大阪市
中之島(なかのしま)/大阪市北区中之島 | |
▲大阪府立中之島図書館/明治37年(1904)築・国の重要文化財 | ▲中央公会堂/大正7年(1918)築。B1に中之島倶楽部・国の重要文化財 |
●ネオルネッサンス風 御堂筋に面した所に日銀大阪支店(写真上)が建っています。1903年に完成しましたが、地盤沈下や老朽化で、1980〜82年にかけて大幅に改築。外観だけが往時のままを維持しています。今は中之島の「顔」です。 地名は中洲の島からと推定されます。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄淀屋橋駅から3分 |
堂島(どうじま)/大阪市北区堂島 |
●わずかに残る近代建築 江戸時代,諸藩の数多くの米倉と蔵屋敷が堂島川沿いに立地し,これが近代ビジネス地区の母胎となりました。また人口も増え続け,遊郭も設けられましたが,その後曾根崎新地に移り,堂島は日本の米相場の中心地となりました。その後の町名は明治に入って一部を堂島浜通り,昭和には堂島浜が誕生しました。地名の由来は、寺院(堂)を建立のために木材を置いたという説などいろいろ。 いま,休日に歩くとビルの玄関は閉まり,町は人通りもなくガラ〜ンとしています。でも近代建築を見て回るのは休日がベストです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄西梅田駅から徒歩6分 |
中津(なかつ)/大阪市北区中津 |
●消えゆく古民家 江戸時代はダイコンやキュウリの産地でした。水も豊富で淀川から分岐した中津川に沿った集落でした。ところが狭く蛇行した川で,たびたび洪水を起こしていたのです。明治に入って,やっと本格的な工事に突入。蛇行した中津川をまっすぐ伸ばして,なおかつ大きく拡幅,それが今の新淀川にあたります。当時,中津村からも土地を提供。地名の由来は、文字通り中津川にちなむそうです。 町内を歩きますと,わずかですが古民家が見られます。しかし繁華街の梅田まで電車で数分の所,いまはマンションの工事が盛んに行われています。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 阪急中津駅から徒歩10分 |
中崎(なかざき)/大阪市北区西中崎 | |
▲一部、妓楼と思わせる建物も残されています | ▲板張の古民家を改造して店舗として活用 |
▲大阪独特の棟割長屋も多く見られますが、都市改造の波が押し寄せている | ▲どうもその昔、遊里を形成していたのではないでしょうか |
●交通至便の棟割り長屋や古民家 大阪の中心地・梅田から徒歩で10分ほどのところにあります。このあたりは戦災に遭わず,昭和の香りのする町でもあります。大阪のあちこちで見られる長屋形式の町家が多く残っているところでもあります。 近年,この交通至便で家賃の安いところが若者たちの注目を浴びています。長屋などの古民家を改造して,カフェやレストラン,古着屋,デザイン事務所,雑貨店などを開いているのです。中崎界隈を歩いているだけで楽しくなります。またオシャレな喫茶店でも入りたくなります。 この光景も、マンションの建設ラッシュで消えつつあります。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄谷町線中崎駅から徒歩5分 |
菅原(すがはら)/大阪市北区菅原町 |
●店蔵、白壁の土蔵…… もと天満10丁目の一部でした。菅原道真を祀る天満宮の南隣り位置しています。町名の由来はもちろん菅原道真公によります。撮影した当日が天神祭の早朝。店蔵、白壁の蔵、防火壁のある商家など、まだまだ見られます。また古民家を生かした店舗もあって楽しい。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄南森町駅から徒歩10分 |
内代(うちんだい)/大阪市都島区内代町 |
●かつて京街道に沿った小さな農村集落 江戸時代は摂津国東成郡に属し、当所は大坂藩松平氏領でしたが、そのあと幕府領ななっています。村高はわずかに120石前後と小さな村でもありました。ただ京街道が通っていましたが、単に通過する集落でもあり、ごく普通の農村といえます。いま内代町の片隅に「京街道」の石碑が立っていますが、石碑がなければ歴史的な町並みとは気がつきません。家並みも下町でよく見かける木造平屋建てが続きます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄谷町線野江内代駅から徒歩5分 |
高殿(たかどの)/大阪市旭区高殿 |
●京街道“七曲がり”のある集落 京街道沿いの集落です。歩いていて気がつくのは、意外に小さなカーブが多いということです。地図を見てもなだらかですが、クネクネと曲がっています。とくに4丁目付近ですが、これは「七曲がり」といって秀吉が大坂城築城の折、城の上から敵兵の様子を知るために、道を狭く蛇行させて造ったといわれています。古い町並みは、7丁目付近や都島通り沿いにやや古い住宅が見られます。地名は昭和46年の住居表示改正で、新規に生まれました。由来は不明ですが、西側の高倉に隣接することや、秀吉の“殿”と合わせたのか、文字通り高い建物でもあったのか、あるいは見えたのか…。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄谷町線関目高殿駅から徒歩5分 |
森小路(もりしょうじ)/大阪市旭区森小路 | |
▲旧京街道が集落のなかを貫く。今は棟割り長屋が中心です | |
●古民家群は京街道の裏手に集中しています 江戸時代は大坂藩松平氏領で、そのご幕府領など変遷を重ねます。村高は650石前後で森林と農村地帯でした。明治9年の人口が326人で、大坂近郊としては小規模な部類に入ります。地名はこの辺りに榎が茂っており、そのなかを小道が通っていたからというそうです。もちろんいまは森はありません。いま京街道を歩きましたが、「京かいどう」と書かれた薄汚れた石碑が幾つか立っています。周囲の町家のほとんどが2階家で、大阪独特の棟割り長屋。板壁のある旧家は京街道から一歩、裏道に入りますと塊となって存在します。早朝でしたので、通勤客もまばらで、静かな町並みでした。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄谷町線千林大宮駅から徒歩10分 |
千林(せんばやし)/大阪市旭区千林 | |
▲門構えの旧家が実に多い | ▲蔵が続く光景は圧巻です |
▲迷路のような細道にも古民家 | ▲路地の奥にも旧家が目に付く |
●商店街から一歩なかに入ると迷路と古民家群 千林といえばスーパーダイエー(現イオン)の発祥の地でしられており、いまもいくつもの商店街や大型スーパーが林立しています。「大阪のおばちゃん」たちが京阪の定期券を買って買い物に来るぐらいで、一大商戦地区でもあります。その商店街の裏手に、これだけの古民家群があるとは想像もできませんでした。江戸時代は大阪藩松平氏領、幕府領と変遷。村高は870石余。このあたりは淀川沿いに森が続いていたとか。そのため川沿いの森林という意味から瀬林(せばやし)と呼ばれ、それが千林に転訛していったそうです。商店街の喧噪から逃れるように、一歩なかに入りますと、落ち着いた板塀や板壁の民家が密集しています。大型の蔵が続く家は旧家と思われます。また2階建ての棟割り長屋もあり、路地と相まっていっそうの密集度が高まっているのです。この辺りは戦災に遭うことがなかったからでしょう。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★★★ 交通 京阪本線千林駅から徒歩8分 |
北浜(きたはま)/大阪市中央区北浜 | |
住友三井ビルディング,大正15年,昭和5年,住友本店臨時建築部設計。 | ▲石原ビル・昭和19年築 眞水・三橋建築事務所設計・右隣は旧美津濃本社 |
▲北浜レトロビル/今は喫茶店・明治45年築登録文化財 | ▲ルポンドシエルビル/大林組旧本館・大正15年築 |
●戦災に遭わずに残る建築 江戸中期,金相場会所が設けられたり,両替商が集中したりと金融の中心として発展。いまは証券会社や銀行などが集まるビジネス街となっています。そしてかろうじて戦災から逃れた建物が残っています。上の写真は適塾(緒方洪庵住宅)で,重要文化財に指定。江戸時代末期の建築と推定されています。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄北浜駅から徒歩すぐ |
今橋(いまばし)/大阪市中央区今橋 | |
▲新井ビル/大正11年・登録文化財 | ▲今橋ビル/大正15年築 登録文化財 |
▲大阪市立愛珠幼稚園。実際に園児が通園・国の重要文化財 | |
●重文や登録文化財が多い 江戸時代初期に架けられた橋です。当時は両替商など富裕な町人屋敷が建ち並んでいました。天王寺屋五兵衛,平野屋五兵衛,鴻池善右衛門らが代表格。いまは金融街ですが,重要文化財の愛珠幼稚園が異色。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄淀屋橋駅から徒歩すぐ |
高麗橋(こうらいばし)/大阪市中央区高麗橋 | |
▲高麗橋野村ビル/昭和2年築,210年改修 | ▲三井住友銀行大阪中央支店(旧三井銀行/昭和11年築) |
●裏道にも近代建築が点在します 東横堀川に架かる橋の名前です。大坂夏の陣以前から架橋されていたことは判明しています。また高麗橋筋の町並みは慶長3年(1598)に船場が開発される以前から開けていました。地名の由来は高麗は朝鮮国の古い国名ですが、難波高麗館が置かれていたからという説も。また古代国家・難波津の有力な推定地の一つです。 かつて三越百貨店大阪店のあったところで,市民には比較的知られた地名でした。いまは隣の今橋と共に証券会社が並ぶ金融街を形成。歩いていて気がつくのは,裏道に無名の近代建築が目に付くことです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄北浜駅から徒歩すぐ |
伏見(ふしみ)/大阪市中央区伏見町 | |
▲伏見ビル・大正12年築・登録文化財・小さなビルですが意匠がいい | |
●ビルの谷間に登録文化財 大坂夏の陣で疲弊した大坂の町を復興させる目的で,京都伏見茶屋町の町人が招致されて住んだことから,伏見の名がついたそうです。歩いていますと現代ビルの間に,古めかしいビルや蔵造りの商家が見えます。小さな町ですが、おもしろいです。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄北浜駅から徒歩すぐ |
道修町(どしょうまち)/大阪市中央区道修町 |
●蔵造りの住宅(重文)は傑出 江戸時代初期の寛政年間(1624〜44)に薬種屋が集まりだし,「薬種仲買仲間」を結成し,次第に「くすりの町」に発展しました。田辺製薬,武田薬品,塩野義製薬などが輩出。このあたりは、大阪都市景観資源に登録されています。ちなみに武田道修町ビルは昭和3年の建築。また旧小西家住宅(重文・写真)の蔵造りは傑出。ドラマの舞台にも使われています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄北浜駅から徒歩5分 |
平野町(ひらのまち)/大阪市中央区平野町 | |
▲生駒ビル/昭和5年築 登録文化財 | ▲小川香料ビル/昭和5年築 登録文化財 |
●3軒の国の登録文化財 もともと西方に隣接する御霊神社の祭神が百済氏の出身である早良(さわら)親王といわれ,京都平野神社が百済氏を祀ることから,平野町と名付けられたとか。江戸時代から御霊神社の門前町として発展。特に日用・雑貨品の買い物町として賑わい,1日と6日は浪花名物の夜店が開かれました。それは明治末期まで続き,市内五大商店街の一つまでに成長。しかし昭和に入ると地下鉄の開通や道路整備で,客はキタやミナミに奪われました。 いまは完全なオフィス街となり,週末は人が途絶えます。ただ近代建築は見応えがあります。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄北浜駅から徒歩7分 |
淡路町(あわじまち)/大阪市中央区淡路町 | |
▲船場ビルの吹き抜け・登録文化財 | ▲清水猛商店・大正13年築登録文化財 |
●船場ビルの吹き抜けは秀逸 明治時代には文楽座が置かれるなど文化の拠点でした。しかし何より有名なのは,天保8年(1837)の大塩平八郎の乱の主戦場となったところです。今は平凡なビジネス街ですが,近代建築としては、船場ビル(写真上)の中庭(吹き抜け)は見もの。 |
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感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 地下鉄本町駅から徒歩10分 |
備後町(びんごまち)/大阪市中央区備後町 | |
▲綿業会館・昭和3年築・重要文化財 | ▲村野藤吾設計の繊維輸出会館 |
●圧巻! 綿業会館の内装 慶長5年(1600年),東横堀川に架かる備後橋が町名の由来。江戸時代初期から町名は変わっていません。なにより備後町を代表する近代建築は綿業会館(写真左)です。外壁は地味,でも内装はスゴイ! |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄本町駅から徒歩7分 |
本町(ほんまち)/大阪市中央区南本町 |
●少ない近代建築 関ヶ原の合戦時代から変わらずに続く地名。近世大坂の重要な位置にあったからが地名の由来だとか。元禄時代は家数は35軒前後とか。また繊維・衣料関係商業の中心地でした。比較的近代建築が少ない町です。上の写真は明治屋ビルで、大正13年建築、曾禰達蔵氏の設計で外壁はタイル貼りです。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 地下鉄堺筋本町駅から徒歩すぐ |
心斎橋(しんさいばし)/大阪市中央区心斎橋 | |
▲大丸心斎橋店・2019年秋竣工(HPより) | ▲島之内教会・登録文化財 |
●江戸時代から続く名店街 言わずと知れた大阪を代表する繁華街です。1年中にぎわっており,道頓堀までブラブラと歩く人が多い。ただし心斎橋そのものは横堀川の埋め立てで消滅。江戸時代から小売業,卸売業が集まる名店街です。地名は開発した岡田心斎からだとか。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄心斎橋駅から徒歩すぐ |
難波(なんば)/大阪市中央区難波 | |
▲旧精華小学校/昭和4年築 | ▲味園ビル・志井銀治郎氏設計 |
●ミナミの玄関口に南海ビル 一般にミナミとは,難波,道頓堀,心斎橋,千日前あたりを指します。そのなかで難波は高島屋があり,南海電車の終点でミナミの玄関口にあたります。和歌山や泉南地方からの遊客がやってきます。いま難波は新歌舞伎座など古い建物の立て替えの運命にあります。 南海ビルは高島屋大阪店が入居し,国の登録文化財,大阪市の都市景観遺産にも登録されています。まさに近代建築,最後の砦。なお江戸時代から続く地名ですが,元は上町台地一帯を指していたようです。古くは浪速、浪花、浪華などと表記し、「なにわ」と読みました。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄難波駅から徒歩すぐ |
谷町(たにまち)/大阪市中央区谷町 |
●急坂を下ると古民家が点在 標高の高い上町台地の西側に、南北に通じた谷状の地形にゆらいする、というのが地名の由来でした。しかし近年の発掘調査で、単純に南北の谷筋が見られるという説はほぼ不適切となりました。それでも小さな谷が幾重にも入り組んでいるというのは事実。その昔、教えられたのは「タニマチ」の発祥の地で、大阪相撲の有力な後援者(歯科医?)が谷町六丁目付近に住んでいたとか。 確かに、駅から地上に上がると町並みへは急坂を下りていきます。空襲にあっていないので、古民家が点在。銅板の壁、店蔵、棟割り長屋などユニーク。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄谷町六丁目駅から徒歩10分 |
空堀(からほり)/大阪市中央区谷町 |
●明治5年建築の伊藤邸 近代的なビルが建ち並ぶ長堀通りから一歩中に入ると,懐かしい棟割り長屋を見ることができます。つまり2軒,3軒とつながっているのです。元々,このあたりは戦争で空襲にあうことなく奇跡的に残った地域でもあります。 なかには明治5年に建てられた伊藤邸のうだつのある蔵造りも健在です。また格子窓や虫龍窓,出格子窓のある2階家が残っているのです。さらに歩きますと,若い人たちによる古民家を生かした画廊,カフェ,雑貨などの店へと続きます。秀吉の大坂城防御を固めるため、多くの堀を造りましたが、ここは水をたたえていなかったそうです。 |
感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄松屋町から徒歩5分 |
中寺(なかでら)/大阪市中央区中寺 |
●江戸時代の雰囲気を残す 豊臣秀吉が、大坂城築城のころから寺町の町づくりに着手したという説が濃くなっています。上町筋と谷町筋に挟まれた地区で、東から3つの寺町のうち、真ん中に位置するところから名付けられたとか。江戸時代の雰囲気を残す数少ない地域といえます。ただ空襲で大部分が焼けたのも事実です。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄谷町九丁目駅から徒歩5分 |
新喜多(しぎた)/大阪市城東区新喜多 |
●寝屋川沿いの古民家群 地名はこの地を新田開発した3人の名前の頭文字をとって命名。宝永元年(1704)のころです。現在は、寝屋川沿いの狭小な地域ですが、空襲から逃れたことで古い町家が残されています。近くの繁華街・京橋とは別世界・異空間が広がっています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR大阪環状線京橋駅から徒歩8分 |
鴫野(しぎの)/大阪市城東区鴫野西 |
●おなじみの2階建て木造住宅 戦災で焼け残った地域で、一歩足を踏み入れると、2階建て木造の棟割り住宅風がギッシリと詰まっています。7m幅の道路もあれば、路地のような狭い道路も見られます。“これぞ大阪”という感じがします。 大阪冬の陣の大激戦地となったところで、幕府軍・佐竹義宣の陣所となっていました。ところで古くは志宜野とも書いたようです。地名の語源は、シギの群生地であったとする説がありますが、定かではありません。 明治28年(1895)に京橋駅設置により、都市化の波が押し寄せましたが、団地の建設など住宅地として発展したのです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR大阪環状線京橋駅から徒歩13分 |
蒲生(がもう)/大阪市城東区蒲生 | |
▲旧家の塀から茅葺き屋根が… | ▲街道の両側には古民家が続く |
●「あっ 茅葺き屋根だ!」 このあたりは,かつて大坂冬の陣で,徳川方と豊臣方が寝屋川(旧大和川)を挟んで,激しく戦ったところとされています。当時の大和川は,現在の寝屋川を含めていくつものの支流があって,蒲生あたりが最も広くなっていたようです。そのため水運には恵まれていましたが,水害との戦いでもありました。蒲生は,そんな堤防上にできた集落で,江戸時代は野崎観音参りの野崎街道沿いの街でした。堤防上の街から一段下がったところにも古建築が多く,茅葺き屋根には驚きました。 地名の由来は、低湿地帯で蒲穂をよく産出したことにちなむとか。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄蒲生4丁目駅から徒歩10分 |
野江(のえ)/大阪市城東区野江 |
●かすかに残る往時の面影 京街道と亀山街道の交差するところに広がった集落です。しかしながら鯰江川の北岸にあって,絶えず水害に悩まされていたそうです。そこで水害難除を祈願して水神社が建立され,今でも崇められています。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★ 交通 地下鉄野江内代駅から徒歩10分 |
成育(せいいく)/大阪市城東区成育 |
●戦災に遭うことなく生き残った古民家群 戦後のベビーブームによって起きる小学校不足に備え、昭和25年、榎並小学校南分校が独立。そのとき「子どもが健やかに育つように」の願いを込めて成育小学校と命名されました。時は経ち、昭和51年の住居表示変更のさい、この学校名をそのまま町名にしたというわけです。それはともかく、以前の町名は関目町、野江東之町、森小路町のそれぞれ一部を合わせたもの。この辺りは関目神社や京街道などあり人の集まるところでもありました。いま成育5丁目付近を歩いてみますと、狭い道が迷路のように入り組み、しかも長屋門のある旧家が何軒も集中しています。特に善福寺周辺は、まさしく迷路です。蔵や長屋門、石積み塀や板壁などが見られます。戦災に遭うことなく生き残った古民家群といえます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄今里筋線関目成育駅まら徒歩6分 |
放出(はなてん)/大阪市鶴見区放出東 | |
▲板塀と漆喰で路地も美しい | ▲サービス定食(700円・赤坂) |
●庄屋の面影が見られます 古代から中世にかけて湖沼を含めた大湿地地帯でした。このあたりは,水を抜くための放出口に当たることから名付けられたとか。そのため難波と河内,大和を結ぶ水運の要でもありました。同時に干拓が進み江戸時代は農村地帯。特に河内レンコン特産品でした。『摂陽群談』には読み方を「ハナチデ」とふりがなを付し、「世俗方天と称す」と注記しているので、現在の読み方に転訛(?)。 中高野街道沿いの集落でもあります。京街道の守口宿から分かれ平野を経て西高野街道に合流するまでですが,守口−平野を放出街道と呼ぶ場合も。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR片町線放出駅から徒歩15分 |
福島(ふくしま)/大阪市福島区福島 | |
▲改築、改装された棟割長屋 | ▲長屋もいろいろな店舗に転用 |
●取り壊し寸前の町並み? もともと菅原道真が餓鬼島と呼んでいたのを、福島と名付けたと言われていますが定かではありません。環状線福島駅,東西線新福島駅に近く交通至便の地。歩いていると,あちこちに空き地が見えているのも,多分,高層ビルやマンションに変わるのではないでしょうか。 このあたりは,戦災に遭った地域と遭わなかった地域とがまだら模様になっており,古民家とマンションが混在しています。 独特の2階建て棟割り住宅が,裏通りに密集しています。最近では,おしゃれなレストラン,雑貨店,カフェなどに変身しています。 |
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感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR東西線新福島駅から徒歩5分 |
野田(のだ)/大阪市福島区野田 |
●ただいま13世帯が入居 野田村は戦国時代から何度も戦火に巻き込まれましたが,先の大戦では空襲にあいませんでした。大正から昭和初期の建物ですが,いまも健在です。2軒,3軒の続く棟割り長屋が続きます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 JR環状線野田駅から徒歩5分 |
吉野(よしの)/大阪市福島区吉野 |
●昭和の面影が色濃い 繁華街の梅田へも電車で10分と交通至便の地。それでも大阪のあちこちで見られる棟割長屋が生きています。まさに昭和の庶民的な光景が広がっているのです。地名の由来は諸説ありますが、「葦(ヨシ)が群生していた所」が有力です。というのも旧野田村の一集落ですが、どちらかといえばのどかな水郷地帯といっていいでしょう。秀吉の時代から新田開発が進み、江戸時代にさらに発展。それでも遊興の舟遊びがあったようです。 戦後になっても発展から取り残されたような所です。昭和の面影が色濃く残ります。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 阪神本線野田駅から徒歩6分 |
玉川(たまがわ)/大阪市福島区玉川 |
●意外に残る古民家群 一歩,足を踏み入れて驚くのは,意外にも多くの古民家が残されていることです。蔵造りや格子戸のある町家などが,当地の守り神の野田恵比寿神社周辺に散在しているのです。ちなみにこの神社は藤が有名で,足利義詮をはじめとして、公家や武家、歌人などが歌を詠んでいます。また豊臣秀吉も藤を見ながらの茶会を催しています。 第2次大戦の戦災は福島区自体全体の3割り程度と,比較的軽微でありました。そのため今でも玉川地区も昔からの住民が多く住んでおり,古い町並みとともに庶民的な人情も失われていません。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄玉川駅から徒歩5分 |
海老江(えびえ)/大阪市福島区海老江 | |
▲蔵も改装されていますが、あちこちに見られます | ▲海老江で最も多く見られる板壁の町家です |
●迷路のなかに長屋が… 江戸時代から明治時代中期まで海老江村と呼ばれていました。その後鷺洲(さぎす)村,さらに鷺洲の字名,戦後しばらくして現在名になりました。古くは海老洲(えびす)と呼んだとか。 この町を歩いていると,路地がくねくねと網の目のように広がっており,本当に迷い子になってしまいそうです。やはり戦災にあっていないためでしょう。また家屋自体が古いのが特徴。 町家が中心ですが,寺院もあり落ち着いた町並みを形成しています。町家は蔵造りもありますが,板を縦に張った羽目板張りの長屋が多いのが目に付きます。“板張の町”といえます。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★ 交通 JR環状線野田駅から徒歩15分 |
伝法(でんぽう)/大阪市此花区伝法 | |
▲独特の虫籠窓のある蔵造り町家 | ▲旧鴻池本店/明治43年(1982)築 |
●商家や棟割り長屋が混在 中世末期は、中津川河口の港として交通の要衝となっていました。江戸時代は幕府領。大坂にある幕府の船の管理や大坂に出入りする船の監視をなどを行う大坂船手の支配下となりました。旧道を歩いていますと、商家や棟割り長屋が多く続きます。 |
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感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 阪神なんば線伝法駅から徒歩10分 |
松島(まつしま)/大阪市西区九条1丁目 | |
▲2階の手すりが特徴的 | ▲玄関の千鳥破風が面白い |
▲「待合」が続きます | ▲きつねうどん(300円/大和庵) |
●独特の町並み・松島新地 一歩足を踏み入れて驚きました。何か別世界に入った感じがします。独特の千鳥破風(?)というべきか,妻入り,平入りなどいろいろありますが,やはり「遊郭造り」というべきでしょうか。 旧松島遊郭は明治2年に町の繁栄を目指して,行政が設置されました。そのため都市計画のうえにできた町だけに,歩いてみて整然としているのが,逆に違和感を覚えました。 このあたりは戦災にあわなかったせいか,戦前の建物もいくつか残っているようです。ほとんどが木造モルタル塗りです。ただ端の方から一般住宅に変わりつつあるのが現状です。 ●2階の手すりがいい感じ 松島という名は現在「松島料理組合」に残っています。昭和33年4月に売春防止法が公布されましたが,いまは「小料理」,「待合」という名で生きていますが衰退しつつあるようです。2階の手すりがいい感じです。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄九条駅から徒歩5分 |
九条(くじょう)/大阪市西区九条3丁目 |
●蔵造りの町家が多い 江戸時代,たびたび洪水に見舞われていましたが,安治川の開削により,水運が発展し,交通の要衝となりました。町並みは豪農や庄屋,料理屋が混ざった複雑な様相を示しています。意外に蔵造りが多い感じ。 |
感動度★ もう一度いきたい度★ 交通 地下鉄九条駅から徒歩15分 |
本田(ほんでん)/大阪市西区本田 |
●蔵造りの商家や2階建て棟割り長屋が点在 幕末の慶應3年(1867)に、幕府は隣接する川口に外国人居留地を設置し、欧米などの列強国が進出しました。その時、当地・本田は「雑居地」に組み入れられ、外国人と日本人の両方が住んでもいいことになりました。そのため中国人がどんどん移入してきました。明治政府も幕府の政策を引き継いだのですが、大型商船の接岸に不向きであることなどで、貿易は下火になり、中国人たちは神戸の居留地区に移転。結局ごく普通の大阪の町になったのです。隣の川口は戦災に遭いましたが、本田の一部は空襲にも遭うことなく、昔ながらの町家が残されました。格子戸や虫籠窓のある町家などが点在しており、大阪独特の2階建て棟割り長屋も数多く見られます。 |
感動度★★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄九条駅から徒歩20分 |
三軒家(さんげんや) /大阪市大正区三軒家西 |
●棟割り長屋が続きます 古くは三軒屋ともかいたとか。もとは姫島、丸島などと称された木津川下流の小島でした。慶長15年(1610)に木津村の中村勘助が開発したと伝えられています。つまり徳川幕府が始まった当初というから、歴史は古い。ただし開発年代は正保4年(1647)という説もあります。下流域だけあって、水運に恵まれており船番所ができるなど、交通の要所となりました。漁業も盛んになりました。一方、廻船問屋など商家も集まり、遊郭もできました。 いま、大阪でよく見かける棟割り長屋形式の町家が多い。戦災にあうこともなかったので、古い家屋がまだまだ残っています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 JR大阪環状線大正駅から徒歩10分 |
築港(ちっこう)/大阪市港区築港 |
●重厚な赤レンガ倉庫群 住友倉庫の赤レンガ倉庫群は,大正12年(1923)に建てられた大阪市内に残る数少ない赤レンガ倉庫です。北側の倉庫は2階建てで高さ13m,南側は平屋建てで,高さは13mと同じです。倉庫としての役目は終わり,現在は大阪市が取得し管理しています。 国際的な芸術活動の拠点として再生を図ろうとしていますが,建物自体は非公開です。 天保山の海遊館,観覧車などとは反対方向に歩いて行きます。赤茶けた倉庫群は,重厚で歴史の重みを感じさせます。地名の由来は、大阪港が築かれたこととか。市電築港線からとも。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄大阪港rきから徒歩10分 |
東小橋(ひがしおばせ)/大阪市東成区東小橋 |
●神社周辺に古民家群 上町台地の東側麓と奈良街道(暗峠越え)が交差するあたりにある町並みです。奈良街道は江戸時代からお伊勢参りに利用されることが多く,ココから少し離れた二軒茶屋では大変な賑わいだったとか。さらに信貴・生駒詣での参拝客,河内木綿の購入の商人たち,さらに遊郭の設置で,往来する人々であふれたそうです。 古民家群は千年以上の歴史を持つ比賣許曽(ひめこそ)神社周辺に,集中して見られます。出格子や格子戸,板塀,板壁のある町家はなにやらホッとします。地名の由来は、小橋の東側にあったことにちなむとか。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄千日前線鶴橋駅から徒歩15分 |
東中本(ひがしなかもと)/大阪市東成区東中本 |
●縦横に続く棟割り長屋群 明治初期に6カ村が合併して中本村を成立。さらに大正末期に周辺の村々を吸収して中本町になりました。その東側にあることが地名の由来。 大阪には空襲にあわずに、町家がそのまま残っている町並みがたくさんあります。ここもその一つ。阪神高速東大阪線の北側に、戦前戦後の建築物が、現役で頑張っています。もちろん改築、改装している町家もありますが、基本は変わっていません。歩いていますと、2階建て木造の棟割り長屋がギッシリ詰まっており、その数の多さに目を見張ります。しかも改装がユニークでおもしろいのです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄中央線緑橋駅から徒歩10分 |
鶴橋(つるはし)/大阪市生野区鶴橋 | |
▲狭い路地には商品が積み上げられています | ▲建物は木造2階建て棟割り長屋が多いようです |
●約2000軒の店舗が密集 鶴橋には在日朝鮮人が数多く住んでおり,日本で最大のコリアンタウンを形成しています。鶴橋駅のガード下,駅周辺には約2000軒近い商店が密集。焼き肉,冷麺,各種食材,民族服専門,酒場,衣料品,雑貨などいっぱいです。こんな雑多の雰囲気ってとてもいい感じです。この混雑ぶりは,鶴橋卸売市場が隣接していることにも原因。 建物はほとんどが木造2階建てで長屋形式です。商品が氾濫しているので,建物を見ていると、うっかり人や商品とぶつかってしまうのが難点。地名の由来は、猪飼野、木野など5か村が合併したとき、日本最古の橋「鶴之橋」にちなむそうです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 JR環状線・近鉄鶴橋駅からすぐ |
生野(いくの)/大阪市生野区生野西 |
●空襲から逃れた密集地 日本最大のコリアンタウンを擁するのが生野区。その異文化を目指してやってくる内外の観光客が増えました。この辺りは戦災にもあわずに、昔ながらの住宅が密集。地名は舎利寺村の「生野長者」に由来するとか。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 JR大阪環状線寺田町駅から徒歩7分 |
今里(いまざと)/大阪市生野区新今里 | |
▲屋号だけの看板が多く見られます | ▲一般の集合住宅に変わりつつある |
●かつての遊郭もどんどん進む一般住宅化 通称今里新地。かつて大阪の5大遊郭の一つです。昭和の初めに遊郭として開発されましたが,戦災で焼け残ったためか,他の地域から一気に娼妓たちが流れ込んできたとか。 飛田や松島と違うのは,今はどんどんと一般住宅が入り込んできており,その境目がわかりにくくなっていることです。かつての遊郭だった建物も,一般住宅に転用されているからです。そのため子どもたちなども歩いている光景が見られます。やはり衰退しつつあるようです。 小料理,待合などの看板がありますが,大阪独特の2階建て棟割り長屋も多く見かけます。おもしろい町並みです。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 近鉄今里駅から徒歩10分 |
勝山(かつやま)/大阪市生野区勝山南 |
●徳川方が決めた地名? 大阪でも住宅密集度の高いエリアです。軽自動車がやっと入れるという路地が縦横に走っています。やはり戦災に遭うことも無かったので、古い建物がたくさん残っています。 さて、地名の由来ですが、この辺りは御勝山(おかちやま)という前方後円墳のあったところ。地名は岡山といったのですが、大坂の陣で徳川方が勝利を収めたため、名を御勝山に改めたそうです。その後昭和に入って勝山通を経て勝山になりました。いわば徳川方が決めた地名です。歩いていますと大阪独特の、かつて「待合」だったような建物に気がつきました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 大阪環状線桃谷駅から徒歩13分 |
巽(たつみ)/大阪市生野区巽中 |
●大庄屋,豪農らしき古民家 高野街道は主に4つのルートがありますが,そのうちの1つ中高野街道沿いの集落です。巽とは,大阪城から辰巳(東南)の方角にあることから名付けたとか。いまは方角とは関係なく、道路や水路などで区別して、巽を頭に付けています。 江戸時代中期,京都淀藩の領地となりその後明治維新を迎えます。明治22年,5ケ村が集まって巽村ができましたが,350戸,1700人足らずの純農村でした。その後巽町になり,昭和30年に大阪市に合併されました。 街道筋を歩くと,ところどころに古民家が残されており,いずれも庄屋らしき豪農の面影が感じられます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄南巽駅から徒歩10分 |
細工谷(さいくだに)/大阪市天王寺区細工谷 |
●路地の両側に町家が密集 上町台地の東側の斜面に立地する集落です。西側の急斜面と違い、比較的ゆるやかです。台地の東側縁辺地には大阪環状線が通っています。地名の由来は、人間が細工したような浸食谷の谷間が多かったからというが、諸説あるようです。 上町台地は中世から津宮、難波宮などがあり、かなり発展していましたが、この辺りは未開発地域で、江戸時代は、主に水田だったようです。また、戦災にあうこともなく、戦前からの町家も比較的多く残っています。いま、狭い路地に住宅が密集していますが、ほとんどが改築、改修されていました。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 大阪環状線桃谷駅から徒歩12分 |
夕陽丘(ゆうひがおか)/大阪市天王寺区夕陽丘町 | |
▲真言坂/真言宗の生玉十坊から | ▲源聖寺坂/源聖寺という寺がある |
▲口縄坂/蛇のことを口縄という | ▲愛染坂/「愛染さん」がある |
▲清水坂/そばに清水寺がある | ▲逢坂/いまは国道25号線 |
●夕日がきれい天王寺七坂 市内でも有数の高級住宅地ですが,最近はマンションの林立が目につきます。そんな夕陽丘は,天王寺七坂と呼ばれ,歌人藤原家隆にも詠まれたところでもあります。北から真言坂,源聖寺坂,口縄坂,愛染坂,清水坂,天神坂(写真・一番上),逢坂と続きます。天神坂は,大阪夏の陣で真田幸村が戦死した場所だそうです。また逢坂は国道25号線と重なります。 夕陽丘は上町台地の西側にあり,平安時代後期に浄土信仰の広がりとともに、四天王寺を中心とするこの辺りを、夕方の落日に“西方浄土を想念する”考えが広がり注目されとか。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄四天王寺前夕陽丘駅から徒歩10分 |
生玉(いくたま)/大阪市天王寺区生玉町 |
●生國魂神社と隣り合わせにある小さな町並み かつては神社の境内であったと推定されます。町名としては明治33年に命名されており、当時は東区でした。その後大正14年から天王寺区の町名になりました。地名の由来は生國魂神社(生玉)からきています。もともと同神社は上町台地の北部にあった荘園・生玉荘にあり、秀吉が大坂城築城のため、現在地に移転させられました。慶長11年(1606)ごろまでに遷座・造営を完了。家康も先例に習って300石の朱印領を寄せたそうです。ところで生玉の意味は、この玉を持っていると長生きするとか。町並みは小さく、木造2階建ての古民家がわずかに続いています。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄四天王寺前夕陽丘駅から徒歩10分 |
寺町(てらまち)/大阪市天王寺区生玉寺町 |
●なんと60余の寺が密集 夕陽丘町を含めて寺町に約60余カ寺もあります。谷町筋を挟んだ反対側には四天王寺があり,天王寺区はお寺さんでいっぱいです。豊臣時代の政策で集められたそうですが,今は大相撲大阪場所の各部屋の稽古場になっています。「タニマチ」という言葉も相撲にゆかりのあるこのあたりの住む歯科医から生まれたそうです。 大阪は平らな町だと思っている人が多いですが,寺町のある上町台地にくると,坂道ばかりで驚きます。地名・生玉(いくたま)の由来は、『日本書紀』にも登場する生国魂(いくくにたま)神社にちなむそうです。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 地下鉄谷町筋四天王寺前夕陽丘駅から徒歩10分 |
下寺町(したでらまち)/大阪市天王寺区下寺町 | |
▲源聖寺/文化財の多い大きな寺 | ▲口縄坂/松屋町筋側の入口 |
●松屋町筋沿いの26カ寺が景観を維持… 上町台地の西側下を南北に縦貫する松屋町筋(まっちゃまちすじ) 沿いにある寺町が、地名の由来です。秀吉の政策の一環で、この上町台地に寺院が集められました。この下寺町だけで26カ寺もあります。台地の上から松屋町筋の下まで、幾通りもの坂道があり、外国人を含め多くの観光客がやって来ます。そのため松屋町筋は大型観光バスの駐車場代わりになっており、景観をそこなっているのが残念です。 |
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感動度★★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄谷町筋線四天王寺前夕陽丘駅から徒歩20分 |
四天王寺(してんのうじ)/大阪市天王寺区四天王寺 |
●路地にも古民家 奈良・法隆寺とともに聖徳太子が建立に関わったとされる日本でも有数の最古の寺院です。 北側の勝山通りの拡張のために古民家や寺院が撤去の運命に。しかし一歩中に入ると静かな佇まいが見られます。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄四天王寺前夕陽丘駅から徒歩5分 |
阪南(はんなん)/大阪市阿倍野区阪南町 |
●大阪町並み賞受賞 全体的に大阪は棟割り長屋の多い町でもあります。福島区などにはたくさん残っていますが、姿は消しつつあります。戦災を逃れた長屋を、所有者が改修する例はたまに見かけますが、これほど忠実に復元した例は珍しい。そのため今西家阿倍野長屋として登録文化財になりました。長屋としては初めてだそうです。 現在はほぼ飲食店に衣替えをしており、内観、外観も往時の面影を残しています。焦げ茶色の板壁は、ぬくもりを感じさせ、白壁との対比が鮮やかでもあります。夜になると暖かい光がなかからもれてきます |
感動度★ もう一度行きたい度★★ 交通 地下鉄御堂筋線昭和町駅から徒歩3分 |
帝塚山(てづかやま)/大阪市住吉区帝塚山 |
●市内唯一の高級住宅地 地名の由来は、国の指定史跡・帝塚山古墳によりますが,上町台地の南端に位置し,見晴らしの良いことから,明治以降,市内の豪商たちの別荘地や邸宅が建ち,高フ多い大敷地にお屋敷が建ち並ぶことになったのです。 その後,幾つかの高校,大学を誘致,文化的環境の向上に力を入れたそうです。しかし戦後,土地の細分化,高層マンションの林立などで様相は変わりつつありますが,和風の豪邸,現代的な住宅など,大阪市内で唯一高級住宅地としての景観を留めています。実際に歩いて見ますと、マンションだらけでしたが、わずかに古民家が。 |
感動度★★ もう一度いきたい度★★ 交通 南海高野線帝塚山駅から徒歩10分 |
長峡(ながお)/大阪市住吉区長峡町 |
●岸辺橋付近に古民家 もともと安立町(現・住之江区)の新田開発地で、安立新田と呼んでいました。しかし地租改正の際に、明治15年に長峡町に改称。さて駅を出て右側へ行くと、住吉川にかかる岸辺橋付近に わずかに蔵などの古民家が見られます。慈光寺の白壁が美しいです。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 南海本線住吉大社駅から徒歩4分 |
玉出(たまで)/大阪市西成区玉出 |
●横道に入ったアーケード街 このユニークな地名の由来は諸説あります。神話の海神の豊玉彦に由来する「井戸の御社」の場所を「珠出岸」(玉手の岸)にちなむ説。仁治年間(1240-43)に開発され、住吉神社領となったとき「玉出の里」と呼ばれたとか,玉出嶋と称したとかさまざまないわれがあります。その後の幾多の町名変更の際でも、玉出が受け継がれてきました。 駅を出ますと玉出本通商店街のアーケードがあります。昭和の香りがプンプンするところです。ほとんどが看板建築ですが、アーケードで隠れています。でも横道に入った薄暗いアーケードの商店街こそ面白みあり |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 南海本線岸里玉出駅から徒歩5分 |
飛田(とびた)/大阪市西成区山王 | |
▲窓のデザインに凝っていますが(?)飲食店もあり | ▲木造モルタル塗り2階建てで長屋風看板建築 |
▲鯛よし百番/国の登録文化財・遊郭をそのまま料亭して活用 | ▲お味噌汁のミニ焼きサバ定食 (360円/街かど屋) |
●ユニークな建築群。いま中国人観光客が殺到! 江戸時代は、市内七大墓地の一つで、刑場もありました。大正7年(1918年)に飛田遊郭が開業しました。これは明治45年にミナミの大火で焼け出された業者が新天地を求めて,この地にきたといいます。そして大正末期には,松島とともに大阪の2大遊郭といわれました。 この発展は,飛田の郊外にまで及び,そのうちの一つ通天閣横のジャンジャン横丁の発展にもつながったそうです。いま外国人、特に中国人観光客が団体で殺到しているそうです。 朝7時ごろ訪ねました。さすが夜の町,静まり返っています。飛田の周囲はマンションなどの高層住宅が建ち並んでいますが,景観の落差に驚きます。 ●旧「遊郭」が登録文化財 『鯛よし百番』は国の文化財に登録。今は普通の料理屋です。近辺にはまたカフェを思わせる洋館風も多い。 *飛田は現役のソープ街です。撮影は慎重に。早朝がいいでしょう。 |
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感動度★★★★ もう一度いきたい度★★★ 交通 地下鉄阿倍野駅から徒歩10分 |
安立(あんりゅう)/大阪市住之江区安立 |
●アーケード街にも古民家 『万葉集』にも登場する名勝で、海岸沿いに松並木が続いていたそうです。で、安立という人が開墾したことが地名の由来とか。江戸時代は住吉村の一部で、住吉社領でした。 大坂の人たちに知られるようになったのは、街道沿いに笠松という大木があり、近くに小町茶屋があったことです。長い杓に茶碗をのせて、客に持ってくるのが珍しがられました。 “安立本通り”という商店街があります。虫籠窓や格子のある商家、土蔵などがアーケード街にも多く点在しています。また駅周辺にも見られます。ただつながっていないので注意。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 南海本線住ノ江駅から徒歩10分 |
浜口東(はまぐちひがし)/大阪市住之江区浜口東 |
●住吉新地(遊里)の面影 古くからの門前町で、街道筋には料理屋さんも多く、『東海道中膝栗毛』にも登場します。江戸時代各所に分散していた遊郭を明治に入って整理統合を行い、数カ所に決めました。住吉は大正11年(1922)に大阪府から免許がおりました。それまで無免許の娼妓を一掃するためとか。もともと住吉大社の神事には、花街がスポンサーになっていたのも事実。その後変遷を繰り返し、戦後いったん復活しますが、売春禁止法の成立とともに衰退し消滅します。 住吉公園南側に隣接する住宅地の路地に、往時の面影がかろうじて見られます。 |
感動度★ もう一度行きたい度★ 交通 南海本線住吉大社駅から徒歩10分 |
喜連(きれ)/大阪市平野区喜連 | |
▲蔵も残されています | ▲格子や虫籠窓のある町家 |
●貴重な古民家群 『日本書紀』や『万葉集』にも登場する歴史ある集落です。また鎌倉時代末期,多くの戦いがありましたが,大坂,堺への動きを見ていますと,実に素早く移動しています。これは,摂津と河内の境目の交通の要衝であった証拠です。また江戸時代,平野綿の生産,流通に平野川などの水運が発達していたことからも,幕府が重要視していました。 平野地区全体が堺と並ぶ自治都市であったことから,名主,商家,豪農,鎌倉時代からの豪族の子孫など力のある者が軒を並べていました。いま,これだけの古民家群は貴重。 |
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感動度★★★ もう一度いきたい度★★★★ 交通 地下鉄谷町線喜連瓜破駅から徒歩10分 |
平野(ひらの)/大阪市平野区平野本町 | |
▲格子や虫籠窓のある町家があちこちに見られます | ▲平野の町づくりの拠点になっており、集会所、会議室などあります |
●「大阪のおばちゃん」 平野本町中央商店街というのが、正式名称です。かなりにぎわっているようですが、ところどころシャッターが降りています。典型的な大阪の下町で、商店街を歩いていますと、「おおさかのおばちゃん」が笑いながら大声で話しています。 商店街のなかほどに、聖徳太子が建立したと伝えられる薬師堂のある全興寺があります。それにしても派手なお寺さんですな。境内は、石仏がずらりと並び、善男善女が手を合わせていました。境内を抜けると、「平野郷 歴史のまちなみ館」があります。この平野の里の歴史がひと目でわかると、思っていたのですが、子どもたちの集会場になっていて、うるさい。 ●商店街にも古い建物 こんな下町に古い町並みがあること自体不思議な感じですが、裏手に入ると、格子のはまった町家がそこかしこに建っています。昔の平野郷は、上の写真で見るように、書店の向かいに大きな絵図がかけられています。見てもよくわかりませんが、何やら古そうです。明治の建物や洋館もあったりして、ちょっと楽しいです。 地名の由来は、平安時代、坂上田村麻呂の子・広野麻呂(ひろのまろ)が、弘仁年間(810-24)に朝廷からこの地を賜りました。その「広野」がなまって「平野」になったというが…。 |
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感動度★★★ もう一度行きたい度★ 交通 地下鉄平野駅下車徒歩15分 |
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