめまぐるしく変わりましたが,この地の重要性は変わりません。北陸道の宿場町で,能生川の出口にあたり,川沿いの農産物の集積地でもありました。さらに室町時代から軍事上の要地でもあります
 集落の発展したもう一つの理由は,沿岸漁業の発展でした。正徳2年(1712)に,地引き網業も始まり,回船問屋も生まれました。さらに5・10の付く日に六斎市が開かれました。
 いま旧街道を歩いていますと,土蔵や格子のある商家などが見られ,往時の繁栄ぶりを感じ取れます。
入母屋造り 昭和55年にここへ移築しました。
▲白山神社本殿/国の重要文化財 ▲歴史民俗資料館/中門造りの農家 ▲弁天岩/燈台は能生漁港への目印
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは市営宮の上駐車場に停めました
新町(あらまち)/糸魚川市新町
新町の町並み 2階家が続く昭和の町
 江戸時代は旧新町村。水害,大火,疫病と相次ぎ,一時は悲運の町とも言われたとか。明治の製糸業も長く続きませんでしたが,製材業や建築請負業が盛んになりました。また芝居小屋,料理店などもでき町は繁栄。2階家の意匠が美しい。
▲大蓮寺/本堂屋根上の鐘楼
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
本町(ほんちょう)/糸魚川市本町
旧加賀街道沿いの雁木通り 雁木と古民家の町
 横町から大町にかけて東西を直線的に旧加賀街道が通っています。そのなかで本町商店街の雁木が,昔ながらの姿で保存。そこで町並み景観の修復を約20年前から行われました。和風アーケードに切石の石畳みが敷かれ,木の暖かみを表した雁木を生かした商店街。さらに絵馬型の看板や口上書,石像八福神などのアイデアも加えたのです。本町は市の中心地で,金融機関や各種商店,北側には料亭なども集まっています。古民家も数多く残されています。平成18年に金沢大学都市・地域計画研究室の提言を元に“昔と今”の融合した町づくりの結果といえます。 
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは糸魚川信用組合本町支店に停めました
 山寺(やまでら)/糸魚川市山寺
地名は12ヵ寺が由来
 金蔵院,千手院ら12ヵ寺から山寺と名付けられたようです。江戸時代,大火で消滅後,明治から復興,特に千手院と金蔵院は仲が悪かったようで,なにかにつけて争ったと記録されています。歩いていますと,トタン葺きの古民家が少し見られます。
▲金蔵院/明治12年に再興
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマはおててこ会館駐車場に停めました
別所(べっしょ)/糸魚川市別所
別所集落/塩の道 ●「塩の道」沿いの集落
 中世は善光寺参りで賑わい、江戸時代の運搬記録によると,糸魚川から信州へ塩や海産物を送る量が圧倒的に多かったとか。いまカヤ葺き屋根もトタンに替わり,わずかに古民家が残る程度です。ただしこのあたりの塩の道の保存状態は良好とか。
塩の博物館(隣の山口集落にあります)/運搬具なのどの民具706点が,国の有形文化財に指定されました。
▲塩の博物館/706点が国文化財
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
出雲崎(いずもざき)/出雲崎町住吉町
出雲崎 三角屋根の切妻型住宅群
 江戸時代,上杉家が会津移封,その後掘秀治が新領主となります。同時に佐渡への港としての機能を充実。金の陸揚げ港となり,さらに宿場町でもあり,大きく発展しました。
 漁師町特有の三角屋根のいわゆる切妻型住宅が続きます。間口が狭く、奥行きのある長屋風の民家です。この住宅群の光景が圧巻で,新潟県が「景観形成推進地区」に指定。
 もともと北前船の寄港地として栄えた町で,上方の文化の影響も。一般には良寛さん生誕の地として知られています。
 地名の由来は、出雲の大国主命(おおくにのみこと)が来臨した故事にちなむそうです。
感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは隣接する「道の駅」に停めました
久田(くった)/出雲崎町久田
久田集落 茅葺き屋根がポツンと1軒
 日本海岸の砂丘地の上にある集落。かつては九田ともいいました。もう少し山寄に山城跡が見られます。戦国時代,上杉房能の重臣・山田豊後守が5年間居城したそうです。江戸時代は久田村,領主が絶えず替わりましたが,天保年間は家数28と小さな村でした。水田もわずかで,漁業が主な産業。
 丘陵地帯に広がる細長い町並みです。意外に急坂があったりします。茅葺き屋根も残りますが,この地方でおなじみの切り妻型の下見板貼りの家屋が,圧倒的に多く見られます。
 ところで地名の由来は宇奈具志神社の給田(きゅうでん)が、九田、久田と転訛したとか。 
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
石地(いしじ)/柏崎市西山町石地
石地の集落 北陸街道沿いに長屋門
 石地川の流域に広がる小さな集落ですが,江戸時代に北陸街道の宿場町としての形ができつつありました。元禄年間に商家70軒,馬持ち50軒とありますが,漁師が50軒で船数が73で,漁業も盛んだったようです。
 しかし何より石地を有名にしたのは,日本の石油王と呼ばれた日本石油(株)初代社長・内藤久寛の邸宅・久寛荘(きゅうかんそう)の存在。祖先は上杉家に仕える郷士で,上杉の会津移封でも石地に住み着いていました。代々の大庄屋で,地域に一定の勢力を持っていました。歩いていても、内藤家の邸宅は圧巻で、道路に面した長屋門は市の文化財に指定。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは久寛荘駐車場に停めました
椎谷(しいや)/柏崎市椎谷
椎谷の町並み まとまっている古民家群
 江戸時代は椎谷潘という1万石の小大名でした。以後,幕末まで13代にわたって統治したのです。一時期,悪政により領民の反乱もありましたが,いわば小藩ながら安定していたといえます。ただ戊辰戦争で政府軍に付いたため,幕府軍の放火により,陣屋,役所,武家屋敷,民家などが焼失。そのため歴史的建造物は少ない。
 潮風の強い日本海のどこでも見られる,切り妻で下見板張りの家屋が,まとまって残っています。窓などはアルミサッシに改造されています。実は現地の人に「椎谷がおもしろい町だよ」と教えてもらった結果です。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
宮川(みやがわ)/柏崎市宮川
宮川の風除け 風,砂除けの板塀
 昭和32年の大火,新潟大地震での家屋の倒壊などで,古民家はほとんど無くなりましたが,それでも街道沿いや裏道にわずかに見られます。また砂丘沿いの集落なので,防砂,防風除けの板塀が目に付き、日本海の町並みを象徴しています。
▲切り妻の古民家が見られます
感動度★ もう一度いきたい度 交通 クルマは空き地に停めました
荻ノ島(おぎのしま)/柏崎市高柳町荻ノ島
荻ノ島環状集落 茅葺きの環状集落
 2度目の訪問ですが、山間部の狭い道路を抜けると、突然茅葺き屋根の集落が広がるのですから驚きます。茅葺きの農家が水田を囲んで,環状に点在するところから「荻ノ島」と呼ばれ,全国的にも珍しい集落となったのです。
 以前,雪解けの日に訪ねたときよりも,一段と美しい景観を見せてくれました。ただ過疎化はさらに進んでいるのも事実。歩いていても,住人と出会うこともありませんでした。いまは茅葺き農家の民宿などもあり、アマチュア写真家,日曜画家の利用も多いとか。地名は、沖、上ノ島の小字があり、それらの総称に由来するとか。
荻ノ島
▲まだ補修中の空き家の茅葺き農家も見られます ▲改修後の農家や民宿も建ち並んでいます
感動度★★★★ もう一度行きたい度★★★★ 交通 クルマは集落センター駐車場に停めました
門出(かどいで)/柏崎市高柳町門出
門出集落 のどかな山村が広がる
 茅葺きの農家が集まっていると聞いたのですが,ほとんどトタン屋根に替わっていました。小さな集落ですが,江戸時代は和紙(伊沢紙)や縮織り(紺の弁慶縞)。また明治に入って養蚕が盛んになりました。いま茅葺きの宿が2軒で,その周囲の山里をのんびりと歩けます。
ほかに「おやけ」があります。でもおやけは開店休業状態。
▲かやぶきの宿・いいもち
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは観光客用無料駐車場に停めました
直江津(なおえつ)/上越市西本町
直江津の町並み 2階を歩道の上まで出す
 江戸時代から船運,陸運の要衝でした。明治に入ってから,大火が相次ぎ,市内に古い建物があまり残っていませんが,街道沿いには雁木のある古民家が見られます。比較的新しい家は,歩道を確保しながら,2階部分を道路までせり出しています。
▲もずくそば(440円・直江津庵)
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 JR信越本線直江津駅から徒歩7分
長者島(ちょうじゃしま)/上越市大島区大平
消えつつある茅葺き屋根
 旧大島村小平地区の小字にあたります。松之山街道沿いの小さな集落で,保倉川沿いの絶壁の多い難所続き。しかし安政年間の大改修で,やっと安心して通れたとか。茅葺き屋根もトタンに替わる。古民家も多い。
▲ざる大根そば950円・大島青空市場食事処
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
田麦(たむぎ)/上越市大島区田麦
田麦集落 トタン葺きの三角屋根群
 旧大島村は交通の不便なところ。戦後の昭和28年になってバスの運行が始まりました。それより先,電灯がついたのは大正12年のこと。当時の人口は600余人。開発の波から取り残されたことから,茅葺き屋根も長く残ったのでしょうか。いまは,ほとんどの屋根はトタン葺きに改装されています。それでも大きな三角屋根はあちこちに見られ,往時の面影を彷彿。
 一般の観光客のほかに,写真撮影や絵を描いたりする人も多いようです。なぜか日本の原風景を見る思いです。
 地名は田麦川の源流部に発達したことによるそうです。 
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
寺町(てらまち)/上越市寺町
63ヵ寺が集まる寺院群
 高田城は,慶長19年(1614)徳川家康の六男松平忠輝の居城として築かれました。築城に伴い城下の整備を併せて進められ,偽明川の西側に寺院を集中させたのです。これが寺町の始まりといわれています。
 現在の寺院の配置は,その後の寛文5年(1665)の地震で罹災後の復興によるものとか。今でも63ヵ寺もの寺院が残り,全国的にも大規模な寺院群を形成しています。
 寺院は2列に連なり,大部分が高田城に向いています。また約6割が浄土真宗系です。
 地名の由来は、大寺の門前町とか寺領であったためとか。
木造の善導大師立像は市の文化財 この地方唯一の時宗。時宗第6代を継いだ一鎮上人像は国の指定文化財 山門は市の指定文化財です
▲善導寺/市指定の木造立像あり ▲称念寺/国指定の文化財あり ▲天崇寺/山門は延宝2年建立
太子が16才の頃の像です。市の指定文化財
▲常敬寺/木造正徳太子立像あり ▲浄興寺/本堂は国の重要文化財 ▲来迎寺(右)/浄土宗で阿弥陀如来
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 JR信越本線高田駅から徒歩10分
東本町(ひがしほんちょう)/上越市東本町3丁目
東本町のL字型の道も城下町の名残り 最も美しい雁木通り
 江戸時代から職人の町として知られています。いまは商店な一般住宅など混在。L字型の道は,城下町の名残です。
 市内に約16kmの雁木通りがありますが,最も美しい整然とした街並みを形成しています。早朝のため人影はありません。
▲整然とした美しい雁木通り
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR信越本線高田駅から徒歩25分
本町(ほんちょう)/上越市本町6丁目
本町通り(高田小町) 昔は下小町,今は高田小町
 旧高田の町を南北に縦断するのが本町通りです。大型の商店や銀行などが集中する経済の中心地です。本町通りは,かつて小町三町と呼ばれ,上小町,中小町,下小町に分かれていました。そして潘から商売上の特権を与えられており,特に信濃との取引で大変栄えていたのです。現在の本町6丁目は「下小町」にあたり,旅籠屋営業の特権を与えられ,江戸時代末期には約30軒もの旅籠屋が営業していました。
 現在は「高田小町」と命名して,商家を修築し一般開放しています。この日は早朝のため各店舗も閉まっていたのが残念
本町
▲早朝はとても静かな「雁木通り」も市内に約16km続く ▲近代住宅風に改築した古民家も見られます
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR信越本線高田駅から徒歩13分
仲町(なかまち)/上越市仲町
旧料亭,料理屋街
 歩道に張り出した大きな庇(ひさし)は雪国特有の造りで「雁木」(がんぎ)と呼びます。庇の下は私有地で、各商店が、通行人のために雪や雨避けに造ったとか。仲町は,市内でも飲食店などが集中しています。 
魚の卸業からスタートし,江戸時代は仕出し屋を営む。明治に入って料亭になったようです。
▲料亭宇喜世は国の登録文化財
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR信越本線高田駅から徒歩10分
下関(しもせき)/関川村下関
越後下関 4棟いずれも文化財
 新発田から米沢に向かう米沢街道沿いの宿場町です。鎌倉時代,長峰山麓に関が設けられ,この関の下手にあるので関下と呼ばれ,転じて下関になったようです。
 関川村役場の正面に、文化財が4棟連なっています。うち2軒が茅葺きの豪農で、いずれも開放されています。また、行政による手入れがきちんとされているので、保存状態がとてもいい。佐藤邸(国の重要文化財)と津野邸(県の文化財)は非公開です。しかし近くの渡邊邸(国の重用文化財)、東桂苑(村の文化財)が公開されています。いずれも役場近くに集中。
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 役場に無料駐車場があります。
中条(なかじょう)/胎内市東本町
旧中城町/熊野若宮神社は県の文化財で,その横の疎水(中条川の支流)沿いの町に趣があります。 蔵を改造した古民家多数
 旧中城町です。羽州街道の宿場町でもありますが,北前船の廻船基地として早くから上方,江戸,蝦夷地と交易がありました。そのため物資の移出入の拠点の廻船問屋が林立。また新発田潘と村上潘との中間に位置したため市が発達し、大変な賑わいを見せました。いま蔵造りの町家が残っています。 
▲町のあちこちに蔵が見られる
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは熊野若宮神社境内に停めました
 片町(かたまち)/村上市片町
  1階の大部分が駐車場
 出羽街道沿いの集落です。江戸時代、宝暦元年(1751)、片町は上・下片町に分かれましたが、後に下片町は元の片町に戻りました。歩いていますと、雪国の町屋が続く、ごく平凡な町並み風景ですが、1階の大部分が駐車場になっているのが土地事情か。 
 
▲旧出羽街道沿いの町並みです 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで片町下車徒歩3分
 加賀町(かがまち)/村上市加賀町
  村上の町屋ゾーンです
 『村上雑記』によれば、寛文初年(1661)以前にできたと推定。三面(みおもて)川の筏場に近く、日雇い、木挽(こびき)、大工が多く住んでいました。江戸中期、宝永2年(1705))では、家数30、竃(かまど)数80。いまは村上を代表する町屋ゾーンになっています
 
▲加賀町は広く横丁も歩きたい
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで加賀町下車徒歩3分
 塩町(しおまち)/村上市塩町
  “地浜塩”の専売権を持つ町
 寛永末年(1644頃)、元々後免町でしたが、そこへ本塩町の者も移されて万治元年(1658)、塩町となりました。町名は小町の持つ地浜塩の専売権を受けたことに由来するとか。いま歩いていますと、旧商家らしい大型家屋の町屋が見られます。 
 
▲町家もやや大きくなっています
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで塩町下車すぐ
 肴町(さかなまち)/村上市肴町
  魚の専売権を与えられた町
 慶長年間にすでに肴町はありました。その後長岡町や馬喰町も合併して町は飛躍的に大きくなります。通りを西に行きますと、瀬波街道に続き、藩主が城下に入るときの入口にあたたります。地名は魚の専売権を与えられたことに由来するそうです。 
 
▲藩主が城に向かった時の通り
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで鍛冶町下車5分
 庄内町(しょうないまち)/村上市庄内町
  城下町・町屋が続きます
 典型的な町屋スタイルが続く町並みでした。ほとんどが2階建てで2階の開口部が広い。改築、改装されていますが、高い建物もなく城下町らしい落ち着いた感じです。このまま歩くと文化財の集まる専念寺小路へ続きます。
 
▲旧嵩岡家住宅/市の有形文化財 
   
▲曲がりが3つある町並みで、端が枡形になっています  ▲高い建物がないので、落ち着いた町並みです 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで村上小町郵便局前下車徒歩10分
 久保多町(くぼたまち)/村上市久保多町
  上方風の町屋が多い
 『越後村上城図』には窪田町と記されているので、元和末年〜寛永初年(1624)の起立と推定。はじめは久保田町でしたが、元禄、享保期に大火が続き久保田町に改名。でも大火は続きます。庄内町から続く町並みですが、上方風の商家や町屋が多い。 
 
▲北前船による上方文化が移入? 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで秋葉神社前下車徒歩5分
 大町(おおまち)/村上市大町
  江戸期は造り酒屋の町
 小町、上町(かんまち)とともに城下で最も早く開けた町。町名の由来は、城下の中心的な繁華の意を込めたとか。寛永12年(1635)には家数は35。寛文5年(1665)には11軒の酒造家がいて、合計4740石も生産していました。古民家は通りに点在。 
 
▲格子のある町家が並びます 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで大町下車、徒歩1分 
 小町(こまち)/村上市小町
  明治5年大火以降の建物
 大町とともに城下で最も古い町。家数は小町が34軒、下小町13軒など。酒造業が6軒で、933石生産していました。明治5年の大火で町の半分を焼失。いま残っている建物は、それ以降のものです。
 
▲宿・久左衛門跡/芭蕉宿泊地跡 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで小町下車、徒歩1分
安善小路(あんぜんこうじ)/村上市小町
村上 黒塀通り・1枚1000円運動
 出羽街道、三国街道、北国街道の交わるところで、なおかつ北前船寄港地でもありました。そのせいか、武家屋敷、商家、民家、寺院などあらゆる人たちが住んでいました。そのためたくさんの歴史的建造物が残されています。1998年から市民たちが集まって、「黒塀1枚1000円運動」を行なっています。ブロック塀を黒い塀で囲むことで、しっとりとした落ち着いた町並みにしょう、という市民運動。最近では観光客にも呼びかけ、名前を刻んで打ち付けるようにしています。
 なお、鮭が遡上する三面川もあり、市内各地に鮭の加工場のあるのが特長です。
感動度★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは村上市役所の駐車場に停めました。
 寺町(てらまち)/村上市寺町
  寺院群と料亭街が隣合わせ
 城下町拡張の際、藩主が戦略上この地に寺を集めました。当時は27ヶ寺もあったとか。特に浄念寺の本堂は土蔵造りで重文。芭蕉の訪れた寺でもあります。歩いていますと、寺院群と料亭街が並んでいいます。まさに昔の“聖と俗”の隣り合わせか? 
 
▲料亭街/「食の小京都」とか
     
▲浄念寺/本堂が国の重要文化財  ▲経王寺/通称“寺町の大寺” ▲料亭・吉源/江戸後期の創業 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで安良町下車徒歩3分
 細工町(さいくまち)/村上市細工町
  改築、改装でも美しい
 元もと上町の西側の裏手にあった加治屋町が元になっています。その後村上氏は加賀国・小松の細工町から本蓮寺を移しますが、地名もそのまま流用。慶安年間ごろの改名と推定されます。サッシなどで改装されていますが、板張の壁や塀が美しい
 
▲旧御殿医屋敷(現・野口家住宅) 
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで上町下車徒歩3分 
 大工町(だいくまち)/村上市大工町
  雪囲いを意識した町家
 大工職が多く住んでいました。寛永12年(1635)では19軒中、大工・桶屋は15軒で、諸役が免除。しかし文化9年(1812)の大火で被災。元治元年(1864)には大工18、桶屋10と増えています。いま歩きますと雪囲いを意識した典型的な町家風景が見られます。 
 
▲まち中では車も家の中が多い 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで安良町下車徒歩3分
 三之町(さんのちょう)/村上市三之町
  武家屋敷のある静かな町
 江戸時代、三ノ丸や御蔵屋敷があったことから、さらに旧藩士の居住地が独立したのが地名の由来。当時戸数138、人口651人というから、多くの武士たちが居住。町場と違って、資料館などもあって、いまはとても静かな町並みを見せています。 
 
▲若林家住宅/国の重要文化財 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで村上小学校前下車徒歩2分
海老江(えびえ)/村上市海老江 
  板の美に感動“板壁の町”
 集落の端にある廃寺にクルマを停め、道を一歩、一歩と進むと、一瞬別世界のような気がしました。つまり板壁、板塀の家屋がギッシリとつながっているのです。それも下見板張り、羽目板張り、押縁下見などが板壁の百科事典のようです。また白壁と梁、柱を利用した幾何学的な美しさを見せる真壁造りも見られます。なぜか板張の美に感動。
  正徳2年(1712)に館林藩領になったとき陣屋を設置。同時に単なる船着き場から湊に昇格し、年貢米の移出港になりました。村は発展しましたが、近隣の村々とのいさかいは絶えなかったようです。 
   
▲道幅は江戸時代のまま変わっていないそうです  ▲狭い道(路地?)も村内を縦横に走ります 
  感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 クルマは本法寺(廃寺?)の境内に停めました
 平林(ひらばやし)/村上市平林
  出羽街道沿いの街村
 江戸時代は当初村上藩領、その後幕府領と村上藩領の交互の支配となりました。又会津藩領の時代もありました。家康は関ヶ原合戦が集結したあと宿駅制度を設けましたが、出羽街道も、元和年間(1615-24)に宿駅を設置。しかし平林は村高が100石前後と少ないため、諸役が免除されたとか。また平林城があったのですが、上杉家の会津移封に伴い廃城。
 地元の区長さんは「昔は銀行もあって活気があったけどねえ……」と昔を懐かしまれます。古民家もわずかに残っていますが、7mの道幅は昔のままだそうです。 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 大須戸(おおすど)/村上市大須戸
  大型の美しい真壁造り
 江戸時代は村上藩と幕府領が交互に入れ替わるという目まぐるしい藩政でしたが、享保2年(1717)からは幕府領となり、幕末を迎えます。村高は400石弱でそこそでした。
 集落に一歩足を踏み入れると、結構、大型の家屋が目に付きました。大部分が真壁造りで、漆喰の白色と梁や柱の色とが微妙にマッチしていて、美しい農村風景を見せてくれます。
 地名は「すとう」が入口の意味とすれば、難所の葡萄峠の入口ということなりますが、由来ははっきりとしません。白土を使った大行焼が復活したり、大須戸能の伝承と活発に活動。 
 感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは大須戸担い手センター駐車場に停めました 
岩船(いわふね)/村上市岩船上浜町
岩船 商家と漁師家屋が混在
 岩船は海水浴場として知られています。北国街道浜通りの港町ですが,北前船の寄港地でもありました。そのため漁師町としての性格だけではなく,商家も混在する町でした。享保20年(1735)の人口が3661人というから、一地方都市としては大きい
 一般的に北前船がもたらす上方文化の影響からか,建物にも「はんなり」感があります。街道沿いは平入りですが,一歩裏道に入ると板貼りの妻入り住宅が並び港町らしい風情。
 かつて源義経が平泉に逃げる途中,この岩船を通ったと『義経記』に記されています。江戸時代は村上藩領でした。
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
桃川(ももがわ)/村上市桃川
桃川集落 減りつつある茅葺き屋根
 江戸時代は村上潘領,幕府領,白河藩領が“入り乱れて”支配しながら幕末を迎えます。村の石高が700石弱ですから,けっこういいほうだったようです。ほかに大豆などもとれました。しかし県北の最大の穀倉地帯となるには,大正時代に入ってからです。疎水を引き,豊富な水を利用できるようになってから。さらに養豚,育牛,養鶏なども盛んで,県を代表する農村地帯となりました。
 曲がりくねった道を農村風景を楽しみながら歩いていますと,かつて多かった茅葺き住宅も,一般の現代住宅に改築されているのがわかります。 
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
瀬波(せなみ)/村上市瀬波中町
瀬波 小振りな港町
 瀬波温泉のあるところで,なおかつ日本海の夕日の美しさでも知られています。しかし古い町並みは,温泉街からかなり離れており,鮭の遡上で知られる三面(みおもて)川の河口で発展した港町です。同時に北前船の寄港地でもありました。特に旧朝日村産出の鉛の積出港でも賑わいました。同時に村上潘の沖の口番所で、船の動きや積み荷に目を光らせました。
 村上の城下町に近かったせいか,逆に大きな町家が少ないのが特徴です。現在の建物は戦後のものが多く,板塀や板壁で造られた、漁師の住む家屋が中心です。  
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
塩谷(しおや)/村上市塩谷
塩谷 大型の妻入り住宅群
 どちらかといえば,塩谷海水浴場として地元では知られています。その海水浴場からやや内陸に入ったところの北国街道浜通りの宿場町として,そして北前船の寄港地として発展してきました。むしろ,今では港町としての性格のほうが強いかもしれません。
 よく出雲崎と比較されますが,同じ切妻型妻入りでも塩谷の方が間口く大型です。さらに道幅も広く,区画整理されたのでしょうか。また壁は細い棒で押さえる押縁下見板張りで,港町独特の風情が感じられる。窓の大部分はアルミサッシで改築し、機密性を高めています
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
猿沢(さるさわ)/村上市猿沢
猿沢 ちょっとおしゃれな感じ
 出羽街道沿いの宿場町です。写真でもわかるように,山裾の町並みだけに水が豊かで,水音が軽やかで、とてもきれいでした。
 写真の上の塩谷と比較してください。規模はほぼ同じで,切妻型妻入り住宅としては大きい方です。しかしよく見ると,猿沢のほうがちょっとおしゃれな感じがしました。板塀のほかに,漆喰を塗っている町家もあります。幾何学模様の真壁造りは美くしい。また板を張り付けるだけではなく,柱を格子状に貼り付けているからでしょうか。京風文化を持つ酒田(山形県)に近いせいかもしれません。
感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 クルマは道端に停めました
 大沢(おおさわ)/村上市大沢
  奥の細道が往時のまま残る
 大沢を有名にしたのは、芭蕉の歩いた当時の奥の細道がほぼ原型通り残っていることです。いまは人口数人の過疎の集落ですが、シーズンになるとそこそこ賑わいます。切妻型の真壁造りが残ります。歩き始めるとあちこちの番犬が吠え始めました。 
 
▲芭蕉が歩いた出羽街道・奥の細道 
 感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは無料駐車場に停めました
大毎(おおごと)/村上市大毎
大毎集落 出羽街道沿いの古民家
 村上と鶴岡を結ぶ出羽街道(庄内街道)沿いの集落です。出羽三山への参拝者で賑わいました。今も地元の人たちは,旧街道の整備に力を入れています。歩いていますと,切り妻型の下見板張りの古民家があちこちに散見。名水百選も。
▲吉祥清水/平成の名水百選
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
北中(きたなか)/村上市北中
出羽街道の北中集落 旧旅籠が残る小さな宿場
 出羽街道沿いの小さいながらも宿場町でした。建物も近辺の集落と比較して、立派な造りが多いようです。唯一,歴史的建造物としての「旅籠の家」は,個人住宅ですが,往時を彷彿させます。また芭蕉の記念碑もあります。
▲旧旅籠の家/実際は明治の営業
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
北黒川(きたくろかわ)/村上市北黒川
圧巻の大庄屋の家
 出羽街道沿いの農村集落です。街道の両側には切り妻の下見板張りの家屋が目に付きますが,ひときわ大きいのが大庄屋の豪邸。外観から見るだけですが、手入れの良さに驚きます。また2階は養蚕場でもあったようです。付近に縄文時代の遺跡があるせいか「縄文の里」との案内板がありました。
▲大庄屋の家/養蚕も行なっていた
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 寝屋(ねや)/村上市寝屋
  潮と雪から守る板壁
 この奇妙な地名は、勝木の漁師が浜に小屋(寝屋)を造って寝泊まりをしていたことがはじまりとか。実際に当初は寝泊まりするだけの集落だったらしい。粟島沖の好漁場に恵まれ、漁港建設も推し進められたのです。
 江戸時代はほぼ村上藩領でした。田畑は少なく、村高はわずか20石足らず。まさしく貧農でした。そこで海へと生活の糧を元めたのです
 実際に歩いてみました。国道345号から一歩山側に入り込みと景色は一変。板壁の家並みが続きます。幅1〜2m前後の路地の両側には、下見板張の壁がみらrます。板壁は落ち着きます。 
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは漁協前の駐車場に停めました 
 岩崎(いわさき)/村上市岩崎
  海辺の板張の家並み
 日本海沿岸に位置する小さな漁師町です。江戸時代は村上藩領と幕府領が交互に藩政を行っていました。旧岩崎村の村高は40石前後、人口は100人前後と弱小の集落。耕地面積が少ないことから、漁業と山稼ぎに頼っていました。山稼ぎは、薪などを町場に送っては日銭を稼いでいたとか。酒造業の青木家では、幕末に蝦夷地に送って財をなしたそうです。
 旧街道に入りますと、さらに道は狭くなりますが、板壁の家屋はさらに増えます。板張法もいろいろで、下見板張、羽目板張などです。やはり海辺の家並みの特徴が出ていました。 
 感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 クルマは道端に停めました
 小俣(おまた)/村上市小俣
  新潟県最北の古民家群
 平安時代末期、下越から庄内に抜ける古道がありました。その後出羽街道小俣宿としてさらに発展。しかし何より「日本国」という山の麓にある集落ということでその名が一躍全国に知れ渡ったのです。新潟県最北の集落ですが、意外に古民家は多く残っています。 
 
▲ココが「日本国麓郵便局」 
感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 クルマは日本国ふれあいパークに停めました