昨日・今日・明日⑤
2009年(平成21年
7月31日(金)
クルマを持たない人は,高速道路料金問題は関係無い!?
 とうとう,7月も今日で終わります。連日,猛暑日でこうなれば,「40度を目指せ!」と叫びたくなります。ニュースでお盆の人出予想やクルマの渋滞予想が盛んに報じられています。一昨年,クルマは必要ないと思い,廃車処分にしました。それで良かったと思います。クルマが無くても,何一つ困ったことはありません。レンタカーをうまく使えば,実に効率的に動けます。都会でのクルマのある生活は無駄だとつくづく思いました。私の場合,最寄り駅から徒歩3~4分の所に住んでるとなおさらです。最近の高速道路料金に関する報道をテレビで見ていて,いろいろ感じています。
7月29日(水)
「松本清張 古代史学からのスタート」のチラシ考古学の進歩で邪馬台国は畿内に!
 聖徳大学での『松本清張 古代史学からのスタート』が5回連続講演が終わりました。毎回立ち見が出るくらい超満員でしたが,最終回の「考古学から邪馬台国を考えると」が圧巻でした。邪馬台国の北九州説と畿内説との論争はまだ続いていると思っていたら,ここ20年の考古学の飛躍的な進歩で,ほぼ畿内説に落ち着いたそうです。北九州説を唱える松本清張の生きていたころは,まだ文献史学が中心だったので『魏志倭人伝』をどのように読み解くかで変わっていったのです。

三角縁神獣鏡の断面図の解析
 白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)によれば,三角縁神獣鏡の解析が大きいそうです。特に岡山大学の新納泉氏による三角縁神獣鏡の断面図を使った分類法は衝撃的で,これで畿内説にほぼ固まったとか。

歴博グループの炭素14年代測定法に対する疑念あり!?
 最終回の話しはここで終わらず,今年5月の日本考古学協会第75回総会研究発表の場で,国立歴史民俗博物館の研究者グループが,炭素14年代測定で邪馬台国はほぼ畿内にあったと断定したのです。それはそれでいいのですが,細かく年代まで発表したのです。これには多くの学者が疑問を持っているそうです。炭素14年代法は,2~3年単位での測定は不可能で,この場合は年輪法で補正しなくてはいけないそうです。年輪法で補正すると,歴博グループのいう年代はすべて外れるとか。いやはや,邪馬台国論争は,場外乱闘という様相を示してきたようです。おもしろくなってきたぞ。 
7月28日(火)
太極殿今秋にも大極殿が現われる
 8世紀に建設された平城京の宮殿・平城宮の大極殿に復元がほぼ終局を迎えています。この秋にはカバー(仮りの囲い)が取れて,全体像が見えてきます。そして内部壁面の彩色を経て,2010年3月に完成するそうです。現在は文化庁が中心となって復元作業を行なっていますが,完成後は国土交通省に移管されて,「国営平城宮歴史公園」として整備しながら一般公開されます。いわゆる首里城(沖縄県)や吉野ヶ里遺跡(佐賀県)のようになるとか。
 基本計画図を見ますと,現在,朱雀門付近を横切っている近鉄奈良線も移転することになっているようです。いずれにしても,ぜひ見たいと思っています。
7月27日(月)
和敬塾の図面和敬塾











近代和風建築と和敬塾の見学
 東京には近代和風建築がたくさん残っています。そのうちの一つ,旧熊本藩主細川氏の下屋敷である旧細川邸(東京都文京区目白台)に,昭和11年に建てられた代表的な華族邸宅の見学の機会を得ました。戦後は進駐軍のオランダ系軍人が接収したとか。現在は財団法人和敬塾として,別棟に約400人の学生,外国人留学生たちが寮生活を送っています。平成10年3月に東京都指定有形文化財の指定を受けました。
 館内を見てまわると何か違和感を覚えます。英国のチューダー様式を基本にしているそうですが,法隆寺のモチーフも加味されているのです。1階は主に接客用,2階は家族の日常生活に使われていました。

悩ました「近代和風建築」のあいまいな定義
 ところで,写真を見て「どこが和風建築なのだ?」と思われるでしょう。見学会のあとのフォーラムで,都内に残る近代和風建築の現況の報告が,各研究者から発表がありました。
 ところが発表されている途中から,「近代和風建築っていったい何だ」という意見が出てきて,話しは紛糾しました(おもしろかった)。提議したのが,一般参加者の西沢名古屋大学教授でした。つまり幕末以降,江戸時代からのしばりが無くなり,明治政府の欧米志向と合わせて,自由な発想で建てられたのが始まりだとか。
 小沢朝江東海大学教授は,和風に作っても暮らす人が絨毯を敷いて机,椅子で生活していると洋風になるのではないかと言う。
 美術の世界では「和風とか洋風」のように「風(ふう)」と付くと,まがいものという意味を持ちます。建築の世界だけは違うのは不思議というのが,日本工業大学教授の波多野純さんです。まあ言われてみればそのとおりか。話しは時間切れで打ち切られましたが,なかなかおもしろい議論でした。
 ちなみに細川侯爵は都内はもちろん軽井沢の別荘を含めて,各地に邸宅を持っており,それを管理するために約200人の使用人を雇用しているそうです。目のくらむような話しです。
7月26日(日)
高俊興業(株)東京臨海エコなプラント産業廃棄物のリサイクル
 建設現場での廃棄物をリサイクルするのはたいへん難しいといわれています。そこで高俊興業の臨海エコなプラントの見学に行きました。廃棄物にはコンクリート破片,木くず,紙,布袋,ポリ袋などが混ざっておりこれを分類するのはたいへん。
 いまの建設現場ではかなり分類されていますが,やはりいろんなものが混ざっているのです。そこで分類する最大の方法は,人海戦力がいちばん効率が高いそうです。鉄など金属を取り出すのに磁石や強風,強打などを使うのですが,人間の目で選ぶのが効果が高いとか。写真は広い場所にダンプカーから廃棄物を落とし広げて,人が選んでいるところです。5分足らずで選別終了です。「ただのゴミも分別すれば,資源になる」という言葉を実際に目の当たりにしました。
7月25日(土)
だまし絵展のチラシいま,だまし絵展がおもしろい
 いま,たいへんな賑わいを見せているのが『だまし絵展』です。平日の午前中に出かけましたが,子どもたちも夏休みに入ったせいか,もうめちゃくちゃな混みようです。赤ちゃんの泣き声が響き,幼児たちが走り回っている姿は,とうてい展覧会会場とは思えない光景です。
 それはともかく,実に楽しい展覧会でした。すでにおなじみの遠近法を使った絵や,野菜や果物を使った肖像画(写真左),魚介類で肖像画を描いた絵までありました。
 日本からは歌川国芳の裸で大勢の人が固まって顔を描いた絵や歌川広重の風景画もありました。写真ではおなじみの本城直季によるミニチュアに見える風景写真など2点展示されています。
 いま入場券を買うのに約30分待ちだそうです。夜9時まで開館時間を延長したりしています。多分,今後は入場制限が行われるでしょう。bunkamuraザ・ミュージアムにはよく行きますが,こんなに混雑するのははじめての体験でした。
7月24日(金)
IC型の運転免許証に更新
 先日,運転免許証の更新で鮫洲運転免許試験所に行きました。いつも思うのですが,所内は流れ作業になっていて,実に合理的に作られているのです。感心します。
 今回はゴールドの免許証だったので,約30分足らずで更新されて,新しい免許証ができあがりました。今回からはICチップの入った免許証で,偽造が簡単にできないとか。また,表面から本籍地が消えました。このICタイプの免許証が全国に広がるにつれて,現住所や生年月日も表面から消えていくそうです。そのためか4桁の暗証番号を2つ用意しろと言われました。
 酒酔い運転の罰則規定も大きく変わりました。今後も交通法規もどんどん変わっていくでしょう。ただいまだにおかしいと思うのは,〈後部座席のシートベルト着用義務〉です。ちょっと行き過ぎではないかと……。
 と,あれこれ考えながら,1階の食堂でいつものラーメン(520円・写真上)を食べて帰りました。
7月23日(木)
水引集落の曲屋茅葺き農家が残る水引
 福島県の南会津町水引集落には,現在7軒の茅葺き屋根の民家が残っています。このあたりの特徴はL字型の曲がり屋で,岩手県遠野地方の家屋に似ています。
 この水引集落の茅葺き屋根が年々減りつつあるわけですが,愛知産業大学などが中心にNPO法人「山村集落再生塾」を立ち上げました。主な修復法は,「さしがや」と呼ばれる方法で,茅の薄くなった部分に新しい茅を差し込んで厚くするのです。これだけでも雨漏りを防げます。
 先日,水引集落を訪ねました。素朴な村です。手つかずのすばらしい環境に恵まれており,日本の農村の原風景がじっくり見ることができました。
7月22日(水)
健康診断でオール「所見なし」でした。ホッ…
 先日,徹底的にからだを検診しました。健康診断です。たぶん,要注意が出て再度検査が必要になるだろうと予想して,検査入院の準備までしました。ホントに説明されるまでドキドキでした。
 ところが,レントゲン検査,尿検査,血液検査,心電図,眼底検査などいろいろな結果がでましたが,全部「所見なし」となりました。逆にビックリして「目が点」になりました。絶対にどこか悪いところがある,と確信していただけにホッとしました。
7月21日(火)
発掘された日本列島展のチラシ2つの顔を持つ埴輪が出土される
 この『発掘された日本列島2009』展はぜひ見たかった展覧会でした。今回の展覧会には珍品がたくさん展示されていますが,特に和歌山県の岩橋千塚古墳群大日山35号墳から出土した「両面人物埴輪の頭部」です。日本から出土する埴輪は,すべて実在する動物や人物,物などをかたちどっています。ところがこの「両面人物埴輪の頭部」(右のチラシの右端の下から2番目の写真)は頭の裏にも顔があるのです。こんな埴輪が出たのははじめてです。これは朝鮮半島からの影響を受けたものとされています。

松本清張の飛鳥文化はペルシアの影響を受けている
 一方,飛鳥地方(奈良県)には,このような変わった石像がたくさん転がっています。作家の故・松本清張はこのことから,飛鳥の文化はペルシアの影響を受けていると大胆な推理をしました。中国から朝鮮半島を経て日本の伝わってきたというのです。このときゾロアスター教が関与したというのですが,多くの学者から否定されました。
 イランにはペルシア時代の石像物が残っていない。これが清張の泣き所でした。ところがモンゴルには,変わった石像物が残っていたのですから,清張もモンゴルに注目すれば良かったかもしれません。

珍品埴輪が続々出土の岩橋千塚古墳群大日山35号
 松本清張も生きている間にこの「両面人物埴輪の頭部」が出土していれば,新たなペルシアの影響論が論じることができたかもしれません。この和歌山県の岩橋千塚古墳群大日山35号からは,ほかにも翼を広げた鳥,顔と冑が一体になった武人埴輪など,日本ではじめての珍品が出土されているのです。和歌山県に行ったときにはぜひ,寄ってみたい古墳です。
7月20日(月)
大衆文化の今昔のチラシ常磐津,戦時歌謡,アニソンのコラボ
 それにしても実におもしろいコンサートがあったものです。『大衆文化の今昔』と称して,常磐津(ときわず),戦時歌謡(昭和歌謡),アニメソングのコラボなのです。客層は70歳代から20歳前後までの超幅広。
 実はコレ,法政大学言語・文化センター主催企画によるイベントで,サブタイトルに「時代,世代の感情の構造を解き明かす」とあります。第一部の江戸浄瑠璃では,NHKの邦楽番組に出演の多い,常磐津千代太夫で,2本を唄われましたが,観客には歌詞カードが配られているので,内容が理解できたのがありがたかった。
 興味のあったのが,第二部のアニメソングと昭和歌謡の部。歌手の杏之助で「男装の唄うたい」というキャッチで,ライブスタジオを中心に活動しているそうです。
 解説は国際文化学部の前川裕教授で.①上海ブルース,②東京行進曲,③露営の歌から入り,『禁止,替え歌,検閲』のテーマで④昭和維新の歌,⑤軍隊小唄,⑥旅の夜風などオリジナル曲1曲を含めて全部で14曲を細かく説明。昔の大衆文化,今の大衆文化,いわゆる「雅俗折衷」を見せてくれたわけですが,戦時歌謡を全部知っていたのも我ながら何だかなあ……。
7月15日(水)
雲雀の苑●美空ひばりの歌碑
 数年ぶりに美空ひばりの歌『みだれ髪』の歌碑を見てきました。たくさんある歌の中でこの『みだれ髪』がいちばんいいと思っています。福島県いわき市の塩谷崎にあります。すぐヨコのの道路には,ひばり街道の名も付いていました。さらに歌碑から100mほど離れたところには,ひばりの像までできています。
 ただ,いまいち好きになれないのは,やはり山口組三代目田岡組長との親交の件でしょう。組長のヒザに抱かれた幼少期の美空ひばりの写真はあまりにも印象深かかったのを覚えています。マスコミから激しいバッシングをうけながらも,田岡組長の葬儀に神戸まで出かけたのは,「スゴイ」のひとことでした。マスコミのインタビューに「大恩のあるかたの葬儀に出て何が悪いの?」の答えにすごみすら感じられました。すでに両人とも鬼籍に入られ,女王・美空ひばりの歌が残りました。この『みだれ髪』も永遠に歌い継がれていくことでしょう。
7月12日(日)
ゴーギャン展のチラシ妻子を捨てた,ゴーギャンの展覧会
 日本で大規模なゴーギャン展が開催されたのは今回で2回目です。展示品は53点で,絵画は25点とこぶりです。来客数も1日2000~3000人と少な目です。前回は1987年で150点の展示でした。
 国立近代美術館の主任研究員・鈴木勝雄さんは「来客する人の大半が男性客で,女性に人気がないですね」といわれます。ゴッホ展は約50万人の入場者があったそうです。鈴木さんは「妻子を捨ててタヒチに行き,現地妻を作った悪魔のような奴,ということなのでしょうか」と苦笑します。
 今回のメインは,日本初出品の『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』という長いタイトルの作品です。タテ1.4m×ヨコ3.7mの大作で,作品の前に立つと人間の輪廻のようなものを感じます。まだ展覧会は始まったばかりなので,ゆったりと見学できたのがうれしかったです。
7月11日(土)
チラシ写楽の肉筆画はたったの3点でした
 『写楽幻の肉筆画』展に行ってきました。「だれも見たことのない写楽がギリシャにあった」のコピーを見れば誰でも見に行きたくなるものです。全体で126点の展示品があるのですが,写楽の作品はたったの3点です。これでこのタイトルです。担当した江戸東京博物館の女性学芸員も「私もこのタイトルには反対でした」といわれます。ホント,東スポも顔負けのタイトルです。

ただし中身の質の高さは一流です!
 ただ,喜多川歌麿,葛飾北斎,歌川国芳などの作品がこれでもか,と並べられています。遠くギリシャの離島の美術館から,ドカンと日本の美術品が出てきたのには驚きましたが,中身はすばらしいものです。
7月8日(水)
1993年に新疆ウイグル自治区に行きました
 昨年のチベット族に続き,今度はウイグル族が反乱を起こしました。私は1993年9月に一人で新疆ウイグル自治区のウルムチとオアシス都市と言われているトルファンに行きました。省都のウルムチ市内は,紅山公園程度の観光地しかありませんが,著名な観光地のほとんどが郊外にあります。

ウイグル族は日本人とわかると急に親切になります
 そこで路線バスを使うことになるわけですが,日本人は漢民族と外見が似ているので,バスの座席が空いていても譲ってくれません。ところが,日本人とわかると急に親切になって座席を詰めて座わらせてくれるのです。ウイグル族の集まるレストランに入っても,最初は怪訝な顔をされますが,「コンニチハ」などの日本語を最初に出すと,すぐに笑顔になって席に案内してくれます。こんなことが何度か続くと,漢民族を心底憎んでいるのだなあ,とつくづく感じました。16年前のことです。

大半の少数民族は反乱すら起こせません
 雲南省や貴州省の少数民族を訪ねる旅を続けていますと,中国人(漢民族)の蔑視はものすごく感じます。チベット族やウイグル族は人口も多く反乱を起こすだけの力がありますが,他の少数の民族は漢民族の前に何も言えませんし,何もできません。中国政府は,少数民族のための大学などの教育機関を作ったり,一人っ子政策の適用を除外したりしますが,基本的に貧しいのだけに不満が充満しています。やはりこの反乱がどんどん広がることを願いたいものです。
▲紅山公園からのウルムチ市内を見る ▲華僑飯店の窓から見た新華南路
7月7日(火)
三菱倉庫三菱倉庫ビルが消えます
 日本橋からまた昭和初期のビルが消えます。1930年(昭和5年)に竹中工務店施工による,鉄筋6階建てで望楼の付いた三菱倉庫ビルです。現在,多くの人たちが残念がっていますが,各団体ではできるだけ今の雰囲気を残し,さらに日本橋川に面した側にオープン施設を造って欲しいと要望しています。三菱倉庫では,前面に今の雰囲気を残しながら,背後は高層ビルにしたいそうです。
 このビルは旧江戸橋倉庫ビルといい,我が国最初のトランクルームを開設したビルとして知られています。できるだけ今の雰囲気を残してほしいものです。
7月6日(月)
向付展のチラシ「向付」を集めたユニークな展覧会
 料理店の方なら当然ご存じでしょうが,この向付(むこうづけ)というのは,階席膳の向こうの正面に置くところから,その名が付いたそうです。だいたい刺身などを入れたりしますが,中身はいろいろです。
 そんな向付ばかりを集めた展覧会が,五島美術館で開かれました。桃山時代から江戸時代までの著名な器が会場にギッシリと展示されていました。
 主に美濃焼,唐津焼,京焼などの和ものの陶磁器だけではなく,中国や遠くヨーロッパからもたされた阿蘭陀(おらんだ)など,実に多彩な向付が展示されました。
 陶磁器の展覧会はたまに見たりしますが,向付だけを集めたものははじめてです。なかには国の重要文化財に指定されているものがあったりして,実に見ごたえがありました。特に形やデザインがおもしろく,現代から見ても斬新でユニークなものばかりです。

あの千利休も知らなかったて本当ですか??
 最初は茶の湯の食器として利用されたのですが,抹茶茶碗に造けいの深かった千利休もこの向付に関しては,「知らなかったのではないか」というのが,愛知県陶磁資料館館長補佐の井上喜久男さんです。考古学者でもある井上さんは,当時の地層から出土した向付や釉薬の分析などから,どうも利休と合致しないそうです。あの利休が知らないなんて,ユニークな理論です。もっと実証を積み重ねてほしいですね。
7月5日(日)
「銀嶺の果て」のポスター三船敏郎のデビュー『銀嶺の果て』
 またまた古い映画を見ました。1947年公開の『銀嶺の果て』です。監督は谷口千吉(故人)で,妻が女優・八千草薫で,黒沢明の盟友といわれていた人です。しかも第1回作品です。原作・脚本が黒沢明。しかも俳優・三船敏郎のデビュー作でもあるのです。共演に志村喬,若山セツ子(後に黒沢明と結婚)がいて,なかなかおもしろい組み合わせだと思いました。
 ストーリーは3人組の銀行強盗が警察に追われながら雪深い北アルプスを逃げていくと,そこに山小屋を発見して,しばらくそこに居座るものの,さらに人質をとってアルプスを逃げるというもの。この映画から,デビューした三船敏郎のことを大根役者と言われ続けるのですが,何とも気の毒としか言いようがありませんが……。
 善と悪をはっきり分けたがる黒沢明の脚本は,ある意味では娯楽映画に徹していたと言えます。最後は改心した志村喬が演じる野尻一人だけが生き残るということですが,まさしく単純明快な映画といえます。
7月4日(土)
昭和初期の浅草を再現
 うっかりしていました。浅草にも,昭和の町並みを再現したミュージアムがあったのです。しかも無料です。
 昭和6年,発展する浅草の電力需要に対応するために,東京電力浅草営業所がオープンしました。その後サービスステーションになり,平成12年にテプコ浅草館としてリニューアル。2階に昭和の浅草を再現しました。理髪店あさくさ,街頭テレビ,浅草亭六区巡査出所,電気館では活動弁士が映像を解説,浅草遊楽館では六区のにぎわいを写真で展示しています。
 そんなに広いミュージアムではありませんが,いちばんうれしいのは浅草文庫という名の図書館です。浅草に関する書籍4000冊が収蔵されており,だれでも見ることができます。場所は,かっぱ橋本通りに入ったところ(浅草2丁目)にあります。 
7月3日(金)
映画『忍ぶ川』でも洲崎の町並みを見ました
 最近はできるだけ昔の映画を見るようにしています。今回は1972年の『忍ぶ川』(熊井啓監督)です。改めてストーリーは言いませんが,主人公の栗原小巻の生まれたところが,遊郭でしかも洲崎。先般見た,川島雄三監督の『洲崎パラダイス 赤信号』では,洲崎の町並みを描かず,洲崎を表現しました。『忍ぶ川』では,洲崎の町並みをしっかりと描いています。実写なのかセットなのかわかりませんが,洲崎橋は実写のようでした。

モノクロによる雪国の映像は秀逸です
 『忍ぶ川』は,お互いに人に言えない過去を抱えながら愛し合うという設定なのですが,ジメジメした暗さが感じられないのがよく,テンポのいい演出がとてもいいです。そしてギターの効果音もかなり気に入りました。モノクロでの嫁ぎ先でもある雪国の映像は秀逸で,ほんとうにきれいだなあと感じます。当時,数々の映画賞を受賞したのもよくわかります。
7月2日(木)
的山大島の神浦集落 今後の選定は離島へ(!?)
 的山大島(あづちおおしま・長崎県平戸市)の神浦(こうのうら)集落が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは離島として全国で5番目でした。西村幸夫氏(東大教授・都市保全計画専攻)は「離島はまだまだ手つかずです」と,今後の選定の流れを指摘されています。
▲長崎県・的山大島の神浦集落
7月1日(水)
ドキュメント作家・土本典昭展のチラシ水俣シリーズ・土本典昭の展覧会
 映画作家で監督の土本典昭氏が昨年の初夏になくなられました。それから1年,フィルムセンターでは,土本典昭氏の遺品や写真を中心とした展覧会が開催されたので,早速かけつけました。
 『水俣 患者さんとその世界』(1971年)を始めとする「水俣」シリーズがあまりにも有名です。時には患者家族と一緒に座り込んだために,警察に逮捕されたこともありました。なにより『水俣』の映画が,全国を巡回上映したことが,大きかったようです。それによって水俣病の持つ恐ろしさ,行政,企業に対するいらだちなど,常に患者側に立ち,問題の本質をえぐり出し,それを映像化するために,強力なメッセージとなっているのです。
 もちろん水俣シリーズだけだはなく,他のドキュメンタリー作品も多いですが,土本氏によって日本のドキュメンタリー映像の質をあげたのは確実だと思います
6月30日(火)
主計町1ヘクタール未満でもOK!
 今年,重要伝統的建造物群保存地区に3カ所が選定されました。そのうちの一つに石川県金沢市の主計町(かずえまち)があります。実はこの主計町が選ばれたことに,関係者に衝撃が走ったのです。
 つまり対象地域の面積が極小なのです。0.6ヘクタールと,1ヘクタール未満なのです。いままで文化庁は,最低でも1ヘクタールの広さがほしい,といっていたので,方針を転換したと言えます。
 ならば,面積の小さい町並みでもOKなら,いくらでもある,と言う町もあります。もう一つ,重要伝統的建造物群保存地区に選定してもらうには,地元住民の70%以上の賛成が必要なのですが,どうしても反対派が強固ならば,反対派の家屋,敷地をのぞいたところ(面積)で申請することも考えられます。しかしこのような姑息な方法は,道義的にもおかしいことになるでしょう。ただ対象面積の小さい町並みしかない市町村は,勇気づけられたたと思います。今後の成り行きが注目されます。
6月27日(土)
大江健三郎氏の生家大江健三郎と村上春樹の比較
 比べたこともありませんが,作家の大江健三郎と村上春樹は共通項は,神話的な世界観を持っていることだそうです。そういわれてみると,両者とも近代のリアリズムの世界から超越しているような感じがします。
 数年前,大江のいう「四国の森」を訪ねて愛媛県に行ってきました。だからどうなんだ,と言われても困りますが,神話的の世界観を持つ大江の「四国の森」を見ても,それは大江の原点であって具体性のある森ではない,と思ってはいました。
 村上春樹の『1Q84』はまだ読んでいませんが,オカルト教団を通して,村上の異世界へ突入するのでしょうか。これはこれで楽しみでもあります。
 実は東工大で『大江健三郎と村上春樹』というテーマで比較文学専攻の大久保喬樹氏(東京女子大学教授)の講演があり,村上春樹が出てくることは,「神話の復権」と断定されています。いずれにせよ久しぶりにおもしろい講座を聴きました。
6月24日(水)
中国の字典●「漢字と格闘する中国」は興味津々
 「漢字と格闘する中国,日本,韓国」という内容のシンポジウムは実におもしろいものでした。これは放送大学准教授の宮本撤氏によるもので,主に中国に関する分野ではピカイチです。
 中国の偉大な作家で思想家でもある魯迅が,かつて『門外文談』のなかで,中国の漢字が遅れている理由を,
①象形文字であること。
②表音性に限界がある。
③文言不一致である。
 といいました。さらに歴代の王朝や政府は,漢字のためにアルファベットを基本とする欧米に比べて社会や文化が遅れていると判断。そのため,1892年には中国独自のアルファベットに近い「切音新字」を発表したり,1900年には日本に亡命したこともある王照氏が「官話合声字母」を考案したりしました。さらに1918年には「注音字母」を公布されたのです。まさに漢字と格闘する中国の姿が映し出されています。
 現在は,かつての繁体字を簡略化した簡体字を使用,さらに補助的に拼音(ぴんいん)文字(アルファベット式の発音記号)を使っているのです。しかしコンピュータの発達で,繁体字も簡体字もそれほどの意味がなくなってきたそうです。
 それにしても意外でした。漢字の国・中国が,その漢字に対してコンプレックス(?)を持っているなんて,信じられないです。科学・技術の遅れを漢字のせいにしているのは,ちょっとおかしいですね。
6月23日(火)
「夏至と冬至のどちらが好き?」なら冬至です
 なぜなら夏至はジメジメした梅雨の時期真っ最中だからです。うんざりです。ただ日中が長いと写真の撮れる時間がたくさんあるというのはとてもいいですが,睡眠不足になりやすい時期でもあります。まあ,どちらでもいいのですが,夏より冬のほうが好きなだけです。
 たまたま,TVのワイドショーで,どちらが好きですか? というテーマでワイワイと騒いでいたから気になりました。
6月22日(月)
その後の旧石器ねつ造事件
 ご存じでしょうか,今から9年前に旧石器ねつ造事件があったことを。これは2000年11月に毎日新聞のスクープで発覚したもので,アマチュア考古学研究家の藤村新一氏が次々と前期・中期の石器時代のものとされた遺跡から石器が出たとして,ねつ造したのです。これはあらかじめ埋めておいた石器をあとで掘り返すという手口でした。
 その後藤村新一氏は離婚,精神病院に3年ほど入院し,退院後2度目の結婚し,今は妻方の姓を名乗っているそうです。
 しかしそれだけではく,藤村氏一人に責任を押しつけていた有名国立大学の教授や研究者,町・村おこしに利用しようとした行政担当者などの名前がズラズラとあがったそうです。しかしそれらの人は逃げ回って,事件は結局,闇に消えていったのです。

旧石器時代(前期・中期)を求めて,その後も続く遺跡の探索
 先日,ある考古学研究者との話しから,問題はその後の発掘現場にあるとのこと。ショックのあまり一時中断していた前期・中期石器時代の発掘は,現在まで全国で1万2000カ所に及ぶとか。そのなかには,「これは?」と思うような遺跡も出てきているそうです。ただ学会全体が確定に慎重になっているのも事実です。
 植物の種や動物の骨でも出てくればいいのですが,何しろ4万年前だと残っている可能性が少ないそうです。旧石器時代(前期)の人骨は沖縄県の港川人(約1.6万年前)と静岡県の浜北人(約1.4万年)だけで,それまで出ていた石器時代の人骨は,ねつ造事件後の再調査ですべて抹消されたのです。ただこのようなスキャンダルにめげずに,発掘調査を続けている全国の研究者に「ガンバレ!」と応援したいですね。
6月21日(日)
奥深い『カンバン・ハリガミ展』
 『カンバン・ハリガミ展』というおもしろそうな催しが東京たてもの園で開かれました。江戸時代から昭和40年代までの看板や幟にみる多様なメッセージ性,デザインなどを展示物から感じ取れることができます。展示物の出展のほとんどが,路上観察学会のメンバーが主力になっているので,おもしろくユーモアのあふれる看板,張り紙を見つけています。

眼力の差がはっきりでます
 ただ2部のカンバン・ハリガミ考現学/東京・横浜・京都では,学芸員や研究員も参加しているのですが,明らかに質が落ちるのです。路上観察学会の眼力にはとてもかなわない感じです。多分,「このままでは展示スペースが埋まらない!」という悲痛に似た叫びが,自らで見つけてこようと,締め切りまでの時間と戦いながら,カメラ片手に横浜,京都に出張したのでしょうか。
 それはともかく,カンバン・ハリガミは奥が深く,地域性や時代性を感じさせる奥の深いテーマです。地方へ行ったときもできるだけ撮るようにしています。
6月20日(土)
日本の漢方には中国漢方と江戸漢方の2つの潮流があります
 おもしろい話しを聞きました。漢方のことです。神奈川県で開業医をされている橋口玲子医師によれば,日本の漢方は2つの大きな潮流があるそうです。一つは,中国から伝わった中国漢方です。もう一つは江戸時代からある日本で生まれた漢方です。ところが明治維新のおり,欧米志向の新政府は,日本の漢方医学を完全否定,そのため一時は消えかかったそうです。その後江戸の漢方は,なんとか消えることなく脈々と受け継がれていきました。
 現在,中国漢方の占有率は日本全体で50%をやや超える程度だそうです。ただ症状に対して使う薬はかなり違うそうですが,「最後の土壇場では,同じ薬になる」とか。おもしろいですね。
6月19日(金)
洲崎神社●『洲崎パラダイス 赤信号』
 川島雄三監督の『洲崎パラダイス 赤信号』を見ました。1956年発表の映画で,1958年施行の売春防止法の2年前に製作されました。特飲街(赤線地帯)の入口に立つ飲み屋「千草」に集まる,娼婦やパラダイスに遊びにくる客たちの人間模様を描いています。
 カメラは一度も特飲街の中には入りません。「思案橋」の役割を果たした洲崎橋の手前で物語は進むのです。また「お稲荷さん」として娼婦たちがお参りする洲崎神社(写真)がたびたび登場します。ですから映画には,特飲街の町並みは登場しません。昨年の秋に洲崎(現・江東区東陽1丁目)を歩きましたが,往時の面影を残す建物が幾つか発見できました。
 なおそば屋の店員役で登場する新人女優の芦川いづみさん(後の俳優・藤竜也氏と結婚,引退)がとても新鮮な感じです。
6月15日(月)
五島美術館平戸の輝いた時代が見れる
 平戸(長崎県)には2回ほど行きました。1回目は仕事を終えた後で,2回目は,重要伝統的建造物群保存地区に選定された的山大島(あづちおおしま)の神浦(こうのうら)集落へ行く途中,連絡船待ちで平戸市内を歩きました。
 今年は平戸にオランダ商館ができて400年目にあたります。それを記念して松浦資料博物館(平戸市)にある多くの資料が五島美術館(東京都世田谷区)で展示されたのです。実はオランダ商館が長崎市の出島に来る前は,平戸にありました。わずか30年余年ですが,そのあいだは,西洋の最先端の文物が入ってきて,それはそれは華やかな時代であったのです。しかし秀吉は,平戸藩にキリシタンの疑いあり,ということで弾圧するとともに,オランダ商館を出島に移したのでした。

たとえ短い期間でも平戸にも光り輝いた時代があったのです
 わずか30余年ですが,光り輝いた平戸の文化を絵巻物,地球儀,望遠鏡,ギヤマン,書籍,肖像,茶道具,茶碗などなどが展示されました。眺めているだけで藩主・松浦家(まつらと読みます)とオランダとの深いつながりが見て取れます。確かに出島は唯一,自由貿易港であったことは誰でもが知っていますが,その前は平戸だったということはあまり知りません。 
6月14日(日)
珍しいアフガニスタンの短編映画3本を見ました
 アフガニスタン研究会によるきわめて珍しいアフガニスタン映画の上映会が行われました。第一部は記録映画『カラコルム』で1956年に公開された,京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊に同行した映画班が撮影した映画です。1956年のキネマ旬報の劇映画を含めた日本映画ベスト3に輝いた質の高い映画です。

秀作の『カブール・シネマ』は戦場の町で少年が生きていく姿
 今回のお目当ては,第2部のアフガニスタン短編劇映画3本です。1本目は『カブール・シネマ』(18分/ミルワイース・レカーブ監督)。内戦で映画館が壊滅されたなかで,孤児である少年が映写室からフィルムや機材を持ち出し,箱車を利用して移動映画館を作り,通りから通りへと渡り歩いて映画を見せていました。やがて本格的に戦場と化した町で,少年は恋に落ちいるのです。しかし,少女の家族は戦場の町から去っていきます。やがて戦争が終わり,少年は外国の映画で国家を冒涜したという罪で,さらし者にされて市中を引き回されていきます…。少年が箱車で上映した映画は,チャプリンの作品やアメリカ映画のラブシーンなどを集めた切れ端です。
 18分の短編映画ですが,まさに秀作です。箱車を移動映画館にしたアイデア。戦場の町で一人で生きていく少年の目から見た世界,大人たちのずるさなど的確に捉えています。

『シャブナム』では,孤児でもある少女が一人で生きていこうと決心
 2本目は『シャブナム』(10分/モハマド・ハイダリ監督)です。孤児・シャブナムは孤児院に入りたいと院長を訪ねるが今はいっぱいで入れないと断わられる。夜は両親の眠る墓地で過ごす少女シャブナムは翌日,孤児院を訪ねる。ところが,からだに障害を持つ別の子どもが優先されていたのです。少女は約束を破った院長と決別し,一人で生きていこうと決心します…。
 戦争で多くの孤児が生まれましたが,監督のモハマド・ハイダリは声高に叫ぶことなく,淡々と描いています。映画には多くの孤児が登場しますが,一人一人の生き方をやさしく見守っています。

『いけにえ』ではインチキ宗教指導者を告発するが…
 3本目の『いけにえ』(25分/モハマド・ホマユーン・ハイーズ監督)は宗教の問題が大きくからんできます。村に住む少女は小さな弟のためにミルクをやれるたった一つの頼みの綱である山羊を大切にしていました。その山羊は,母親が苦労して手に入れた貴重な山羊でした。ある日,弟の病を治すためによその村からムッラー(宗教指導者)がやって来ました。その指導者は弟を祈祷したあと,娘の山羊をいけにえに出しなさいという。父親はムッラーの依頼を断ると,そのムッラーは,深夜村の聖なる木に放火。「神のたたりだ」と言いふらす。驚いた村人たちは,少女の大事にしていた山羊をいけにえするのです。泣き叫ぶ少女…。
 宗教指導者のインチキぶりを告発しているのですが,宗教が生活の中にまでしっかりと根付いている田舎では,「おかしい」と声をあげることができない悲しみがにじみ出ています。

理不尽な大人や社会のなかで懸命に生きる子どもたち
 いずれの短編映画も子どもが主役になっています。子どもだとテーマを訴えやすいのかも知れません。しかし子どもはいちばんの弱者でもあります。理不尽な大人たちのあいだで,懸命に生きる子どもたちの姿に感動しました。
6月12日(金)
永井荷風没後50周年で『濹東綺譚』の世界を歩きました
 永井荷風が亡くなって今年で50年がたちました。それぞれで没後50年企画が行われています。私も江戸東京博物館の学芸員を含む大勢の人たちと『濹東綺譚』の世界を探る見学会に参加しました。永井は1936年(昭和11年)ごろから玉ノ井に通い出し,翌年に朝日新聞に『濹東綺譚』を連載しました。
 玉ノ井通り,玉ノ井稲荷(現・東清寺),賑本通り(現・平成通り)など路地から路地へと歩きました。実は昨年一人で歩いたのですが,やはりピント外れのところを歩いていたなあと,つくづく思いました。
娼婦の駆け込み寺・東清寺が鉄筋コンクリートに変身!!
 娼婦たちの駆け込み寺だった東清寺がピカピカの鉄筋コンクリートになっているのには,ちょっとガッカリしました。また小説に登場する玉ノ井御殿の石塀がそのまま残っています。住んでいる人は当時と全く違っていますが。
 今年は没後50周年ということで,訪れる人が多くなっているそうです。最寄り駅は旧玉ノ井駅の東向島駅です。でも玉ノ井の『濹東綺譚』の世界は全く感じられませんでした。当たり前といえば当たり前ですかね。
▲玉ノ井御殿の石塀は往時のまま。「照ちゃん」のパトロンで登場します ▲娼婦たちの駆け込み寺・東清寺は鉄筋になっていました
6月11日(木)
工事中の東京スカイツリー建設中の東京スカイツリー
 高さ610mという東京タワーをはるかに抜く,東京スカイツリーが現在建設中です。もう100mぐらいの高さまで建っており,グングンと伸びています。完成は2011年の夏ごろ完成予定だといいます。
 東武鉄道の業平橋(なりひらばし)駅ホームからしっかり見えます。左の写真もホームから撮りました。完成すると,東京キー局と東京MXテレビのローカル局が,東京タワーから引っ越しします。また年間300万人の人出が予想されていますが,周囲には浅草があるくらいで回遊するには寂しい限りです。リピーターが果たしてどのくらいいるかが楽しみです。修学旅行生も東京タワーからツリーに移ってくるでしょう。でも300万人とは…。東京タワーも3回ていどしか上っていません。東京スカイツリーも1回上ったら,それだけでもういいかも。
6月10日(水)
尾上部屋大相撲・尾上部屋がやってきた
 大相撲の尾上部屋が大田区にやってきてすでに3年近くたちました。一時,住民の華やいだ,うきうきした気分もなくなり,すっかり落ち着いたと言うべきか.町に溶け込んだと言うべきでしょうか。
 関脇・把瑠都(ばると)をはじめ10人足らずの一門ですが,相変わらずちゃんこ番や付け人が不足しているようです。
 ところで,なぜ大田区池上(8丁目)なのかというと,おかみさんが池上の出身だそうで,その縁でやってきたそうです。現在は倉庫を間借りして仮の部屋になっています。シャッターは早朝のけいこ時にあくそうです。ふだんの出入りは,脇の路地からで,路地の奥を見るとふんどしが干してあったりします。いい雰囲気です。
6月9日(火)
五重塔(重要文化財)池上本門寺に幸田露伴の墓があります
 日蓮宗の大本山の一つ,池上本門寺(東京都大田区)を詳細に見学する機会を得ました。本門寺は,多くの建物が戦災にあったため,戦後になって再建されたものが多いのですが,五重塔は幸いにもそのまま残ったのです。そのため国の重要文化財に指定されています。
 本門寺には歴代大名の側室や市川雷蔵、西崎緑、児玉譽士夫、永田雅一、力道山、松本幸四郎、大野伴睦などのお墓があります。で,誤解されやすいのが,幸田露伴です。幸田家一族の墓があり,しかも五重塔のそば(写真)に建立されているのです。そのせいか幸田露伴の『五重塔』は本門寺の五重塔がモデルだと思っている人が多いということです。
名作『五重塔』のモデルは谷中の五重塔です
 『五重塔』のモデルは台東区谷中(東京都)にあった天王寺(旧感応寺)の五重塔なのです。幸田露伴が近くに住んでいたせいかもしれませんが。ただ放火で昭和32年7月に焼失しました。今は礎石だけが残されています。なぜ誤解されるのか,一族のお墓が本門寺にあるということと,やはり天王寺の五重塔が無いという現実が大きいと思います。
 大田区教育委員会の解説してくれた担当者も,間違えて本門寺にくる人が多い,といいます。間違えるのも無理はないかも知れません。 
6月8日(月)
建築基準法の4m幅と路地の再生は相反するのか
 「コミュニティ防災と路地再生」という防災面からの,まちづくりに関するシンポジウムが開かれました。なかなかおもしろいテーマだったので参加しました。台東区の谷中地区,根岸地区,墨田区の京島地区,一言地区からの実例報告がありました。また京都の祇園南地区(花見小路を中心に),大阪・法善寺横丁の報告もとてもおもしろいものでした。
 路地を生かす場合,常に問題になるのが,建築基準法42条の道路の幅は最低4mなければならない,という基準です。これを守ると日本の路地は壊滅します。特に各地の古い町並みや京都のように路地文化の発達した町は,建物を生かしたり立て替えや再生するのが不可能になるのです。
法律上,町全体を一つの敷地として,道路は通路に変更する
 これが問題になったのが,大阪の法善寺横丁でした。2度の火災で,町全体を建て直すことになったのです。横丁全体を一つの敷地とし,今までの2.6mの道路を,2.7mの通路としたのです。いわゆる「連担建築物設計制度」(れんたん)を利用したのです。全体を一つの敷地とすれば,路地の再生は可能になるのです。これで法善寺横丁は甦りました。もちろん防災のための細かいルールはあります。このれんたん制度を利用して,東京の月島,京都の袋路(京都市内で約3000カ所,約1.5万戸)など,路地を生かしながら少しずつ立て替えが進んでいろそうです。
路地文化を守るために防火体制を整えること
 東京・墨田区の京島地区は,町の周囲や中央に6m,8m幅の幹線道路をめぐらし,火災発生時には,そこからホースをつないで消火するという方法を考案。これで路地文化を守るとか。また墨田区の一言地区(向島,本所)は町内各地に「路地尊」(ろじそん)という雨水利用の地下貯水槽を設け,ふだんでも子どもたちが利用できるようにしたそうです。これによって初期消火を達成するとか。つまり住民の防災に対する意識がしっかりしないと,路地の再生ができないということです。
6月6日(土)
10分の一の夢殿夢殿が10分の1の模型で再現
 東京・日本橋にある奈良まほろば館に10分の1の夢殿(法隆寺)が置かれました。これは大和郡山市の杉野清隆さん(67歳)が自宅で3年がかりで製作したものです。
 模型は総ひのき造りで,戦前の修理報告書を手がかりに造ったそうです。
 実際に眺めていますと,かなり細かく造られています。よくここまで精密に造ったなあ,と感心しました。
6月5日(金)
柿の葉ずしにも歴史が…
 先般奈良に行ったとき,柿の葉ずし(しらかわ・360円/西の京駅前)を何年ぶりかで食べました。もともと吉野地方で,酢飯にサバをのせ,柿の葉でくるんで保存食として食べていたものです。昔の人は青カビが生えていても気にせず食べていたそうです。
 奈良県はもともと名物の少ないところです。海のない内陸県もあって,日々食べているものは質素でした。農繁期には茶粥で済ませる農家も多かったようです。それも米4,麦6という割合だったとか。平城宮の都人や下級官員が食べた米とははるかに違っていました。これらは,多くの発掘現場から木簡が出土され,証明されています。農家でも海のサバを手に入れられるのはまだ恵まれているとか。たいへんな時代があったのです。来年は平城遷都1300年にあたります。
6月3日(水)
とうとう軍艦島に上陸しました
 かつて写真家・奈良原一高氏の『人間の土地』を見たときの衝撃は忘れられません。また2007年夏に東京・新宿で写真家・大橋弘氏が写真展『青春・軍艦島』を開かれたとき,軍艦島に住んでいた人をナマで見たのです。かつての住人が写真家になっていたのも驚きでした。
 メディアで報道されたおかげで,平日でも1日2便の上陸ツアーは満員だそうです。6年ほど前に軍艦島一周コースに乗船したときは,小さな観光船で5人程度しか乗っていませんでした。今回は大きな船で満員,かつて軍艦島に住んでいた人もいました。
少しずつ崩れている高層住宅
 廃墟のそばを歩くのですが,約40分ほどしか滞在できません。それでも3カ所の解説場所にはボランティの人たちがいて,島内を細かく解説してくれます。高層住宅は,今でも少しずつ崩れているとか。いずれにせよ戦後日本の繁栄を築いた一つでもあります。エネルギー政策の転換と共に1974年消えていきますが,世界遺産として残していくことになろうかと思います。
 軍艦島に足を踏み入れて本当に良かったと思いました。
船上から軍艦島を見る
▲観光船マルベージャ1から見た軍艦島
貯水タンクと灯台
▲最も高いところに貯水タンクがあり,隣に閉山後に建てられた灯台(太陽電池で作動している)
島の西側に立つ高層住宅群
▲島の西側に高層住宅群があり,東側の炭坑区域を風雨から守る
6月2日(火)
三菱一号館レンガは中国・浙江省から
 日本建築学会による丸の内の近代建築見学会が行われました。そのなかで,三菱一号館の復元について内部を見学しながら,詳しく話しを聞くことができました。
 やはりレンガの調達がたいへんだったようです。全部で230万個(うち化粧用レンガ20万個)のレンガを中国・浙江省長興市に探し求めました。装飾用のレンガではなく,加重に耐えられる構造レンガを大量に求めるとなると中国しかなかったそうです。レンガの歩留まりが約8割で実際は250万個は造ったとか。さらに石工,レンガ江,鳶(とび)などの職人を集めるのに苦労したそうです。
 外装,内装の復元,耐震化などクリアするべき問題はたくさんありましたが,内部はほぼ完成し,「三菱一号館」「三菱一号館美術館」として来春(2010年)4月にオープンします。

大西脩平の昨日・今日・明日①
大西脩平の昨日・今日・明日②
大西脩平の昨日・今日・明日③
大西脩平の昨日・今日・明日④
大西脩平の昨日・今日・明日⑥