新潟県の古い町並み

新潟県
▼新潟市はコチラから

 五泉(ごせん)/五泉市本町
 五泉市/吉田家住宅(非公開)
 『第四銀行百年史』に詳しい  
 ▲旧(資)五泉吉田銀行(大正8年) ▲1階の庇が長く突き出しています 
 ●広大な吉田家住宅
 江戸時代から三国街道の宿場町でしたが,六斎市など在郷町として発展しました。大庄屋の吉田家が,大正8年に五泉吉田銀行を設立,それまでの明治35年創業の五泉吉田合資会社の業務を継承。その銀行も大正12年,新潟銀行に併合。医薬門のある吉田家には多くの古民家が見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは第四銀行五泉支店に停めました
 津川(つがわ)/阿賀町津川
 津川の町並み
 川のそばに建つ狐の嫁入り屋敷は阿賀野川の支流,常浪川沿いに立つ  雁木発祥の地/雁木のことを地元ではとんぼと呼ぶそうです
 ▲狐の嫁入り屋敷は川沿いに立つ  ▲津川は“雁木発祥の地”だとか
 ●宿場町,河川港として発展
 江戸時代,会津藩の枝城・津川城が置かれ,城下町として発展。しかし寛永4年(1627)に廃城となりました。ところが新潟から阿賀野川を利用して津川までの舟運が開け,さらに津川から会津若松までの会津街道を利用するルートが開拓されました。津川は交通の要衝となり,宿場町,河川港としてさらに発展。
 通りを歩いていますとL字型の道路は、かつての城下町を彷彿させます。庇の深い出桁造りが軒を並べます。また慶長年間に家々の軒先に屋根を造ること城主が命令,これが雁木の誕生です。地名は「船着き場のある川」の意味を表しています
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 クルマは狐の嫁入り屋敷の駐車場に停めました
 花立(はなだて)/阿賀町花立
 越後街道/花立宿
 ●会津街道沿いの宿場町
 江戸時代は幕末まで会津藩でした。会津街道(又は越後街道)沿いの宿場町です。しかし新発田潘や村上潘の参勤交代で利用していましたが,隣の津川宿を発つとそのまま素通りすることが多かったとか。ただ津川港で陸揚げされた荷物の多くが通ることで,賑わったようです。
 地名の由来は,お彼岸以外にも外で花を立てたという説,当時信仰の厚かった津川宿の玉泉寺にある即身仏に対して花を立てたという説などいろいろいわれています。
 ゆるやかな坂道の両側に,幾つかの古民家が軒を並べます。静かな町並みです。
  感動度★
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 交通 クルマは空き地に停めました
 鹿瀬(かのせ)/阿賀町鹿瀬
 鹿瀬の集落
   麒麟山温泉・松仙閣/廃業。本館は昭和9年築。新館は昭和10年に新潟市内の格式あり料亭鍋茶屋から一部を移築したとか。木造3階建て地階1階,阿賀野川から見ると4階建て。
▲旧道沿いに立つ古民家   ▲近代木造住宅の旧松仙閣
 ●茅葺きもトタンで覆う
 「大鹿瀬」とも呼ばれました。江戸時代初期は街道から離れ,わずかな畑作,炭,林業などで貧農でした。しかし銅が採掘されるようになってから賑わい,幕末期は最盛期を迎えました。今は典型的な過疎の村。茅葺きもトタンで覆われています。
 感動度★
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 交通 クルマは鹿瀬区民センターに停めました
 行地(ゆくじ)/阿賀町行地
 
 ●茅葺き屋根を葺き替え
 一歩足を踏み入れたとたん「三角屋根がいっぱいだ」が第一声でした。かつての茅葺き屋根をトタンなどに葺き替えたのです。歩いていますと、無人の家屋も見られますが、人が住み集落はまだまだ健在です。
 江戸時代は会津藩領。村高は50石弱と小村。田畑が少ない分、村人たちは林業、炭焼き、物資の運送などで稼ぎました。それは新発田街道沿いの集落で、宿場町でもあったため交通の便があったからです。しかし、明治期になると新発田街道が西に移ったために、村は寂れていきました。地名の由来は、行者からきているとか。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 綱木(つなぎ)/阿賀町綱木
 
 ●築100年以上の古民家
 このあたりは綱木川に沿って旧街道が通っています。新発田街道(会津街道・県道14号線)の宿場町で、当時商家だった跡に小さいながらも石碑が立っています。写真を撮っていると、古老がやってきて「明治4年の会津戦争で、この辺りは全部焼けた。今残っている建物は、その時に建てたものよ」という。それでも築100年は経っているのです。茅葺き屋根にトタンをかぶせています。また木造2階建ても健在です外壁には薪を積み上げて、冬に備えているのも雪国ならではの光景。
 地名の由来は、駅馬をつないだ所にちなむとか。
 感動度★
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 交通 クルマは道端に停めました
 小荒(こあら)/阿賀町豊実
 
   
▲五十嵐家住宅(重要文化財・実川集落)/山村農家の好例と言われている 
旧茅葺き屋根のある村
 実川渓谷森林公園内にある旧実川(さねかわ)集落に向かってクルマを進めていました。ここには重要文化財の五十嵐家住宅があるからですが、村道途中の小荒集落過ぎた辺りで、通行止めになっていました。しかし五十嵐住宅のみが撮影可能ということで、そのまま走り続けました。クルマで5分くらいです。
 さて小荒集落は豊実地区の小名にあたります。人口はおそらく数人の限界集落。土蔵やトタンで葺き直した旧茅葺き屋根などが点在。かつて陸の孤島といわれた地域で、昭和63年に船渡大橋が完成。渡船による不便が解消されました。とはいうものの、その後の過疎化は避けられませんでした。地名は小さな荒れ地にちなむとか。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 船渡(ふなと)/阿賀町豊実
 
 ●真壁造りの古民家
 古くは「舟渡」とも書きました。江戸時代は会津藩領で、ここまでくると確かに福島県に地階と感じます。陸の孤島と言われた時代、会津との結びつきが強くならざるを得ない。それはともかく、田畑が少ないのに村高が200石前後もあるのは、林業が栄えたからでしょう。ほかに筏乗りで稼いでいました。江戸末期は本村で28軒がいたとか。
 豊実駅前の街道沿いに、三角屋根の真壁造りの古民家が点在します。梁や柱の間隔が狭く、雪の重さに絶えられるような工夫か。
 地名の由来は、阿賀野川を舟で渡るところにちなむ。
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 交通 クルマはJR磐越西線豊実駅前の広場に停めました
 寺町(てらまち)/新発田市諏訪町
 寺町通り/この道の広さは藩政時代のままであります
   
 ▲宝光寺/新発田藩主の菩提寺  ▲三光寺/天正10年(1582)開基とか
 佐々木因幡守重家は上杉謙信配下の武将。天正15年(1587)10月新発田城落城とともに討ち死す。  
 ▲福勝寺/佐々木因幡守重家の墓  ▲ラーメン(500円・あじよし)
 ●16ヵ寺の寺院が集中
 どこの城下町も同じですが,新発田潘も築城の際,城郭の防衛の一端を担うために城下の寺院の大半を集めて寺町としたのです。現在,幅の広い寺町通りは,藩政時代の遺構です。寺町とその周辺には,16ヵ寺の寺院が集中。なお町名は諏訪神社にちなむとか。
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 交通 クルマは大光銀行新発田支店の駐車場に停めました
 大手町(おおてまち)/新発田市大手町1丁目
 三宜町/「月に宜し,雪に宜し,女には殊に宜し」から命名されたとか
 ●「下町」で垣間見る旧遊郭
 堅牢な雁木を設けた旧下町通りは,新潟方面に向かう重要な街道でした。「下町」は武家や潘お抱えの高級職人などが住む「上町」,「中町」の成立から少し遅れて成立しました。潘は「下町」に住居を希望する人に家屋の間数に応じて労働役を命じたとか。ユニークな手法。
 もうひとつの顔は,三宜町遊郭と重なります。戦前は妓楼19軒,娼妓90余人,戦後は貸座敷20軒,娼妓150人といわれています。地域としては御幸町1丁目とも重なります。通りを歩くと,料亭や妓楼と思わしき建築を多く見かけます。昭和34年の売防法施行で衰退しました。
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 交通 クルマは竹町パーキング(30分200円)に停めました
 御幸町(みゆきちょう)/新発田市御幸町1丁目
 白勢長屋/明治20年築。多くの市民団体が保存活動を行っています/もう一つ,白勢家の本当の建築目的は,娼妓用に貸し座敷を造ったのではなかったのか,と思うのですが……。今ひとつ建築目的がわからないのです。
 ●旧紺屋町の白勢長屋
 町名の由来は,明治天皇の行在所があったから。しかし江戸時代は四ノ町(しのちょう)と総称され,材木町,紺屋町,上定役町,築地通りの4町が新発田川の南に新町として発展しました。で,ココは旧紺屋町
 明治20年(1887),新発田市金塚の“千町歩地主”の白勢家が12軒長屋を建築。昭和の初めまで所有していました。現在は8軒で,5軒が現役です。それにしても,明治の建築で8軒長屋は圧巻です。部分的に改装されていますが,庇の深い,雪国らしい建物です。ただ建物を注意深く見ますと、貸座敷などに使われいたように思えます。
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 交通 クルマは竹町パーキング(30分200円)に停めました
 山内(やまうち)/新発田市山内
 
 ●トタン葺き古民家が多数
 江戸時代は新発田藩領で、会津街道の宿場町。同時にもう一つの役割が、警護でした。会津街道の藩の境界に位置する唯一の口留番所でもありました。新発田藩は意外に番所の少ない方で、この山内口留番所は代表例といえるでしょう。さらに番所の他にも山内御殿も建設されたのです。山内口留番所の歴史は古いのですが、往時は「桂の関」と呼ばれていました。
 旧街道を歩いていますと、トタン葺きの三角形の農家が幾つも見られます。また立派な長屋門や真壁造りの古民家な飽きることはありません。広い道幅も往時のままだそうです。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 赤谷(あかたに)/新発田市上赤谷
 
 ●真壁や出し桁などいろいろ
 江戸時代は会津藩領。集落内には赤谷街道(越後街道)が通り、新発田から会津へ向かう重要な道筋になり、宿場を形成しました。街道の両側には、松川屋、吉野屋、中村屋、小川屋などの旅籠が軒を並べたとか。
 明治に入ると鉱山開発が進み、旧藩士たちも加わり村は一気に発展します。搬出のための鉄道も敷かれました。それも昭和50年代に終焉を迎えます。
 いまは広い道路の両側に出し桁のある建物や白漆喰を生かした真壁造りなどいろいろ見られます。広い街道に違和感を覚えますが、明治に入っての鉱山開発のために拡張したのか。 
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 交通 クルマは道端に停めました
 新谷(あらや)/新発田市新谷
 
 ●トタンで覆った農家が点在
 『新編会津風土記』によればその昔、ここより6町(約650m)ほど東にあって、島村と称したようです。その頃の新発田街道(越後街道)も島村から鹿瀬(かのせ)の諸村へ出ていましたが、いつの頃からか今の街道となり、集落も移転し新谷村と名付けたとか。
 集落内に街道が通り小さな宿場町を形成。村高も200石前後とわずかで貧しい。農閑には炭焼きや物資の運搬などで稼いでいました。しかし明治になって鉱山開発が昭和30年代まで続きましたが、昭和37年に閉山し衰退。
 いま、茅葺きにトタンを覆った三角屋根の農家が残されています
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 交通 クルマは空き地に停めました
 蓮野(はすの)/聖籠町蓮野
 二宮家住宅/国の登録文化財。いまは年に1回バラ園を開放するときに邸宅を見物出来ます 
   
 ▲米蔵も国の登録文化財です  ▲二宮家関係の家屋が続きます
 ●超豪農二宮家の文化財
 蓮野を語るとき,新潟県でも屈指の豪農・二宮家を外せません。江戸時代中期から続く二宮家は,明治維新期には近郊の土地を買い集め,戦前は“千町歩地主”といわれました。農地解放でほとんど失いましたが,それでも広大な宅地や庭園,池などが残りました。多くの家屋,7つの蔵など大部分が文化財に指定されています。
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 交通 クルマはおもいやり駐車場に停めました
 弥彦(やひこ)/弥彦村弥彦
 弥彦・神社通り
 ●門前町と宿場町と古民家
 江戸時代は500石の神領で,幕府の手厚い保護を受けていました。北國街道浜通りの宿場町ですが,近郊近在から参拝客を集め門前町としても大いに賑わいました。旅館や土産物店などの古民家も多く,大通りや路地などを歩いていて楽しい町並みです。
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 交通 JR弥彦線弥彦駅から徒歩15分
 燕(つばめ)/燕市秋葉町
 一方通行の大通商店街の「秋葉町一」の交差点を直行すると,さらに大型の建物が続きます
 ●大型の切り妻型住宅群
 市内には幾つかの商店街がありますが,大通り商店街が見ものです。特に秋葉町1丁目交差点付近が大型の切り妻屋根のある建築物が見られます。また破風に工夫された建物もおもしろいです。いずれも現役で、実際に使われています。
 感動度★★
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 交通 クルマは道端の無料駐車場に停めました
 下町(しもまち)/燕市吉田下町
 下町
 大正12年(1920)築。鉄骨の床梁,外壁は焼過煉瓦(やきすれんが),窓回りは花崗岩で装飾。  明治25年(1892)ごろ応接として建設。“越後の鹿鳴館”と呼ばれる。レンガはフランス積み
 ▲旧今井銀行/国の登録文化財  ▲今井家西洋館/国の登録文化財
 ●国の登録文化財あり
 下町通りを歩いていますと,洋館が目に付きます。すなわち今井家の住宅なのです。吉田町(旧)を語る場合,今井家を外すことはできません。
 近江(現・滋賀県)の出身で,初め菅田姓を名乗り小国氏の会津移住後,吉田村に移りました。江戸時代初期の吉田は,藩の政治,経済の中心地で,長岡潘に対して“才覚金”を上納するまでに力を付けたそうです。その後,酪農,養蚕,洋食器,ラケットの製造,小売業,味噌,醤油など幅広く手がけ,戦後の困難な時期を乗り切ったとか。最近,多くの建築物が国の文化財に登録。
 感動度★★
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 交通 クルマは道端に停めました
 本町(ほんちょう)/三条市本町
 
   
▲歴史民俗産業資料館/国登録文化財  ▲つるがや店舗兼主屋/国登録文化財 
   
▲小松酒店店舗兼主屋/国登録文化財  ▲旧今井家住宅/国登録文化財 
 ●中心市街地にも切り妻型
 江戸時代は三条潘をはじめ多くの領主が幕末までめまぐるしく替わりました。それも,水運は信濃川・五十嵐川の河川港,陸運は北国街道・三国街道の枝宿でした。特に河川港は幕府指定の河渡しでもあることから,多くの物資の集散地となったのです。特に金物,足袋,染め物は特産品で,東北,関東一円に販売していました。一方陸運では三条宿から5宿への継立てが行われるなど、交易の中心地でした。
 本町は三条の中心市街地で,金融機関や商店などが軒を並べていました。雁木とともに切り妻型の家屋が並びますが,現代住宅と混在しています。
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 交通 クルマは三之町病院駐車場に停めました
本寺小路(ほんじこうじ)/三条市本町2丁目 
 
   
▲わずかに古民家も点在  ▲娼妓たちが手を会わせた稲荷社 
「東別院」前に広がった旧遊郭
 江戸時代中期、元禄16年(1703)に東本願寺別院が完成し、村上藩主・榊原家が門前に長さ118間、幅4間の道路を寄進しました。通りの呼び名もいくつか変わりましたが、京都・東本願寺がこの東別院を新潟県の本寺と呼び、いつしか本寺小路と呼ばれました。その後、裏館村田町の農民23軒が東別院前に集まり参拝者用に旅篭を建てて移り住みました。そして多くの人たちが集まるにつれ三条の中心地となったのです。旅篭屋はもちろん芸妓屋も乱立し、多くの娼妓が働いたといわれています。まさに「聖と俗は背中合わせ」を地でゆくような光景でした。
 いま路地から路地へ歩いて見ますと、妓楼、旅篭らしき建物が残されています。遊里でおなじみの小さな稲荷神社もあります。表通りの歓楽街とは違って、なにやら悲しげな表情を見せてくれます。 
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交通 JR弥彦線北三条駅から徒歩15分
 神明町(しんめいちょう)/三条市神明町
 
   
▲雁木のあるおなじみ商店街  ▲旧外山虎松商店/国登録文化財 
ちょっと寂しげな町並みです
 大通りを歩いていて、本町あたりは賑やかですが、西へ歩いているうちに徐々に通り自体が寂れてきます。それにしてもこれほどの差があると愕然とします。一歩裏手に入ると廃屋や空き家が続きます。もともと地元の守り神である神明社付近に町ができたことによるという。新潟県には神明町という町名が多数ありますが、いずれも神明社付近に起立したそうです。 
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交通 JR弥彦線北三条駅から徒歩20分 
 仲之町(なかのちょう)/三条市仲之町
 
   
▲菅田小路/横道に入ると古民家  ▲旧新光屋米店/国の登録文化財 
路地散歩もおもしろい
 神明町からさらに歩きますと仲之町に入ります。蔵の店舗を意識した店構えがあったりします。この町は、路地が至るところあって、それぞれ名前が明記されています。ちょっと横道にそれるのもいいかもしれません。地名の由来は、旧一ノ木戸から成立した林町と下町の中間に位置するところからとか。 
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交通 JR弥彦線北三条駅から徒歩25分
 庭月(にわづき)/三条市庭月
 
   
 ▲遠人村舎/国の登録文化財 ▲諸橋轍次生家/三条市指定文化財 
 ●世界的な漢学者の出身地
 江戸時代は旧庭月村で、村上藩領、後に安田藩領となり幕末を迎える。村高も80余石と五十嵐川沿いの小さな集落。なにより有名にしたのが、日本を代表する漢学者・諸橋轍次の出身地であることです。30余年を費やした『大漢和辞典』は世界的偉業。
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 交通 クルマは道の駅「漢学の里しただ」に停めました
 見附(みつけ)/見附市本町
 見附の町並み
 偽洋風建築  雁木のある町並み
 ▲看板建築もかなり残る  ▲切り妻型もアルミサッシで改造
 ●切り妻型住宅が多い
 平安時代は,一部が東大寺の荘園,戦国時代は上杉氏の所領,さらに江戸時代は県内の各藩領と変遷を繰り返しました。一方、なんといっても足利や結城から織物の技術を導入したため,織物産業が発展。紆余曲折はあるものの,農業と共に今でも中核産業といえます。
 本町は,町の中心地で明治初期は見附本町と呼ばれていました。いま中心を外れた1丁目,3丁目には,切り妻型下見板張りの町家がたくさん残っています。また裏道に入りますと白壁や土蔵も見られます。
 町名は町を刈谷田川が貫流することで「水漬け」の転訛説
 感動度★★
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 交通 クルマは大光銀行見附支店駐車場に停めました
 谷内(やち)/長岡市谷内
 
 ●切り妻と雁木のある商店街
 旧栃尾市の中心地。昔のガイドブックには,繁華街と明記されています。河川が多く水運に恵まれています。谷内とは湿地の多かった所を意味するとか。おなじみの切り妻型の町家と雁木の組合せが北国らしい風情を感じさせます。
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 交通 クルマはスーパーしまむらの駐車場に停めました
 摂田屋(せったや)/長岡市摂田屋
 摂田屋の町並み・長谷川酒造
 星野本店/醤油,味噌の醸造を手がけています。江戸時代末期の建築が残る  越のむらさき/醤油の製造(国の登録文化財)
 ▲星野本店/大正末期の建築  ▲越のむらさき/天保3年の建築
 鏝絵の技法を使った土蔵(国の登録文化財)  
 ▲機那サフラン酒/鏝絵の土蔵  ▲光福寺/長岡本陣があった
 ●酒,醤油,味噌の三業種
 霊場巡りの信者を接待した世帯場,田に接する集落から名付けられた説があります。江戸時代は幕府領で,金峰神社奉納用に酒の醸造が盛んになりました。町を歩くと酒,味噌,醤油が交代で匂います。登録文化財が多数あります。
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 交通 クルマは道端に停めました
 与板(よいた)/長岡市与板町与板
 与板の中心街。平日昼間の12時半ごろの光景です。寂しい町でした
 ●NHK大河ドラマ『天地人』
 切り妻型妻入り住宅がズラリと並ぶ町並みです。丈夫な鉄製の雁木も整備されています。江戸時代は与板潘の城下町で,陣屋跡が残されています。肥沃な土地と黒川の灌漑で,良質な米が獲れたところでもあります。同時に信濃川の河川港としても発展しました。そのため大坂への米の移出,新潟,長岡への物資の集積地として多くの豪商が誕生しました。
 NHK大河ドラマ『天地人』の舞台で,一時期大変な賑わいを見せていました。しかしいま歩いていても,シヤッター街と化し、かつての賑やかさは見られないのが残念です。
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 交通 クルマは道端に停めました
 和島(わしま)/長岡市島崎
 はちすば通り
 隆泉寺  
 ▲隆泉寺/良寛の墓や銅像が立つ  ▲木村家/良寛が晩年を過ごした
 ●はちすば通りの古民家群
 島崎は旧和島村の中心地で,島崎川の舟運の物資集散地でもありました。大きな寺院や学校,美術館などが集まっています。長岡市と合併後は,このあたりも含めて一般に和島と呼ばれ,良寛の里と言われます。江戸時代の旧和島村には、なんと27か村もの集落がありました。
 良寛を仏道や歌の師として仰ぎ接した貞心尼は,数年後良寛の最期をみとりました。その後貞心尼は良寛との交流を『はちすの露』にまとめました。
 「はちすば通り」は,蓮の葉の上で揺れる朝露のきらめきを2人の交流に例えたのが,小路名のいわれです。
 感動度★★
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 交通 クルマは良寛維宝堂駐車場に停めました
 山田(やまだ)/長岡市寺泊山田
 山田
 ●板張りの民家が並ぶ
 出雲崎宿と寺泊宿の中間にあり,高札場が設けられました。また巡見使のための茶屋や屋敷もあったが元禄年間に焼失したそうです。いま海岸ではどこでも見られる切り妻型の下見板張りが並んでいます。
 感動度★
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 交通 クルマは山田海岸磯浜広場駐車場に停めました
 野積(のづみ)/長岡市寺泊野積
 野積の町並み
 ●板張りの家屋が並ぶ
 平安時代に西生寺門前の約300軒が,家ごとに酒造りを行ない野積酒といわれ,越後一の銘酒といわれていました。また杜氏としての出稼ぎも盛ん。江戸時代は近辺に銅が産出,町は大いに賑わったとか。いまは下見板張りの家屋が見られます。
 感動度★
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 交通 クルマは道端に停めました
 松代(まつだい)/十日町市松代
 松代の町並み
 ●板壁や真壁などの古民家
 古くは松平と称し、慶長15年松平忠輝による越後支配のとき、松代に改称した説がある。 松代は松之山郷に含まれますが,北組に属し高田藩領の時代には,松之山郷を支配する陣屋が置かれていました。というのも,柏崎街道と松之山街道の分岐点で交通の要衝。長く続いた六斎市もいったん中止になりましたが,その後も絶えず市が開かれました。特に青苧(あおそ/繊維となる原料)で織った越後縮布は江戸でも珍重され,多くの人が集まりました
 いま板壁や真壁造りなどの大型の古民家が,街道沿いに残されており,冬は雪国にふさわしい光景を見せてくれます。
 感動度★★
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 交通 クルマは松代公民館駐車場に停めました
 室島(むろじま)/十日町市室島乙
 室島集落
 ●茅葺き,トタン屋根の農村
 信濃川支流の渋海川沿いの農村集落です。江戸時代は高田藩,幕府領と支配が変遷。そのため,これといった産業の発展は見られませんでした。やはり交通の不便さ,すなわち北國街道,三国街道の脇往還に出るにも時間がかかるからか。
 一方,古代から歴史ある集落で,「ミタザワ」と呼ばれていました。修験密教の名残がある村でしたが「ミタザワ」が関係していると郷土史家は分析。
 緩やかな坂道を歩きながら,茅葺き屋根やトタン屋根のある農家を幾つも見つけました。過疎地帯で,人に会うことはありませんが,穏やかな集落です。 
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 交通 クルマは空き地に停めました
 上野(うえの)/十日町市上野甲
 上野甲の集落
 ●大型の古民家が多数
 江戸時代から新田開発が盛んで、しかも良質の米がとれ,また馬市,千手市が開かれました。近郊近在から多くの人々を集めるなどの中心地。道幅の広さは,往時の賑やかさを彷彿させます。古民家も大型で,切り妻の真壁造りが印象的。
 感動度★
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 交通 クルマは空き地に停めました
 小白倉(こじらくら)/十日町市小白倉
 小白倉-1
 ●のどかな農村地帯
 豪雪地帯にある農村です。谷底の狭い土地に,トタンの大屋根のある農家が目に付きます。茅葺き屋根は、わずかです。周囲は棚田があり,のどかな感じです。この日は祭りにあたり,大勢の外国人の研修にも利用されていました。
 感動度★★
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 交通 クルマは道端に停めました
 塩沢(しおざわ)/南魚沼市塩沢
 三国街道塩沢宿
 ●23年度都市景観賞受賞
 夏の平日夕方6時ごろの光景。食堂を探したのですが,見あたりませんでした。せっかく町並みを改造したのに,人を見かけず本当に静かでした。
 江戸時代,寛永12年(1635)に幕府より三国街道が諸大名や佐渡奉行の通路に指定されました。本陣,脇本陣,問屋,旅籠などが整備され,宿場町,交易の町として大きく発展。六斎市が開かれ,白布や越後縮は魚沼特産として京,大坂,江戸に出荷。酒造業も繁栄。
 平成23年(2011)度の都市景観大賞を受賞しました。今はピカピカの町並みですが,10年後には風格が出る?
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光客用の無料駐車場に停めました
 相川(あいかわ)/佐渡市相川町
 相川-1
 ●高台にある武家文化
 相川は金鉱開発とともに発展した町です。高台には一般住宅があり,なかでもかつての繁華街でもあった京町通り,西坂や長坂もすてきな所です。また時鐘楼とそれに続くレンガ塀が知られています。坂道がちょっときついです。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 両津港からバス相川下車15分
 二見(ふたみ)/佐渡市相川町二見
 二見
 ●金の積み出し港で賑わう
 南北朝時代「蓋見」(ふたみ)といわれた時期もあったようです。江戸時代はもちろん幕府領。相川で発掘された金を運び出す港でもありました。かつては大変な賑わいを見せていたそうです。もちろん商家や旅籠も多かったのですが,地元の人が旧遊郭(写真)だよ,と教えてくれました。
 建て物は平入の2階屋が続きます。簡素な造りですが,二見本村から二見新町まで約1qほど続きますが,見所はバス停の二見(北)付近です。また町を全体を見渡すには,バス停前の二見神社へ向かう山道の途中から見ることができます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 相川バスターミナルからバスで二見下車
 両津(りょうつ)/佐渡市両津
 両津-1
   
 ▲トキの野生保護ステーション(新穂)  ▲ラーメン(500円・海産そば処)
 ●いくつかの風情ある商家
 文字通り佐渡の表玄関の役割を果たしています。到着した地点は戦国時代,加茂湖と両津湾を境にする礫州上にできた街並みです。
 幕府の政策で,島内の生産された各物産が他国への移出解禁となり,多くの物資が港から全国各地へ積み出されることになって発展したのです。
 のんびりと歩いていますと,商家や廻船問屋などがいくつか残っています。また漁師町「湊」周辺には,軒先で魚を並べている店もあったりで,両津は歩くにもいい町です。地名の由来は夷(えびす)、湊(みなと)の両方の港(津)を合わせた事にちなむ。 
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 両津港から徒歩10分
 畑野(はたの)/佐渡市畑野
 畑野
 ●裏道に土蔵が少し残る
 真野新町と両津を結ぶ県道から一歩裏手の本光寺脇から入る旧街道沿いにあります。土蔵などが少々と垣根が目に付きます。
 江戸時代は幕府直轄地で,赤泊港へ向かう途中の集落でもありました。また寺社の多いところで,江戸期は寺院が47カ所,神社が21カ所もありましたが,そのほとんどが明治政府による廃仏毀釈によって廃寺となりました。佐渡は農民一揆の多いところで,特に畑野は多く,多くの農民が罪人となったのも特徴。
 明治に入って、寺田、安国寺、畑方、畑本郷、河内の5か村が合併して畑野村を成立。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは本光寺の駐車場に停めました
 真野(まの)/佐渡市真野新町
 350号線の真野新町
 ●二つの街道分岐の追分宿
 真野は両津に次ぐ町でもあります。小木街道が相川と小木港を結んでいますが,新町はその宿場町でした。さらにここから赤泊港へ向かう梨木街道もココで分岐します。
 新町でひときわ目立つのが森医院の洋館(写真の左端)です。国の登録文化財になっており,設計者は加糖新右衛門です。味噌蔵が明治初期,母屋が明治42年建築で,他は大正から昭和初期にかけて建てられました。なお毎年10月に茶会(800円〜)を国分寺本堂と共に森医院本座敷で催されています。
 ところで地名の由来は、近江国の豪族真野氏、また真野郷にちなむという説があります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは真野商工会館駐車場に停めました
 豊田(とよた)/佐渡市豊田
 西三川
 ●旧マルゴ味噌蔵が残る
  旧小木街道が台地上を通っていますが,少し離れた海岸付近に,木造の旧マルゴ味噌蔵が今も残されています。中をのぞいて見ますと、今はがらくたばかりの倉庫のようです。その向かいにある倉庫の一部を使って「えんや」というショップ兼情報センターとして利用。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは裏道に停めました
 小木(おぎ)/佐渡市小木町
 小木
 ●木造2階建ての出桁造り
 佐渡の町々は金山の影響を受けていますが,小木も金山のある相川から海路や陸路で運ばれてきた金を積み出す役目を持っていました。陸路は小木街道を利用して,小木港に運ばれてきた金を対岸の幕府領であった出雲崎まで船で運ぶのです。また松前(北海道)と上方など諸国を結ぶ航路の風待ち港として発展しました。天保12年(1841)の幕末期には家屋92軒,530人の規模でした。
 建物は県道沿いに並び,木造2階家が多く,港町らしく出桁造りが多いの特徴です。歩いていますと、繁栄した町にふさわしい妓楼らしき面影も見られます。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは港の公園横に停めました
 宿根木(しゅくねぎ)/佐渡市小木町宿根木
 宿根木
 宿根木  宿根木
 ▲水路が集落を縦断しています   ▲宿根木を象徴する建物です
 ●初めて見た奇妙な集落
 バスを降りると駐車場があり,その奥に板塀が張り巡らせてあり,その横の隙間から入るような感じでした。中に入ると,今まで見たことのないような光景が広がります。窓は小さく,庭や門がありません.塀もなくただ焦げ茶色の板で外壁を造り,四角形の木箱のような感じがします。窓が小さいだけに,排他的で外敵に備えているような感じさえするのです。
 それにしても変わった集落です。集落の中央に小さな川が流れ,かつてここが洗い場で社交場でもあったのです。
 地名の由来は鎌倉時代、宿禰宜と呼ばれる神職・高貴な人が泊まったという説あり。
 感動度★★★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 小木港からバス宿根木下車
 筒石(つついし)/糸魚川市大字筒石
 筒石
 ●超過密の漁師町
 すぐそこまで山が迫るわずかな土地に密集する漁村です。すなわち北国街道の街村。木造平入の2階建て,3階建てがギッシリ詰まっています。また玄関脇に流しがあって,外から使うようになっています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは国道8号線沿いに停めました。
 小泊(こどまり)/糸魚川市能生小泊
 小泊2区の迷路
 ●漁師町特有の迷路
 泊は港の意味を持ち,能生の外港の役割を果たしています。隣の名立地区にも小泊があって,区別する意味から能生小泊としたのです。集落は1区から6区に分かれ,国道8号線と県道の間の傾斜地に密集しています。漁師町特有の細い路地の迷路から形成しており,歩いているとエアコンの外機はすべて頭上高くに設置していることに気がつきます。道が狭いため、通行の邪魔にならないようにするためです。
 板壁はほとんど下見板貼りで,細い棒で押さえる押縁下見です。海の香りのするなつかしさを覚える漁師町です。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは空き地に停めました
 能生(のう)/糸魚川市能生
 
 入母屋造り  昭和55年にここへ移築しました。
 ▲白山神社本殿/国の重要文化財  ▲歴史民俗資料館/中門造りの農家
 ●宿場町と港町で繁栄
 江戸時代は高田藩領,幕府領,糸魚川潘領とめまぐるしく変わりましたが,この地の重要性は変わりません。北陸道の宿場町で,能生川の出口にあたり,川沿いの農産物の集積地でもありました。さらに室町時代から軍事上の要地でもあります
 集落の発展したもう一つの理由は,沿岸漁業の発展でした。正徳2年(1712)に,地引き網業も始まり,回船問屋も生まれました。さらに5・10の付く日に六斎市が開かれました。
 いま旧街道を歩いていますと,土蔵や格子のある商家などが見られ,往時の繁栄ぶりを感じ取れます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは市営宮の上駐車場に停めました
 新町(あらまち)/糸魚川市新町
 新町の町並み
 ●2階家が続く昭和の町
 江戸時代は旧新町村。水害,大火,疫病と相次ぎ,一時は悲運の町とも言われたとか。明治の製糸業も長く続きませんでしたが,製材業や建築請負業が盛んになりました。また芝居小屋,料理店などもでき町は繁栄。2階家の意匠が美しい。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 本町(ほんちょう)/糸魚川市本町
 旧加賀街道沿いの雁木通り
 ●雁木と古民家の町
 横町から大町にかけて東西を直線的に旧加賀街道が通っています。そのなかで本町商店街の雁木が,昔ながらの姿で保存。そこで町並み景観の修復を約20年前から行われました。和風アーケードに切石の石畳みが敷かれ,木の暖かみを表した雁木を生かした商店街。さらに絵馬型の看板や口上書,石像八福神などのアイデアも加えたのです。本町は市の中心地で,金融機関や各種商店,北側には料亭なども集まっています。古民家も数多く残されています。平成18年に金沢大学都市・地域計画研究室の提言を元に“昔と今”の融合した町づくりの結果といえます。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは糸魚川信用組合本町支店に停めました
 山寺(やまでら)/糸魚川市山寺
 
 ●地名は12ヵ寺が由来
 金蔵院,千手院ら12ヵ寺から山寺と名付けられたようです。江戸時代,大火で消滅後,明治から復興,特に千手院と金蔵院は仲が悪かったようで,なにかにつけて争ったと記録されています。歩いていますと,トタン葺きの古民家が少し見られます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマはおててこ会館駐車場に停めました
 別所(べっしょ)/糸魚川市別所
 別所集落/塩の道
 塩の博物館(隣の山口集落にあります)/運搬具なのどの民具706点が,国の有形文化財に指定されました。  
 ▲塩の道資料館/706点が国文化財 ▲旧茅葺き屋根の大型古民家
 ●「塩の道」沿いの集落
 中世は善光寺参りで賑わい、江戸時代の運搬記録によると,糸魚川から信州へ塩や海産物を送る量が圧倒的に多かったとか。いまカヤ葺き屋根もトタンに替わり,わずかに古民家が残る程度です。ただしこのあたりの塩の道の保存状態は良好とか。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 出雲崎(いずもざき)/出雲崎町住吉町
 出雲崎
 ●三角屋根の切妻型住宅群
 江戸時代,上杉家が会津移封,その後掘秀治が新領主となります。同時に佐渡への港としての機能を充実。金の陸揚げ港となり,さらに宿場町でもあり,大きく発展しました。
 漁師町特有の三角屋根のいわゆる切妻型住宅が続きます。間口が狭く、奥行きのある長屋風の民家です。この住宅群の光景が圧巻で,新潟県が「景観形成推進地区」に指定。
 もともと北前船の寄港地として栄えた町で,上方の文化の影響も。一般には良寛さん生誕の地として知られています。
 地名の由来は、出雲の大国主命(おおくにのみこと)が来臨した故事にちなむそうです。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは隣接する「道の駅」に停めました
 久田(くった)/出雲崎町久田
 久田集落
 ●茅葺き屋根がポツンと1軒
 日本海岸の砂丘地の上にある集落。かつては九田ともいいました。もう少し山寄に山城跡が見られます。戦国時代,上杉房能の重臣・山田豊後守が5年間居城したそうです。江戸時代は久田村,領主が絶えず替わりましたが,天保年間は家数28と小さな村でした。水田もわずかで,漁業が主な産業。
 丘陵地帯に広がる細長い町並みです。意外に急坂があったりします。茅葺き屋根も残りますが,この地方でおなじみの切り妻型の下見板貼りの家屋が,圧倒的に多く見られます。
 ところで地名の由来は宇奈具志神社の給田(きゅうでん)が、九田、久田と転訛したとか。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 石地(いしじ)/柏崎市西山町石地
 石地の集落
 ●北陸街道沿いに長屋門
 石地川の流域に広がる小さな集落ですが,江戸時代に北陸街道の宿場町としての形ができつつありました。元禄年間に商家70軒,馬持ち50軒とありますが,漁師が50軒で船数が73で,漁業も盛んだったようです。
 しかし何より石地を有名にしたのは,日本の石油王と呼ばれた日本石油(株)初代社長・内藤久寛の邸宅・久寛荘(きゅうかんそう)の存在。祖先は上杉家に仕える郷士で,上杉の会津移封でも石地に住み着いていました。代々の大庄屋で,地域に一定の勢力を持っていました。歩いていても、内藤家の邸宅は圧巻で、道路に面した長屋門は市の文化財に指定。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは久寛荘駐車場に停めました
 椎谷(しいや)/柏崎市椎谷
 椎谷の町並み
 ●まとまっている古民家群
 江戸時代は椎谷潘という1万石の小大名でした。以後,幕末まで13代にわたって統治したのです。一時期,悪政により領民の反乱もありましたが,いわば小藩ながら安定していたといえます。ただ戊辰戦争で政府軍に付いたため,幕府軍の放火により,陣屋,役所,武家屋敷,民家などが焼失。そのため歴史的建造物は少ない。
 潮風の強い日本海のどこでも見られる,切り妻で下見板張りの家屋が,まとまって残っています。窓などはアルミサッシに改造されています。実は現地の人に「椎谷がおもしろい町だよ」と教えてもらった結果です
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 宮川(みやがわ)/柏崎市宮川
 宮川の風除け
 ●風,砂除けの板塀
 昭和32年の大火,新潟大地震での家屋の倒壊などで,古民家はほとんど無くなりましたが,それでも街道沿いや裏道にわずかに見られます。また砂丘沿いの集落なので,防砂,防風除けの板塀が目に付き、日本海の町並みを象徴しています。
 感動度★
 もう一度いきたい度
 交通 クルマは空き地に停めました
 荻ノ島(おぎのしま)/柏崎市高柳町荻ノ島
 荻ノ島環状集落
 荻ノ島  
 ▲補修中の茅葺き農家も見られる  ▲改修後の農家や民宿も建ち並ぶ
 ●茅葺きの環状集落
 2度目の訪問ですが、山間部の狭い道路を抜けると、突然茅葺き屋根の集落が広がるのですから驚きます。茅葺きの農家が水田を囲んで,環状に点在するところから「荻ノ島」と呼ばれ,全国的にも珍しい集落となったのです。
 以前,雪解けの日に訪ねたときよりも,一段と美しい景観を見せてくれました。ただ過疎化はさらに進んでいるのも事実。歩いていても,住人と出会うこともありませんでした。いまは茅葺き農家の民宿などもあり、アマチュア写真家,日曜画家の利用も多いとか。地名は、沖、上ノ島の小字があり、それらの総称に由来するとか。
 感動度★★★★
 もう一度行きたい度★★★★
 交通 クルマは集落センター駐車場に停めました
 門出(かどいで)/柏崎市高柳町門出
 門出集落
 ●のどかな山村が広がる
 茅葺きの農家が集まっていると聞いたのですが,ほとんどトタン屋根に替わっていました。小さな集落ですが,江戸時代は和紙(伊沢紙)や縮織り(紺の弁慶縞)。また明治に入って養蚕が盛んになりました。いま茅葺きの宿が2軒で,その周囲の山里をのんびりと歩けます。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは観光客用無料駐車場に停めました
 直江津(なおえつ)/上越市西本町
 直江津の町並み
 ●2階を歩道の上までせり出す
 江戸時代から船運,陸運の要衝でした。明治に入ってから,大火が相次ぎ,市内に古い建物があまり残っていませんが,街道沿いには雁木のある古民家が見られます。比較的新しい家は,歩道を確保しながら,2階部分を道路までせり出しています。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR信越本線直江津駅から徒歩7分
 長者島(ちょうじゃしま)/上越市大島区大平
 
 ●消えつつある茅葺き屋根
 旧大島村小平地区の小字にあたります。松之山街道沿いの小さな集落で,保倉川沿いの絶壁の多い難所続き。しかし安政年間の大改修で,やっと安心して通れたとか。茅葺き屋根もトタンに替わる。古民家も多い。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 田麦(たむぎ)/上越市大島区田麦
 田麦集落
 ●トタン葺きの三角屋根群
 旧大島村は交通の不便なところ。戦後の昭和28年になってバスの運行が始まりました。それより先,電灯がついたのは大正12年のこと。当時の人口は600余人。開発の波から取り残されたことから,茅葺き屋根も長く残ったのでしょうか。いまは,ほとんどの屋根はトタン葺きに改装されています。それでも大きな三角屋根はあちこちに見られ,往時の面影を彷彿。
 一般の観光客のほかに,写真撮影や絵を描いたりする人も多いようです。なぜか日本の原風景を見る思いです。
 地名は田麦川の源流部に発達したことによるそうです。
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 寺町(てらまち)/上越市寺町
 
 木造の善導大師立像は市の文化財  この地方唯一の時宗。時宗第6代を継いだ一鎮上人像は国の指定文化財
 ▲善導寺/市指定の木造立像あり  ▲称念寺/国指定の文化財あり
 山門は市の指定文化財です  太子が16才の頃の像です。市の指定文化財
 ▲天崇寺/山門は延宝2年建立  ▲常敬寺/木造正徳太子立像あり
   
 ▲浄興寺/本堂は国の重要文化財  ▲来迎寺(右)/浄土宗で阿弥陀如来
 ●63ヵ寺が集まる寺院群
 高田城は,慶長19年(1614)徳川家康の六男松平忠輝の居城として築かれました。築城に伴い城下の整備を併せて進められ,偽明川の西側に寺院を集中させたのです。これが寺町の始まりといわれています。
 現在の寺院の配置は,その後の寛文5年(1665)の地震で罹災後の復興によるものとか。今でも63ヵ寺もの寺院が残り,全国的にも大規模な寺院群を形成しています。
 寺院は2列に連なり,大部分が高田城に向いています。また約6割が浄土真宗系です。
 地名の由来は、大寺の門前町とか寺領であったためとか。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★
 交通 JR信越本線高田駅から徒歩10分
東本町(ひがしほんちょう)/上越市東本町3丁目
 東本町のL字型の道も城下町の名残り
 ●最も美しい雁木通り
 江戸時代から職人の町として知られています。いまは商店な一般住宅など混在。L字型の道は,城下町の名残です。
 市内に約16kmの雁木通りがありますが,最も美しい整然とした街並みを形成しています。早朝のため人影はありません。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 JR信越本線高田駅から徒歩25分
 本町(ほんちょう)/上越市本町6丁目
 本町通り(高田小町)
 本町  
▲早朝はとても静かな「雁木通り」も市内に約16km続く ▲近代住宅風に改築した古民家も多数見られます
 ●昔は下小町,今は高田小町
 旧高田の町を南北に縦断するのが本町通りです。大型の商店や銀行などが集中する経済の中心地です。本町通りは,かつて小町三町と呼ばれ,上小町,中小町,下小町に分かれていました。そして潘から商売上の特権を与えられており,特に信濃との取引で大変栄えていたのです。現在の本町6丁目は「下小町」にあたり,旅籠屋営業の特権を与えられ,江戸時代末期には約30軒もの旅籠屋が営業していました。
 現在は「高田小町」と命名して,商家を修築し一般開放しています。この日は早朝のため各店舗も閉まっていたのが残念
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★★
 交通 JR信越本線高田駅から徒歩13分
 仲町(なかまち)/上越市仲町
 
 魚の卸業からスタートし,江戸時代は仕出し屋を営む。明治に入って料亭になったようです。  
 ▲料亭・宇喜世(うきよ)は江戸時代末期の創業で国の登録文化財 
 ●旧料亭,料理屋街
 歩道に張り出した大きな庇(ひさし)は雪国特有の造りで「雁木」(がんぎ)と呼びます。庇の下は私有地で、各商店が、通行人のために雪や雨避けに造ったとか。仲町は,市内でも飲食店などが集中しています 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR信越本線高田駅から徒歩10分
 下関(しもせき)/関川村下関
 越後下関
 ●4棟いずれも文化財
 新発田から米沢に向かう米沢街道沿いの宿場町です。鎌倉時代,長峰山麓に関が設けられ,この関の下手にあるので関下と呼ばれ,転じて下関になったようです。
 関川村役場の正面に、文化財が4棟連なっています。うち2軒が茅葺きの豪農で、いずれも開放されています。また、行政による手入れがきちんとされているので、保存状態がとてもいい。佐藤邸(国の重要文化財)と津野邸(県の文化財)は非公開です。しかし近くの渡邊邸(国の重用文化財)、東桂苑(村の文化財)が公開されています。いずれも役場近くに集中。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 役場に無料駐車場があります。
 中条(なかじょう)/胎内市東本町
 旧中城町/熊野若宮神社は県の文化財で,その横の疎水(中条川の支流)沿いの町に趣があります。
 ●蔵を改造した古民家多数
 旧中城町です。羽州街道の宿場町でもありますが,北前船の廻船基地として早くから上方,江戸,蝦夷地と交易がありました。そのため物資の移出入の拠点の廻船問屋が林立。また新発田潘と村上潘との中間に位置したため市が発達し、大変な賑わいを見せました。いま蔵造りの町家が残っています。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは熊野若宮神社境内に停めました
 片町(かたまち)/村上市片町
 
 ●1階の大部分が駐車場
 出羽街道沿いの集落です。江戸時代、宝暦元年(1751)、片町は上・下片町に分かれましたが、後に下片町は元の片町に戻りました。歩いていますと、雪国の町屋が続く、ごく平凡な町並み風景ですが、1階の大部分が駐車場になっているのが土地事情か。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで片町下車徒歩3分
 加賀町(かがまち)/村上市加賀町
 
 ●村上の町屋ゾーンです
 『村上雑記』によれば、寛文初年(1661)以前にできたと推定。三面(みおもて)川の筏場に近く、日雇い、木挽(こびき)、大工が多く住んでいました。江戸中期、宝永2年(1705))では、家数30、竃(かまど)数80。いまは村上を代表する町屋ゾーンになっています。
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで加賀町下車徒歩3分
  塩町(しおまち)/村上市塩町
 
 ●“地浜塩”の専売権を持つ町
 寛永末年(1644頃)、元々後免町でしたが、そこへ本塩町の者も移されて万治元年(1658)、塩町となりました。町名は小町の持つ地浜塩の専売権を受けたことに由来するとか。いま歩いていますと、旧商家らしい大型家屋の町屋が見られます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで塩町下車すぐ
 肴町(さかなまち)/村上市肴町
 
 ●魚の専売権を与えられた町
 慶長年間にすでに肴町はありました。その後長岡町や馬喰町も合併して町は飛躍的に大きくなります。通りを西に行きますと、瀬波街道に続き、藩主が城下に入るときの入口にあたたります。地名は魚の専売権を与えられたことに由来するそうです。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで鍛冶町下車5分
 庄内町(しょうないまち)/村上市庄内町
 
   
▲曲がりが3つある町並みで、端が枡形  ▲旧嵩岡家住宅/市の有形文化財
 ●城下町・町屋が続きます
 典型的な町屋スタイルが続く町並みでした。ほとんどが2階建てで2階の開口部が広い。改築、改装されていますが、高い建物もなく城下町らしい落ち着いた感じです。このまま歩くと文化財の集まる専念寺小路へ続きます。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで村上小町郵便局前下車徒歩10分
 久保多町(くぼたまち)/村上市久保多町
 
 ●上方風の町屋が多い
 『越後村上城図』には窪田町と記されているので、元和末年〜寛永初年(1624)の起立と推定。はじめは久保田町でしたが、元禄、享保期に大火が続き久保田町に改名。でも大火は続きます。庄内町から続く町並みですが、上方風の商家や町屋が多い。 
  感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなみ循環バスで秋葉神社前下車徒歩5分
 大町(おおまち)/村上市大町
 
 ●江戸期は造り酒屋の町
 小町、上町(かんまち)とともに城下で最も早く開けた町。町名の由来は、城下の中心的な繁華の意を込めたとか。寛永12年(1635)には家数は35。寛文5年(1665)には11軒の酒造家がいて、合計4740石も生産していました。古民家は通りに点在。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで大町下車、徒歩1分
 小町(こまち)/村上市小町
 
   
 ▲宿・久左衛門跡/芭蕉宿泊地跡   ▲町家が中心の町並みです
 ●明治5年大火以降の建物
 大町とともに城下で最も古い町。家数は小町が34軒、下小町13軒など。酒造業が6軒で、933石生産していました。明治5年の大火で町の半分を焼失。いま残っている建物は、それ以降のものです。
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで小町下車、徒歩1分
 安善小路(あんぜんこうじ)/村上市小町
 村上
 ●黒塀通り・1枚1000円運動
 出羽街道、三国街道、北国街道の交わるところで、なおかつ北前船寄港地でもありました。そのせいか、武家屋敷、商家、民家、寺院などあらゆる人たちが住んでいました。そのためたくさんの歴史的建造物が残されています。1998年から市民たちが集まって、「黒塀1枚1000円運動」を行なっています。ブロック塀を黒い塀で囲むことで、しっとりとした落ち着いた町並みにしょう、という市民運動。最近では観光客にも呼びかけ、名前を刻んで打ち付けるようにしています。
 なお、鮭が遡上する三面川もあり、市内各地に鮭の加工場のあるのが特長です。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは村上市役所の駐車場に停めました
 寺町(てらまち)/村上市寺町
 
   
 ▲浄念寺/本堂が国の重要文化財   ▲経王寺/通称“寺町の大寺”
   
 ▲料亭街/「食の小京都」とか  ▲料亭・吉源/江戸後期の創業
 ●寺院群と料亭街が隣合わせ
 城下町拡張の際、藩主が戦略上この地に寺を集めました。当時は27ヶ寺もあったとか。特に浄念寺の本堂は土蔵造りで重文。芭蕉の訪れた寺でもあります。歩いていますと、寺院群と料亭街が並んでいいます。まさに昔の“聖と俗”の隣り合わせか?
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通
 JR村上駅からまちなか循環バスで安良町下車徒歩3分
 細工町(さいくまち)/村上市細工町
 
   
 ▲旧御殿医屋敷(現・野口家住宅) ▲窓の意匠がシンプルで美しい 
 ●改築、改装でも美しい
 元もと上町の西側の裏手にあった加治屋町が元になっています。その後村上氏は加賀国・小松の細工町から本蓮寺を移しますが、地名もそのまま流用。慶安年間ごろの改名と推定されます。サッシなどで改装されていますが、板張の壁や塀が美しい。
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 JR村上駅からまちなか循環バスで上町下車徒歩3分
 
  大工町(だいくまち)/村上市大工町
 
 ●雪囲いを意識した町家
 大工職が多く住んでいました。寛永12年(1635)では19軒中、大工・桶屋は15軒で、諸役が免除。しかし文化9年(1812)の大火で被災。元治元年(1864)には大工18、桶屋10と増えています。いま歩きますと雪囲いを意識した典型的な町家風景が見られます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通
 JR村上駅からまちなか循環バスで安良町下車徒歩3分
 三之町(さんのちょう)/村上市三之町
 
   
▲裏手には竹垣塀の民家もある   ▲若林家住宅/国の重要文化財
 ●武家屋敷のある静かな町
 江戸時代、三ノ丸や御蔵屋敷があったことから、さらに旧藩士の居住地が独立したのが地名の由来。当時戸数138、人口651人というから、多くの武士たちが居住。町場と違って、資料館などもあって、いまはとても静かな町並みを見せています。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通
 JR村上駅からまちなか循環バスで村上小学校前下車徒歩2分
 海老江(えびえ)/村上市海老江 
 
   
 ▲道幅は江戸時代のまま変わっていないそうです  ▲狭い道(路地?)も村内を縦横に走ります
 ●板の美に感動“板壁の町”
 集落の端にある廃寺にクルマを停め、道を一歩、一歩と進むと、一瞬別世界のような気がしました。つまり板壁、板塀の家屋がギッシリとつながっているのです。それも下見板張り、羽目板張り、押縁下見などが板壁の百科事典のようです。また白壁と梁、柱を利用した幾何学的な美しさを見せる真壁造りも見られます。なぜか板張の美に感動。
  正徳2年(1712)に館林藩領になったとき陣屋を設置。同時に単なる船着き場から湊に昇格し、年貢米の移出港になりました。村は発展しましたが、近隣の村々とのいさかいは絶えなかったようです。
 感動度★★★
 もう一度行きたい度★★★
 交通 クルマは本法寺(廃寺?)の境内に停めました
 平林(ひらばやし)/村上市平林
 
 ●出羽街道沿いの街村
 江戸時代は当初村上藩領、その後幕府領と村上藩領の交互の支配となりました。又会津藩領の時代もありました。家康は関ヶ原合戦が集結したあと宿駅制度を設けましたが、出羽街道も、元和年間(1615-24)に宿駅を設置。しかし平林は村高が100石前後と少ないため、諸役が免除されたとか。また平林城があったのですが、上杉家の会津移封に伴い廃城。
 地元の区長さんは「昔は銀行もあって活気があったけどねえ……」と昔を懐かしまれます。古民家もわずかに残っていますが、7mの道幅は昔のままだそうです。
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 上山田(かみやまだ)/村上市上山田
 
土壁の蔵がたくさん見られます
 県道397号線を進んでいくと、土壁を主体にした蔵が見られます。なんとなくうれしくなってしまう光景です。江戸時代は村上藩、幕府領と変わりますが、再度村上藩にもどり幕末を迎えます。戦国時代は「入山田」と称していました。また元屋敷や寺屋敷という小字がありました。豪農の屋敷や寺(尼寺)があったものと推定されます。地名の由来は下山田に対して上山田としたものです。村高は150石前後と小村ですが、周りは山ばかりの山村。そんななか、県道からそれて旧道に入りますと、土壁の蔵がたくさん見えてきます。板を横に貼った下見板張りで、アルミサッシの窓が設けられています。住宅は板壁が主流です。なにやら懐かしい思いがします。  
 感動度★
もう一度行きたい度★★
交通 クルマは道端に停めました
 下山田(しもやまだ)/村上市下山田
 
美しいデザインの真壁造りが続きます
 江戸時代は村上藩領。村高は約500石で、山村といえども米の収穫高は130石余。大豆も穫れ、農閑期には縄、薪なども盛んです。歩いていますと旧家と思われる家が多く、漆喰に柱の見える美しい格子デザインの真壁造りが続きます。明治42年に山辺里(さべり)村の大字となりました。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 大須戸(おおすど)/村上市大須戸
 
 ●大型の美しい真壁造り
 江戸時代は村上藩と幕府領が交互に入れ替わるという目まぐるしい藩政でしたが、享保2年(1717)からは幕府領となり、幕末を迎えます。村高は400石弱でそこそでした。
 集落に一歩足を踏み入れると、結構、大型の家屋が目に付きました。大部分が真壁造りで、漆喰の白色と梁や柱の色とが微妙にマッチしていて、美しい農村風景を見せてくれます。
 地名は「すとう」が入口の意味とすれば、難所の葡萄峠の入口ということなりますが、由来ははっきりとしません。白土を使った大行焼が復活したり、大須戸能の伝承と活発に活動。 
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは大須戸担い手センター駐車場に停めました
 
 塩野(しおの)/村上市塩野町
 
出羽街道の宿場町
 歴史は古く、戦国時代から多くの人たちの行き来がありました。地名の由来は、高根金山の開発後、山師たちがこの地で塩を買い求めたからとか。塩が採れるのではなく、塩の売買が行われていたのでしょう。そこから宿として発展したといえます。江戸時代は村上藩と幕府が交互に治めていました。相給に近いともいえるかもしれません。村高も600石前後とまずまず。江戸時代後半、米沢藩が岩船郡内の預かり地91カ村を支配するために当所に役所を置きました。やはり交通の要所であったからといえます。いま歩いてみますと、宿場町らしい雰囲気は見られませんが、古民家が街道沿いに点在しています。 
 
 岩船(いわふね)/村上市岩船上浜町
 岩船
 ●商家と漁師家屋が混在
 岩船は海水浴場として知られています。北国街道浜通りの港町ですが,北前船の寄港地でもありました。そのため漁師町としての性格だけではなく,商家も混在する町でした。享保20年(1735)の人口が3661人というから、一地方都市としては大きい
 一般的に北前船がもたらす上方文化の影響からか,建物にも「はんなり」感があります。街道沿いは平入りですが,一歩裏道に入ると板貼りの妻入り住宅が並び港町らしい風情。
 かつて源義経が平泉に逃げる途中,この岩船を通ったと『義経記』に記されています。江戸時代は村上藩領でした。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 桃川(ももがわ)/村上市桃川
 桃川集落
 ●減りつつある茅葺き屋根
 江戸時代は村上潘領,幕府領,白河藩領が“入り乱れて”支配しながら幕末を迎えます。村の石高が700石弱ですから,けっこういいほうだったようです。ほかに大豆などもとれました。しかし県北の最大の穀倉地帯となるには,大正時代に入ってからです。疎水を引き,豊富な水を利用できるようになってから。さらに養豚,育牛,養鶏なども盛んで,県を代表する農村地帯となりました。
 曲がりくねった道を農村風景を楽しみながら歩いていますと,かつて多かった茅葺き住宅も,一般の現代住宅に改築されているのがわかります。 
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 瀬波(せなみ)/村上市瀬波中町
 瀬波
 ●小振りな港町
 瀬波温泉のあるところで,なおかつ日本海の夕日の美しさでも知られています。しかし古い町並みは,温泉街からかなり離れており,鮭の遡上で知られる三面(みおもて)川の河口で発展した港町です。同時に北前船の寄港地でもありました。特に旧朝日村産出の鉛の積出港でも賑わいました。同時に村上潘の沖の口番所で、船の動きや積み荷に目を光らせました。
 村上の城下町に近かったせいか,逆に大きな町家が少ないのが特徴です。現在の建物は戦後のものが多く,板塀や板壁で造られた、漁師の住む家屋が中心です。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 塩谷(しおや)/村上市塩谷
 塩谷
 ●大型の妻入り住宅群
 どちらかといえば,塩谷海水浴場として地元では知られています。その海水浴場からやや内陸に入ったところの北国街道浜通りの宿場町として,そして北前船の寄港地として発展してきました。むしろ,今では港町としての性格のほうが強いかもしれません。
 よく出雲崎と比較されますが,同じ切妻型妻入りでも塩谷の方が間口く大型です。さらに道幅も広く,区画整理されたのでしょうか。また壁は細い棒で押さえる押縁下見板張りで,港町独特の風情が感じられる。窓の大部分はアルミサッシで改築し、機密性を高めています。
 感動度★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 猿沢(さるさわ)/村上市猿沢
 猿沢
 ●ちょっとおしゃれな感じ
 出羽街道沿いの宿場町です。写真でもわかるように,山裾の町並みだけに水が豊かで,水音が軽やかで、とてもきれいでした。
 写真の上の塩谷と比較してください。規模はほぼ同じで,切妻型妻入り住宅としては大きい方です。しかしよく見ると,猿沢のほうがちょっとおしゃれな感じがしました。板塀のほかに,漆喰を塗っている町家もあります。幾何学模様の真壁造りは美くしい。また板を張り付けるだけではなく,柱を格子状に貼り付けているからでしょうか。京風文化を持つ酒田(山形県)に近いせいかもしれません。
 感動度★★★
 もう一度いきたい度★★
 交通 クルマは道端に停めました
 葡萄(ぶどう)/村上市蒲萄
 
国道7号線と旧道沿いに真壁造りが立ち並ぶ
 戦国時代から越後から出羽へ通じる出羽街道の要衝。しかも難所で知られた葡萄峠の入口あって、宿場町として発展しました。人々はココで身支度を整えて、早朝に旅立ったそうです。江戸時代は村上藩と幕府領が交互で支配、幕末は幕府領で終えました。現代は村上市営のスキー場があり、毎年年末にオープンするとか。古民家は交通量の多い国道7号線沿いと裏側の旧道沿いに建ち並んでいます。いずれも北国特有の真壁造りで、漆喰と格子状の柱の美しいデザインを見せています。地名の由来は、弘法大師が出羽湯殿山参拝の途中、えびづる(葡萄蔓)をもって小さな庵を結んだことに始まるといわれていますが、定かではありません。 
感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは空き地に停めました
 
 大沢(おおさわ)/村上市大沢
 
 ●奥の細道が往時のまま残る
 大沢を有名にしたのは、芭蕉の歩いた当時の奥の細道がほぼ原型通り残っていることです。いまは人口数人の過疎の集落ですが、シーズンになるとそこそこ賑わいます。切妻型の真壁造りが残ります。歩き始めるとあちこちの番犬が吠え始めました。
 感動度★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは無料駐車場に停めました
 大毎(おおごと)/村上市大毎
 大毎集落
 ●出羽街道沿いの古民家
 村上と鶴岡を結ぶ出羽街道(庄内街道)沿いの集落です。出羽三山への参拝者で賑わいました。今も地元の人たちは,旧街道の整備に力を入れています。歩いていますと,切り妻型の下見板張りの古民家があちこちに散見。名水百選も。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 北中(きたなか)/村上市北中
 出羽街道の北中集落
   
▲戦前からの建物が多い  ▲旧旅籠の家/実際は明治の営業
 ●旧旅籠が残る小さな宿場
 出羽街道沿いの小さいながらも宿場町でした。建物も近辺の集落と比較して、立派な造りが多いようです。唯一,歴史的建造物としての「旅籠の家」は,個人住宅ですが,往時を彷彿させます。また芭蕉の記念碑もあります。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 北黒川(きたくろかわ)/村上市北黒川
 
   
▲旧家で大型の家屋ばかり   ▲大庄屋の家/養蚕も行なっていた
 ●圧巻の大庄屋の家
 出羽街道沿いの農村集落です。街道の両側には切り妻の下見板張りの家屋が目に付きますが,ひときわ大きいのが大庄屋の豪邸。外観から見るだけですが、手入れの良さに驚きます。また2階は養蚕場でもあったようです。付近に縄文時代の遺跡があるせいか「縄文の里」との案内板がありました。
 感動度★
 もう一度いきたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 中継(なかつぎ)/村上市中継
 
   
▲木製の道標「中継」付近に、古民家が四方八方に広がっています 
旧出羽街道の宿場町に残る古民家群
 戦国時代は“中次”と書いていたようです。出羽街道の宿場町で、小俣宿と荒川宿の中ほどにあり、中継をしていたからというのが地名の由来とか。江戸時代は村上藩と幕府領が交互に支配。村高も100石前後とかなり貧しい村であったと思われます。山村のため耕地は少なく、薪など山に頼らざるを得ない生活。幕末期、村上藩の兵と新政府軍とが当地付近で激しく戦っていました。いま歩いていますと、旧旅篭屋らしき建物が見られます。また街道沿いには、真壁造りの家屋が見られ、古民家がひとかたまりになっています。このような山間の村に往時の面影が見られるとは想像もしていませんでした。 
 感動度★★
もう一度行きたい度★★★
交通 クルマは集会所前広場に停めました
 山熊田(やまくまた)/村上市山熊田
 
積雪2mを越える豪雪地帯の集落
 冬は積雪2mを越える豪雪地帯です。30年ほど前までは除雪車も入れなかったそうです。そんな閉ざされた世界で生まれたのが“しな布”です。男の出稼ぎのあと残された女たちが家計の足しにと考えた布。シナの木の皮をほぐしてほぐして繊維にして作り上げた布です。今では、「さんぽく生業の里」で作り続けています。京都や東京で織物として人気が出てきたとか。県道248号線の起点に位置し、18世帯で約60人の集落です。一周しても10分足らずで、わずかに古民家が残されています。他村の家屋と比較して窓が小さいような気がします。やはり積雪対策でしょうか。瓦屋根の2階、中2階建てといった建築です。なかには真壁造りも見られます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
交通 クルマは旧山熊田村中学校校庭に停めました
 荒川口(あらかわぐち)/村上市荒川口
 
旧道のわずかな距離に落ち着いたたたずまい
 荒川と中継川の合流する付近に位置する集落です。江戸時代は荒川口村といい、旧出羽街道の荒川宿の入口にあたるところに位置したのです。村高は50石前後と貧しい小村といえます。米は年間10石前後しか獲れなかったようです。他は大豆や漆、薪など畑作以外に山仕事で生計を立てていました。いま、旧道沿いに大型の古民家が残り、真壁造りで黒板壁の日本古来のデザインの家屋。わずかな距離ですが、落ち着いたたたずまいを見せています。 
 感動度★
もう一度行きたい度★
交通 クルマは道端に停めました
 朴平(ほおだいら)/村上市朴平
 
ゆるやかな坂のある旧道沿いに古民家
 大川の支流・荒川の流域に位置する小さな集落です。地名は朴の木が多かったからといわれていますが定かではありません。江戸時代は耕地が少なく、住人の大部分は山稼ぎで生計を立てていました。村上藩と幕府が交互に支配、当時の村高がわずかに50石前後と小村。いまは県道と平行して、ゆるやかな坂の旧道が1本走っています。石積みが多く見られ、古民家や耕地が続きます。2階建ての瓦屋根、壁の大部分は下見板張です。旧道の両側に広がる、いわば街村にあたります。ところで朴平は「ささぎなの里」と呼ばれています。「ささぎな」とは一般的にマメ科のナンテンハギやアズキナと呼ばれる山菜のことです。3月下旬ごろ柔らかい若芽を摘んで、山菜として食するそうです。 
 感動度★
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交通 クルマは道端に停めました
 寝屋(ねや)/村上市寝屋
 
 ●潮と雪から守る板壁
 この奇妙な地名は、勝木の漁師が浜に小屋(寝屋)を造って寝泊まりをしていたことがはじまりとか。実際に当初は寝泊まりするだけの集落だったらしい。粟島沖の好漁場に恵まれ、漁港建設も推し進められたのです。
 江戸時代はほぼ村上藩領でした。田畑は少なく、村高はわずか20石足らず。まさしく貧農でした。そこで海へと生活の糧を元めたのです
 実際に歩いてみました。国道345号から一歩山側に入り込みと景色は一変。板壁の家並みが続きます。幅1〜2m前後の路地の両側には、下見板張の壁がみらrます。板壁は落ち着きます。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは漁協前の駐車場に停めました
 岩崎(いわさき)/村上市岩崎
 
 ●海辺の板張の家並み
 日本海沿岸に位置する小さな漁師町です。江戸時代は村上藩領と幕府領が交互に藩政を行っていました。旧岩崎村の村高は40石前後、人口は100人前後と弱小の集落。耕地面積が少ないことから、漁業と山稼ぎに頼っていました。山稼ぎは、薪などを町場に送っては日銭を稼いでいたとか。酒造業の青木家では、幕末に蝦夷地に送って財をなしたそうです。
 旧街道に入りますと、さらに道は狭くなりますが、板壁の家屋はさらに増えます。板張法もいろいろで、下見板張、羽目板張などです。やはり海辺の家並みの特徴が出ていました。 
 感動度★
 もう一度行きたい度★
 交通 クルマは道端に停めました
 小俣(おまた)/村上市小俣
 
 ●新潟県最北の古民家群
 平安時代末期、下越から庄内に抜ける古道がありました。その後出羽街道小俣宿としてさらに発展。しかし何より「日本国」という山の麓にある集落ということでその名が一躍全国に知れ渡ったのです。実際、“日本国麓郵便局”があります。新潟県最北の集落ですが、意外に古民家は多く残っています。
 感動度★★
 もう一度行きたい度★★
 交通 クルマは日本国ふれあいパークに停めました

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